◆20011206最近の商務印書館研究に見る日中合弁の事実
樽本照雄
『大阪経済大学教養部紀要』第19号(2001.12.31)に掲載。
●1 はじめに
本稿の目的は、中国における最近の商務印書館研究を紹介し評価するところにある*1。
とくに、日本・金港堂との合弁時期について、研究がどの程度進んでいるかに焦点を当てたい。
その理由は、過去において、日中合弁時期の研究が、中国においては大きな弱点になっていたからだ。弱点とは、問題が存在していること自体に気づいていない、すでに明らかになっている事実について知らない、その事実とは矛盾した考え方を提示するなどなどを指す。つまり、研究が深まっていなかったことがある。
さて、現在は、どうか。
●2 研究の弱点
研究の弱点となった理由は、いくつかある。
まず、商務印書館と金港堂が合弁会社であったという事実そのものが知りにくいことがあった。なぜなら、商務印書館は、合弁の事実を隠そうとしていたからだ。事実が意図的に隠されてしまうと、あたかも合弁そのものが存在しなかったかのように思われる可能性がでてくる。事実、創業百年を記念して書かれた文章の多くが、商務印書館と金港堂の合弁について触れていない。まるで、合弁時期などなかったようなのだ。
商務印書館にとって都合が悪いことに、合弁相手が、よりにもよって日本の企業であったことだ。
清朝末期においては、異民族支配を批判する立場からは、当然のように異民族の会社と合弁している商務印書館が攻撃の標的とされた。
中華民国初期においては、異民族からの独立に成功したという政治的風潮に関連して、日本企業との合弁が槍玉にあげられる。特に教科書については、その批判が集中した。異民族との合弁会社が編集する教科書を、新しい中国の児童に使わせてもいいのか、といわれれば、当たり前のように躊躇する人が出てくる。攻撃する側は、そこがねらい目であった。
日本と中国の交流には、歴史的背景があり、政治的にいっても必ずしも順調な関係ばかりというわけにはいかなかった時期がある。日中の政治関係が、そのまま商務印書館攻撃に利用されることもあったということだ。
日本・金港堂との合弁を解消した後も、日中戦争を経て中華人民共和国成立後の自力更生が強調される時代には、外国企業との合弁を行なった事実そのものが、商務印書館にとっては隠蔽すべき事になった。
「文化大革命」時期は、商務印書館の日中合弁時期は、研究の「禁区」だったといってもいい。わざわざ研究の主題に選ぶ研究者がいるとすれば、その人の政治傾向が問題にされかねない。誰が、危険をおかしてまであえて触れようとするだろうか。
改革開放政策が実施されてからは、事情が異なってくる。外国からの投資を呼び込むことは、正しい行為だとみなされる。外国企業との合弁事業は、批判の対象から賞賛の対象にと大変化を生じるのである。
商務印書館研究もそれにしたがって、変化する。日中合弁時期の研究は、大いに奨励されても不思議ではない。奨励されないまでも、少なくとも「禁区」ではなくなった。
研究というならば、隠された資料をいかに発掘するかが課題となろう。新しい、あるいは埋もれた資料を探しだすことは、当然やらなければならない作業だ。その作業は、口でいうよりも実際には困難がつきまとう。中国には中国なりの事情があり、一様ではない。
そればかりではない。外国語の壁がある。
日本企業との合弁問題だ。常識的に考えて、文献は中国だけにしか存在していない、というわけではない。だが、日本語文献にまで目を配るのは、中国において、それほど簡単なことではないと想像できる。この困難をいかに切り抜けるかも研究者の腕の見せ所だ。
研究者の力量をはかるためには、この日中合弁問題は、まことに好都合な題材なのである。
論文評価の基準は、単純だ。資料を発掘して、新しい見解を提出しているかどうか。これに尽きる。
●3 評価の基準
日中合弁期の商務印書館をあつかう論文については、以下の鍵語あるいは項目に言及しているかどうかがキメテとなる。鍵語はあっても、その解釈が異なる場合もあろう。ただし、鍵語がなくて、正しい解釈に到達している例を知らない。ひとつの目安になることは確かだ。それを称して「初期商務のリトマス試験紙」という。
初期商務のリトマス試験紙
a.金港堂 1.合弁の事実に言及しているか
2.金港堂の名前を出しているか
b.教科書事件 3.この事実を明らかにしているか
c.原亮三郎 4.名前を出しているか
5.金港堂主としているか
d.山本条太郎 6.名前を出しているか
7.合弁の仲介者としているか
8.原と姻戚関係にあることをいっているか
e.長尾槙太郎(雨山) 9.名前を出しているか
f.加藤駒二 10.名前を出しているか
g.小谷重 11.名前を出しているか
h.印錫璋 12.名前を出しているか
13.修文書館買収の仲介者としているか
14.山本と親しく合弁の仲介者としているか
i.修文書館 15.名前を出しているか(修文印刷局、修文印書館、修文印書局などを含む)
j.火災 16.失火したことを書いているか
k.中国図書公司17.名前を出しているか
l.ゴム投機 18.名前を出しているか
19.夏瑞芳が投機に失敗したとしているか
m.福間甲松 20.名前を出しているか*2
金港堂との合弁をいわない文章は、それだけで論外である。教科書事件は、金港堂が商務印書館と合弁事業をおこす過程で発生した疑獄事件だ。ひとつの論議の的にするが、教科書事件で蹉跌した金港堂が、中国に活路を探して商務印書館と合弁したという通説がある(後述)。金港堂の名前はあっても社主の原亮三郎の名前が出てこない場合があるので要注意だ。山本条太郎は、原亮三郎の娘婿である。三井物産上海支店長時代に、金港堂と商務印書館の合弁を仲介した人物だ。長尾雨山は、東京高等師範学校教授の席を捨てて上海の商務印書館に勤務した。教科書編集などを行なっている。教科書疑獄事件に関係しているから、合弁問題にもはずせない。加藤駒二、小谷重ともに金港堂の社員であり、合弁にともない上海に一時期滞在した。印錫璋は、張元済とともに商務印書館の第1回増資に応じた人物だ。紡織に関係して山本条太郎と懇意であった。印錫璋も商務印書館と金港堂を結びつけた人だ。修文書館は、築地活版所出張所が上海に設置した印刷会社で知られている。商売をたたむというので、商務印書館は、活字など印刷機器を一括購入した。その購入資金の出処も問題のひとつだ。1902年の失火により工場兼編集の家屋を失った。経営的にも大打撃である。ところが、その直後にレンガ建ての巨大な印刷所を建設している。これも問題になる。中国図書公司は、商務印書館をライバルとして設立された出版社だ。商務印書館に日本資本が入っていることを攻撃した。商務印書館にとっては、清末期に遭遇した危機のひとつといえる。商務印書館からとびだした陸費逵が設立し、民国期のライバルである中華書局をリトマス試験紙の1項目にあげなかったのは、あまりにも有名であるからだ。普通には出てこない鍵語であるからこそ鍵語の意味がある。ゴム投機は、夏瑞芳が商務印書館の資金を投入し失った事件だ。自分の財布と会社の会計の区別がつかない、という旧式の会計感覚が、露呈した。福間甲松は、合弁解消の交渉のために金港堂側から送られてきた人物だ。この人の名前を出す文章は、相当に資料を調べているということができる。
以上、13項目、細目20個である。言及があれば1点とする。合計を100%に換算し、それぞれの論文の文頭に[鍵語言及率:00%]と表示する。
●4 近代日中出版社交流の謎
具体的な論文紹介にはいる前に、合弁問題の謎について簡単に触れておきたい。(各論の評価が知りたいという人は、5にとんで下さい)
商務印書館と金港堂の合弁問題は、「近代日中出版社交流の謎」といってもいい。
なぜ「謎」かといえば、まず第一に、明治30年代後半から大正にかけて、日本の出版社と中国の出版社が共同出資して上海において合弁会社になっていたという事実そのものが、それほど知られていない。中国においても、また、日本においても同様だ。
なぜ合弁の事実が知られていないかというと、前述のように中国・商務印書館は、日本・金港堂との合弁を秘密にしたかったからだ。中国側の隠蔽工作があった。「隠蔽工作」という言葉そのものが強すぎるというのであれば、なぜ秘密にしたかといいなおす。
中国側の当事者が、日本の出版社との合弁の事実を秘密にしたいという強い意図を持っていたこと、これを称して「謎」という。そうせざるを得ない時代背景があった。さらに、「謎」が形成された理由としては、日本側の出版社が、現在は存在しておらず、合弁の事実を知ろうとしてもその手掛かりがなくなっていることをあげることができる。
今から数えれば、ほとんど百年前のことだ。事実を知る直接の関係者は、いずれも他界している。現在では、文献のみの探索になるから、文献そのものに事実の記載がなければ、これまた日中出版社の合弁の事実も忘れられることになるだろう。
◎4-1 中国・商務印書館――創立百周年
商務印書館は、中国大陸でも有数の大規模総合出版社であると同時に、長い歴史をもつ「老舗」でもある。
解放以前の中国における商務印書館を表現して、組織規模の大きさが業界第1位、規則制度の完備している点が業界第1位、資金の豊富さが業界第1位、従業員数の多さが業界第1位、人材の育成が業界第1位、出版物の多様さが業界第1位、営業額の大きさが業界第1位、支店の多さが業界第1位、印刷技術の革新が業界第1位、労使紛争の激烈さが業界第1位、と言っている*3。まさに業界の「兄貴(原文:老大哥)」であるとその文章は、称賛する。(最近の中国語教科書は、現代中国の実情を反映しているものが少なくない。中国の都会で流行しているポケベル(BP機)とか携帯電話も出てくる。この携帯電話のことを中国語では「大哥大」という。俗語で「ボス」のことだが、なぜ「ボス」が携帯電話の意味になるかというと、都会で携帯電話を使い始めたのがヤクザのボスだったからだ、と 説明する中国人の先生がいる。そうすると商務印書館のことを「老大哥」というのも、この「ボス」にやや近い意味でその著者は使用しているのかもしれない)
さて、1997年は、香港が中国に返還されるというので日本でも大きく報道された。
この1997年は、商務印書館創立百周年に当たる。
記録によると、同年4月に中国美術館で「商務印書館百年書画展」が開かれている。5月8日には、北京人民大会堂で「商務印書館曁中国現代出版一百周年座談会」が開催され、学術界、文化界、新聞出版界から専門家、学者が400名あまり参加し、朱鎔基副総理(当時)が、中南海で代表団に接見したと報道された*4。
同じ日には、中山公園音楽堂で記念音楽会がもたれてもいるし、さらにまた、商務印書館発祥の地である上海では5月16日に記念会が開催されたというように、商務印書館創立百周年が盛大に祝われたということができるだろう。
◎4-2 商務印書館の創業を想像するてがかり
ひとくちに創立百周年といっても、とらえどころがないかもしれない。日本において、創業後百年以上の歴史を持つ出版社の名前を参考までにあげておこう。
○日本の出版社
日本には、創業百年を超える出版社は、少なくない。
