『大阪経大論集』第50巻第6号(通巻254号)2000.3.31


トルストイ最初の漢訳小説
――「枕戈記」について

樽本照雄


 トルストイの作品の中で、最初に漢語訳された小説は、何か。

1 通説――『托氏宗教小説』
 中国には、ひとつの通説がある。トルストイ最初の漢訳小説は、『托氏宗教小説』だとする。阿英がそう断定し、のちの研究者も全員が追認している。疑義が提出されたことは、私の知る限り、ない。過去において再考の機会はあったが、残念ながら、研究者の誰も気づかなかった。

1-1 阿英説
 まず、通説の源となる阿英の説明を見てみよう。

 トルストイについて、現在、知っているもののなかで最も早い中国語訳は、教会の刊行物に掲載された宗教に関するいくつかの小説である。1907年、香港の教会が発行した『托氏宗教小説』が、最も早い一冊であり、「主奴論」など12の短篇を収録する。訳叙によれば、これらの小説を翻訳した目的は、「もともと自らが立ちあがろうとして人を立ちあがらせ、自らが到達しようとして人を到達させるという趣旨にほかならない」。同時にまた、読者に「ロシアにも至善の著作家がいることを知らせた」いと希望しているのだ。*1

 40年近く前の文章を今頃引っ張り出してきて、検証しようというのは、あまりにも酷ではないか。そう思われる人もいるかもしれない。しかし、通説の源であり、また現在にいたるまで阿英説は否定されていないのだから、しかたがないのだ。
 阿英の記述によると、1907年の『托氏宗教小説』が漢語訳の最も早いトルストイ作品ということになる。この小説集には、12篇の短篇が収録されており、それらは当時の教会の刊行物に掲載されているともいう。単行本に編まれる前に、単発で雑誌に発表されたということが理解できよう。ただし、阿英は、その刊行物が何なのか、具体的に説明していない。また、小説12篇のすべてが教会の刊行物に掲載されたのか、あるいはその一部だけだったのかも、阿英の記述からはうかがうことができない。
 阿英以後、トルストイの最初の漢語翻訳に言及するとき、この阿英の指摘を踏襲するのがきまりのようになる。

1-2 王錦厚説
 たとえば、阿英の説明から28年後(これは初版から数えてのこと。自らの初版について著者は不本意に思っているらしいから、再版の発行年月にもとづくと35年後)の王錦厚『五四新文学与外国文学』(成都・四川大学出版社1989.10/1996.6第二版)は、次のように解説する。

 しかし、この『托氏宗教小説集ママ』は、我が国において結局のところ最初のトルストイの作品集であり、また、最初のロシア文学の短篇小説集であった。訳者と編者が、伝教の目的であったとはいえ、やはり我が国の読者にトルストイの文学作品をより多く読ませた点は、注目に値する。(297頁)

 書名を間違うのは、うっかりしたのだろう。王錦厚の説明は、阿英とほぼ同一だ。全体をより簡略化し、阿英が原本訳叙から引用した部分を現代語に置き換えただけの変更しかない。

