『平成11年度 大阪経済大学市民教養講座――講義のまとめ』大阪市教育委員会 刊年不記(2000.2)




第3 近代日中出版社交流の謎

樽本照雄

第1回 中国・商務印書館は、日本・金港堂との合弁をなぜ秘密にしたか――商務印書館から

 なぜ「謎」なのかといえば、明治30年代後半から大正にかけて、日本の出版社と中国の出版社が共同出資して上海において合弁会社になっていたという事実そのものが、それほど知られておりません。中国においても、また、日本においても同様です。知られていない事実を探索するのが、私のやり方なのです。
 中国側の当事者が、日本の出版社との合弁の事実を秘密にしたいという強い意図を持っていました。そうせざるを得ない時代背景がありました。さらに、「謎」が形成された理由としては、日本側の出版社が、現在は存在しておらず、合弁の事実を知ろうとしてもその手掛かりがなくなっていることをあげることができます。今から数えれば、ほとんど百年前のことです。事実を知る直接の関係者は、いずれも他界しています。現在では、文献のみの探索になりますから、文献そのものに事実の記載がなければ、これまた日中出版社の合弁の事実も忘れられることになるでしょう。
 中国の出版社の名前は、商務印書館といい、中国大陸でも有数の大規模総合出版社であると同時に、百年をこえる長い歴史をもつ老舗でもあります。解放以前の中国における商務印書館を表現して、組織規模の大きさが業界第1位、規則制度の完備している点が業界第1位、資金の豊富さが業界第1位、従業員数の多さが業界第1位、人材の育成が業界第1位、出版物の多様さが業界第1位、営業額の大きさが業界第1位、支店の多さが業界第1位、印刷技術の革新が業界第1位、労使紛争の激烈さが業界第1位、と言っています。
 解放(1949年)以前には、五大書店と称せられた出版社がありました。規模の大きい順にいうと商務印書館(1897)、中華書局(1912)、世界書局(1921)、大東書局(1916)、開明書店(1926)となります。この五大書店のうち現在まで存続しているのがこの商務印書館と中華書局なのです。
 中国・商務印書館と日本・金港堂の合弁は、正確にもうしますと、1903年11月19日(光緒二十九年十月初一日、明治36年)から1914(中華民国3、大正3)年1月6日までの足掛け12年、実質約10年間のことでした。創業百年の歴史からすれば、わずかに1割の期間を占めるにすぎません。商務印書館が存続すればするほど、日本・金港堂との合弁期間の割りあいは減少していくでしょう。しかし、創業期に行なわざるをえなかった外国企業との合弁という事実を抹殺することはできないのです。なぜなら、この10年間の合弁こそ、商務印書館がのちの巨大組織となる基盤を作り上げる重要な意味をもっているからです。
 1897年2月11日(光緒二十三年正月初十日)、商務印書館は、8名からの出資金を集めて上海に創業されました。創業者のひとりが、夏瑞芳(1872-1914)です。彼こそが、商務印書館の創業を決意し、日中合弁を決断した人物であり、またその合弁を解消した人でした。商務印書館は、キリスト教の信仰と鮑咸恩、咸昌兄弟との姻戚関係によって結ばれた家族企業として出発しています。教会の出版物を印刷することから事業を始め、英語教科書の出版に事業を拡張していきました。