新しい商務印書館研究
――呉相『従印刷作坊到出版重鎮』について


『東方』第246号/2001年8月号(2001.8.5)に掲載。2001年2月、東方書店の月刊『東方』へ投稿した。字数に制限があるというので、もとの原稿を約半分に圧縮したものを再度送った。本稿は、もとの原稿である。


樽本照雄


 呉相『従印刷作坊到出版重鎮』(南寧・広西教育出版社1999.9 20世紀中国出版文化叢書)は、商務印書館の創立から日中戦争終了までの歴史を概説したものだ。発行は1999年になっているが、私が入手したのは2001年1月である。
 張元済を中心に、あわせて商務印書館について記述した単行本は、今まで数冊出版されている。だが、本書のように商務印書館の全体像を描くことを目的にした単行本は、中国では珍しい。言及される範囲は、人、組織、刊行物および教育研究事業など多方面にわたっている。しかも、その説明は詳細だ。
 時代情況を視野にいれながらの記述は、行き届いているということができよう。
 上海の成立から説きおこし、官立の印刷出版機構の設立、変法維新運動にともなう出版組織の発生におよぶ。また、外国文献の翻訳から外国への留学生派遣、さらにキリスト教宣教師の活動――翻訳、印刷、出版、教育などについても言及がある。商務印書館が組織されるまでの時代情況をひととおり概説することから始めているところからも、その意図がうかがえる。
 著者が、商務印書館についての多くの資料を収集したうえでそれらを利用しているのは、本文を読めばすぐにわかる。公表されている論文以外に、シカゴ大学の修士論文、フランスの博士論文の題名をあげる。また、許道武「閘北堂与商務印書館」(54頁)、汪家熔「商務印書館編訳所考略」(95頁。執筆当時は未発表だったのだろう。『商務印書館史及其他――汪家熔出版史研究文集』北京・中国書籍出版社1998.10所収)、陳原「商務印書館六次危機」(108頁)、「商務印書館成績概略」(304頁)などの未発表論文までも参照しているのには目をみはるのだ。さらには、参照された「上海商務印書館被毀記」(349頁)、「九年来之報告」(367頁)には「商務印書館内部刊」と書かれているから内部資料とわかる。内部資料を見ることのできる著者は、商務印書館の関係者だろう。だからこそ、その記述は精密だ。
 多くの文献を通覧したうえで本書が書かれていることが理解できるのだが、日本語文献への言及がない。そこまで手がまわらなかったらしい。そのツケはあとにまわってくる。
 金港堂との合弁問題については、特に10頁を割いて説明しているのに目がとまる。
 私の興味のありどころが、どうしても商務印書館と金港堂の合弁時期になる。金港堂との合弁こそが、商務印書館がのちに発展していくための基礎を形成した、という認識が私にあるからだ。合弁問題を中心にして、本書を見ていくことにしたい。

○金港堂との合弁まで
 金港堂との合弁にいたるまでは、「第二章最初の奮闘」の「二、商務の創業者」(54-65頁)において説明がある。紹介しながら疑問を出すことにしょう。
 商務印書館は、数回移転をしている。その2番目の地名は、北京路慶順里だが、北京路順慶里(56、330頁)と誤る。そう書いた資料が実際に存在している。著者は、その誤りを鵜呑みにしたのだ。
 1900年、日本人が上海で経営していた修文書館(修文印刷局と書く)を商務印書館は買収する(56頁)。しかし、その買収金額がいくらで、夏瑞芳は、どこから資金を調達したのかを説明しない。当時、商務印書館には資金の余裕はなかったから、これは謎のひとつなのだ。この謎を解くためには、買収を仲介した印有模(錫璋)の存在に注目しなければならないのだが、これについて著者は、何もいわない。
 1901年の第1次増資に張元済と印錫璋が応じたのは事実だ(56-57頁)。しかし、発起人の株がもとの株価の7倍に値上がりしたのはなぜなのかという解説がない。証券取引所のような場所があって、市場で株価が決定したとでも考えているのならば、それは誤りだ。事実は、張と印の投資によって、商務印書館がそれまでの活動により生じた損失を埋め合わせたのである。数字の上で資本を合計5万元にするための、ただの数字あわせにすぎない。この事実に著者は気づいていないようだ。
 当時、商務印書館は財政困難に陥っていたのかどうか。それについての著者の考えを見てみよう。