1-3 戈宝権説
 戈宝権「托爾斯泰作品在中国」にも同様の説明がある。

 ……1907年,ドイツ礼賢会の伝教士葉道勝牧師(原名ゲネール)が中国人の麦梅生と翻訳した12篇の宗教を題材とした『托氏宗教小説』を香港において出版した。*2

 葉道勝と麦梅生の名前を出しているのが新しい。著作原物を確認したうえでの執筆だと理解できる。説明が短い理由は、辞典項目で字数制限があるためだと思われる。

1-4 郭延礼説
 阿英の記述を踏まえたうえで、より詳細な説明を行なったのが郭延礼『中国近代翻訳文学概論』(漢口・湖北教育出版社1998.3)だ。

 トルストイ最初の中国語訳本は、1907年(光緒三十三年)に香港礼賢会より出版され、日本横浜で印刷、香港とわが国内で発行された『托氏宗教小説』だが、しかしこの訳本は、ドイツの牧師葉道勝と中国人麦梅生(潤色)の共同訳であり、トルストイ翁が宗教を題材として描いた12個の「民間物語」である。すなわち「主奴論」(現在の訳は「主与僕」)、「論人需土幾何」、「小鬼如何領功」、「愛在上帝亦在」(現在の訳は「愛之所在即有上帝」)、「以善勝悪論」(現在の訳は「蝋燭」)、「火勿ママ(忽)火勝論」、「二老者論(現在の訳は「二老人」)、「人所憑生論(現在の訳は「人依何而生」)、「論上帝鑒観不爽」、「論蛋大之麦」(現在の訳は「鶏蛋大的穀子」)、「三耆老論」(現在の訳は「三隠士」)、「善担保論」(現在の訳は「教子」)だ。作品の物語は、筋は生き生きとしてむだがなく、言葉は簡潔かつ素朴で、読者に歓迎された。その中の6篇は先に教会の刊行物『万国公報』および『中西教会報』に発表され、その時間は、おおよそ1905-1907年間である。この小説集の翻訳は、伝教が目的であったとはいえ、また主に西洋の伝教士が翻訳し出版したものであるとはいえ、はじめて中国人民にトルストイの小説を紹介し、読者に「ロシアにも至善の著作家がいることを知らせた」その功績は埋もれさせるべきではない。(385頁)

 郭延礼は、阿英が漢訳原書の序から引用した2ヵ所の文章のうち一方だけを採用した。「もともと自らが立ちあがろうとして人を立ちあがらせ、自らが到達しようとして人を到達させるという趣旨にほかならない」を捨てたのは、「論語」臭を嫌ったのかどうか、私は知らない。
 郭延礼は、収録された12篇の小説題名をすべて掲げている。詳細な解説だというべきだ。12篇のうち6篇が教会の刊行物に先に発表されたと郭延礼は書いているが、私が把握しているのは、以下の5篇だけだ。私の知らない1篇があるらしい。ここでは、発行順に作品名とその掲載誌のみを列挙するにとどめる。掲載誌の発行年月を明示するのは、トルストイ作品の漢訳一番乗りを検証するためには、どうしても必要になる項目だからだ。

「論人需土幾何」『中西教会報』復刊第120-122冊 乙巳七月一日-九月(1905.8.1-10)未見
「小鬼如何領功」『中西教会報』復刊第132冊 光緒三十二年六月(1906.8)未見
「愛在上帝亦在」上海『万国公報』第216-217冊 丙午十二月-丁未一月(1907.1-2)
初出題名は、「仁愛所在上帝亦在」
「火忽火勝論」『中西教会報』復刊174-175冊 丙午十二月-丁未一月(1907.2-3)か?未見
初出題名は、「不滅火便為火滅論」
「以善勝悪論」上海『万国公報』第218冊 丁未二月(1907.3)
初出題名は、「以善勝悪篇」

1-5 『中外文学交流史』説
 古代から近代、現代にわたるいわば翻訳文学史である。周発祥、李岫主編で湖南教育出版社(1999.1/1999.7第2次印刷)から発行されている。トルストイに触れて次のように書く。

 1906年より、レフ・トルストイの作品は、大量に翻訳され中国に紹介された。最もはやい翻訳作品は、ドイツの伝教士ゲネール牧師が中国人麦梅生と協力し英語より転訳したトルストイが宗教の題材で書いた12篇の短篇物語である。1906年、上海で発行されていた『万国公報』に発表され、のちに集められて香港礼賢会から単行本『托氏宗教小説』として出版された。「主奴論」(すなわち「主与僕」)、「論人需土幾何」、「小鬼如何領功」、「仁愛所在上帝亦在」、「以善勝悪篇」などを収録する。(329-330頁)

 「仁愛所在上帝亦在」と書いているのは、『万国公報』所載の題名であって、単行本化したときに改題したと注記しないのは、少し不親切だ。ここでも、トルストイ最初の漢訳作品は、『托氏宗教小説』だとする。

