あとがき


 本書には、「清末小説」の「研究」に関する文章を集めた。研究情況についてだから、範囲は広くなる。文献案内、書評、研究者の思い出、学会参加報告などと長短雑多なものになった。
 原則として、発表の時間順に配列した。1975年から2004年までの約30年間にわたる。
 初出に掲げた書影、写真、図画などは、そのまま収録するよう努めた。本書は、小さい活字で組んだので、書影でもなければ息が詰まると考えたからだ。
 だが、時間が経過していてどうしても探し出せない原版については、印刷物を再度複写した。不鮮明な部分がある理由である。ご了解いただきたい。また、いくつかの図版をあらたに挿入した。内容に関係していない写真は、1枚もない。説明を加えていないものは、その必要がないからだ。
 自分の文章を読みなおせば、書いた当時を思い出す。
 特に書く必要もないかもしれない。過去など知りたいとも思わないだろう。だが、今の私には、どうしても触れなくては気がすまない。それは、私が研究をはじめたのが、中国では「文化大革命」がまだ進行中の時期であったという事実だ。居合わせた場所と時間から、自分が意識しないうちに影響を受けている。
 日本では、中国文学の何をどのように研究してもいい自由がある。当たり前のことだと思う人がほとんどだろう。ところが、中国の「文革」と時間を共有した日本には、奇妙な風潮があった。中国で批判されている、あるいは批判がされたことのある研究分野は、日本でも研究しない。あるいは、避ける。ひどいのになると、研究をする人を批判する。いやな空気だ。「反中国」だと他人を責める人は、自分を中国の主流派と一体化する。信じられないことだが、ご当人は、それに疑問を持たない。それだけ中国の影響を強く受けている人が日本にはいた。だれそれと、今でも顔が浮かんでくる。
 私の体験からいうのだが、周りには感染したその雰囲気があった。なにしろ、台湾旅行をしただけで、その瞬間から私は台湾派というレッテルを貼られることになったのだ。大学の同級生が、面と向かってそういう。
 いつの時代でも追従派はいる、と思いもする。中国で流行している研究題目を自分の課題として追っかけるというやり方である。それですんでいた時期があった。
 だが、根が深いと思うのは、中国「追っかけ」派とはまるで関係のないような人までも、奥の方で影響を受けていたと知るときだ。
 学生時代、論文の主題を具体的に決める時期になった。一緒に学んでいた私の先輩は、蕭軍についての資料を集めていた。しかし、最終的には別のテーマに変更して、その時、彼がいうには、「蕭軍は批判されているから、どうしても(論文の主題とする)踏ん切りがつかなった」と。そうですか、としか返答のしようがない。「文革」でひどい目にあっていながら、やはり中国における評価とは無縁ではいられないのか、と私はその言葉を聞いて意外に感じたのだ。
 中国では、「文革」前から清末小説は批判の対象とされていた。その評価をめぐって論争があった。逆にいえば、論争がまき起こる程度に当時の学術界は正常であったということもできよう。しかし、清末小説を積極的に評価する研究者は、「文革」中に徹底して批判された。そのうち、研究そのものも他の分野と同じく停止してしまう。出版界もほとんど機能不全に陥った。そういう中国の情況をながめながら、私は卒業論文に『老残遊記』を選択した。大学紛争さなかの1969年である。出発点はゼロどころか、マイナス状態だったということができる。
 研究者は、いない。誰もやらぬなら、いや、やらないからこそ私が参入しよう。私が抱く疑問に答えてくれる人がいないから、自分で調べるよりほかに方法がない。
 私が清末小説研究に着手すると、どこからか、そんなところをやってドウするんだ、という声がする。直接、言われるわけではないからかえって始末が悪い。だが、私はすでに決めていた。動揺はしない。また、一方で私の研究に理解を示す人も少数ながらいたからなおさらだ。
 自由な研究を続けるために研究専門誌『清末小説研究』を創刊したのは1977年のことだ。
 中国の「文革」は、すでに終了していた。雑誌を手にした日本のある研究者(名前を知っているだけで、私は言葉を交わしたこともない)は、こんなもんやってるからダメなんだ、といって投げ捨てたという。何がどうダメなのか。それを私に告げた人にむかって問い返す気にもなれない。当事者の証言だから、まったくのウソではなかろう。かりにそれが事実だとして、当人どうしの人間関係が悪かっただけで、『清末小説研究』雑誌とはかかわりはなかったのかもしれない。雑誌にことよせて、いやがらせをした可能性もある。だが、割り引いて考えても、失礼な話だ、と思う。
 中国の学界においては、批判のあった研究分野だ。それを研究する雑誌を敢えて発行するとは、「反中国」である。そういう粗雑な論理が、日本で一部とはいえまかり通っていた時代の話だ。「反中国」だと他人を批判した瞬間に、その人は「正しい立場」に自動的に立ったつもりらしい。
 振り返れば、信じられないような事が、まじめに語られた時代だった。思い出して、楽しくもない。
 編集された資料集、目録など2次資料を書評の対象としたのは、私がそうしようと努めたからだ。中国では、2次資料は紹介されることがあるにしても、おざなりで内容の薄い場合が多いと時に感じていた。ただただ、ほめあげるだけだったりする。
 一方で、書物について誤記を行なっているのを見かけて不思議に思うことが重なる。原物を見ることができないのが主たる理由だろう。だが、誤記の再生産がくりかえされているのを目にすれば、これは奇妙だと気付く。源をたどっていくと、たとえば阿英「晩清小説目」に到達する。のちの研究者が、誤りをそのまま引用して平気である。
 資料編集の仕事を軽視しながら、論文執筆にはそれに全面的に依拠しているのではないかと疑う。
 編者の不注意からもたらされる誤記も困ったものだ。しかし、もし、編集物に意図的な書き換えを施していたらどうなる。資料集としての信頼性が問われることになるのは当然だ。
 だから、論文なら雑誌の初出をさがす、単行本なら初版を求める。日本でやることだから限度はある。しかし、できるかぎりそう努力してきた。
 原物にもとづいて、著書、資料集、目録類を評価することの重要性は、いうまでもない。だから、自分で実践している。正誤表をアラ探しと考えてもらっては困る。私としては、貴重な著書、資料集を作成してくれた著者、編者への賞賛と応援のつもりだからだ。
 本書が学術出版物である所以のひとつは、一般の出版物では敬遠されるであろう正誤表を省略していないところにある。
 各論に関連する文献をできるだけ掲載した。文献の存在を紹介すると同時に、後の研究に役立たせたいという考えからだ。また、自分のための「覚え」でもある。だが、実は、掲げた文献くらいは読んでから発言してほしい、という意味も込めている。私のひそかな希望だった。安易に発言することへの警告となるだろう、と思ったのだ。しかし、それが結局のところまったく無駄な努力であったことを本書のいくつかの文章によって読者は理解されるであろう。
 中国と日本において、清末小説研究の分野で発生した変化がどのようなものであったのか、本書は、それを理解する少しの材料となるかもしれない。

5月5日
樽本照雄