 著者が紹介するのは、夏瑞芳が、不良翻訳原稿をつかまされて大損害をこうむったこと、張元済にその原稿を見てもらったことなど、これらは成立しない、だから財政困難などはなかった、という見解だ。張元済は日本語を理解しなかったから校閲しようにもできなかった、また、当時、字典出版に投資しており、投資できるくらいだから財政困難はなかった、という理由もかかげる(57頁)。
 この張元済の日本語云々は、汪家熔が『大変動時代的建設者――張元済伝』(成都・四川人民出版社1985.4)でくりひろげた説明である。
 これに対する著者の考えは、あいまいだ。つまり、重大な財政困難ではなく局部的な経済困難だという(58頁)。何を根拠にしてこのような見方が出てくるのか知らない。
 字典出版に投資していたからこそ財政困難を生じた、という見方も、当然、あるではないか。字典出版には、長い時間がかかるだろう。出版したとしても資金の回収には同じく時間が必要となるのは常識だ。財政困難など存在しなかったならば、張元済と印錫璋の投資は不必要だったはずだ。ここは、やはり重大な財政困難が生じていたと考えるべきだ。
 汪家熔の説明が成り立たないことは、私がすでに述べている(「商務印書館研究はどうなっているか」樽本照雄『清末小説論集』法律文化社1992.2.20所収)。しかし、著者の目にそれらは入っていないらしいから、しかたがない。
 著者が、多くの資料に目を通していることは、すでに紹介した。それはいいのだが、上のような例を見れば、日本語文献は、手元にないことがわかる。
 誤植で気になるのは、雨山長尾槙太郎を「驕v太郎と表記することだ(85、104、123、298、299頁)。漢語原文の誤植を踏襲しているのだろう。劉鶚を劉「鄂」とするのも、誤りだ(118頁)。
 1902年、商務印書館が火災を出したことについて一言も触れないのは、理解できない。火災にあっていながら、レンガ建ての巨大な印刷所をなぜ建設できたのか、大きな謎があることを著者は知らないのだろうか。不可解である。
 『繍像小説』の編者問題に言及しているので(120頁)触れておきたい。
 『繍像小説』の主編が誰であるのかについて、1980年代に論争があった。
 通説である李伯元主編説を否定したのは、汪家熔である。それは成立しないと『光明日報』に反論を掲載したのは、樽本照雄だ(1984)。同時に鄭逸梅の文章も掲載された。それに対して汪家熔は同じく『光明日報』紙上で反論した。その後、問題が「老残遊記」と「文明小史」の盗用問題に発展する。しばらくして、『繍像小説』の主編として李伯元の名前が記入された郵便局の登記資料が、発見された(1985)。結果として汪家熔説は、間違っていたのだ。参考までに紹介すると、商務印書館は李伯元を招いて『繍像小説』を編集してもらった、と述べる商務印書館の自社広告が見つかっている(武禧2001年)。
 著者は、つぎのように書く。「80年代ある学者が『光明日報』に文章を書いて(主編が李伯元だという通説に)異議を提出した。しかし提出した反証の依拠するものは、ほとんどが人情についての推論にすぎなかった」(120頁)。著者が下したのは、正しい判断である。
 名前を出していないが、この「ある学者」とは、汪家熔にほかならない。呉相は、本書を書くに当たって汪家熔の未発表論文を参照させてもらっている。直接に汪家熔の名前を出さないのは、そのことが理由かもしれない。

○金港堂との合弁
 商務印書館と金港堂の合弁を説明するのは、「第七章近代企業の経営管理」の冒頭「一、金港堂との合作」である。
 著者は、「合作」という単語を使用しているが、これは読者に誤解をあたえる。
 漢語の「合作」とは、一方が資金、設備を提供し、他方が用地、労働力を提供する方式だ。この用語では、あたかも商務印書館が用地と労働力を、金港堂が資金と設備を提供したように誤解される。事実は、異なる。商務印書館と金港堂の双方が、各10万元を平等に出資したのだから、これは合弁なのだ。漢語でいえば「合資経営」である。金港堂の投資といっても、実質的には原亮三郎の個人的なものだった。しかし、原個人と金港堂を区別するのはむつかしい。一体化していたと考えられるからだ。