 以上、阿英以後の紹介文を紹介した。すべてが阿英の解説を継承していることが明らかだ。
 そのためなのかどうか、疑問に思うことがある。『中外文学交流史』を例外にして、漢訳本が拠った原文が英文であったことに触れないのはなぜなのか。ドイツ人の牧師が翻訳に関係していることに触れるだけだと、ドイツ語の翻訳に拠ったのではないかといらぬ想像をさせるのではなかろうか。
 実は、原本は英訳なのだ。ニスベット・ベイン(R. NISBET BAIN)英訳“TALES FROM TOLSTOI”(LONDON,1901)にもとづいて漢訳されていることは、『托氏宗教小説』そのものに説明してある。ロシア語→英語→漢語という経路をたどったトルストイ作品の翻訳である(『托氏宗教小説』については、別稿で論じる)。
 『托氏宗教小説』は、漢訳されたトルストイの作品集、またロシア文学短篇小説集としては、たしかに最初のものだった。つまり、トルストイ作品の単行本という形では、中国最初のものであるといってよい。しかし、中国に最初に紹介されたトルストイの漢訳作品というわけではない。それよりも早くに発表された小説が存在している。

2 事実――「枕戈記」
 「(軍事小説)枕戈記」という漢訳小説がある。(俄)脱爾斯泰著、(日)二葉亭訳と表示して『教育世界』乙巳8、10、19期(100、102、111号)光緒三十一年四月下旬、五月下旬、十月上旬(1905.5,6,11)に連載された。
 前出『托氏宗教小説』に収録された作品のうち、『中西教会報』の掲載で最も早いのが乙巳(光緒三十一)年七月一日だ。「枕戈記」の方が、約二ヵ月も先行する。
 すなわち、私の手元にある材料の中では、トルストイの小説の漢訳第1号は、この「枕戈記」なのである。ところが、この「枕戈記」は、あの大部な郭延礼『中国近代翻訳文学概論』にも、言及はない。
 「枕戈記」という翻訳作品は、『清末民初小説目録』(中国文芸研究会1988.3.1)に収録してある。本稿冒頭で阿英の記述を再考する機会があった、と書いたのは、この目録を見ていれば、という意味なのだ。該目録にしろ『新編清末民初小説目録』(清末小説研究会1997.10.10)にしろ、通説を訂正できる道具だといってもいい。しかし、研究者のすべてがこの目録を利用しているわけではなさそうだ。今後も誤った通説が研究者によって継承されるのだろう。
 さて、漢訳「枕戈記」のトルストイの原文は、「林木(または森林)伐採」(1855)という。ロシア語原文にもとづき日本の二葉亭四迷が『(軍事小説)つゝを枕』と題して日本語に翻訳した。
 二葉亭(四迷)訳『(軍事小説)つゝを枕』*3(金港堂1904.7原物未見)が、江蘇師範学堂で日本語学習の教材に使われ、その翻訳原稿を潤色したという説明が掲載誌にある。
 こちらはロシア語→日本語→漢語の順に翻訳された。ロシア語から直接漢訳されたわけではないから、重訳ということになる*4。