明治創業の文芸出版社にしぼって例をあげると、春陽堂が、1878年2月4日(明治11)創業で、文芸雑誌『新小説』(1889)の発行で有名だ。三省堂は、1881年4月8日(明治14)創業、中央公論社は、読売新聞社の子会社となったが、1886年4月6日(明治19)創業だ。博文館が、1887年6月(明治20)創業で、総合雑誌の『太陽』、文芸雑誌の『文芸倶楽部』(1895)を発行しているし、弘文堂は、1893年(明治26)の創業となる。商務印書館とほとんど同時期に創業したのが、現在の新潮社であり、1896年5月10日(明治29)の創業で、もとは、新声社といった。文芸雑誌の『新潮』(1904)は、現在にいたるまで発行が継続されているのは周知のことだ。
商務印書館の合弁相手である金港堂についてもすこしだけ触れておく。
金港堂は、1875年(明治8)に創業した。商務印書館よりも22年も早いスタートだ。当時、文学社、普及舎、集英堂とともに明治の四大教科書出版社と称されていた。また、文芸雑誌の『都の花』(1888)、『文芸界』(1902)の発行でも著名な存在だったということだけを言っておく。
もうひとつ参考までに新聞社について触れておけば、現在の毎日新聞社が1872年(明治5。最初は、東京日日新聞。大阪の日本立憲政党新聞1882年(明治15)が88年に大阪毎日新聞と改題、1911年に合併、1943年に毎日新聞と題号を統一)、読売新聞社1874年(明治7)、朝日新聞社1879年(明治12)の創業だ*5。
○中国の出版社
信じられないかもしれないが、中国大陸において創業百周年を迎えた出版社は、商務印書館を除いてほかには存在しない。
商務印書館以前に創業していた出版社はたくさんある。上海にかぎって見ても、掃葉山房(蘇州で三四百年の歴史を有する。1880年に上海に進出)など「山房」を名前にもつもの、外国の宣教師が租界に設立した出版社(「書館」「書院」「書室」「書会」などと称する)とか、そのうちの美華書館は、1860年に寧波から上海に移転したものだ*6。それらのいずれもが現在は存在していない。
1912年に成立した中華書局は、1997年時点で創業85年だから、これも老舗のひとつであることは違いない。しかし、商務印書館に遅れること15年という時間差は、なくなることはない。
当時の、大量印刷、大量出版の近代的印刷技術の中心は、上海にあった。近代的印刷技術が存在した上海だからこそ、近代的出版業も成立することができたということができる。文芸関係でいえば、大陸で最初の活版印刷による大量発行の小説専門雑誌が発行されたのが、上海なのだ。
◎4-3 梁啓超と日本
上海で最初、といえば中国大陸で最初という意味だが、大量発行の小説専門誌の発行には、日本という存在を抜きにしては考えられない。
1898年、日本・横浜に亡命した梁啓超が、政治家の立場で啓蒙と士気高揚を主旨とした総合雑誌『清議報』(1898年(明治31))を同地において創刊する。100期を発行して停刊、ひきつづき1902年(明治35)に創刊したのが『新民叢報』だ。
これらの雑誌は、横浜において中国語を用いて印刷されたが、その読者は、あきらかに中国大陸の中国人だった。横浜から海を渡って中国大陸に大量に運搬される。
小説は、人々に強い影響を与える力をもっている。これに注目したのが梁啓超だった。小説効用論である「小説と社会の関係を論じる(原文:論小説与群治之関係)」を掲げて、1902年(明治35)に中国語による小説専門雑誌『新小説』を横浜で創刊した。もともと、当時の日本に同名の『新小説』という文芸雑誌が存在していた。さきほど触れた春陽堂が発行していた文芸雑誌が『新小説』(1889)だ。梁啓超は、日本の文芸雑誌を見本にしたことがあきらかだろう。梁啓超の編集した『新小説』が中国大陸に輸入されて当時の文芸界、言論界にきわめて大きな衝撃を与える。
大きな衝撃とは、それまで読む価値のないものとして軽べつされていた小説を、社会改革の有力な道具として重要視するというのが梁啓超の主張だったからだ。
中国近代文学は、梁啓超の創刊した小説専門雑誌『新小説』を抜きにしては成立しなかったということができる。その意味で、中国近代文学の発祥の地は、日本・横浜である、ということも可能だ。
1902年(明治35)という時期は、文芸の側面からいっても、日本と中国にとって、まことに緊密な関係にあったことが理解できる。
梁啓超の『新小説』に影響を受けて上海で次々と小説専門雑誌が創刊される。
その最初が、誌名を『繍像小説』という「挿絵(繍像)」を各小説の冒頭に掲げることを売り物にした雑誌である。これこそ商務印書館が発行した雑誌なのだ。
ついでにつけ加えると、中国において出版業と印刷業は、分離していない。書店によって比率は異なるが、出版と印刷のふたつを兼ねて同時進行で行なっている場合が多い。ここでいう出版社は、書店であると同時に印刷会社でもある。
解放(1949年)以前には、「五大書店(原文:五家大書店)」と称せられた出版社があった。規模の大きい順にいうと商務印書館(1897)、中華書局(1912)、世界書局(1921)、大東書局(1916)、開明書店(1926)となる*7。
現在、台湾、香港、シンガポール、マレーシアに存在する商務印書館は、もともとが分館だった。
以上のようなところで商務印書館の中国大陸におけるだいたいの位置が理解できよう。
◎4-4 商務印書館と金港堂の合弁
それほど巨大な存在である商務印書館が、一時期、日本の出版社と合弁会社となっていた。巨大組織であるがゆえに、まさか、と信用しない人がいても不思議ではない。合弁会社であったという歴史的事実を、無視したくなる人もいるだろう。現在、巨大組織であることから、創業当時もそうであったのではないか、独立した存在で、今日まで事業を継続してきたのではないか、という想像にむすびつくのも無理もない。しかし、商務印書館は、最初から巨大組織であったわけではなかった。
中国・商務印書館と日本・金港堂の合弁は、正確にいうと、1903年11月19日(光緒二十九年十月初一日、明治36年)から1914年1月6日までの足掛け12年、実質約10年間のことだった。創業百年の歴史からすれば、わずかに1割の期間を占めるにすぎない。商務印書館が将来にわたって存続すればするほど、日本・金港堂との合弁期間の割りあいは減少していくだろう。しかし、創業期に行なった、いや、行なわざるをえなかった外国企業との合弁という事実を抹殺することはできない。なぜなら、この10年間の合弁こそ、商務印書館がのちの巨大組織となる基盤を作り上げる重要な意味をもっていたからだ。
商務印書館創業百周年を記念する文章では、そこらあたり、つまり日中合弁時期のことをどのように述べているのか見てみよう。
◎4-5 日中合弁事実の無視――商務印書館創業百周年関係文書より
『中国出版年鑑』1998年度版は、特に商務印書館の創立百周年を記念して4本の文章を収録している*8。
「李鉄映同志的賀信」のなかには、つぎのような語句がある。すなわち、「中国近代出版の生誕百年を祝う時、中国出版の創業の苦しみおよび困難に出会ってもくじけない歴史の経験を真摯に総括し、中国の出版が祖国に忠実であり、人民を心から愛し、科学を提唱して真理を探求するという尊い精神を継承し発揚しなければならず、さらに中国の特色をもつ社会主義を建設するという偉大な歴史的進軍の中において巨大な精神と物質の力に転化させなければならない」(96頁)というものだ。
お祝いの手紙という性質からいえば、「創業の苦しみ」といってもこれは一般的な表現であり、とどのつまりは紋切り型の文面にならざるをえないことは理解できる。
于友先「奉献的百年 光栄的百年――在商務印書館建館曁中国現代出版一百周年座談会上的講話」は、中国の近代出版の歴史を概括している。解放以前の商務印書館を紹介して、「商務印書館を代表とする中国近代出版の誕生以後、見るべき発展があった。1930年代のはじめ、商務印書館にはすでに4500名の従業員がいたし、資本総額は500万元あまりとなり、年間営業額は1200万元で、国の内外に36の分館、支店があり、年間に出版する図書は800種を超え、図書の営業額は、全国の30%を占めていた。これらは、強い生命力を表現している。……」(97頁)と述べる。
近代中国を代表させている商務印書館だが、その日中合弁については一言の言及もない。
陳原「商務印書館創業百年随想(関於張元済,他的理想和他的探索的若干思考)」は、商務印書館の百年を回顧して比較的詳しい。「創業はまことに容易ではない。資金は不足し、人材は不足し、技術は遅れており、政治の変動からの衝撃がある。人事が紛糾すれば、随時、臨機応変に除去しなければならない」(99頁)
創業当時の困難な局面をいくつか掲げるが、実際にどういう情況にあったのかは、具体的には述べてはいない。人事には実名をあげて説明をしている。「最大の困難は、指導層内部に妥協できない矛盾が発生したことだ。張元済が夏瑞芳と一緒に仕事をした12年間は、協力がうまくいった。不幸なことに夏瑞芳が殺害されて(1914)、全体を引き続いて掌握した人物が、全員が愛国の企業家であったとはいえ、張元済の思想をそれほど理解していたとはいえず、彼らは新しい事物、新しい思考に対して敏感さを欠いており、したがって適応力を欠いていたのである」(100頁)
張元済とは、商務印書館の編集業務を担当した重要人物だ。夏瑞芳は、商務印書館の創業者のひとりで主として営業を担当した。この二人が「一緒に仕事をした12年間」とは、ほかならぬ商務印書館と金港堂の合弁時期だった。
金港堂からは、日本人が派遣されており、教科書を編纂する作業を張元済と共同で行なっている。上に示した「初期商務のリトマス試験紙」のなかの長尾雨山、加藤駒二、小谷重らである。しかし、陳原は、日本との関係を会社レベルでも、人間レベルでも、まったく無視する。
最後の、楊徳炎「継往開来 再創輝煌」は、興味深い書き方をしている。
百年前、商務印書館が誕生したころの中国社会が、まさに重大な災難の中にあり、出版業界も同様に危急の情況であったことをまず述べる。続けて「我が国の伝統的印刷およびそれに適応した出版方式は、西洋から流入した、活版による機械印刷を特徴とする先進的出版方式の衝撃に直面した。……外国の先進技術を利用して自己の出版企業を創立するということが、この業界が発憤して向上をはかる唯一の出口だった。商務印書館はちょうどこの様な背景のもとに成立した」と書いているのだ。
日本の出版社から先進的技術を導入したのは、ほかならぬ商務印書館自身だった。商務印書館に特有の歴史を一般化してしまっている。あたかも時代背景のように描くのは、不可解というよりしかたがない。
楊徳炎という人は、商務印書館と金港堂の合弁を知っていて、あえて知らない風を装っているとしか考えられない。
また、「商務(印書館)の成立は、中国人が西洋文明の衝撃のもとで、半世紀あまりにのぼる新旧出版方式の転換という陣痛を経たのちに、ついに中国人自身に適合する近代出版企業を創造したことを明らかにしている」(100頁)とまでいう。
商務印書館は、あくまでも自主独立でもって先進技術を獲得して行った、外国の援助などとんでもない、あると想像することすらしない、とでもいわんばかりの書き方のように私には見える。変に肩ひじ張った物言いが、その裏になにかを隠しているのではなかろうか、と推測したくなる気持ちにさせるといってもいい。
私は、商務印書館が独力で外国の先進技術を導入する努力をしながら、日本・金港堂との合弁を経験して、はじめてそれに成功したこと、当時の商務印書館の首脳部は、その事実を感謝の念をもってはっきり認識していたこと、日中合弁の実質10年間は、商務印書館にとっても金港堂にとっても経済的に大いに利潤をあげて、双方に満足をあたえた期間であったことなどを知っている。だからこそ、その合弁の事実を隠そうとする現在の文章を目にすると、違和感をもつのだ。