順調な発展をするかに見えた時、日本語教科書の出版に手を出し、でたらめな翻訳原稿をつかまされて損失をこうむる、印刷機器を所有する修文書館の買収に借金をするなどの経済的困難は、夏瑞芳の機転により増資というかたちで乗り切ります。その時の援助に乗り出したのが、張元済と印錫璋です。印錫璋は、紡織工場を経営しており、当時の三井物産上海支店長であった山本条太郎と昵懇の間柄でした。山本条太郎は、日本・金港堂社主である原亮三郎の娘と結婚しております。原亮三郎は、はやくから中国大陸へ進出しようと計画しておりましたから、娘婿の山本条太郎が上海に赴任するというので当地の出版情況の調査を依頼したと考えられます。山本条太郎は、印錫璋から商務印書館のことを聞き、さらに社長の夏瑞芳から資金援助を乞われました。山本条太郎から原亮三郎に連絡がなされ、原亮三郎は渡りに船とばかりに合弁話にとびつきます。一方、夏瑞芳は、山本条太郎に資金援助を申し入れた事実を同僚たちには、金港堂が合弁したがっているというふうに話したと考えられます。当時の商務印書館は、出版にかんするノウハウも、印刷技術、機器のいずれもが金港堂より数段も遅れていました。結局のところ、合弁するとなれば、資本が圧倒的に巨大であった金港堂に呑みこまれる恐れが生じます。商務印書館が金港堂と合弁したにもかかわらず、その事実を公表したがらなかったその底には、この恐怖心が横たわっていたのです。
 1903年、商務印書館と金港堂は、合弁会社となりました。日本企業と合弁した事実は、商務印書館が隠そうとすればするほど漏れるもので、これが商務印書館にとっての弱点とみなされることになったのです。日本資本が入っていることを理由に、印刷の受注からはずされる、教科書の審査から排除されるということが生じました。清朝末期には同業者の中国図書公司から日中合弁であることを理由に攻撃を受け、民国初期には中華書局からの同じような批判にさらされたのです。時代の流れがありました。異民族の支配する清朝から、その独立を宣言する中華民国が成立した時代なのです。日本という異民族と合弁会社を経営する商務印書館にとっては、都合のいいわけがありません。教科書編集の知識を得る、印刷の技術革新を行なう、優良出版物によって営業利益が増加する、商務印書館内部における日本人と中国人の円満な関係などいくらその利点を上げてみても、それが理解され通用するような時代風潮ではなかったのです。外部からの攻撃による精神的重圧に耐え切れず、金港堂との合弁を解消することにしました。持ち株の評価をめぐって金港堂代表者と長時間の交渉を経て、1914年にようやく合弁の正式解消に至ります。商務印書館は、金港堂との合弁時に味わった「呑みこまれる」という恐怖心を奥底に秘めたまま、外部には日本資本との合弁を隠さざるを得ない情況に長年にわたり耐えてきたのです。
 現在、中国の「開放改革」政策により、従来の研究とは180度の方向転換がなされています。すなわち、外国企業との合弁事業は、中国側が外国資本に屈伏した一方的に搾取される関係、というお定まりの図式は覆されることになりました。それにともない、商務印書館と金港堂との合弁は、双方が利益を上げた非常にうまくいった例として評価されるようにもなっています。ただし、商務印書館関係者には、日本との合弁に言及したくない、自分たちは被害者だという態度をとる人が今にいたるまで見られるように思われます。合弁時の恐怖心の大きさがわかるのです。