2-1 二葉亭日本語訳
 1851年、23歳のトルストイは、カフカス(英語でコーカサス)に行き軍隊生活を送った。のちのクリミア戦争(1853-56)にも参戦した体験をもとにして書かれたのが、「コザック」(1852年執筆、1863年発表)、「侵入」(1852年執筆、翌年発表)、連作「セヴァストーポリ」(1855年に3篇を執筆、1855、56年に発表)、「林木伐採」(1855年執筆発表)、「陣中の邂逅」(1856年執筆発表)などのいわゆるカフカス物語である。
 「林木伐採」の内容は、こうだ(固有名詞は、二葉亭訳*5を使用し、漢訳を添える)。
 185×年冬、バリシヤーヤ・チエチナ(西伯利亜ママ之采奇納地方)に駐軍していたある小隊が、林木伐採に行くことを命じられる。森を切り開くことが目的だった。銃撃戦が発生し、わずかの負傷者と兵を一人(ウェレンチウク)失いながら、一応、成功のうちに作戦を終了する。これが物語の骨子だ。
 物語のなかで、トルストイはロシア兵の典型を、率直なもの、威張るもの、向こう見ずなもの、の3種に分類する。
 その分類にもとづいて、世話好きで率直なウェレンチウク(恵連邱克)、要領よく威張る軍曹マクシーモフ(馬克西墨)、軍人らしい傲岸な表情の飲んだくれ上等兵アントーノフ(安朶六)、ひょうきん者の伝令チキン(提金)、最古参のジダーノフ(次台禄)たちを登場させる。
 林木伐採をいかに遂行するかという筋運びに、物語の重点は置かれていない。作者の意図は、小隊長(ニコライ・フョードロヴィッチ。二葉亭訳では姓名は省略されている)を語り手に設定して、ロシア兵の一人ひとりの個性を描き分け、その戦闘生活を描写することにある。
 二葉亭訳で私の目にとまるのは、会話部分が自然な口語になっていることだ。たとえば、「僕は露西亜へなぞ決して帰らうとは思はん。既う露西亜語は忘れツ了うたし、歩行方さへ違うて来た。僕なぞが行て見い、皆が妙な奴が来よつたちうぢやらう。何せい、亜細亜ぢやもん、なア、ボルホーフ、露西亜に行たちうて詰らん。行たらいつか一度は必ず暗殺さるゝ。……」(117頁)など、そのしゃべりは、人物がまるで目の前にいるかのような印象を受ける。ロシア兵がいかにも言いそうな、その口調の自然さは、今から見てもすぐれた翻訳だと思う。

2-2 漢訳
 二葉亭訳は、原作通り13章を守る。漢訳は、それより1章多く、14章で構成される。二葉亭訳第13章を、漢訳では2章に分割したためだ。なぜ分割したのか、その必要はないように思うのだが、理由はわからない。
 二葉亭訳『(軍事小説)つゝを枕』が、江蘇師範学堂において日本語学習の教材に使われたと前述した。
 教材にしては、初心者向けではない。上に紹介した会話部分など、日本語をかなり知った人でなければ理解することはむつかしいだろう。
 その漢訳は文語体だ。例を示すと、上に掲げた会話部分は、「僕至不願帰俄羅斯。俄羅斯言語、今已忘之。行歩之状、亦既不類俄人。僕至彼都、衆必以奇人目我。畢竟地在亜細亜。非吾土也。博霍君、僕若帰俄羅斯、則太自苦、恐有被人暗刺之日」(32頁)となる。会話体は、文言に置き換えられるが、正確な漢訳だということができる。そればかりか、二葉亭訳の「何せい、亜細亜ぢやもん」が、「畢竟地在亜細亜。非吾土也」と漢訳されており、「非吾土也(僕等の領土ぢやないもん)」と注釈風に字句を加える。読者の理解を助けるのだ。
 漢訳は、基本的にいって二葉亭訳に忠実な翻訳である。日本語学習の教材だったから、日本語原文を尊重した結果なのかもしれない。ほとんど逐語訳といってもいいくらいで、原作の大意を述べるだけの大ざっぱな漢訳と比較するならば、極めて上質な漢訳であることは明らかだろう。
 だが、それでも少しばかりの異同箇所は、存在する。