もっとも祝賀を目的とした短文では、日中合弁の事実に触れる余裕がなかったと好意的に見ることもできる。逆に言えば、改革開放政策の現在ならば、短文であろうとも日中合弁の成功した例として商務印書館と金港堂に言及してもいい。それぞれの文章を見ていけば、おのずと結論は得られるものと考える。
いくつかの類に分ける。商務印書館自身の出版物、張元済関係、一般、または上海通史および専門書だ。遺漏があるかもしれない。ご教示をおねがいしたい。
商務印書館の創業を記念して出版された書籍から見ていこう。
●5 商務印書館の年表
ここでは、「大事記」を中心にあつかう。
「大事記」とは、日本でいう年表を意味する。商務印書館の歴史事項の骨子だけを抜き出したものだから簡潔といえばそうだ。普通は、記念冊子の一部分を構成するが、歴史が長くなれば単行本にもなる。金港堂との合弁をどのように記述しているのか、私の知る限りさかのぼって一覧してみる。「大事記」がどのように作成されたのか、今まで言及しているものを見ないためでもある。
その前に、重要文献をひとつだけ紹介しておきたい。
○[鍵語言及率:40%]高翰卿「本館創業史――在発行所学生訓練班的演講」(1934.3.30)『(1897-1987)商務印書館九十年――我和商務印書館』1-13頁
1930年代の文章でありながら、1990年代になってはじめて一般の目に触れたのが、この高翰卿の講演記録である。雑誌『同舟』『同行月刊』に抄録が掲載されたという。しかし、中国の研究者にもほとんど引用されることがなかった。一般に見ることのできない雑誌らしい。創業者のひとりの発言だから、重視される価値がある。なぜもっと以前に、簡単に目にできる形で公表されなかったのか、理由がわからない。
創業者のひとりだから、当時の情況を詳しく話している。1902年の失火についても触れているのはさすがだ。合弁相手の金港堂の娘が上海三井洋行の山本(条太郎)の妻であるとか、山本と夏瑞芳、印錫璋らが非常に親しかったとか、当事者だからこそ知っている事実を公開している。これが重要だ。私が商務印書館と金港堂の合弁を調べていたころには、この事実に到達するのに多くの時間を費やしなければならなかった。高翰卿の文章が、もう少しはやく公開されていたら、あれほど苦労はしなかったのにと今でも思う。
特に火災に関係する証言は、注目される。当事者の証言は、それほど多くないからなおさらだ。
「北京路に移転してほぼ五年がたった光緒二十八年七月、火災にあい、すべての機器工具が焼けてしまった。新しく注文していた機器はすでにとどいていたが、幸いなことに事前に火災保険をかけていたので保険金を受け取った。ただちに福建路海寧路に土地を購入し印刷工場を建設する」(7頁)
この文章は、誤解を招きやすい。火災保険による保険金を受け取ったから印刷工場を建設することができた、と読める。だが、事実は、火災にあってから二ヵ月以内に、赤レンガ3階建ての巨大建築物が完成しているのだ。新築である。土地の選択、購入、建物の設計施行完成が二ヵ月以内でできると考えろ、というほうが無理だろう。筋道のたった理解は、印刷所建設と編訳所、発行所の3ヵ所に分離するのは、既定の方針であったと考えるしかない。火災発生より以前に印刷所建設に着工していた。だから、火災の発生は予期せぬ出来事だった。そのため、移転の時期が早まったのである。ここを誤解する研究論文が多いので注意を要する。
ほかの文献に比較すれば、鍵語言及率は、少しはよいということができる。しかし、別の見方をすれば、創業者のひとりでありながら、金港堂との合弁とその解消について、すべてを知っているとは限らないことがわかる。あるいは、知っていても話していないのかもしれない。また、再録した文章が、はたして初出と同文である保証もない。
私が、間違いだといままで繰り返し批判してきている通説のひとつは、この高翰卿の文章にはじまる。つまり、商務印書館と金港堂の合弁にさいして「結んだ条件は、すべてにおいて二者が平等であったわけではない」というのだ。「ひとつは、社長と理事はすべて中国人であって、日本人は一人だけが監察人であること。ふたつは、雇用された日本人は随時解職することができる」というもの。この発言をとらえて、中国の研究者のなかには、商務印書館に主権があった(以下、商務印書館主権説という)、という人がいる。
高翰卿の発言は、全部がそのまま正しいというわけにはいかない。
事実を見れば、社長は中国人である。これは、よい。だが、1903年の合弁最初から1908年までは、理事には日中半々の人が就任している。随時解雇といいながら、その例を示していないから、その事実はなさそうだ。
つまり、高翰卿は、ありもしない合弁時の条件を、ことさらにあったと主張しているのである。日中戦争当時の、しかも商務印書館内部における発言である点を考慮する必要があることは明白だ。つまり、内部の若者に向って、長老が虚勢をはったのだと理解できる。
高翰卿の講演記録が掲載された『同舟』は、内部発行の雑誌かと思う。中国の図書館の蔵書目録を見ても、端本が記録されているだけだ。一般の目には触れなかったものだろう。だからこそ95周年記念文集に再録された。
○[鍵語言及率:30%]「本館四十年大事記(1936)」『同舟』第4巻第12期初出未見。『(1897-1992)商務印書館九十五年――我和商務印書館』北京・商務印書館1992.1。679、682-683頁
1903年の項目「日本金港堂主原亮三郎が、上海に来て印刷会社を開設しようとしたので、本館は、当時の情勢の必要から、合資することに決定した」
1914年の項目「外国株を完全に回収する」とあり、日本株回収についてかなり詳しく説明している。
この年表も、『同舟』に掲載された。鍵語言及率は、高翰卿の文章[40%]とおなじくらいに低くはない。どうやら商務印書館は、解放まえにおいて、内部に向っては、わりと正直に事実を伝えようとしているらしく見える。
ところが、解放後になると情況が一変する。合弁に言及する部分が極端に少なくなるのだ。
○[鍵語言及率:15%]「商務印書館大事紀要」『商務五十年』1950.9初出未見。張静廬輯註『中国出版史料補編』北京・中華書局1957.5。557、559頁
1903年の項目では、日中合弁には触れない。1914年の項目で、「日本株を回収する(1903年日本金港堂が上海にやってきて印刷会社の開設準備をした。本館は日商の資本と技術を暫時利用し、本年になって全部の日本株を回収した)」と書いている。転載にあたって削除した部分があるというから、日中合弁部分がそれにあたるのかもしれない。
そこで、次の文章を見る。
○[鍵語言及率:10%]「商務五十年(未定稿、1950)――一個出版家的生長及其発展」『商務五十年』1950.9初出未見。『(1897-1992)商務印書館九十五年――我和商務印書館』765頁
「日本資本利用の段階(1903-1914年)」と題し、1903年に金港堂を「吸収」し、1914年、日本株を全部回収したと述べる。「吸収」も大目に見て合弁にふくめておく。
上の「商務印書館大事紀要」よりも記述は簡単になっている。
○[鍵語言及率:15%]「商務印書館歴年大事紀要(1897-1962)」1962?初出未見。『(1897-1992)商務印書館九十五年――我和商務印書館』710、711頁
1962年の発行だとすると65周年にあたる。当時、はたして公表されたのかどうか不明だ。「文化大革命」が発動される直前の文章になる。これ以降、「文革」期間において、創業を記念する出版物はなかった。「文革」後の1980年代になって90周年をむかえるまで待たなくてはならない。
1903年の項目では、抗弁とはいわない。ここでも「吸収日本金港堂股本」と表現する。1914年の項目では、「日本株を全部回収する(収回全部日股)」とだけある。
○[鍵語言及率:5%]「商務印書館大事記」『(1897-1987)商務印書館九十年――我和商務印書館』北京・商務印書館1987.1。629-639頁。
わざわざ翻訳することもない。漢語原文のままに示す。
1903「成立商務印書館有限公司,吸収日資,改進印刷」
1914年の項には、金港堂は出てこない。「設分館於香港。/胡愈之(学愚)進館。/創刊《学生雑誌》」とあるのみ。
年表の記述が簡単なのは、年表という性格によるものかもしれない。もうひとつ、既刊の年表を写しているだけ、というのも原因だろう。
○[鍵語言及率:25%]『商務印書館大事記』北京・商務印書館1987.1
上の『(1897-1987)商務印書館九十年――我和商務印書館』とは別に、年表部分を独立させて発行されている。見開き2ページを1年分に当て、その年に起こった事が記入してある。関連文献も適宜引用される。考えるに、創業百周年をにらんだ準備稿の意味を持っているのだろう。信頼できる資料によって作成したが、「文革」によって失われた資料がたくさんある、とも説明される。「人名索引」があって便利だが、外国人名を省いているので不親切だ。
資料に拠っているといいながら、金港堂の金の字もでてこない。それほど商務印書館には資料がないのだろうか。
1903「十月,正式成立商務印書館有限公司,吸収日資,改進印刷」
日本人といえば、加藤駒二と長尾槙太郎の名前が、1909年の理事会に列席したとあるのみ。
1914「董事会収回日本股〓人+分}」
以上にすぎない。
○[鍵語言及率:20%]『商務印書館百年大事記(1897-1997)』北京・商務印書館1997.4
その「幾点説明」に、九十周年を記念した前著『商務印書館大事記』にもとづき、その後の10年間の活動を追加したものだと書かれている。
写真が20ページ掲げられる。創業者たちから創業当時の印刷物、英語教科書、英漢辞書、国文教科書などなどだ。
1897-1914年の本文は、九十周年の前著と比較すると、わずかな加筆しか行なわれていない。
1904年に「涵芬楼創〓ban」、1912年に「鄭孝胥任董事長」、1913年に「四月推曾任南京臨時政府司法部総長的伍秩庸(廷芳)為董事会主席(董事長)」が加わった。1914年に蒋維喬の「夏君瑞芳事略」から引用が増えているくらいだ。
以上、年表といういわば公式な記録においては、商務印書館は、金港堂との合弁を公表したくなかった姿勢があからさまである。
個々の論文になると、それとは違う傾向が見られる。
『商務印書館一百年(1897-1997)』(北京・商務印書館1998.5)が出版されている。
本文742頁の巨冊だ。創業百周年を祝うにふさわしい刊行物である。132篇の文章を収録したと「前言」にある。第1、2部の中央指導者からの祝電、記念会議での講演文章の7篇を加えれば、全部で139篇だ。『中華読書報』において連載欄「商務印書館百年」を設け、文章を1996年から1年にわたって掲載したという。商務印書館関係者の回憶などで、これが第3部に収録される。短文が多い。第4部から第6部までは、各種媒体に発表された関連文章を収める。
以前の記念文集が、既発表の論文、資料を再録したのとは異なる。この百周年記念文集は、記念文集を出版するために意図的に文章を書かせたということだ。
初期商務印書館について述べる文章のなかには、多くはないが、合弁に言及したものがある。
○[鍵語言及率:10%]欧宏「滄海横流 方顕英雄本色――従三位先賢看商務百年」『商務印書館一百年(1897-1997)』325-337頁
夏瑞芳、張元済、王雲五について述べる。
夏瑞芳の部分で合弁が出る。ただし、金港堂の名前はない。