第2回 長尾雨山は、教授の職を投げ捨ててなぜ上海に移住したか――金港堂から

 商務印書館の合弁相手である金港堂は、明治期において各種教科用図書を大量に発行し、文学社、普及舎、集英堂とともに明治の4大教科書出版社とよばれていました。文学雑誌『都の花』『文芸界』などの刊行でも有名な歴史ある出版社であることは、周知の通りです。社主・原亮三郎は、1875(明治8)年、横浜弁天町に小書肆金港堂を開き、もっぱら文部省編纂の小学教科書を翻刻発売しておりましたが、翌年、さらなる発展をもくろみ店舗を東京日本橋三丁目に移しました。教科用参考図書、その他の各種書籍を出版発売し、国内各地に代理店を設け、1883(明治16)、1884(明治17)年にいたり府下有数の書籍商となり、教科書書肆として筆頭にあげられるようになっています。教科書の出版発売にはきびしい販売競争があり、教科書採用に向けて大々的な運動が繰り広げられるようになったのも当然の流れでしょう。文部省の運動禁止令も効果がなく、書店による運動が毎日の新聞紙面で報道されるほどです。教科書会社と教育関係者の小学校教科書をめぐる贈収賄事件、すなわちいわゆる教科書疑獄事件は、1902(明治35)年12月17日、全国一斉摘発からはじまりました。教科書会社関係者、県知事、府県書記官、府県視学官、師範学校長、教諭などなど、全国ほとんどの府県から逮捕者がでるという一大醜聞です。すべてが終結したのは、1904(明治37)年でした。予審に付された者152名(内28名が免訴)、そのうち112名が有罪決定となっています。公判ののち、控訴、上告、差し戻し、再上告をへて、最終的には官吏収賄罪69名、恐喝取財犯1名、涜職法違反1名、詐欺取財犯1名、小学校令施行規則違犯44名、合計116名、追徴金7万円にのぼりました。また、この事件をきっかけにして、文部省がただちに教科書国定化に踏み切ったことでも有名です。
 商務印書館の編集発行した教科書に日本人の雨山長尾槙太郎、小谷重らが協力したことは、よく知られている事実です。これは金港堂と商務印書館が合弁会社となった最初の出版物でもあります。編者のひとり長尾雨山は、夏目漱石が第五高等学校時代に漢詩を添削してもらった同僚でした。雨山の略歴を見れば、帝国大学を卒業し、第五高等学校、高等師範学校の教授となった人物なのですが、どういう経緯で上海に渡り商務印書館の顧問となったのか、金港堂との関係は何だったのか、大きな謎として目の前に浮かび上がります。関係者は、誰も何も記していないのです。その謎が解けたのは、教科書疑獄事件を当時の新聞で追跡していく過程でした。意外な事実にぶつかったのです。長尾雨山は、教科書疑獄事件で拘束されていました。新聞記事を読んで事情が理解できました。出版社からの依頼で教科書の修正をやむをえず引き受けたところが、その報酬について収賄罪を適用されてしまったのです。詳細を知るにいたり、教科書会社の口車に載せられた冤罪ということがわかりました。しかし、裁判の結果は有罪となり、これが、長尾雨山をして高等師範学校教授の椅子を投げ捨てさせる結果に追い詰めたのです。長尾雨山は、中国に移住する決心をもって一家をあげて上海に渡ります。商務印書館では、教科書編纂に尽力し、附属の教育機関では講師もつとめました。上海の文人との交流に活躍してもいます。商務印書館には、日本にいたころからの旧知の鄭孝胥も在籍していました。旧交を暖めたのはいうまでもありません。上海での生活が10年を数えた頃に、長尾が直面したのが日中合弁の解消でした。日本の資本をすべて商務印書館が買い取ることになり、長尾雨山も辞職します。辞職後に中国国内旅行を実行してのちに帰国、京都に住居を定めました。
 長尾雨山が教科書疑獄事件に連座した事実は、日本、中国双方の友人たちもまったく話題にしていません。長尾自身の家庭内においてもそうでした。それは当然のことでしょう。自らすすんで気分の悪くなる話題を持ち出すわけがありません。ですから長尾雨山の子供たちは、その事実を知りませんでした。逆に言えば、沈黙から教科書疑獄事件が長尾雨山に与えた衝撃の大きさを知るのです。いくらそれが冤罪であろうとも、有罪という意識が長尾雨山に深く沈潜していたと考えられます。
 商務印書館と金港堂の合弁については、日中出版社交流という格好の題材であるにもかかわらず、これまで詳細が追求されたことはありません。資料の散逸が主な原因ではありましょう。今、考えてみれば、出版社と個人の運命を変えた教科書疑獄事件が深くかかわっていたからこそだったのだと思い至るのです。

【参考資料】1999年現在、入手可能な日本語文献
樽本照雄「金港堂・商務印書館・繍像小説」『清末小説閑談』法律文化社1983.9.20
 ―― 「商務印書館と夏瑞芳」 同 上
 ―― 「商務印書館と山本条太郎」『清末小説論集』法律文化社1992.2.20
 ―― 「商務印書館研究はどうなっているか」 同 上
 ―― 「初期商務印書館をもとめて」 同 上
 ―― 「変化しつつある商務印書館研究の現在――または、商務印書館の被害者意識」『大阪経大論集』第46巻第3号(通巻227号) 1995.9.15
杉村邦彦「長尾雨山伝略述」『書苑彷徨』第2集 二玄社1986.8.5
稲岡 勝「教科書合弁、日中交流の師――今世紀初め、日本の出版社が清近代化に一役」『日本経済新聞』1995.3.3