清末四作家の生卒年月日


樽本照雄


 数多く存在する清末の作家の中で、四人だけを取り上げてその時代を代表させることが、中国で一般に行なわれている。四人とは、劉鉄雲、呉〓人、李伯元および曾孟樸である。清末の四作家という。
 清末小説家といえばこの四人であるから、彼らについての事柄は、何からなにまで詳細に研究されつくし細部にわたって判明しているかといえば、そうでもない。
 たとえば生卒年である。四名のそれぞれについて、年はまだしも、月日まで追求すると記述が一致していないことに気づく。今(1996年12月)にいたるも、従来の誤りを踏襲して平気な文章が発表されているのだ。
 もっとも、これには別の見方もできる。記述が一致しないほどの言及があるのは、この四作家だけであって、そのほかの作家群は、問題も出ないくらいほとんど無視されているのが実情である、ということも可能だろう。
 こまかいことのように見えるかもしれない。しかし、生卒年月日は、作家を研究する場合のおさえておかなければならない基本事項である。正確でありたい。
 閲覧の便利を考えて、正確な生卒年を先に掲げておく。

劉鉄雲 生年:咸豊七年九月初一日(1857.10.18)
卒年:宣統元年七月初八日(1909.8.23)
呉〓人 生年:同治五年四月(十六日)(1866.5.29)
卒年:宣統二年九月十九日(1910.10.21)
李伯元 生年:同治六年四月十八日(1867.5.21)
卒年:光緒三十二年三月十四日(1906.4.7)
曾孟樸 生年:同治十一年正月二十二日(1872.3.1)
卒年:民国24年6月23日(1935.6.23)

 詳細は以下に述べるが、記述が混乱しているように見える原因のひとつは、陰暦と陽暦の換算間違いがある。
 周知のとおり、辛亥革命後、宣統三年十一月十三日をもって陽暦に切り換え民国元年元旦(1912.1.1)とした。論文資料のなかには、不注意により陰陽暦を混同して使用する傾向がなきにしもあらずだ。意識していないと、なかなかやっかいな問題が生じることがある。
 さて、生年の早い方から、劉鉄雲、呉〓人、李伯元、曾孟樸の順に検討しよう。(なお、本稿では、陰暦は漢数字により、陽暦はアラビア数字で表記して区別する。ただし、引用文はこの限りではない)

