定価が中途半端である理由
――『新編清末民初小説目録』ができるまで

樽本照雄


 私がこれから述べようとすることは、自分の論文集を出版したい、それも費用は文部省科学研究費あたりでやりたい、という人にとって、なにかのヒントになるかもしれない。

 『新編清末民初小説目録』(清末小説研究会1997.10.10)を見た研究者から、なんと中途半端な定価であるか、と言われてしまった。
 「本体33,981円+税」は、消費税5%を乗じて35,680円となる。切りよく35,000円にするのが普通だろう、というご意見である。ごもっとも。
 中途半端にかこつけて、遠回しに高価であることをいわれたのであろう。
 定価が高くなった理由は、印刷した部数が少ないことによる。
 発行部数は、いうのも恥ずかしいが、わずかに200部なのである。本目録は、大量に出版するような種類のものではない。1千部、2千部という世界にも及びはしない。この200部が出ていくのに何年もかかる。覚悟の上である。ご理解をいただきたい。
 定価が中途半端なわけは、本目録が、文部省科学研究費補助金「研究成果公開促進費」の対象となっているためだ。
 文部省の上記促進費を、簡単に文部省補助金ということにするが、これを申請したのが昨年の10月だった。
 ふりかえれば、旧『清末民初小説目録』は、1988年に発行した。その時点で、最新で最も詳細な情報を盛り込んだ。約1千頁の大冊となったのは、使用した電脳ソフト(TIMS<ティムスと発音する>)に関係がある。
 TIMSは、カード型データ・ベースだ。1項目あたりに書き込むことができる文字数に制限がある。これを固定長型という。印刷は、そのカードを並べるというだけのことで、1頁に10件を印字し、データが約1万件あったから、単純に計算して約1千頁プラス索引(122頁)の目録となったのである。版下を作成し、印刷と製本を業者にまかせる。中国文芸研究会と経費を折半して負担し発行することができた。この時も印刷部数は、200部である。体裁についていうと、印字に満足できなかった。ドット・プリンタしか使用できず、不鮮明でいかにも電脳の印字ですとマル分かりなのだ。
 旧版発行直後、使用していた日立2020が、原因不明で自己破壊してしまった。チャチな機械しか作ることのできない会社で、保守サービスも悪く、まったく落胆する。同じソフトが動くエプソンに切り換え、データも移動し、機種の違いから生ずる外字の整頓に時間がかかったものだ。
 TIMSから桐第3版に移ったのは、処理スピードの遅さと固定長型に不便を感じたからだ。作品によって関連文献を収録しているものがある。これを全部記載しようとすれば、1項目に入りきらない。いくつもの項目にわたって連続入力するという工夫が必要となる。神経を使う作業をともなう。項目内容を無視すれば、検索が有効でなくなる。使いづらい。
 項目の字数を制限しない可変長型のデータ・ベースが桐第3版だ。当時からワープロ・ソフトとして新松を使っていた。(それは何ですか、と問われて驚いたことがある。)今では、忘れられた製品かもしれないが、使いやすい点では、抜群なのだ。同じ会社の製品で、世評も高かったから移行する気になったといえる。
 それでも2年近くは、TIMSと桐第3版を並行して使用していた。使い慣れたソフトを一気に捨ててしまう気にはならない。少々の不便は感じていても、不都合がなければ使い続けるものなのだ。完全に桐第3版に移行したのは、1993年1月、TIMSに事故が発生したからである。発売元に事故内容を説明し、動くようになるのを待つ、という手順を、これ以上くりかえしたくなかった。それまでにも数回、トラブルが発生していた。慣れていても、不安定なソフトは使うべきではない。いい潮時だったのだ。
 桐第3版は、データ数に制限もなく、処理スピードが早い。1万件を超えた段階で、検索時間を短縮することができれば、いうことはない。ソフトが、使用中に突然停止してしまうこともない。これが重要な点だ。大事なデータを保護するのが基本であるからだ。
 桐は、その後、第5版に改版されたものに切り換えた。データ数は、旧版の時に比較して約1.7倍にふくれあがった。そろそろ10年近くが経過しようとしている。データの出典を明示するなどの改良を行なった。なによりも増補改訂で旧版をしのぐ目録になっているのは確かだという自信がある。『新編清末民初小説目録』と題して研究者に広く利用してもらいたい。なんとか出版の目途は立たないか、と思いついたのが文部省の出版補助である。
 書類を取り寄せて見る。
 計画調書に判型、ページ数、発行部数、定価、補助要求額、発行所名、刊行の目的及び意義、刊行物の内容、目次、著者・編者の研究歴、著者・編者の主要著書・論文などを記入することになっている。文部省科学研究費関係の書類は、記入するのに煩雑ではある。だが、努力してこそのものだ。書類だけで審査しようというのだから、煩雑千万複雑怪奇となるのもしかたがないか。
 『新編清末民初小説目録』は、一般の出版社が喜んで出したいという種類の印刷物ではないこと、誰よりも私自身が知っている。世界にこれを必要とする人は、それほど多くない。出せば確実に赤字となるのは、自信をもっていうことができる。だからこそ、文部省の補助金なのだ。
 採算を度外視しても出版しなければならない研究書は、存在する。そのひとつが『新編清末民初小説目録』にほかならない、と小声でつぶやく。
 申請時にもうひとつ必要なのが、印刷所の見積書だ。組版、製版、印刷、用紙、製本の項目があがっている。
