あとがき



 本書には、商務印書館にかかわる論文を集めた。商務の刊行物、あるいは関係した日本人たち、またほかの出版社との交渉などなど、だ。
 私の商務印書館に対する興味は、日本金港堂との合弁問題に始まっている。いわば研究の空白を埋める作業を継続してきた。先行論文を補充する一方で、新しい資料の発掘も行なっている。
 1例として商務印書館と金港堂の合弁解約書をあげよう。
 この文書は、独自に発見した。出版の発行年月からいえば、同じものを収録した中国の出版史料集の方が早い。だが、掲載した『清末小説』雑誌が一歩先行して日本で公表されたのが事実だ。以上のことをくりかえし指摘するのは、日本において資料を発見することが不可能ではないといいたいがためだ。
 商務印書館の火災問題にしても、重要な意味を持っているとの認識があればこそ、新しい資料にめぐりあうことができた。
 だが、できることとできないことがある。一般に公開された材料のなかから新しく利用できるものを探し出すことは、日本において不可能ではないかもしれない。ところが、商務印書館の内部資料となると、外部の人間にはお手上げなのだ。だからこそ、残された問題は多いといわざるをえない。
 初期商務印書館の財政状態は、どのようなものだったのか。新しく公開された資料をもとにして検討した。その結果は、解明されたという状況にはほど遠い。編集者の考えにより、資料の一部分が、それも重要な意味をもつ部分が削除されているからだ。資料の扱いに根本的な誤解があるのではないか。このように書くのは失礼だと感じる。もしかすると、全面公開ができないなんらかの事情が存在する可能性も否定はできない。なによりも、資料のより一層の公開が望まれる。将来、それが実現されるのを希望する。ただし、希望するだけで期待しているわけではない。
 商務印書館が刊行した大型の翻訳小説シリーズがある。「説部叢書」という。当時の中国文芸界に大きな影響をあたえた。翻訳小説研究の分野では無視することのできない存在だ。しかし、この叢書がどのように成立したのかを説明する文章は、中国では公表されたことがない。日本には「説部叢書」をまとめて所蔵する機関はないのではないか。実藤文庫にはいくつかを保存していて例外となっている。私は、それらを利用し、自分でもいくつかを集めて、あえて一文を書いた。いわば研究の入り口にさしかかっただけだ。今後も継続して探求する。
 商務印書館と美華書館は、ある時期に人的な関係があった。本書に美華書館についての論考を収めた理由である。中国では、美華書館についての専論は発表されてはいない。いくつかの俗説が広まっており、それが訂正されていない原因であろう。
 以上をながめれば、考察の対象は商務印書館の「初期」に限ってはいない。また、金港堂との合弁以後のことも説明する。これまた「初期」ではない。書名を『商務印書館研究論集』とした所以である。
 ひとことおことわりしておく。拙稿「辛亥革命前後における商務印書館と金港堂の合弁」(孫文研究会編『辛亥革命の多元構造』汲古書院2003.12.25)は、『初期商務印書館研究(増補版)』にその内容を吸収したため本書には収録を見合わせた。
 商務印書館と金港堂の合弁についていくらか調査をした。その結果、両者の関係を把握する中国側の意識に偏向があるように感じる。本文中でも説明した。重複するがあらためて述べておきたい。
 今でこそ「日中双方に利益があった合弁」という意見が商務印書館の人間からも出てきてはいる。だが、最初からそうであったわけではない。まるで被害者のように位置づける人がいたのだ。
 常識的に考えて、合弁という形態が片方からの強制で成立するわけがない。双方が合意をした合弁だから、一方が被害者であるはずもないのだ。事実を冷静に見ればそういう結論におちつくのは当然だ。だが、日本金港堂との合弁が、商務印書館にとってはまことに貴重な体験であり、技術情報を含んで多大な利益をもたらしたという事実を述べることができない時期が中国にはあった。その過程で商務印書館の人々は自分たちが被害者であるかのように装う習慣が身についたらしい。商務印書館文化という遺伝子に刷り込まれているようだ。私から見るとそのように感じる。
 研究計画というほどのことではないが、今後の方向を示しておく。
 商務印書館と金港堂が合弁したのは、唐突な印象を与えているかもしれない。合弁にいたる過程がそれほど詳細には明らかになっていないからだと思われる。金港堂が合弁の対象として商務印書館を選択したのには、人的関係から生ずる偶然的要素はあったであろう。だが、それに落ち着くまでには長い歴史が、日本と中国のあいだには存在した。今後は、商務印書館が創業される以前の事情をあきらかにする予定だ。すでに、準備をはじめている。


2006.8.1 樽本照雄