1.劉鉄雲の場合
 劉鉄雲の生卒年を見る場合、いくつかの基礎文献がある。本題に関係するものだけに限定してとりあげる。
 劉鉄雲の生卒年月日の陰暦は、一貫してゆるがない。生年は、咸豊七年九月初一日で、卒年は、宣統元年七月初八日だ。
 劉大紳が「関於老残遊記」*1において明らかにしたのが早いものの部類に属する*2。
 劉大紳は、陰暦のみを使用しているから問題はない。ところが、陽暦表示を間違うものがあらわれ、そのために混乱が生じることになる。
 魏紹昌編『老残遊記資料』*3は、関係資料を一冊に収録していて便利な本だ。研究者であるならば参考にするはずだ。
 蒋逸雪「劉鉄雲年譜」が、本書に収められている。。蒋逸雪は、それ以前から劉鉄雲の年譜を作成していた。複数回目の年譜を『老残遊記資料』に収録するに際し、劉厚滋(すなわち〓孫のこと)の資料によって大幅に修改増補した、と説明がある。たしかに以前の年譜より、かなり詳しくなっている。
 蒋逸雪は、この年譜において劉鉄雲の生年を「清文宗咸豊七年、丁未(公歴一八五七)。/九月初一日(陽暦九月二十九日)……」*4とする。この「陽暦九月二十九日」が、誤りの元なのである。調べればすぐわかるのだが、陰暦九月初一日は、陽暦10月18日に当る。
 一方、卒年は、「宣統元年、己酉(一九〇九)/七月初八日」*5とあり、こちらには陽暦表示はない。
 蒋逸雪が年譜を修改増補した時によった材料は、あとで判明したところによると、劉〓孫の原稿「鉄雲先生年譜長編」であったという。
 のちに発行された劉〓孫『鉄雲先生年譜長編』*6を見ると、九月初一日、「即公元九月二十九日」*7と間違っている。蒋逸雪は、劉〓孫の誤りを引き継いだのであろうか。
 卒年はというと、宣統元年七月初八日とするところまでは、いい。劉〓孫は、それにカッコして、つまり陽暦「六月二十日」*8とするのが、これまた誤りなのだ。8月23日が正しい。
 劉〓孫による劉鉄雲死去の月日の陽暦間違いは、単純な計算間違いにすぎない。計算違い、といえばそれですむ。ところが、これを大いにふくらませる人物が出てくる。
 疑問を提出したのは、范志新である。陰暦七月初八日は、陽暦「8月4日」であるから、陰暦の七月初八日逝去に疑義が生じる、というのだ*9。
 范志新がどこから「8月4日」をさがしだしてきたのか不明である。前述の通り、8月23日が正しい。
 だいいち、論理が逆転しているではないか。劉鉄雲の卒年は、陰暦七月初八日で揺れていないのだから、陽暦換算が間違っているのではないかと疑うのが普通だろう。おまけに、范志新は、肝心の陽暦換算を誤っているのだから二重の錯誤を犯している。
 范志新が傍証としてあげるのは、裴景福の記録である。
 裴景福は、流刑地ウルムチで劉鉄雲と知りあい、劉鉄雲が(1909年)四月に病を得て、八月に亡くなった、と書いているという*10。
 さらに、劉大紳は劉鉄雲の死去に立会っておらず、その日付は伝聞にすぎない。ところが、裴景福は劉鉄雲の葬儀に出席しており、八月死亡説の方が信頼できる、と范志新は、主張するのである。
 信頼できるのが陰暦八月として、その何日なのかを范志新は特定していない。物足らない。くりかえすが、陽暦換算の間違えをもって七月初八日死亡を覆そうというのは、そもそも根本的に無理なのである。
 さっそく反論があった。
 劉〓孫が、たぶん教え子の方宝川に反論を書くように勧めたのだろう*11。
 方宝川は、まず、宣統元年七月初八日を陽暦「六月二十日」としたのは、単なる書き間違いにすぎないと書く。当然である。范志新が「8月4日」と間違ったのは、前年光緒三十四年七月初八日が8月4日であるのを見誤ったのだという。なるほど、そうに違いない。さらに、劉鉄雲には下男の劉貴が付き従っていたし、淮安に葬られたのち、劉家では、毎年、劉鉄雲の誕生日と命日には祭ることをかかさなかった。また、位牌には卒年が記録されていた、という劉〓孫の証言を紹介する。
 重要な資料として、「甘粛新彊巡撫聯魁為抄呈劉鶚在監病故片稿事致外務部咨文」と「附件:甘粛新彊巡撫聯魁為奏劉鶚在監病故事片稿」*12を引用する。このなかに「七月初八日」に病没したことが記録されているのだから、決定的な証拠であるということができよう。

2.呉〓人の場合
 呉〓人の生年の間違いは、魯迅に責任がありそうだ。その『中国小説史略』で呉〓人の生年を1867年とした*13。魯迅は、呉〓人の年齢を数えで四十四歳だと考えたから、卒年の1910年から引き算して生年を1867年にしてしまった。
 疑問を提出し魯迅の記述が誤りであると断定したのは、劉世徳である。魯迅の文章から約30年後のことであった。それまでずっと呉〓人の生年は1867年だと書かれてきていたのだ。
 劉世徳が「呉沃尭的生卒年」*14であげた資料は、ふたつある。
 『〓廛筆記』*15に、光緒八年、呉〓人十七歳のとき、という記述がある。逆算すれば同治五年(1866)が生年となる。呉〓人自身が述べているのだから確かだろう。これがひとつ目の証拠だ。
 ふたつ目も同じく呉〓人の筆になる。
 『月月小説』の「〓廛詩刪剰」のなかに、「年は丙寅、呉〓人が生まれ落ち、兄が夭折……」*16とあるからには、この丙寅がすなわち呉〓人の生年である。丙寅は同治五年(1866)だ。
 ふたつとも呉〓人自身が述べており、両者ともに一致するのだから1866年が正しいと考えざるをえない。
 魯迅の記述とは異なり、一年はやい1866年が呉〓人の生年という結果が得られた。
 ここで注目したいのは、1866年までは判明したが、月日を明らかにするところには到達していない点である。
 さらに一歩ふみこんで四月十六日(1866.5.29)だと指摘したのは魏紹昌である*17。ただし、まことに残念ながら、魏紹昌は、拠った資料名を明らかにしていない*18。
 王俊年はさらに探索して、呉〓人「譏弾二」の「恭賀新禧」に「同治丙寅は私の生まれた一年目で……」*19という箇所をつけくわえた*20。
 呉〓人の同治五年生誕は、ゆるがない。しかし、王俊年も「四月十六日」については、その証拠を掲げていないのは意外だ。魏紹昌の記述を引きうつしているのだろう。
 確かな資料が提出されるまで、私は、「同治五年(四月十六日)(1866.5.29)」というように丸カッコでくくって表示したい。
 卒年にも異論がある。
 江南煙雨客「呉農絮語」*21には、その上海での死去を「九月十五日」としているらしい。
 ただし、江南煙雨客の文章がいつ書かれたものかはっきりしない。
 ここはやはり、呉〓人の追悼文を書いた李懐霜の「我仏山人伝」の中にある、あるいは、周桂笙『新菴筆記』*22にも書いてある「九月十九日(1910.10.21)」とすべきだろう。李懐霜および周桂笙という呉〓人の親しい友人の証言を無視することはできない。

