あとがき



 アラビアン・ナイトの漢訳は、中国でははるか昔からあるような印象をもたれているかもしれない。だが、漢訳が発表されたのは、ついこの前の1900年前後である。ついこの前といいながら、「前後」としか書くことができないほど資料は散逸している。これが清末小説研究を説明するばあいの決まり文句である。そうとしか言いようがないのだから、しかたがない。永峯秀樹による日本語翻訳の出版が1875年だ。これと較べても、かなり遅い。
 これだけのことを書くのにも、私にとっては時間がかかった。なぜなら、漢訳アラビアン・ナイト研究に着手するのには、準備が必要だったからだ。研究の条件が整わなかったといってもいい。
 清末翻訳小説のひとつとしてアラビアン・ナイトが存在していることは、意識はしていた。『清末民初小説目録』の編纂作業を続けていれば、いやおうなしに漢訳文献が目に入ってくる。しかし、論文執筆と直接結びつくわけではない。やるべき作業はいくつもあり、膨大な数があるアラビアン・ナイトにはなかなか手が出せなかったというのが本当のところだ。
 私が最初に書いた関係論文は、「『暴夜物語』の底本――日訳最初のアラビアン・ナイト」(『大阪経大論集』第52巻第6号(通巻第266号)2002.3.31)という。日本で最初に翻訳されたアラビアン・ナイト、すなわち、前出永峯秀樹訳『(開巻驚奇)暴夜物語』(奎章閣1875)についてのものだ。
 諸文献を読むと、永峯の拠った英文原書は、タウンゼンド版であるというのがその頃の定説であった。私の目に入った範囲内で、ということは当然広いものではないが、それまで異論が提出されたことはないと了解した。だが、実際にタウンゼンド版と永峯訳本を突き合わせて検討すると、底本として使用したのは該版のみではないことがわかる。挿し絵もひとつの手がかりになった。永峯は、大筋をタウンゼンド版に拠りながら、部分的にレイン版3冊本を挿入して翻訳している事実をつきとめた。また、一部でいわれているように、永峯訳本は、原文を抄訳したわけでもない。タウンゼンド版を忠実に翻訳している。抄訳したように見えたのは、タウンゼンド版そのものに省略があるからだ。これが論文の主旨である。
 論文執筆は、漢訳アラビアン・ナイトに着手する準備段階でのことだった。日本語翻訳の問題である。私の研究範囲とは違うとは思いながらも、当時、私が得た見解をほかで見ることができなかったから。だから、敢えて発表した。
 私の書いた論文に対しては、反応というものが、基本的に、ない。清末小説研究というのは、そういう分野であると考えてもらってよろしい。いつものことでなれている。
 ところが、この時は違った。しばらくして、杉田英明氏より「『アラビアン・ナイト』翻訳事始――明治前期日本への移入とその影響――」(東京大学大学院総合文化研究科・教養学部『外国語研究紀要』第4号2000.3.31)の抜き刷りをいただいた。私が書いたものよりも詳細に論じられている。ということで、上記論文は、本書に収録しなかった。
 漢訳アラビアン・ナイト研究で私がめざしたもののひとつは、中国人が使用した底本の英文原書をつきとめることだ。
 過去をふりかえれば、漢訳原書と英文原書のふたつともに研究の障碍だった。読むことができなければ、研究の進展を望んでもありえない。その種の分野に興味を示す研究者が出てくるわけもない。ゆえに、底本探求を実行した中国人研究者はいない。断言してもよい。だが、最近は、以前とは情況が違ってきている。中国の図書館でも漢訳原書を見ることができるばあいがある。また、インターネットの普及で、英文原書を入手することが比較的容易になった。私が漢訳アラビアン・ナイト研究に踏み切った理由でもある。
 漢訳の歴史をたどっていくと商務印書館版奚若訳『天方夜譚』にぶつかる。該本を検討するにあたって、英文原本の探求を主題にした。各種版本を比較検討すれば、それが英訳原書を紹介することにつながる。
 その結果はどうなったか。本書所収の論文を見てもらうしかない。案の定、英文底本の特定には困難を感じている。解決というのには、まだほど遠い。
 清末翻訳小説を研究するときの方針をくりかえす。「結論を急がない」。漢訳アラビアン・ナイトにおいても同様である。
 やり残している課題はいくつもある。研究は、今後とも継続される。
 各論の発表後、渡辺浩司氏より誤植の指摘をいただいた。感謝します。
 杉田英明氏より資料をいただき多くの教えをうけました。感謝します。


2006.4.20
樽本照雄