2-2-1 誤訳
 原作の場所は、バリシヤーヤ・チエチナ(85頁)だが、これを西伯利亜之采奇納地方(1頁)、すなわちシベリアのチエチナ地方と漢訳するのは、誤りだろう。シベリアだと、方角が正反対になってしまう。わざと誤訳したのではないかと思わないでもない。だが、そうする理由がみつからない。やはり、ここは誤訳であって、トルストイについての、あるいは歴史についての知識が不足しているのが原因だと思われる。
 あるいは、「フイリカ(兵士の骨牌遊)を企み、或はむかしむかし狡獪い兵のあつた話をし」(93頁)を「相与話夫伊利喀故事(謂昔日一狡獪兵故事)」と漢訳する。せっかく二葉亭がカルタ遊びだと注釈しているフイリカを「フイリカ物語」に誤訳しているのは、意図的なものだろうが、不可解である。
 また、ウェレンチウクの軍隊生活「十六年」(95頁)を「為兵三十年」(11頁)に誤るのは、単純なミスだろう。
 誤訳は、少ない。それよりも、日本語原文を読み込んで、より筋の通った形になおした箇所もある。

2-2-2 訂正
 小隊が出発する時になって、ウェレンチウクの姿が見えない。アントーノフを探しにやって、二人とも帰ってきた時、小隊長の問いにアントーノフが答える。左に二葉亭訳を、右に対応させて漢訳を置く。

「何処に居つたか?」とアントーノフに問けば、 予問安朶六曰。彼安在。
「砲廠で眠てをつたのであります。」 曰眠於砲廠中。
「何だ、酔ぱらつてゞもゐたのか?」 曰醉乎。
「さうぢやありません。」 曰否。
「ぢや、如何して眠てゐたんだ?」 曰未醉胡為眠。
「如何してゞありますか。」(86-87頁) 曰不知也。(2頁)

 二葉亭訳を簡潔に漢訳していることが、上の引用からも理解できるだろう。二葉亭訳の最後部分の、どうして寝ていたんだ、という小隊長の問いに、「如何してゞありますか」と答えることも、理解できないわけではない。日本語の「如何してゞありますか」に、「わからない」という否定の意味を読み取ることは可能である。しかし、漢訳のように「不知也(わからないであります)」とやった方が、より理解しやすいのは確かだ。へんな言い方かもしれないが、ここは、漢訳のほうがすぐれている。

2-2-3 省略
 二葉亭訳を省略して漢訳する箇所もある。
 いくらか学術の心得のあるマクシーモフの説明癖を説明する箇所だ。

其時マクシーモフは四辺に集まつた兵等に向つて、水平試験器といふものは「即ち空気的水銀が作用を発表しつゝあるものに外ならぬのである」と云つて説明したこともある。(91頁)

 これを漢訳では、「其時馬克中立。兵士環其旁。馬克口演水準器之用。言之〓女+尾}〓女+尾}」(7頁)とかたずけてしまった。二葉亭訳は、マクシーモフが、時々、分けのわからぬ説明をすること、これがかえって周囲の兵隊に受けがいい、という具体例をかかげる情況描写の部分なのだ。それを「言之〓女+尾}〓女+尾}(表情豊かに話した)」と漢訳したのでは、そのチグハグサが生きてこない。
 単語を省略する箇所もある。たとえば、次のような例だ。

 「露西亜といふところはそんなに善え所かのう?」とトロセンコが露西亜が、何処か支那か日本かでもあるやうに云ふと、……(116頁)
 「徳羅森戈若不知俄羅斯之為何国貿然問曰。俄羅斯之地若是其可楽乎(トロセンコは、ロシアがどんな国か知らないように軽々しくたずねた。ロシアというところはそんなにいいところか)」(31頁)

 漢訳では「支那」「日本」は省略されているのがわかるだろう。
 では、「支那」が出てきたらすべて省略するのかといえば、そうでもない。
 「矢張支那人のやうなもんで、シヤツポを取つたつて血が出るんだ」(97頁)は、「正与中国人之脱帽則流血者相同」(13頁)となる。ここでは、「支那人」が「中国人」に翻訳されている。

2-2-4 複雑な日本語
 二葉亭の日本語訳で特徴的なのは、前述したように会話部分に口語が使用してあることだ。
 さらに例をあげれば、次のような箇所がある。漢語訳もあげておく。