3.李伯元の場合
 生年に二説ある。
 同治六年四月十八日(1867.5.21)と同年同月二十九日(6.1)だ。十一日間のずれがある。
 四月十八日とするのは、呉〓人である。
 李伯元の死後、友人であった呉〓人がその小伝を書いた。『月月小説』第1年第3号(光緒三十二年十一月望日<1906.12.30>)に見える。該誌には、李伯元の肖像が飾られ「中国近代小説家李君伯元」と題する。写真頁の裏に呉〓人が李伯元小伝を書いて、それに「君生於同治丁卯四月十八日。卒於光緒丙午三月十四日」とある。
 呉〓人の示した李伯元の生年、同治六年四月十八日(1867.5.21)は、親しい友人の証言として尊重されるべきだ。
 先にしめした呉〓人の誕生日「四月十六日」が正しいとしよう。李伯元の誕生が四月十八日となれば、呉〓人のものと一年違いの同じ四月で、しかも二日しかはなれていない。呉〓人の記憶に残っていたとしても不思議ではなかろう。
 一方の四月二十九日説の出所は、はっきりしない。魏紹昌がそう書いているのだが、どういう資料に拠ったかが不明なのだ。
 魏紹昌編『李伯元研究資料』(上海古籍出版社1980.12)でも資料がひとまとめになっており、研究者であれば必ず目を通すものだ。
 該書の巻頭に置かれた魏紹昌「魯迅之李宝嘉伝略箋注」は、魯迅の『中国小説史略』から李伯元部分を取りだし、詳しい注をつけた文章である。『呉〓人研究資料』と同様に、魯迅の、それも充分ではない文章を巻頭にもってこなければならなかったことから、「文革」直後の時代(両資料とも1980年発行)の雰囲気というものをうかがうことができる。
 それはさておき、魏紹昌は、李伯元の生年について次のように書いている。日本語に訳すまでもないから、中国語原文のままに示すと、「伯元生於同治六年四月二十九日、即公元一八六七年六月一日」*23とある。
 魏紹昌は、李伯元の生年を四月二十九日とし、呉〓人がいう四月十八日とは異なるものを呈示している。
 魏紹昌の編集する『李伯元研究資料』10頁には、先に示した呉〓人の「李伯元小伝」も収録されている。しかし、魏紹昌は、生年の日にちの違いについてなにも言及していない。
 『李伯元研究資料』に収録された文章を見ていて、これが魏紹昌のいう四月二十九日説の根拠になったのか、と思わせるものがある。
 李錫奇「李伯元生平事蹟大略」に「清同治六年(一八六七)四月二十九日」山東に生まれた、と書かれている*24。
 李錫奇のこの文章は、『雨花』月刊第4期(1957.4.1)に発表されたものだそうだ。『李伯元研究資料』に収録される以前には、日本で李錫奇の該文を読むことができなかった。だから、『李伯元研究資料』に収められたことを、私は喜んだものだ。
 ところが、ここに奇妙な箇所があるのに気づいた。
 李錫奇「李伯元生平事蹟大略」は、中国社会科学院文学研究所近代文学研究組編『中国近代文学論文集』(1949-1979)小説巻(中国社会科学出版社1983.4)にも収録された。こちらの該当部分を見てみると、「清同治六年(1867)四月」山東に生まれたとだけしかかれていない。「二十九日」という重要部分が欠落している。
 初出である『雨花』雑誌は、日本で見ることができない*25。実際には、四月「二十九日」と書いてあるのかどうか確認できないのは残念だ。
 同じく魏紹昌編『李伯元研究資料』に収録された澄碧「小説家李伯元」にも「四月二十九日」と書いてある。こちらも初出の『常州日報』(1975.7.18)を読むことができない。未確認情報としてここに書いておく。
 四月二十九日説は、李錫奇にせよ魏紹昌にせよ、どこから持ちだしてきたのかその出所が不明である。1950年代に出現した根拠薄弱のものとせざるをえない。
 李伯元の生年について、結局のところ、呉〓人が示す同治六年四月十八日(1867.5.21)とするのがいいだろう。
 李伯元の卒年は、光緒三十二年三月十四日(1906.4.7)で、今のところ異論は提出されていない*26。
 ここで、また、ややこしいのだが、魏紹昌は、三月十四日の陽暦換算を誤り、4月9日と書く*27。
 陰陽暦の換算など、つい見過ごされてしまう部類のことで、『李伯元研究資料』の誤記を鵜呑みにする研究者が出現しないとも限らない。ここで注意を喚起しておきたい。