「1903年、日本商人が、出版印刷業を営もうと巨額の資本を携えて上海にやってきた。夏瑞芳は、彼らがやってくることは商務の脅威となることを恐れ、また彼らの資金を利用して経営規模を拡大し、彼らの技術を借用して商務の印刷の質を高めようとも考えた」(327頁)
この書き方は、中国の一般の文章に見られるものと同じだ。脅威となりそうだったこと、また、外資を利用することを夏瑞芳は考えたというのだ。脅威になりそうだというならば、商務印書館は、当時、巨額な資本を持つ金港堂と同等の規模であったような印象を受ける。そうではない。ほとんど潰れそうな経営状態だった。夏瑞芳は、印錫璋を間にはさんで懇意の山本条太郎に援助を要請したのが真相だろう。だが、外資を利用する意図があったのは、その通りだ。なんとか商務印書館の生き延びる道を摸索して、渡りに舟となったのが金港堂の存在だった。欧宏は、高翰卿が述べる根拠のないあの「商務印書館に主権のあった合弁」であることをここでくりかえす。
「1900年、商務印書館は日本人が上海で開設していた修文印書局ママを買収した。それは民族資本が東洋(日本)資本をうち負かしたという人をとても興奮させる例証であるばかりでなく、……」(326-327頁)
こういう文章を読むと、それほど日本が憎いのか、とため息が出そうになる。研究論文ではなくなってしまうからだ。修文書館の機器一式を買収することは、勝ち負けとは何の関係もないことだろう。勝ち負けにこだわる心情が、ありもしないものを信じさせる。
○[鍵語言及率:60%]汪守本「商務印書館是最早引進外資的企業」『商務印書館一百年(1897-1997)』343-350頁
表題に著者の考えが、率直に表われている。「商務印書館は、最も早く外資を導入した企業である」
改革開放政策の時期だからこそ、出てくる発想に違いない。外国人から手紙をもらっただけで「外国のスパイ」と批判された時代がついこの前の中国にあったことを知っているから、時代の変化を感じる。
鍵語の多くを押さえて得点は、かなり高い。ただし、そのことが正しい解釈と結びついているかといえば、そうではない。
冒頭から、まるで見てきたように書いてある。
「清光緒二十九年(1903年)、商務印書館の株主・印錫璋(有模)は、商務の主人・夏粋方(瑞芳)に報告していうには、日本の金港堂主人原亮三郎の娘婿で三井洋行上海支店長の山本条太郎が彼につげて、金港堂が中国上海に投資しようと考えている、商務には「合作」する興味があるかね、と」(343頁)
金港堂の原亮三郎が、中国大陸で教科書を出版しようとしていたことは事実だ。だが、それは1903年ではない。それより前の1899年にさかのぼる。また、山本条太郎が三井洋行上海支店長に就任するのは、1901年だ。商務印書館に合弁の話をもちかけるにしても、1903年ではありえない。つまり、金港堂の大陸進出は、考えられている1903年ではなく、1901年には具体化されていたと見るべきなのだ。
汪守本論文は、短文ながらよく調べられたうえで書かれている。だが、重要な部分で通説のままを信じたからつじつまが合わない。
もうひとつ用語の問題がある。「合作」を使う。漢語で「合作」といえば、一方が資金・設備を提供し、他方が用地・労働力を提供するというものだ。資金を出しあう合弁は、「合資経営」といい、「合作」とは区別している。あるいは葉宋曼瑛が使う協力という意味の「合作」かもしれない(後述)。どちらにしても、「合作」は、合弁まで進んでいない形態だから、汪守本は、知っていてわざとこれを使っているらしい。だからこそ「主権が商務印書館にある」という発想に結びつく。
通説を踏襲するのは、教科書疑獄事件についてもいうことができる。これからもたびたび言及することになるだろう。そのたびに、通説の頑強さを思うのだ。
通説とは、こうだ。教科書疑獄事件が終結したのち、原亮三郎は、連座した人々にたいして責任を感じて、国外に会社を設立することにしたという。
そういう研究者がいるから、汪守本はそれをそのまま取り入れた。確かに俗耳に入りやすい。因果関係も成立するように見える。だが、この通説を信じる研究者は、教科書疑獄事件の詳細と細部の時間的推移を知らない。
原亮三郎が、責任を感じたという。加藤駒二、小谷重は金港堂の社員だから、そうかもしれない。しかし、長尾雨山は、集英堂の教科書に関連していて、金港堂とは関係はない。
原亮三郎が、加藤と小谷とともに船で神戸から上海に向ったのは、1903年10月のことだった。商務印書館と金港堂が合弁の正式調印をしたのが同年11月だ。わずか1ヵ月で合弁相手を探すことからはじめて、業務内容を煮詰めたうえで、合意にいたることが可能であろうか。
実をいえば、原亮三郎は、早くから中国大陸で教科書を出版しようと調査していた。娘婿の山本条太郎には、上海に住む中国人の知人もいる。適任者だ。上海での出版業についての調査を依頼しただろう。上海には出版社が商務印書館しかなかったわけでもない。多くの出版社の名前があがったにちがいない。1901年、山本は上海の三井洋行支店長に就任する。同年、紡績関係で山本と懇意であった印錫璋が、商務印書館の第1次増資に応じて株主になった。
以上の事実をみるにつけ、1901年は、商務印書館と金港堂にとっては、まさにめぐりあわせの年にほかならなかったという感を深くする。
金港堂主原亮三郎の依頼もあり、かねてから上海の出版業に目を凝らしていた山本条太郎が、上海に滞在することになる。仕事を通じて深い仲であった印錫璋が、偶然にも商務印書館の株主になっている。印錫璋は、商務印書館の経営情況が思わしくないことを知り、夏瑞芳の依頼もあって山本条太郎に援助を仲介する。山本にしてみれば、それにとびつく。金港堂と商務印書館が結びつかない方がおかしいくらいに、条件は整っていたのだ。これが1901年のことである。
ところが、合弁の合意ができて、将来の事業拡張をはじめようとしたところに、ふってわいたように1902年8月の商務印書館の火災が発生し、年末に金港堂を教科書疑獄事件が襲う。
以上が、商務印書館と金港堂の合弁に至るまでの経過である。火災にしても、教科書疑獄事件にしても、合弁の原因ではない。強調しておく。
汪守本論文は、鍵語の多くを使用しながら、通説にまどわされて結局のところ問題の核心にふれることができなかった。この種の論文は、最近、少なくない。
○[鍵語言及率:85%]王益「中日出版印刷文化的交流和商務印書館」『商務印書館一百年(1897-1997)』382-397頁
この論文は、もともと日本の雑誌の求めに応じて書かれた。ゆえに、日本語翻訳の方がはやく公表されている。
王益著、大川ひろみ、趙京右訳「中日出版印刷文化の交流と商務印書館」(『タイポグラフィックス・ティ』第156号 1993.12.10)がそれだ。表題通り、商務印書館と金港堂の合弁を出版印刷文化の交流という視点で描きだす。専門論文であって、その内容は、詳細にしてしかも客観的である。いらぬ推測はなされていない。
日本の雑誌であることを考慮したのかどうか明らかではないが、金港堂の教科書疑獄事件については、触れない。触れないから、長尾雨山、加藤駒二、小谷重が上海に渡った理由についても、述べない。原亮三郎が、彼らの出路を作るために商務印書館と合弁をしたなどいう通説を述べないのである。賢明な判断であった。
また、日中合弁当初、理事に就任したのは日中からそれぞれ2名であったことを、具体的に名前を掲げて述べる。「ある回憶録では日本側は理事になったことはない、とも述べているが、これは事実ではないだろう」(385頁)と明確に指摘する。これこそが客観的な記述だということができる。商務印書館主権説という荒唐無稽な言説とも無関係でいられたのは、この資料にもとづいた客観的研究姿勢があるからこそであった。
さらに、夏瑞芳がゴム投機に失敗し、商務印書館に損害をあたえたばかりか、意気消沈してしまい仕事どころではなくなったとき、日本の原亮三郎、山本条太郎が親身になって援助したことをわざわざ取り上げる。
約10年間にわたる商務印書館と金港堂の合弁事業は、人的にもうまくいっていた。経済の側面からいっても、また編集、印刷技術についていえば、商務印書館側がおおいに利益を得たのが事実なのだ。それを率直に認めている王益論文は、全体的にいって、中国の論文のなかでは、きわめて高い水準にあるもののひとつであることは疑いない。その冷静な執筆姿勢は、大いに評価されてもいい。
○[鍵語言及率:10%]〓登}雲郷「百年“商務”話滄桑」『商務印書館一百年(1897-1997)』382-397頁
この論文の特徴のひとつは、『鄭孝胥日記』を使用していることだ。鄭孝胥は、商務印書館の理事をつとめたことがある。ことに合弁解消の事情が詳細に日記に記録されているところに目をつけたのは、よい。ただし、鍵語を使わない。「庚子後の光緒末年に、ある日本の出版商人が上海に来て事業拡大をはかろうとした。夏瑞芳は、彼らが後日強敵となることを恐れ、共同経営を提案した」(513頁)金港堂という名前を出してもいいところだ。また、一般の見解と異なっているのが、うえの部分だ。金港堂が商務印書館に合弁を迫った、というのが中国の研究者が取る姿勢だが、その反対に、夏瑞芳の方から提案したことにしているのが珍しい。珍しいというのは、中国の研究者としては珍しい、という意味であって、これが事実だと私は考えている。
鍵語を使わないのは、「その時、夏瑞芳が投機に失敗したときにあたり」(同上)にも見られる。ゴム投機のことを指している。日中合弁を主題にしていないが、もし、専論を書く機会があれば、事実に肉薄する論文を書くほどの実力がありそうだ。そう予感させる書き方であることを言っておきたい。
●6 張元済関係
商務印書館の指導者のひとりであった張元済については、いくつもの伝記が公表されている。
張元済は、戊戌政変後の翌年二月、北京を離れた上海で南洋公学の訳書院院長に任じられた。南洋公学の印刷物を夏瑞芳が引き受けており、その関係でふたりは知り合った。1899年のことになる。
張元済が商務印書館と正式な関係をもったのは、1901年の第1次増資のときだ。印錫璋とふたりで投資分を負担した。
張元済が南洋公学をやめて商務印書館に入社したのは、[鍵語言及率:60%]張樹年主編、柳和城、張人鳳、陳夢熊編著『張元済年譜』(北京・商務印書館1991.12)によると、1902年の「年初」だという(42頁)。
○[鍵語言及率:45%]張人鳳編著『張菊生先生年譜』台湾商務印書館股〓人分}有限公司1995.5
北京・商務印書館発行の『張元済年譜』を簡潔にしたもの。簡潔な記述にしたから、元版よりも鍵語言及率も落ちてしまった(60%→45%)。しかも、人名索引を削る。両書ともに、長尾槙太郎を髑セ郎と誤る。だが、簡潔にした効用もあった。例の商務印書館主権説という高翰卿にはじまる通説を削除したから、誤りを偶然にも免れたのである。
○張樹年『我的父親張元済』上海・東方出版中心1997.4
父親・張元済についての回憶録だ。商務印書館と金港堂の合弁は、本書の対象になっていない。書名をあげるに止める。
○[鍵語言及率:35%]張人鳳『智民之師・張元済』済南・山東画報出版社1998.10
1902年に張元済が商務印書館に入社したのであれば、当然、火災のことも金港堂との合弁についても知っているはずだ。知っているというよりも、まさに当事者である。だが、火災にはふれず、わずかに金港堂主人原亮三郎が資金をたずさえて上海にやってきたことをいうのみ。