 「……へーい、どんねえにして、さう接合つて生れたもんだんべえ、ツて云やアがるから、……」(97頁)
 「……噫〓口+喜}。何為合体而生乎。」(13頁)

 「妙な事を問うて遣つた……ママ惚れちよらんで嫉妬くちふ事が有るもんかいうてな……ママ」(115頁)
 「言之誠可異。世乃有未恋慕而既嫉妬者」(30頁)

 二葉亭訳の口語調は、日本人から見れば、雰囲気を写し出してすぐれた表現であることがわかる。だが、外国人にとって、分かりやすいかといえば、必ずしもそうではなかろう。日本語の教科書として二葉亭訳を使用するのは、よほど日本語を理解していなければ、むつかしいように思う理由だ。確かに、漢訳では二葉亭訳のうまさは、失われている。しかし、誤訳をしていないのがよろしい。

3 結論
 西洋の小説が中国に輸入される経路には、キリスト教関係の刊行物であるとか、宣教師の手を経ているとか、従来、よく言われている。歴史的に見て、その事実があることを否定することはできない。しかし、それしかなかった、とするならば、それも当然誤りだ。林〓の例を思い浮かべるだけで十分だろう。
 キリスト教とは直接の関係がないところで、トルストイの小説が中国に紹介されている点に注目する必要があるだろう。
 その例のひとつが、「枕戈記」なのだ。ロシア語→日本語→漢語の経路、すなわち日本語を経由して中国にもたらされた西洋の小説という回路を忘れてはならない。
 それも、小説の内容が、キリスト教とは無関係である戦場を舞台とする。当時の中国において、「枕戈記」がどのような受け止めかたをされたのか、興味のあるところだ。今のところその反響を示す文章を見つけることができない。今後の調査に期待したい。
 トルストイ最初の漢訳作品は、『托氏宗教小説』ではなく「枕戈記」である。
 これだけを言うのに、阿英から誰からすべてを検証する必要があるのか、と疑問に感じる人がいるかもしれない。一言いっておきたい。簡潔に述べたのでは、事の重要さを認識しない人がいるかもしれないから、つい説明がくどくなるのだ。

【注】
1)阿英編「晩清文学叢鈔」俄羅斯文学訳文巻 上下冊 北京・中華書局1961.10。2頁
2)林煌天主編『中国翻訳詞典』武漢・湖北教育出版社1997.11。672頁
3)本稿では、二葉亭の翻訳は、『二葉亭四迷全集』第3巻(筑摩書房1985.3.30。83-129頁)所収のものによる。なお、『新編清末民初小説目録』868頁に「原作は「セヴァストーポリ」ではない」とわざわざ注記したのは、法橋和彦編「トルストイ文献」(『トルストイ全集別巻』河出書房新社1978.3.25初版未見/1984.11.15再版。590頁)が「二葉亭四迷訳『筒ママを枕にママ』(原題『セヴァストーポリ』ママ)金港堂七月」と誤るからである。
4)ついでに、二葉亭の日本語訳をもとにしたロシア文学の漢訳は、トルストイ作品のほかには、次のものがある。
(俄)戈〓厂+萬}機著、(日)長谷川二葉亭訳、呉梼重演「種族小説 憂患余生(原名猶太人之浮生)」が、『東方雑誌』4年1-4期(光緒33.1.25-4.25<1907.3.9-6.5>)に連載された。原作は、ゴーリキイ著「カインとアルチョーム」(1899)だ。ゴーリキー著、長谷川二葉亭訳「猶太人の浮世」という表題で『太陽』11巻2、4号(1905.2.1、3.1)に分載されている。のち、阿英編『晩清文学叢鈔』俄羅斯文学訳文巻(北京・中華書局1984.3)および『中国近代文学大系』11集26巻翻訳文学集一(上海書店1990.10)所収。
5)中村白葉訳『トルストイ全集』第2巻(河出書房新社1961.10.5)「森林伐採」(266-296頁)も参照した。