4.曾孟樸の場合
 曾孟樸の年譜といえば、その息子曾虚白が作成した「曾孟樸先生年譜」*28が有名だ。
 曾虚白は、その年譜において曾孟樸の生年を西暦で1871年と示し、卒年を1934年6月23日とした。
 生年の月日は、明らかにされていない。
 年譜の表示年が全体にわたり1年ずつずれているのを指摘したのが魏紹昌である。つまり1872-1935年が正しい。まことに意外である。親族が誤記していたのだ。
 そればかりか、魏紹昌は、生年の不明であった月日を「一八七二年三月十三日(同治十一年壬申正月二十二日)」*29と特定した。
 魏紹昌には、拠った資料があったはずだ。まさか何もないところから「正月二十二日」はでてこないだろう。残された親族からの証言により時間などの修正をしたと説明があるからそうなのだろう。ただし、原文のどこをどのように訂正したかの注釈は必要である。にもかかわらず、「正月二十二日」についてはいかなる注釈もないのだ。
 もうひとつ残念なのは、陰暦が「正月二十二日」とするならば、陽暦は、魏紹昌が書いているような3月13日ではないことだ。3月1日でなければならない。ここでも魏紹昌は、換算を間違っている。
 ただし、より大きな問題は、この換算違いにはない。資料集編集の方針について疑問が生じてくることの方が重要だ。
 魏紹昌は、年譜に注釈して、全体に1年ずつずれていることを指摘していることはすでに述べた。それにつづいて、おおよそ次のようなことを書いている。すなわち、読者が考証するのに便利なように、それぞれの年を訂正する以外に、当時の年号、干支おおび年齢をかっこ内に注記する、月についてはもとのままにして訂正しなかった、などなど。原文を尊重する編集方針を明らかにしているわけで、研究資料である以上、当然といえば当たり前のことであろう。
 しかし、実際を見れば、事実がその編集方針を裏切っている。
 肝心の生年部分の原文は、「生於公歴一八七一年」となっていて月日はないにもかかわらず、つけもつけたり「生於公歴一八七二年三月十三日(同治十一年壬申正月二十二日)」(下線:樽本)と書く。丸カッコ内は、魏紹昌の注釈としても、「三月十三日」は、あたかも原文にあるかのような書き方だとしかいいようがない。くりかえすが、原文には、「三月十三日」という月日は、書かれていない。おまけに間違った記述であるのだから、なにおかいわんや。原文を尊重した編集方針ではありえない。
 1982年に発行された増訂本でもその誤りは訂正されていないのは、大いに問題であろう*30。
 順番から言えば、張畢来が「(〓海花増訂本)前言」において、「一八七二年五月十三日」*31と書く。この「五月」は、魏紹昌が書いた「三月」を見間違えたか、あるいは印刷段階の誤植ではないか。
 魏紹昌が間違え、張畢来がさらに過失を重ねた。二重の誤りである。元を知らなければ、わけのわからなくなる研究者も出てこよう*32。
 信頼する記述が出現するのは、時萌『曾樸研究』を待たねばならなかった。それには、「曾公孟樸訃告」を引用して「生於同治十一年正月二十二日子時」*33と書かれている。拠った資料をあげているのが信頼性を増す。
 卒年は、民国24年6月23日(1935.6.23)でよろしい。
 以上、清末四作家の生卒年月日は、冒頭にまとめたものとなる。