お決まりの「主権が商務印書館にある」(76頁)をくりかえす。そればかりか、つけくわえて「このような条件は、中国がいたるところで外国人の侮辱を受けていた頃において、十分に珍しいことだった」(同上)と不可解な感想までも述べている。余計なことだった。
○[鍵語言及率:85%?付]周武『張元済:書巻人生』上海教育出版社1999.5 20世紀文化名人与上海
改革開放政策からすでに20年以上も経過した。研究の蓄積ができれば、それを使いこなす人も出てくる。本書は、張元済の生涯を述べながら、商務印書館の創業と金港堂との合弁にもかなりの紙幅をさいている(112-116頁)のが特色だといえる。
彼が以前に発表した「張元済与近代文化」(上海社会科学院歴史研究所『史林』1996年第3期(総第43期)月日不記)では、日中合弁には触れていなかった。その後、大いに研究したとわかる。
「1902年に日本の朝野を揺るがせた「教科書スキャンダル」(または教科書疑獄事件という)から話さなくてはならない」(112頁)と書いている。
その説明は、とても詳しい。1902年12月17日および22日に連続して2回の大調査逮捕を行なったとある。日にちまで特定している中国の文献を私ははじめて目にした。周武は、何の資料に基づいたのだろうか。それを知ろうにも、残念ながら、該書は、参考文献を一切明らかにしていない。前出論文が、こまかく出典を注記していたのとは、大いに異なる。
教科書疑獄事件の全貌を金港堂がらみで最初に明らかにしたのは、樽本照雄の「金港堂・商務印書館・繍像小説」(『清末小説研究』第3号1979.12.1/『清末小説閑談』法律文化社1983.9.20所収)しかない。漢訳されたとは聞かないから、周武は、日本語で読んだのだろうか。不思議だ。
事件で予審に付された者が152名、そのうち116名の刑が確定した、という部分も周武は取り入れている。ただし、その数字は、[新西蘭]葉宋曼瑛著、張人鳳訳「早期日中合作中未被掲開的一幕――一九〇三年至一九一四年商務印書館与金港堂的合作」(『出版史料』1987年第3期(総第9期)1987.10。75頁)に見えているから、周武は、こちらを見たのだろう。あるいは、汪家熔の文章かもしれない。葉宋曼瑛の文章については、あとで検討する。
このように見ていくと、周武が拠ったタネ文献がわかる。
金港堂主の原亮三郎は、教科書疑獄事件を惹起した責任を感じて長尾雨山らの活路を上海にさがした、というあの通説である。これも葉宋曼瑛論文にそっくりそのままが存在する。というよりも、葉宋曼瑛論文が発生源なのだ。
一例として、周武の原文と葉宋曼瑛の文章を並列しておく。
葉宋曼瑛:我只能推測原亮三郎感到対這三個人的不幸遭遇負有責任。為此在他們亡命異国期間,設法給他們創造発揮才能和維持生機的機会。(75-76頁)
周 武:金港堂主原亮三郎覚得応対這三人渉及丑聞負責,安置受牽連者,設法為他們創造機会,離開日本,〓ling謀生計。(112-113頁)
ふたつともほとんど同文だといってもいい。異なる箇所は、葉宋曼瑛は、「推測」であるとことわっているところだ。だが、この推測は成立しないことは、すでに説明した。信じられないことに、この部分を読む中国の研究者は、葉宋曼瑛が「推測」であると書いているにもかかわらず、どういうわけか「推測」の文字が目に入らないらしい。それが、あたかも事実であるかのように引用を続けるのである。
周武論文には、山本条太郎と印錫璋の親しい関係を説明して、彼らが上海紡織股〓人分}公司の理事として香港で登録したことを指摘する(113頁)。これもどこかで見たような気がする。それもそのはずで、日本の論文が漢訳されているのだった。樽本照雄著、東爾訳「商務印書館与山本条太郎」(『商務印書館館史資料』之四十三 北京・商務印書館総編室編印1989.3.20)がそれだ。
中国図書公司との競争を記述する(106-107頁)、あるいは、『申報』に掲載された張元済を攻撃する「中国教育会之内幕」に言及する(115頁)のは、中国の論文としては珍しく、それだけ視野が広いことがわかる。
周武は、できるだけ資料を収集して研究を深めようとしていることが、以上の例を見ても十分に理解できるだろう。
それは研究者として正しい姿勢だ。鍵語を多く含んでいるから言及率の85%は優秀な部類にはいる。
だが、事実の多くを集めるのは研究の基本でしかない。引用文で文章をつづったところで、それは先行論文の焼き直しにしかならない。各々の事実を再検討する必要があるのだ。最初にやるべきことは、事実がどのような時間軸にそって発生しているのかを考えることだろう。
何度でもいうが、原亮三郎が、教科書疑獄事件の責任を感じて長尾雨山、加藤駒二、小谷重らを生かす道を上海に求めて商務印書館と合弁したというのは、事実ではない。その通説を、周武は採用する。なんとかならなかったものか。
ただし、合弁時に「主権が商務印書館にある」という謬論に染まっていない点は評価に値する(114頁)。
参考文献名をすべて省略しているのは、どう考えても専門書として不誠実であるといわざるをえない。どこまでが自分の発掘した事実か、他人の研究成果かの区別がつかないからだ。85%と高得点にもかかわらず、研究書としては大きく減点しなければならないのが惜しい。ゆえに鍵語言及率は「?付」とした。
○張人鳳整理『張元済日記』上下 石家荘・河北教育出版社2001.1
該書は、2000年12月に張人鳳氏よりいただいた。発行年月日よりも以前に出版されるのは、中国では、珍しいのではないだろうか。遅れて出ることの方が、今までは多かったからだ。
同名の『張元済日記』上下は、以前に出版されたことがある。北京・商務印書館1981.9だから、今から20年も前のことになる。
両者を比較すれば、前者にあった「出版説明」が後者にはない。この説明は、商務印書館編輯部の名義になっている。1912-1926年間に書かれた全35冊の全文を、商務印書館創立85周年を記念して発行するとある。
この「出版説明」が削除されたのは、発行元が商務印書館より河北教育出版社に変更になったからだろう。というよりも、整理者に張人鳳の名前があがっているところから、整理者の変更が、出版社の違いになったのかもしれない。だから、別のかたちで説明があってもいいはずなのだが、説明に類する文章は、まったくない。ついでに、張元済の肖像も、日記の書影も削除してある。
大きな違いは、前者になかった「一九三六年日記残本」と「一九四九年赴会日記」がこのたび新しく収録されたことと、人名と書名の索引がつけられたことだ。
索引は便利だ。収録してある日記が1912年からはじまっていて、それ以前の商務印書館の情況を知ることはできない。1913年も、金港堂の名前は出てこない。名前がないから合弁解消も記録されていない。日記とはいえ、業務メモのようなものだから、詳しい記述を期待するほうが間違いなのだろう。
まだほかにも、張元済伝に類するものがあるが、書名だけをかかげておく。柳和城『張元済伝』(南京大学出版社1996.9)および張栄華『張元済評伝』(南昌・百花洲文藝出版社1997.3)だ。
●7 一般、または上海通史
ここでいう一般とは、商務印書館だけを扱う書物ではない、というだけの意味だ。歴史書のなかで商務印書館がどのように記述されているのかを見たい。最近、上海通史が出版されているから、それを取り上げる。
○[鍵語言及率:15%]宋原放「近現代中国出版大事年表」『出版縦横』上海人民出版社1998.9
1810-1949年の詳細な出版年表である。
1903年の金港堂との合弁は、「吸収日資」(273頁)と表現している。そのまま金港堂の名前は無視されるのかと思えば、1914年1月6日の項に「商務印書館与日本金港堂簽定日方退股的協議」(308頁)と出てくる。
年表だから、商務印書館についてのみ詳しく記述するわけにもいかないだろう。鍵語言及率が15%と低いのもしかたがない。
○熊月之、張敏著「商務印書館」『上海通史』第6巻晩清文化「第3章西学輸入」上海人民出版社1999.9。167-174頁
本書では、「五商務印書館」と1項目をたてて言及している。ただし、清末期だから1911年までで、記述の分量も多くはない。つぎの民国期をあわせて見ることにしよう。
○[鍵語言及率:80%?付]許敏「商務印書館」『上海通史』第10巻民国文化「第7章現代出版文化的産業化経営及其成就」上海人民出版社1999.9。107-118頁
上掲書につづいて、再度、商務印書館の創業から記述をはじめる。鍵語言及率が80%と高い水準を示しているということは、先行論文をよく研究していることを意味している。周武の書籍と同じく、ここでも「?付」になるのは、許敏が先行論文を研究しすぎて、それに振り回されている箇所があるからだ。
例の商務印書館主権説だの、教科書疑獄事件の被告人に出路を提供するため原亮三郎が商務印書館に投資したなどという通説を検討することなくそのまま垂れ流すのである。
●8 専門書
初期商務印書館については、明確になっていない問題はいくつも存在する。
たとえば、修文書館を印錫璋の仲介で買収したとあるが、その資金はどこから調達したのか。
1901年の第1次増資の時、創業時の資本は7倍の値上がりを示したというが、7倍という根拠はなにか。
1902年の火災で保険をかけていたというが、結局、いくらの保険金が支払われたのか。
レンガ建ての印刷所建設は、火災の発生とどういう関係があるのか。
商務印書館と金港堂の合弁は、どちらが持ちかけたのか。商務印書館の夏瑞芳か、それとも金港堂の原亮三郎か。
問題の一部分にすぎない。いずれも、重要な意味をもつにもかかわらず、未解決のままである。文献を読んでいけば、自然とわきあがる疑問にすぎない。しかし、これらの問題の存在に気づいている、あるいは問題を提起する中国の研究論文を見たことがない。
あるといえば、上に見てきたように、二つの通説が幅をきかせている。
ひとつは、教科書疑獄事件原因説である。教科書疑獄事件で蹉跌した金港堂主・原亮三郎が、中国大陸に活路を見いだそうとした。また、責任を感じて長尾雨山らを上海に送った、というもの。
もうひとつは、商務印書館主権説だ。商務印書館と金港堂の合弁は、平等ではなく、人事権は商務印書館が握っていた「主権が商務印書館にある」合弁だった、というもの。
通説と書いたが、両者は、いずれも事実ではない。その間違いが、なぜこれほどまでに中国の研究者に好まれて引用されるのか、これはまた別の問題かもしれない。
それぞれには、もとになった論文がある。
前者は、すでに述べているように葉宋曼瑛の論文であり、後者は、汪家熔論文だ。
両者ともにその影響力が大きいので、特にここで紹介しておきたい。誤解の発生源である。
◎8-1 葉宋曼瑛 Manying Ip
本稿に関連する葉宋曼瑛の主要文献は、ふたつある。まず、論文から。
○[鍵語言及率:55%][新西蘭]葉宋曼瑛著、張人鳳訳「早期日中合作中未被掲開的一幕――一九〇三年至一九一四年商務印書館与金港堂的合作」『出版史料』1987年第3期(総第9期)1987.10
本論文は、もともと、英語で発表された。MANYING IP“A HIDDEN CHAPTER IN EARLY SINO-JAPANESE CO-OPERATION : THE COMMERCIAL PRESS-KINKODO PARTNERSHIP,1903-14”(“THE JOURNAL OF INTERNATIONAL STUDIES”NO.16 上智大学1986.1)というのがそれだ。今、漢訳を評価の対象とする。中国で研究者が拠っているのは、漢訳の方だからだ。
