一字2万5000円
――李伯元の誕生日

樽本照雄


 李伯元の誕生日が、確定できない。
 二説ある。
 同治六年四月十八日(1867.5.21)と同年同月二十九日(6.1)だ。
 四月「十八日」とするのは、李伯元の友人・呉〓人である。彼は、李伯元小伝を書き、それに「君生於同治丁卯四月十八日」(『月月小説』第1年第3号1906.12.30)と記した。李伯元逝去後間もない時期に発表された文章でもあり、きわめて有力な証言であるといえよう。
 一方の四月「二十九日」説は、魏紹昌編『李伯元研究資料』(上海古籍出版社1980.12)に出現する。ただし、魏紹昌は、十八日と二十九日の両説について検討しておらず、一方的に「二十九日」を主張するのみだ。(実際は、検討したのかもしれないが、少なくとも文章には検討したとは書かれていない)
 『李伯元研究資料』に収録された李錫奇の回想文「李伯元生平事蹟大略」は、李伯元の生年に関して次のように記述する。

  伯元於清同治六年(一八六七)四月二十九日生於山東……(29-30頁)

 四月二十九日、山東に生まれた、と日にちが特定されている。魏紹昌は、この証言に拠ったものだろう、自らも同じことをのべている(『資料』4頁)。
 李錫奇の文章は、中国社会科学院文学研究所近代文学研究組編『中国近代文学論文集』(1949-1979)小説巻(中国社会科学出版社1983.4)にも収録された。同じ文献でありながら、奇妙なことに字句に異同がある。誕生日についての箇所だ。

  伯元於清同治六年(一八六七)四月生於山東……(295頁)

 肝心の「二十九日」が、ない。
 該文の初出は、『雨花』月刊第4期(1957.4.1)という。アジア経済研究所編『中国文雑誌・新聞総合目録』(アジア経済研究所1986.3.31)を見る限り、日本の研究機関には、該当号を所蔵するところはない。
 わからないことは専門家にたずねるに限る。『李伯元研究資料』の編者である魏紹昌氏に問い合せの手紙を書いた。
 その返答には、四月「二十九日」は、李錫奇の回想文から摘録した、李錫奇が正しい、彼は族譜によっている、『中国近代文学論文集』に「二十九日」がないのは、間違って脱落させたのだ、とある。
 そこまで強く自信を持って断言されているのだ。納得してしまいそうになる。といっても、呉〓人がいう四月「十八日」説を完全に打ち消すことにはならない。「二十九日」説も有力である、くらいか。
 求めていたから目に飛びこんできたということもあるだろう。『雨花』の合訂本が日本の中国書籍専門店の目録に掲載されているのに気がついた。思いもよらぬことといわねばならない。
 「二十九日」は、はたして李錫奇の文章にあるのか。あるいは、ないのか。どちらが正しいのか。
 原物で確認しないかぎり疑問は解けない。目をつぶって合訂本全8冊、雑誌全体では116冊を入手した。約10万円である。
 ダンボール箱が届いて、早速、一冊を抜きだす。李錫奇論文の該当部分をさがす。そこには、次のように書かれていた。

  伯元於清同治六年(1867)四月生於山東……(32頁)

 「二十九日」は、明らかに見えない。『中国近代文学論文集』が正しく、魏紹昌氏の勘違いであった。
 李錫奇の原文に「二十九日」が存在していないこの事実は、なにを意味しているのか。
 想像するに、李一族の誰かから李伯元の誕生日が四月「二十九日」であると魏紹昌は耳にしたのだろう。『李伯元研究資料』編集にあたり、魏紹昌はその伝聞をもとにして李錫奇の文章に「二十九日」を挿入した。魏紹昌にしてみれば、記述をより正確なものにしたかったのかも知れない。しかし、私に言わせれば、これは余計な操作であった。「二十九日」をどうしても言いたいのであれば、その部分に注記して原文と区別すべきだった。
 資料の価値を高めようとする意図が、かえって反対に作用したとしか考えられない。
 李錫奇が書いていない「二十九日」は、出所不明となる。呉〓人のいう「十八日」説を打ち消すどころの話ではなくなった。「二十九日」説そのものの信憑性を大きく減じる結果となってしまったのだ。
 以上の事情により、李伯元の誕生日は、四月十八日とするのが、現在のところ妥当である。今後、新たな資料が発掘されるのを期待したい。
 『雨花』初出の文章は、原物によって確認することの重要さをあらためて私に教えてくれた。
 「二十九日」という四文字を確かめるために、経費が約10万円である。一字当り2万5000円となる。これが高いか安いかは、見る人の研究姿勢による。
 情報は、タダではない。
 どのみち、安上がりにすむ研究など、この世に存在するわけがない、と私は思うのだ。