5.点検表
 年表類など、最近の資料集数種類を検証してみよう。いずれも学生、研究者を対象とした書物であるから影響力は小さくない(発行年順)。

A.鄭方沢編『中国近代文学史事編年』長春・吉林人民出版社1983.11
B.劉徳重『中国文学編年録』上海・知識出版社1989.3
C.「中国近代文学大事記」管林、鍾賢培主編『中国近代文学発展史』下 北京・中国文聯出版社1991.6
D.「中国近代文学大事記(1840-1919)」魏紹昌、管林、劉済献、鄭方沢主編『中国近代文学辞典』河南教育出版社1993.8
E.陳鳴樹主編『二十世紀中国文学大典(1897-1929)』上海教育出版社1994.12
F.管林、鍾賢培、陳永標、謝飄方、汪松濤「中国近代文学大事記」(1840-1919)魏紹昌主編『中国近代文学大系』第12集第29巻史料索引集1 上海書店1996.3

 清末四作家の生卒年月日をどれくらい正確に記述しているかを一覧表にする。
 A−Fは書籍略号、生は生年、卒は卒年をあらわす。生卒年の記述のままに示し、掲載ページ数を記しておいた。うしろの記号は、私の考える評価である。
 記号は、以下の意味を示す。
 ○:年月日を正しく記述している。
 △:年のみを書いていて月日がなく不完全だ。
 ×:年は合っているが、月日が正しくない。一般の読者向けではない書物なのだから、厳しく点検したい。
 −:言及がない。
 p.:該当書籍のページ数を示す。追点検の便を考えている。
	劉鉄雲		呉〓人		李伯元		曾孟樸
A生	1857/p.288△	1866/p.299△	1867/p.250△	1872/p.243△
 卒	1909/p.288△	1910/p.299△	1906/p.250△	1935/p.243△
B生	無    −	1866/p.216△	1867/p.215△	1872/p.239△
 卒	無    −	1910/p.216△	1906/p.215△	1935.6.23/p.239	○
C生	1857/p.167△	1866.5.29/p.180○1867.6.1/p.181×1872/p.188△
 卒	1909/p.339△	1910.10.21/p.342○1906.4.7/p.289○無   −
D生	1857/p.557△	1866/p.559△	1867/p.553△	1872/p.462△
 卒	1909/p.557△	1910/p.559△	1906/p.553△	1935/p.462△
E生	1857/p.192△	1866/p.209△	1867/p.117△	1872/p.96△
 卒	1909/p.192△	1910/p.209△	1906/p.117△	1935/p.96△
F生	1857/p.17,78△	1866.5.29/p.23○1867.6.1/p.23×	1872/p.26△
 卒	1909/p.17,78△	1910.10.21/p.79○1906.4.7/p.70○無   −
 ここに取り上げたのは1983年から1996年までの13年間に発行された書籍である。
 ざっと見て、記述が年をおうごとに詳細になっていく、という傾向はまったく見られない。
 その記述の同一さから、C.「中国近代文学大事記」(管林、鍾賢培主編『中国近代文学発展史』下)を下敷にしてF.管林、鍾賢培、陳永標、謝飄方、汪松濤「中国近代文学大事記」(1840-1919)(魏紹昌主編『中国近代文学大系』)が編集されたことが判明する。ふたつに共通して、管林、鍾賢培が編者として名前を連ねていることからも関連があることがわかる。
 ○印をつけたのがあるのはこの2種類だ。しかし、×印もある。劉鉄雲と曾孟樸についての記述が不充分であるという不均衡を呈している。
 一覧表のなかの唯一×印をつけた李伯元の生年1867年6月1日は、魏紹昌が提出した根拠薄弱なものをそのまま無批判に踏襲しているのである。
 年表によっては、年だけを示して月日までは書かない、という編集方針もあるであろう。しかし、研究者を対象としたような資料集、たとえばF.管林、鍾賢培、陳永標、謝飄方、汪松濤「中国近代文学大事記」(1840-1919)(魏紹昌主編『中国近代文学大系』第12集第29巻史料索引集1)のようなものであれば、詳細な記述があってもいいように思うのだ。
 清末四作家の生卒年月日に関する記述を見る限り、中国でこまかな事実の追求が積み重ねられているようには思えない。
 生卒年月日など、中国の研究者にとっては、あまりにも小さすぎることなのか。なぜそのような小事にかかわっているのか、大きい課題に取り組まなければならない、という考えが学界を支配していると想像することは簡単だ。
 想像が本当ではないかと思わせるひとつの事実がある。私は、李伯元と呉〓人の経済特科に関する中国での記述が全部間違っているという発表を外国でしたことがある。私の発表を評論するためにだけ中国大陸から学会に参加していた中国人研究者は、1年違おうと、2年ずれていようとどうでもいいことではないか、という意味の発言をしたのだ。これには恐れ入った。なるほど細かいことに無頓着な研究者が、先人の誤りを後生大事に踏襲していくのだな、と納得がいったのだった。
 細かなことを軽視する研究姿勢のその結果が、年表類のそれほど正確ではない記述に表われているといえよう。