商務印書館と金港堂が合弁していたという事実は、葉宋曼瑛にとっては、隠された事柄であったらしい。だからこその論文題名だとわかる。なぜその事実に葉宋曼瑛が気づいたかといえば、樽本「金港堂・商務印書館・繍像小説」ほかを読んだからだった。
葉宋曼瑛論文は、樽本論文に主として依拠しながら、つけくわえて山本条太郎、原亮三郎らにあてた張元済の書簡3通を紹介したところに特徴がある。
日中合弁時代を主題としながら、鍵語言及率が55%と低いのはなぜかといえば、山本条太郎、印錫璋らが合弁の仲介者であることをいわなかったり、火災にふれなかったりするからだ。
次のような漢訳部分もある。
「この協力の期間、金港堂主人であり創始者の原亮三郎は、社長の三本条太郎と大部分の時間を日本ですごしていた。原亮三郎は、有名な教育家で、1903年訪中の前は東京高等師範学校教授だった」(74頁)
「三本条太郎」は、「山本」の誤植。彼を金港堂の社長とするのは、葉宋曼瑛の誤解である。理解不可能なのは、原亮三郎が東京高等師範学校教授であったという箇所だ。長尾雨山の経歴と混同している。英文を見れば、原亮三郎を説明して、漢訳のような部分は、ない。すこしあとに、“Nagao was an eminent educationist and professor of Tokyo's higher Normal College before he departed to China in 1903.”(20頁)とあるのを漢訳者が誤解したのだろう。
葉宋曼瑛論文が火元となっている例の教科書疑獄事件原因説は、その故に、いとわず引用しておく。
在日本“教科書丑聞”之後不久,金港堂的代表就出現在上海並尋找投資的機会。為了試図使一九〇三年那些模糊不清的事件重新顕形,我只能推測原亮三郎感到対這三個人的不幸遭遇負有責任。為此在他們亡命異国期間,設法給他們創造発揮才能和維持生機的機会。(75-76頁)
Shortly after the “Textbooks Scandal” in Japan, the Kinkodo's representatives appeared in Shanghai and looked for chances of investment. In attempting to reconstruct the obscure events of 1903, I can only deduce that Hara Ryosaburo felt somehow responsible for the three men's disgrace, and therefore created chances for them to use their talents and earn their living in exile.(29頁)(日本での「教科書疑獄事件」のすぐあとで、金港堂の代表者たちは、投資の機会をさがすために上海にあらわれた。1903年の暗い事件から立ち直ることを試みて、原亮三郎は、3人の不名誉についていくらかの責任を感じ、彼らの才能を使うためと亡命の間の生計をかせぐために機会をつくりだしたのだと私は推測できるだけだ)
英文に日本語訳をつけたのは、漢訳の一部分が不明瞭だからだ。“obscure”を「模糊不清(あいまいではっきりさせることができない)」と翻訳する箇所は、漢訳では、事件そのものの真相を明らかにするため、となる。前後の意味が通じなくなっている。
金港堂と商務印書館の合弁は、教科書疑獄事件のはるか以前である1901年ころにはすでに合意に達していたと考えられる。これが、葉宋曼瑛の教科書疑獄事件原因説に対する私の反論である。それだけで十分だ。
葉宋曼瑛は、山本条太郎と印錫璋の役割を正しく認識しなかった。また、原亮三郎が上海にむかった具体的日時を把握していなかった*9。
教科書疑獄事件を知った葉宋曼瑛が、金港堂の上海進出を合理的に説明しようとすれば、事件の犠牲者を救済するためにだと推測をするしかなかった。まことに安易な、だからこそ俗耳に入りやすい推測である。
事実の把握が十分にできなかったためにひねりだした安易な解釈が、葉宋曼瑛の教科書疑獄事件原因説だった。
思いつきで実行した外国企業との合弁事業が、常識的に考えて、その後の約10年間も継続するはずがないではないか。周到な準備をしたからこそ、巨大なレンガの三階建て建築物ができた。そのことに葉宋曼瑛は、気づかない。
しかも、後の研究者が、葉宋曼瑛の提出した推測を事実によって検証することなしに、事実だと見なしてまことに気軽にくりかえすのはなぜか。
葉宋曼瑛は、商務印書館と金港堂の関係を“cooperation”とよんでいる。日本語では、協力という意味だし、漢語にすれば「合作」だ。別の場所では、“partnership”という単語を使用している。
普通、合弁は、漢語で「合資経営」、英語で joint venture という。葉宋曼瑛が、合弁ではなく、“cooperation”あるいは“partnership”を使うのは、別に意味があって意図的にそうしているのだ。
夏瑞芳のゴム投機失敗に関する張元済の手紙を根拠にして、金港堂側の反応が冷たいことをいう。反応が冷たいのは、単なる投資をしていただけに違いないと思い込んだ。だから、一歩踏み込んで深い関係の合弁ではなく、もっと関係の浅い協力――co-operation「合作」という単語をわざわざ使うのである。
無論実藤恵秀還是樽本照雄均没能明確地給“合作”這個詞下定義。従這些信中可以看到中国方面一再堅持所説的――日本是純粋的投資者,中国方面是単方面地掌握了管理権和人事権――是事実。(80頁)
Neither Saneto Keishu nor Tarumoto Teruo can say definitely what the terms of cooperation were. From these letters, it seems that what the Chinese had always maintained―that the Japanese were purely investors, and that the chinese side had sole control over administrative policy and choosing personnel―might in fact be true.(39頁)(実藤恵秀もまた樽本照雄もふたりとも協力の条件がなにであるのかを明確に述べることができていない。これらの手紙からは、日本人は純粋に投資者であり、中国側はもっぱら管理権と人事権を掌握していた、と中国人はいつも主張していたことが本当のところ事実であったように思われる)
英語原文と漢訳には、すこし違いがある。
原文の term は、複数の意味がある。ここでは、条件という意味だ。それを漢訳では、言葉と考えた。英語原文の「協力の条件」が、漢訳では「「協力」というこの言葉」になる。ずれるのではないか。
さて、葉宋曼瑛は、樽本照雄の名前を掲げて、その言説の不十分さを批判する。「協力」には条件があったことを言うことができないと書いて批判する。
私は、商務印書館と金港堂は、合弁していると言っている。平等な合弁であり、特別な条件などないと考えている。だから、突然、「協力」の条件を樽本は述べていない、と葉宋曼瑛から批判されても、何のことだか。
葉宋曼瑛は、樽本が言っていないことを批判するのである。困った人ですね。
張元済の手紙に、山本条太郎、原亮三郎らが冷淡な反応しか見せないというのは、その時点で、金港堂側からの理事はいなくなっているのが原因である。「協力」の条件とはなんの関係も、ない。
合弁当初は、日本側からも原亮三郎、加藤駒二、あるいは原亮一郎、山本条太郎らが理事に就任していた。1909年頃、商務印書館は、日本側の理事を排除し、すべて中国人で固めたのだ。だから、夏瑞芳がゴム投機に失敗して商務印書館に損害を与えようとも、理事の地位にない原亮三郎と山本条太郎が、口を挟むことのできる立場ではなかった。せいぜいが、株主として助言をするくらいだ。それでも、ずいぶんと親切に対応していると私には見える。
葉宋曼瑛の批判は、的外れである。だが、この部分に興味深い箇所があるのも本当だ。
「中国側はもっぱら管理権と人事権を掌握していた、と中国人はいつも主張していた」とはどういうことか。葉宋曼瑛は、具体的に文献名をあげていない。だが、すぐにわかる。これは、荘兪が書いていることだ。葉宋曼瑛は、これこそが「協力」の条件だと考えているらしい。
荘兪「三十五年来之商務印書館」(荘兪、賀聖〓編『最近三十五年之中国教育』上海・商務印書館1931.9)のなかで次のようにのべている。
「締結した条件は、すべてが平等というものではなかった。社長と理事は、すべて中国人であり、一二名の日本人が列席して傍聴できるだけだった。採用された日本人は随時退職させることができるなどである」(3頁)
同じ内容を見たことがあると気づかれたことだろう。これは、高翰卿が、商務印書館内部の講演のなかで虚勢をはって語った商務印書館主権説そのものである。使用している語句も、ほとんど同一である。
高翰卿の講演は、荘兪の文章を典拠を明らかにせず、そのまま引用した。こう考えて間違いないだろう。
1992年まで高翰卿の講演記録は、一般の目に触れなかったから、荘兪の言葉として(こちらは商務印書館の記念冊子に収録されている)流布していたものだ。
葉宋曼瑛は、荘兪、高翰卿の発言がいかなる背景のもとになされたかを考慮しなかった。虚言を事実だと信じたのである。だから、わざわざ「協力」の条件などと書いた。
もうひとつ、葉宋曼瑛の著作に少しだけ触れておきたい。
○[鍵語言及率:45%]葉宋曼瑛著、張人鳳、鄒振環訳『従翰林到出版家――張元済的生平与事業』香港・商務印書館1992.1
該書の発行は1992年であるが、元本である英語版は、それより7年前には北京で発行されている。MANYING IP“THE LIFE AND TIMES OF ZHANG YUANJI”(北京・商務印書館1985.4)だ。
内容は、前の論文とほとんど同じだ。荘兪の文章を引用しているのが新しい。
鍵語言及率が前出論文の55%から45%に降下しているのは、日中合弁について(葉宋曼瑛は、あくまで「合作」という)少しの省略があるからだろう。ただし、教科書疑獄事件原因説の部分は、そのままを再録している。
さて、商務印書館主権説をとなえる汪家熔の著作に筆を進める時がきた。
◎8-2 汪家熔
汪家熔は、商務印書館の歴史ばかりでなく出版史についての多数の論文を発表している。1990年、商務印書館を退職され、1998年にまとめられたのが1冊の論文集だ。商務印書館と金港堂の合弁問題についての論文もこれに収録されている。日本では簡単に見ることのできない雑誌に発表されている文章もあり、本書が発行されて利用できるようになった。のちの研究論文、専門書のあるものは、典拠を明示せずに汪家熔の著作から引用している場合があるほどに注目されている。
○[鍵語言及率:90%]汪家熔『商務印書館史及其他――汪家熔出版史研究文集』北京・中国書籍出版社1998.10
著者の汪家熔から該書をいただいた時、すぐにでも紹介の文章を書きたかった。