 ここでも言い古された通説がくりかえされる。いわく、1902年、金港堂は、巻き込まれた教科書疑獄事件により日本で発展をつづけることができないと考え中国に向った、というものだ(296頁)。だが、金港堂は、それよりもかなり以前から中国大陸で教科書を発行する計画を持っていたというのが事実だ。金港堂にとって、教科書疑獄事件は、偶発的なもので予想の範囲外にあった。
 著者は、矛盾したことを書いている。双方ともに平等な合弁という点に関してだ。
 著者自身、「双方の合作は、平等なものであったから、一方が絶対的な優勢を占有するものでは決してなかった」(297頁)と明白に書いている。ところが、その2行下では、「取り決めた合作の条件は、事ごとにすべてが平等なものでは決してなかった」というのだ。矛盾しているのは明らかだろう。
 つまり、商務印書館は「自分の方に主導権」があったと言いたいのである。これも汪家熔が「主権在我的合資――一九〇三年〜一九一三年商務印書館的中日合資」(『出版史料』1993年第2期(総第32期)1993.7)でいい出したことだ。商務印書館の長老がそう証言していることを根拠にして論を展開した。しかし、長老がついた嘘であることはすでに指摘してある(「初期商務印書館の謎」『清末小説』第16号1993.12.1。樽本照雄『初期商務印書館研究』清末小説研究会2000.9.9所収)。
 297頁以降、複数の箇所で、山本条太郎を「三」本と誤植する。
 中華民国が成立するという政治情況の変化は、商務印書館に金港堂との合弁を解消せざるをえないことを認識させた。夏瑞芳は、交渉のために日本に赴く。
 著者は、その間の模様を、次のように書く。すなわち、1912年より、夏瑞芳は日本に行って金港堂と十数回にわたる談判を行ない、ようやく合意に到達した。金港堂は、合弁の10年間で10万から37.8万元に増資し、商務印書館のほうは180万元となっていた(302頁)。あたかも日本で交渉を行なったように読める。
 事実は、商務印書館内で合弁解消の議論が始まったのは、1913年1月からのことだった。夏瑞芳が日本に赴いたのは9月だ。約2週間の日本滞在にすぎない。この時、金港堂は、株を売るつもりはない、と返答した。だから、わずか2週間の滞在で夏瑞芳は上海に引き上げたのだ。そののち、金港堂側は、金額が折りあえば回収に応じる、と態度を変える。同年11月、金港堂より福間甲松が上海に派遣されて来て商務印書館との交渉を始めたのだった。
 資本金については、金港堂の37.8万元は、正しい。しかし、商務印書館が180万元だったというのは誇張である。汪家熔がすでに示しているように、1913年当時の総資本は120万元で、商務印書館は、金港堂の37.8万元を差し引いた残りの82.19万元だった。著者は、汪家熔が提出している重要資料を見ていないのだろうか。
 例の「自分の方に主導権があった」合弁だというならば、合弁解消に長時間の交渉など必要なかったはずだ。それが、もつれこんだのは、片方に主導権などなかった明らかな証拠である。この矛盾に著者は気づいていない。
 「商務と金港堂の合作ママ10年の歴史は、その後、人に言及されることはごく少なかった」(302頁)と書いているが、それは当然だろう。商務印書館自身が、金港堂と合弁していたことを公表したくなかったからだ。隠しておきたかった。それが、合弁当初からの一貫した商務印書館の姿勢だった。
 いくら商務印書館が生き残るためとはいえ、社会に公表できない合弁を行なったという事実が、のちのち商務印書館の関係者を心理的に苦しめた。だからこそ、心理的な埋め合わせのために、ありもしない「自分の方に主導権があった」合弁だと商務印書館の内部に向けて説明し始めるのだ。現代にいたるまで、商務印書館関係者は、そう発言する。303頁で「以我為主」という方針を堅持した、と著者が書くのは、その主張を受け継ぎ、くりかえしているにすぎない。

 著者の執筆姿勢の根底には、楽観的ともいうべき考え方があるように思える。言ってみれば、こわれる茶碗がこの世にあることを知らないかのようなのだ。つまり、崩壊する企業が、その昔、中国にはあったことが著者には理解できていない。商務印書館は、まさにその崩壊するかもしれない企業のなかのひとつだった。