【注】
1)劉大紳「関於老残遊記」『文苑』第1輯1939.4.15。のち『宇宙風乙刊』第20-24期1940.1.15-5.1に再掲。また、魏紹昌編『老残遊記資料』北京・中華書局1962.4、劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』成都・四川人民出版社1985.7などに収録される。今、『老残遊記資料』所収のものに拠る。
2)生年は、劉大紳「関於老残遊記」『老残遊記資料』85頁に、卒年は、同78頁に見える。
3)魏紹昌編『老残遊記資料』北京・中華書局1962.4。日本・采華書林の影印本がある。
4)『老残遊記資料』134頁
5)『老残遊記資料』186頁
6)劉〓孫『鉄雲先生年譜長編』済南・斉魯書社1982.8
7)『鉄雲先生年譜長編』2頁
8)『鉄雲先生年譜長編』148頁
9)范志新「劉鶚卒年質疑――従新発現的劉鶚題跋説起」『文学遺産』1989年2期 1989.4.7。108頁。
10)范志新「劉鶚卒年質疑――従新発現的劉鶚題跋説起」108頁
11)方宝川「劉鶚卒日再考」『文学遺産』1993年第3期 1993。発行月日不記。
12)丁進軍編選、『歴史〓案』1992年第1期。未見。
13)魯迅「第二十八篇 清末之譴責小説」『中国小説史略』北京・新潮社 上巻1923.12下巻1924.6ともに未見。北平上海・北新書局1930.5七版。335頁。上海・北新書局1931.7訂正本。361頁。
14)劉世徳「呉沃尭的生卒年」「文学遺産」『光明日報』1957.9.1が初出。のち、以下の書籍に収録されている。人民文学出版社編輯部編『明清小説研究論文集』北京人民文学出版社1959.2。『中国近代文学論文集』(1949-1979)小説巻 中国社会科学出版社1983.4。晩清小説大系『九命奇冤』台湾・広雅出版有限公司1984.3。『恨海・痛史・九命奇冤』台湾・桂冠図書股〓有限公司1983.5.15/1984.9.25二版。『九命奇冤・恨海・痛史』台湾・文化図書公司1985.3.5
15)上海・広智書局1910未見。関係部分は、劉世徳「呉沃尭的生卒年」による。
16)『月月小説』第1年第4号 1907.1.28。238頁。
17)魏紹昌編『呉〓人研究資料』上海古籍出版社1980.4。8頁。
18)1996年12月29日、魏紹昌氏に問い合せの手紙を書いた。1997年1月17日付で返答をいただく。→「追記」を参照されたい。
19)『月月小説』第1年第5号光緒丁未正月(1907)。254頁。
20)王俊年「呉〓人年譜」『中国近代文学研究』第2輯(222頁)、第3期 1985.9、12。『我仏山人文集』第8巻 広州・花城出版社1989.5。311頁。
21)『江蘇研究』第3巻第2,3期合刊。未見。劉世徳「呉沃尭的生卒年」所収のものによる。
22)周桂笙「六朝金糞」新菴随筆下『新菴筆記』上海・古今図書局1914.8。魏紹昌編『呉〓人研究資料』18頁で、『新菴筆記』の発行を1914年7月とするのは8月の誤りである。7月は印刷月。
23)『李伯元研究資料』4頁
24)『李伯元研究資料』30頁
25)1996年12月、日本の中国専門書店の書目に『雨花』の合訂本が記載されていた。日本で読むことができる可能性もでてきたといえる。→「追記」を参照されたい。
26)李伯元の卒年について、谷梁「李伯元卒年辨正」(『学術月刊』1980年12月号 1980.12.20)がある。ただし、新資料が別に存在するというような根本的な疑問を提出しているわけではない。1977年版『辞海』が李伯元の卒年を1907年としていること、魏紹昌「李、呉両墓得失記」が、それを光緒三十三年と書き、1907年に当たるにもかかわらず1906年と注したり、また任訪秋「李伯元論」が、1906年と記すなどの不統一を、谷梁は、指摘しているだけだ。李伯元と同時代の周桂笙、呉熕lの証言から、李伯元の卒年を光緒三十二年、すなわち1906年とすべきだ、というのがその結論である。たしかに不統一である。しかし、その原因は、単なる勘違い、書き間違いの類であることに変りはない。
27)『李伯元研究資料』4頁
28)曾虚白「曾孟樸先生年譜」『宇宙風』第2-4期 1935.10.1-11.1
29)魏紹昌編『〓海花資料』北京・中華書局1962.4。152頁。『〓海花資料(増訂本)』上海古籍出版社1982.7。152頁。
30)『〓海花資料(増訂本)』152頁
31)『〓海花』北京・中華書局(1959.11)/1962.12未見。未見だが、たぶん同じ記述があると推測する。『〓海花(増訂本)』上海古籍出版社1979.3新一版/1980.1新二版。『中国近代文学論文集』(1949-1979)小説巻 中国社会科学出版社1983.4。478頁。張畢来編『張畢来文選』(貴陽・貴州人民出版社1984.1)所収の同文も「五月十三日」としている。誤りであることに気がついていないらしい。
32)成宜済『〓海花研究』台湾・嘉新水泥公司文化基金会1969.8。3頁。
33)時萌『曾樸研究』上海古籍出版社1982.8。2頁。