汪家熔は、篤実な研究者のひとりだ。特に、資料の発掘をしながら商務印書館の研究を長年つづけてきた点では、他の追従を許さない。商務印書館に勤務していたから、資料を利用するのに有利な立場にあったということはできよう。だからといって、彼以外の人が同じように新資料を探しだして文章を発表したとも聞かない。汪家熔だからこそできたことだ。研究論文に多く引用されるのは、そういう理由があるからだ。該当分野における研究の第一人者である、と私は自信をもっていう。
長年の研究の成果を集めた該書は、特筆すべき発見を多く含んでいる。ことに金港堂との合弁時期に関していっても、今後の研究には不可欠の専門書であることは一目瞭然である。
しかし、すぐに紹介する気には、私はどうしてもなれなかった。なぜなら、42本の論文が収録しているうちの最後の2本が、直接私に関係するものだからだ。ひとつの方の題名には、「為《繍像小説》給樽本照雄的信」というように私を名指している。
私との論争の文章だから、それを収録しているから、私から紹介しにくい、というわけではない。
2本の論文は、『繍像小説』の主編が李伯元かどうかについてのものだ。汪家熔は、李伯元ではない、と主張し、私は、その反対に李伯元だという。
大げさでなく、1984年当時、世界中の研究者を巻き込んでの一大論争に発展した。論争の過程で『繍像小説』の主編は李伯元であることを示す資料の発見があった。大方の判断として、すでに結論が出ている。
ところが、汪家熔は、あいかわらず李伯元であるかどうかはわからない、と主張をまげない。自説に自信があるからこそ、該書に論文を収録したのだろう。それまでの研究の実績と、商務印書館の人間であるという自負もあって、一歩も引き下がる気にならなかったと想像する。
たとえ汪家熔の主観的な判断であろうと、まだ未決着の問題を含んだ論文を収録した著書を紹介するのは、私が論争の当事者なのだから、私としても納得ができない。該書を紹介するのを私が躊躇した理由である。
正直にいって、『繍像小説』の編者問題に関してのみ、汪家熔が下した判断に、私は疑問を抱かざるをえなかった。『清末小説から』第54号(1999.7.1)に該書の総目次をかかげて、とりあえずの紹介に替えたのだ。
では、なぜ今、紹介する気になったのか。
該書は、最近の商務印書館研究において、欠かすことのできない専門書であることが理由のひとつ。もうひとつの理由は、もっと大きく、『繍像小説』が李伯元の編集になっていたと公表する商務印書館の広告が発見されたからだ。決定的な資料である*10。
商務印書館自身が『繍像小説』の編者が李伯元であることを広告している。いくら汪家熔でも、この事実を否定することはできない。該書に収録した『繍像小説』がらみの2本は、明らかに汪家熔の誤解であるから、今回の紹介から切り離すことができる。
汪家熔が発掘した新資料の例をいくつか示す。
創業者たち夏瑞芳、鮑咸恩、鮑咸昌らの姻戚関係を明らかにした(9-11頁)。
1905年の第2次増資に参加した日本人の名前を発掘した(15頁)。
合弁初期における日中の理事者名を明確にした。最初は、日中で各2名、1907年より中3日2、1908年は中2日1、1909年よりすべて中国人になる(16頁)。
1914年、合弁を解消するにあたって理事会の報告書を発掘した(27-29頁)。これも貴重な文書だ。理事会の報告書が保存されていようとは思いもしなかった。日中戦争の時、日本軍の攻撃ですべての資料は失われたと商務印書館の編輯室から手紙をもらって知らされていたからだ。商務印書館が、金港堂との合弁をどのように考えていたかを知る材料となる。
1903年から1914年までの商務印書館における日本側株主の投資額とその利息を公表した(30頁)。きわめて珍しい。おそらく商務印書館に保管されていた資料から発掘したものだと思われる。私は、このような数字を見たことがない。これによって、日本側の投資額と獲得した利益の総額が判明した。と同時に、計算すれば、商務印書館が得た利益も金港堂よりもはるかに多かったことがわかったのである。ただし、別の論文「商務印書館的経営管理」(78頁)において、資本金について違う数字を提示する。なんらかの説明が必要な箇所だ。その説明がない。
1914年当時の日本人株主名と持ち株数を明らかにした(33頁)。
以上、日中合弁時期を中心にして新発見の資料を列挙した。充実した研究成果であることがわかる。商務印書館に勤務していたからこそできた資料発掘であろう。今後の研究に不可欠であるというのは、この新資料を見ても理解できる。
冒頭に示した鍵語言及率90%は、日中合弁に言及する複数の論文をあわせたものから算出した。高い数値を示すのも、その内容からすれば当然のことだ。
汪家熔も、例の根拠のない教科書疑獄事件原因説を採用する(14頁)。
新発見に満ちた汪家熔の論文なのだが、疑問に思う部分がないではない。これこそが、今まで問題にしてきた商務印書館主権説なのだ。
葉宋曼瑛が「早期日中合作中未被掲開的一幕」でさりげなくもらした。「日本人は純粋に投資者であり、中国側はもっぱら管理権と人事権を掌握していた、と中国人はいつも主張していたことが本当のところ事実であったように思われる」。汪家熔が、これにヒントを得たかどうかは知らない。葉宋曼瑛は、荘兪の文章を根拠にしていた。荘兪の文章は、高翰卿の講演記録と同じものだ。汪家熔は、直接には高翰卿の文章を引く。
汪家熔が、「主権在我的合資――一九〇三年〜一九一三年商務印書館的中日合資」(初出『出版史料』1993年第2期(総第32期)1993.7ママ。該書21-31頁)において展開した論点の重要箇所は以下の通りである。
高翰卿の「ひとつは、社長と理事はすべて中国人であって、日本人は一人だけが監察人であること。ふたつは、雇用された日本人は随時解職することができる」をまず示す。
つぎに1903年から1909年までの日中の理事名簿を提出する。それを説明して「1909年以前の日本株主は、その持ち株に比例して理事を推挙したが、行政職務は担当しなかった」(26頁)という。この論理は、わかりにくい。理事でありながら、行政職務ではないというのだ。論理の矛盾だ。
「中国側は主権を失っていなかったし、日本側には特権がなかった」(同上)という表現はどうか。もともと両者が平等の合弁だった。だから資金も折半している。社長は中国側が出しているが、理事は日中同数の人間が就任している。日中平等だから「中国側は主権を失っていなかったし、日本側には特権がなかった」というのは当たり前のことだ。平等であることを言い換えているにすぎない。それを、論文の表題「主権在我的合資」に置き換えるのは、拡大解釈だ。言葉の魔術であり、ごまかしとしか思えない。
資料の読みをねじ曲げてまで、商務印書館主権説をなぜ汪家熔がとなえるのか。これは、商務印書館が負った歴史が、そのまま汪家熔に露呈したとしかいいようがない。『初期商務印書館研究』のなかで分析しておいたから、ここではくりかえさない。
商務印書館主権説は、魅力があるらしい。中国の研究者のなかには、なにも考えずにそのまま引用している例がある。それほど影響力の強いものだ。理事一覧表をもういちど見てほしい、といいたい。
◎8-3 そのほか
単行本で出版された商務印書館の専門書をいくつか紹介する。
○[鍵語言及率:75%]呉相『従印刷作坊到出版重鎮』南寧・広西教育出版社1999.9*11
商務印書館の創立から日中戦争終了までの歴史を述べる。多くの文献を参照して詳細かつ本格的な商務印書館研究の専門書ということができる。張元済伝は複数が出版されている。だが、商務印書館の専著というのは珍しい。
葉宋曼瑛の論文、著作『従翰林到出版家』、汪家熔の論文(未発表を含む)、著作『大変動時代的建設者』などを主として使用していることが本文から、また参考書からも理解できる。
金港堂との「合作」は、とくにページを割いて「第7章現代企業的経営管理」のなかで述べられている(295-304頁)。
合弁は、漢語では「合資経営」という。ゆえに、呉相は、合資経営、あるいは合資ということばを使う。だが、「合作」という単語も使用してもいる。また、「三本」条太郎と誤植する。「合作」「三本」ともに葉宋曼瑛の論文をそのまま継承した結果だろう。
長尾槙太郎を、長尾「髑セ郎」と誤る。
1902年の教科書疑獄事件ののち、金港堂が発展を求めて中国にむかったというのは、葉宋曼瑛論文からの引き写しだ(296頁)。長尾雨山らの生計のためだといわないのは、長尾らが教科書疑獄事件に巻き込まれたことを説明していないから、いっそのことこれに関連する部分を省略したと考えられる。
商務印書館主権説を採用するのは、汪家熔論文の受け売りだ(297-298、303頁)。
商務印書館が金港堂との10年におよぶ合弁を解消したとき、金港堂は、最初の10万が37.8万に増えていた。これは正しい数字だ。汪家熔論文には、37.81万とある。一方、商務の資産は180万元に増えたと書く(302頁)。これは、間違い。1913年当時、総資本は120万元だった。だから、金港堂の持ち資本を減ずれば商務の資本は82.19万とならなくてはならない。汪家熔の論文を参照しているにもかかわらず、こういう間違いがどうして生じるのか不明。
書名からは、これが商務印書館の歴史を書いたものだとは理解しにくい。工夫があってもよかったのではないか。
呉相が、視野をひろげて研究論文の多くに目を通していることは、鍵語言及率の75%と見ても理解できる。だが、先行文献を消化するのに気をとられたのか、それらの吟味が不足した。
呉相が収集した先行論文というのは、漢語文献に限られているように思われる。日本との合弁問題にもかかわらず、日本語文献が使用されていないようなのだ。あとで、また問題にする。
○王建輝『文化的商務――王雲五専題研究』北京・商務印書館2000.7
王雲五は、1921年、胡適の推薦を受けて商務印書館に入社し編訳所所長をへて、のちに社長になった人物だ。しかし、国民党政府の要職を歴任している。さらに、1949年、香港に出て、1951年、台湾に定住した。その経歴と政治的立場の違いから、中国大陸では、今まで言及されることはなかった。「禁区」のひとつであったのだ。
王建輝の専著は、その王雲五に焦点をあわせる。研究界の情況が変わったことを証明するものともなっている。
ただ、主題が王雲五だから、商務印書館と金港堂の合弁については、ほんの少し触れるだけだ(23頁)。ゆえに本稿では、該書の存在をいうに止める。
○[鍵語言及率:90%]楊揚『商務印書館:民間出版業的興衰』上海世紀出版集団、上海教育出版社2000.11
本稿を書いている今、楊揚の本書が、いちばん新しい商務印書館研究の専門書である。
著者の「後記」によると、本書は、博士論文に関係して生まれたという。若い世代(1960年代生まれとしか書いてない)の著作だとわかり、中国の研究者層の厚みを感じるのはこういう時だ。
冒頭に創業者たちの肖像写真、商務印書館の印刷設備、棋盤街、東方図書館、早期雑誌の表紙写真などをかかげる。
楊揚が利用した資料は、豊富だ。内部発行の『商務印書館館史資料』はいうにおよばず、『鄭孝胥日記』までも利用している。日記が出版されたのは、1993年のことだった。時間的な制約があるから、ほかの研究論文に言及されなくてもしかたのない面はある。日記を使うことによって、商務印書館と金港堂の合弁解消の情況が、従来よりよほど詳細に説明されることになった。
夏瑞芳の暗殺事件についても、『申報』の1914年1月11日付から「棋盤街又出暗殺案」という報道記事が連載されることを指摘する(79頁)。これも漢語論文でははじめてのことだろう。(ただし、せっかく新聞記事があることを知りながら、それから引用していないのは不可解だ)