 商務印書館は、印刷工場から苦難の道を歩み出した。幾度か崩壊のキワに立たされた経験を持つ。経営が自転車操業であったのに不良翻訳原稿をつかまされる、修文書館の機器を購入するための借金ができる、その経済的苦境を張元済と印錫璋の投資によって切り抜けた。1902年の火災にあうという危機がある。清朝末期には中国図書公司からの攻撃を受け、ゴム投機に失敗した夏瑞芳をかかえ(301頁で触れる)、民国はじめには中華書局からの批判にさらされる。いくつもの重大局面を体験した。それらのひとつでも処理を間違えば、破産してもおかしくない情況だった。いくつもの苦難を必死の思いでくぐりぬける工夫をしたからこそ、結果として体力強靱な商務印書館に成長したのだ。
 ところが、著者の文章を読むと、商務印書館はスルスルと、何の葛藤もなく、いとも簡単に発展していったような印象を受ける。たしかに中華書局との摩擦には言及する(343頁)。ただ、記述があっさりしているから、創業者である夏瑞芳たちの、苦悩も、迷いも、こげつくような焦りも伝わってこない。
 著者が述べるように、経済的困難が基本的になかったとすれば、張元済と印錫璋の投資も必要ない。経営母体が安定していたのなら、なにも日本資本の金港堂と合弁することもない。規模は小さいなりに存続していた可能性のほうが高い。だが、その場合、100年をこえる歴史をもつ出版社となっていたかどうかは、保証の限りではなくなる。唯一、商務印書館のみが、100年の年月をたえぬいて存続しているのは、夏瑞芳時代に直面した数多くの危機にうまく対処したから――特に金港堂との合弁があったからだと考える方が合理的だ。
 初期商務印書館を描写して、波瀾のほとんどない発展を提示した著者の記述には、どうしても違和感をおぼえる。とくに「自分の方に主導権があった」合弁というありもしないことを、あたかも事実のごとく説明するのには、あきれてしまう。
 商務印書館の創業から金港堂との合弁時代――初期商務印書館についての資料は、十分に保存されているというわけではないらしい。それでも汪家熔の手によっていくつかの重要資料が発掘公表されている。それらを目に通したはずの著者が、なぜ、上に述べたような誤解、理解不足を露呈するのか。
 ひとつには、初期商務印書館時代における情況の複雑さがある。事実と異なることを商務印書館の当事者たちが証言している場合があるのだ。だからこそ、資料の吟味が必要となる。
 著者が資料のワナにはまったのは、多数の先行論文を参照したにもかかわらず、ではない。多くの文献を読みすぎたから、事実として存在しない中国側に主権があったという言説を信じてしまったのだ。もともと、事実を隠そうとする当事者の証言しか存在していない、と考えるべきなのだ。いくら多くの資料に目を通したところで、無批判に取り入れるだけでは事実は見えてこない。先行論文にそう書いてあるではないかという反論は成り立たないのだ。
 著者が広く資料を収集したといっても、それはどうやら基本的に漢語文献だけだ。
 商務印書館が金港堂との合弁を隠蔽したがった理由をさぐっている日本の研究論文を読めば、苦渋の選択を迫られる夏瑞芳の姿がありありと出現することがわかったはずなのだ。だが、残念なことに、日本語文献は、著者呉相の手元には届かなかった。最初から眼中になかったのだろう。
 断わっておかなくてはならないのは、商務印書館と金港堂の合弁時期について、本書の説明が不十分であるにしても、全体もそうだということではない。くりかえすが、合弁時期については、普通に資料を読んでいては事実が把握しにくい複雑な事情がある。特に日本の金港堂だから、日本の資料によって検証しなければ真相を解明することは不可能だといってもいい。日本語文献を無視して研究ができていた時代は、すでに20年前に終わっている。本書のような専門書を書くほどの学識をそなえた著者呉相でも、この事実に気づいていないのは残念というよりほかない。
 最後に、要望をふたつあげる。
 書名の『印刷工場から出版の重鎮へ』は、わかりにくいのではないか。書名だけを見て、これが商務印書館についての著作であると理解できるのは、出版についてある程度の知識をもった人であろう。副題で「商務印書館」をうたうなどの工夫があってもよかったように思う。あるいは、書名を見て理解しない人は相手にしない、という意思表示かもしれない。それならそれでもかまわない。
 人名、書名索引、参考文献一覧などがあれば、もっと利用価値が高まったはずだ。価値ある専門書だけに、すこし残念に思う。