【追記】校正にあたり、後に入手した文献2点を追加する。(1997.2.3)
1.1997年1月17日付魏紹昌氏の来信
 私信であるが研究上重要な意味を持つものと考え、研究に関係する部分のみを紹介する。魏紹昌氏のご教示を読めば、私がいかなる質問をしたのかが理解できるだろう。ゆえに私の質問は省略した。

 一、呉〓人の「四月十六日」(旧暦)は、徐恭時が呉の墓を発見したのち、呉〓人の娘と連絡をとり、問い合せて得た。
 二、李伯元の「四月二十九日」(旧暦)は、その同族である李錫奇の回憶する文章から摘録した。
 三、私(注:魏紹昌)は、李錫奇が正しいと考える。彼は、族譜に基づいている。
 四、『中国近代文学論文集』に「二十九日」がないのは、該書が誤って脱落させたのだ。
 五、曾樸の誕生日正月二十二日は、曾樸の死亡通知から記録した。

 一の呉〓人の「四月十六日」は、伝聞であることがわかった。ゆえに、未確定を意味するカッコは、依然としてつけたままにしておく。
 順序をとばして五の曾孟樸生誕。時萌の拠った資料と同じもののようだ。魏紹昌氏は、なぜ、これを資料集の該当部分に示さなかったのか、残念に思う。
 二から四にかけて、李伯元の誕生日「四月二十九日」は、李錫奇の回想文、すなわち「李伯元生平事蹟大略」によっていたことが確認できた。『中国近代文学論文集』の方が間違っているのだ、と魏紹昌氏は確信していらっしゃる。
 結局、私は、『雨花』の合訂本を入手した。早速、李錫奇の原文と『李伯元研究資料』所収のふたつを対照して、つぎのような結果を得た。
2.李錫奇「李伯元生平事蹟大略」『雨花』1957年4月号(総第4号)1957.4.1
 問題の「二十九日」は、李錫奇の原文にあるのか、ないのか。原文の該当部分を以下に抜き書く。

 伯元於清同治六年(1867)四月生於山東,……(32頁)

 原文に「二十九日」は、ない。魏紹昌氏が、『李伯元研究資料』に該文を収録する時、つけくわえたのである。
 李家の関係者が「四月二十九日」だと魏紹昌氏に伝えたのかもしれない。それを李錫奇の回想文にあったと魏紹昌氏は勘違いされたものか。
 しかし、原文に編者が手を入れる場合、注を施すのが原則である。
 「四月二十九日」は、出所が不明確であることにかわりはない。
 以上の事実を知ることにより私の推論が揺らぐことはなかった。私の立論は、結果的により強固なものとなったといえよう。