資料豊富だから、当然のように鍵語言及率も90%、と汪家熔と同じく過去最高値を示している。
多数の資料にもとづきつつ、執筆の姿勢は厳格である。
商務印書館が北京路にある美華書館の隣に移転したことがあった。その地名を北京路「順慶里」口とするのがほとんどの文献である。荘兪がそう誤記してから、中国の研究者は、その誤記を疑うことなく継承していた。だが、楊揚は、正しく慶順里口と書く(15頁)。小さいことのように見えるかもしれない。だが、細部にこそ研究者の態度が表われるのだ。(とほめたのだが、附録の年表には、相変わらず「北京路順慶里」(160頁)と誤ったままを書いている)
慎重な研究姿勢は、金港堂が商務印書館と合弁する事情を説明する箇所にも見える。
楊揚は、次のように書いている。「金港堂が中国にやってきて投資し印刷組織をうちたてる原因について、1902年12月17日に日本で巻き起こった教科書疑獄事件に直接関係していると一般の研究者は、みな考えている」(29頁)
注を見れば葉宋曼瑛の著作しかあげていないが、その後の論文を読めば、大方が葉宋曼瑛説を受け入れているから、一般の研究者といってもいいだろう。私が「慎重な研究姿勢」だというのは、典拠書名をかかげているだけで、楊揚自身は態度を保留しているように見える。それについて判断する材料を持っていないことを言外ににおわせていると感じるからだ。におわせているだけで明確に述べないところを見ると、別の意見が日本語論文にはあることを知っているのか。つまり、ぼやかしている。ただし、そのあとの箇所で、原亮三郎らは、教科書疑獄事件によってもたらされた窮地を切り抜けるために上海に投資することにしたとのべる(29頁)。楊揚も、やはり俗説を採用していることがわかる。
夏瑞芳がゴム投機に失敗した事情を詳しく説明するのは、さすがに専門書である。
中国図書公司との闘争には目が届かなかったが、中華書局との教科書をめぐる争いには「二、中華書局的崛起与教科書之争」という一節を割いている。
もうひとつは、例の商務印書館主権説である。楊揚は、この通説については無視する。否定する資料を持たなかったのかどうか知らない。しかし、これが正しい態度である。
それほど資料収集に努めた著者であったが、原文を入手できないものもあった。例にあげているのは、『東方雑誌』創刊号(1904.3.11)掲載の広告「最新初等小学国文教科書出版」だ。
著者は大学の図書館で『東方雑誌』の該当号をみたがこの広告を見つけることができなかった(179頁)。しかたなく葉宋曼瑛の著作から孫引きしている(31頁)。著者は、この広告は挟み込みであったのかもしれないと推測する。おかしなことだ。私は創刊号にその広告を見ている。書影を掲げておいた(樽本『初期商務印書館研究』173頁)。
商務印書館の総資本の数字が、大ざっぱだ(33、68頁)。汪家熔の「主権在我的合資」(該書30頁)で明確詳細に公表されている。もっとも、同じく汪家熔の「商務印書館的経営管理」(該書78頁)では、数字が異なってはいるのだが。楊揚は、別の資料(『(1897-1992)商務印書館九十五年――我和商務印書館』750頁)を使用している。カッコに楊揚の数字を入れておく。
1903年 15万元(20万元)合弁当時は、契約の10万元を商務印書館は準備できなかったのが真相だ。
1905年 30万元(100万元)
1913年 120万元又150万(150万元)
本書のような専門書は、汪家熔の示した数字の違いを指摘してもよかった。使用する資料の吟味が不足している。
1902年7月(7月は旧暦)に商務印書館が失火したことに言及するのはいい(28頁)。新しい機械設備には保険をかけていたから保険金を得た、と説明するのも正しい。そのあとで、商務印書館が資金を調達して土地を購入し新しい印刷工場を建設したというのは、説明不足だ。その資金はどこから調達したのか。いくらなのか。はっきりしないから知りたいと思う。
ちいさな誤りがある。
30頁13行の「金港堂正七倍編輯室」は、「金港堂正七位編輯室」の誤り。汪家熔が「金港堂“正7位”編輯主任」(「商務印書館創業諸君」15頁)と書いたのを誤植した。とはいえ、正七位は官位なのだから汪家熔、楊揚の書くようにはならない。
『繍像小説』に触れて、1906年4月李伯元が死去して停刊したという(49頁)。だが、該誌は、李伯元の死去後も発行されていたのが事実だ。通説を疑うまでにはいたっていない。
金港堂が中国に進出する動機を教科書疑獄事件に結びつけた葉宋曼瑛説のところでも言及したが、楊揚は、日本語論文に別の主張があることを知らないようだ。『繍像小説』の終刊時期についても研究者の論争にまで発展している。日本と中国間で文章の応酬がある。
ということは、楊揚は、漢語文献しか見ていないということになる。注に示された参考文献のなかには、欧文原作もある。ただし、漢訳だ。大きな問題が、ここに存在する。
附録として[鍵語言及率:40%]「商務印書館大事記」がある。
最近の本格的研究書として楊揚の『商務印書館:民間出版業的興衰』をあげたから、これで終わりである。しかし、あとふたつ出版されているのでひとことだけ触れておく。
○[鍵語言及率:20%](法)戴仁著、李桐実訳『上海商務印書館1897-1949』北京・商務印書館2000.8
最近の出版のように見えるのに、該書の鍵語が年表なみの20%というのには、理由がある。
もともとは、フランス語で書かれたものである。ところが、それが出版されたのは、約20年前のことだ。
Jean-Pierre DRE^}GE“LA COMMERCIAL PRESS DE SHANGHAI 1897-1949”(PRESSES UNIVERSITAIRES DE FRANCE, 1978)
漢訳本には、著者の「中訳本序」がある。その日付は1994年7月30日だ。それから数えても出版されるのは6年がかかっている。著者もいうように、フランス語原本が出版されてからの20年の間に、多くの資料と研究論文が発表されているのだ。手を入れようと思えば、書きなおすよりしかたがなかっただろう。原著のままに漢訳本を出版するのは、著者も気のすすまぬことだったろうと想像する。(渡辺浩司氏より該書をいただきました。感謝します)
●9 問題点
大きな問題というのは、使用する資料に関係する。
特に、商務印書館と金港堂の合弁時期を研究対象とするばあいに生じる。
日本との合弁事業であるにもかかわらず、大多数の中国の研究者が日本側資料を利用していない(葉宋曼瑛と汪家熔は除いてもよい)。驚くべきことではないか。
日中企業が合弁したというのに、中国側の資料だけを使用して事実が把握できるのであろうか。単純な疑問にすぎない。日本の当事者が、金港堂と商務印書館の合弁について証言している。当時の評論文、雑誌記事もある。また、それらを用いた研究論文も発表されている。
金港堂については、稲岡勝が公表している一連の詳細な研究がある。はずすことのできないものだ。
研究をより深いものにしたいのならば、資料をできるだけ収集するのは当然だろう。日中合弁時期を扱うのであれば、日本側資料にまで目を配るのが常識ではないかと言っているにすぎない。
長尾雨山は、教科書疑獄事件で有罪と判定された。しかし、それが冤罪であったことに言及する中国の研究論文1本、研究書1冊もない。弱点となっていると判断する理由のほんの一例にすぎない。
ただし、王益論文のような論文もある。参考文献には漢語文献しかあげられていない。しかし、その記述は冷静にして事実をついている。日本語文献を参照しなくても、真相に近づくことは可能である。しかし、よほどの才能がなければできない相談だろう。研究者なら誰でもできると思ったら間違いであるのは、上の例を見れば理解できる。
●10 おわりに
以上、最近の商務印書館研究、特に日中合弁時期をとりあげて紹介した。
多くの問題点を指摘した。それらについて評論をすることは、誰でもできる、お前の見解はどうなのか、と問う人がいるはずだ。自分で資料を発掘し研究を進めずに、人の研究成果をあげつらうことに対してうさん臭さを感じている人に違いない。
商務印書館と金港堂の合弁問題について、日本人による著作があるべきだと考えて樽本『初期商務印書館研究』(清末小説研究会2000.9.9)をまとめた。
自分で自著を紹介するのは、やってできないことはないが、紙幅もとったことだし、ここでは省略する。
ひとことだけ述べておくと、商務印書館の合弁時期について、今まで書かれた文章のなかでは、もっとも詳細である。上に指摘した問題点について、すべて私なりの考えを提出しておいた。私の知る限りの資料を使って、もっとも合理的だと考える説明をした。自信をもっていうが、商務印書館にとっては耳の痛いことまでを洗いざらい書いたのだ。
該書については、日本で書評が書かれているので、その題名を掲げて締めくくりとする。
阪口直樹「中国現代文学研究の源流を発掘する――樽本照雄『初期商務印書館研究』」(『中国文芸研究会会報』第228号 2000.10.29/題名を「中国現代文学の源流を発掘する」と変更して、『清末小説から』第61号(2001.4.1)に再録)。
【注】
1)以前の研究については、樽本「商務印書館研究はどうなっているか」(『清末小説論集』法律文化社1992.2.20所収)を書いた。
2)沢本郁馬「鍵としての高翰卿「本館創業史」」(『清末小説』第15号 1992.12.1)をもとにして16-20番の5項目を追加した。
3)朱聯保編撰『近現代上海出版業印象記』上海・学林出版社1993.2。333頁
4)『人民日報』「商務百年書画展開幕」1997.4.25。陳原「商務印書館創業百年随想(関於張元済,他的理想和他的探索的若干思考)」1997.5.7。李桂傑「商務印書館百年風雲鋳華章」1997.5.8。「商務印書館建館百年/朱鎔基会見参加座談会代表/江沢民李鵬喬石李瑞環題詞」1997.5.9。「商務印書館曁中国現代出版一百周年座談会挙行/李鉄映発来賀信」1997.5.9
5)参照:『日本近代文学大事典』第4巻 講談社1977.11.18、『日本の出版社1998』出版ニュース社1997.10.25
6)印刷史研究会編『本と活字の歴史事典』柏書房2000.6.5。236頁
7)朱聯保編撰『近現代上海出版業印象記』上海・学林出版社1993.2。7頁
8)『中国出版年鑑(1998)』北京・中国出版年鑑社1998.9。95-100頁
9)樽本「商務印書館と山本条太郎」『大阪経大論集』第147号1982.5.15、樽本「長尾雨山の上海行」『清末小説研究会通信』第38号1985.7.1。1903年10月11日、原亮三郎は、小谷重と加藤駒二を伴い伊予丸にて上海へむかった。12月2日、長尾雨山は、河内丸で上海へむかった。
10)樽本「『繍像小説』編者問題の結末」『清末小説から』第62号2001.7.1
11)書評を別に書いた。樽本「新しい商務印書館研究」『東方』2001年8月号2001.8.1
【附記】本稿を執筆したあとに次の文献を入手した。張国功「商務的文化与文化的商務――近期商務印書館研究一瞥」『編輯学刊』2001年第2期(総第76期)2001.4。商務印書館の研究論文を幅広く紹介している。外国の文献も含まれるが、いずれも漢訳されたものだけ。日本における研究は、無視される。なお、樽本の著作に言及している張志強「記録百年商務的光輝足迹――近20年来商務印書館史研究著作述評」(『中国出版』2001年第3期 2001)がある。