 普通、目にする助成出版物は、出版社が発行所になっているのがほとんどだろう。事務手続きをまかせてしまえば、楽ではある。だが、申請そのものは、個人がやらなければならないことになっている。どのみち、『新編清末民初小説目録』は、出版社を煩わせるような規模の書物ではない、とふたたび言っておく。
 印刷見積を出してもらうには、おおよそのページ数を知る必要がある。下準備として、ざっとデータを整理し、手元のページ・プリンタで仮に印刷してみた。二段組みで約1千頁になった。データが1.7倍にふくれているが旧版と同じくらいのページ数におさまりそうなのは、この二段組みを予定したからだ。
 出版社をさがすつもりはない。発行所は、清末小説研究会とする。印刷所の見積は、木村桂文社に依頼することにした。
 木村桂文社には、『清末小説』の印刷をお願いしている。『野草』の読者には、おなじみだろう。単行本では、『太田進先生退休記念中国文学論集』(中国文芸研究会1995)を印刷製本してもらったという経験がある。その印刷の鮮明さと造本の確かさは、木村稔社長の印刷センスのよさを物語っている。
 印刷のセンスについては、説明するのがむつかしい。1頁における字数、行数、字間、行間の指定は編集者でもできる。だが、天地ノド小口の空白をどういうバランスでとるか、縮小率をどれくらいにすれば、見やすくなるのか、指定のない場合、用紙の重さと種類をどう選択するか、表紙の厚さ、箱とのバランスなど、印刷所のセンスによる部分が少なくないのだ。
 実際に印刷物を見れば、その力量がすぐにわかる。木村桂文社は、その印刷センスがよろしい。選ぶのだろうが、製本所もしっかりしている。さらに、少部数の印刷も厭わず引き受けてもらっているから、今回もお願いできればいうことはない。
 原稿は、フロッピーで入稿し、校正は2回するという条件で見積を出してもらう。その結果、税込み定価35,000円で文部省には申請することにした。
 発行所が、出版社ではなく清末小説研究会では認められないかもしれない。一抹の不安はあった。どうせダメでもともとなのだ。
 1997年5月だったか、内定したと通知をもらった。それはよかった。だが、内定額を見て、考え込んでしまう。申請金額の約半分なのだ。これは困ったといわざるをえない。なぜなら、印刷所関連の項目をなんど見直しても、組版経費が出てこないからだ。
 印刷の際、どこに一番費用がかかるかといえば、この組版部分だ。原稿を活字に組み版下を作成する工程である。現在ならば、文字を電子データに入力する部分ということになる。なにしろ1千頁を超える目録だ。校正をするにしても気が遠くなる。外字をどうするかも問題で、写植で一字一字貼り込むことになるだろう。その数も、軽く1千文字を超えるはずだ。手間がかかるぶん、費用がかさむはずである。
 内定金額をふまえて、文部省にふたたび書類を提出しなければならない。「財源」という項目に、「文部省補助金」とならべて「出版社負担」、「その他」というのがある。文部省補助金は、内定の金額だ。出版社負担は、私の場合、出版社がないのだからゼロ。残るは、その他の項目に印刷必要経費から文部省補助金を差し引いた金額を書き込むことになる。なんのことはない、補助金で不足する分は、自己負担しろという意味である。これでは、出版社が引き受けてくれなければ出版できないはずだ。そういう仕組みになっている。
 ここが分かれ目である。提示された補助金額では出版できない、と補助金を辞退するか(それ用の書類が同封してある。よくあることらしい)、自己負担とするか。三つ目の方法は、版下を自分で作成するか。
 フロッピー入稿で校正を2回するくらいなら、いっそのこと自分で版下作成まで全部をやってしまったほうが手っとりばやい。時間はかかるが、費用を考慮すれば、それしか残された方法はなさそうだ。印刷所の仕事をこちらでやるわけである。旧版も自分一人で版下を作成したのだから、まあ、できないこともない。手元にページ・プリンタもあるから、10年前とは情況も異なる。桐は第5版に、松は第6版に改版している。MS-DOS版で、これ以上の改版はないらしいが、手慣れたソフトと機器にまさるものはない。窓95も使用はしている。だがこちらは、インターネット専用で、すべての作業をこれに移行するつもりは今のところ、ない。1年経過したところでハードディスクが自己崩壊するようなNECの機器に依存したらどのようなヒドイ目にあうかわからないからだ。
 個人電脳のデータ・ベース・ソフトでどれくらいのことができるか、少しだけ紹介しておく。
 その前に、漢字について触れておこう。
 文字は、すべて日本語だ。中国語ワープロを使用したことがあるが、そのひどさに、ドブに捨ててしまった。ずいぶん前のことだ。日本語論文の中に中国語原文を引用する場合は、漢字データも共有している方が、便利にちがいない。日本で出版する書籍だから、日本語漢字でもよかろう。また、繁体字を使うこともしなかった。見た印象が黒くなる可能性がある。
 作品のデータは、とりあえず片端から登録する。書名、その中国語読み(ピンインで記入)、著訳者、発行所、発行年月日、典拠資料などの注記をそれぞれ入力する。
 これを作品のABC順に配列するには、キーをたたけば、瞬時にして作業を終了する。
 約1万7千件の書名の中から、特定の文字を検索することなど、電脳だからこその得意技だ。ある人物の作品を抽出することも、極めて容易である。同じことをカードでやろうなど、とてもではないが、その気にはならない。私個人で利用しているだけでは、本当にもったいないくらいに便利だ。だからこそ、電子データには及ばないにしても紙に印刷して研究者に使ってもらいたいと思う。
 紙に印刷するためには、いくつかの準備が必要となる。
 まず、作品に総番号をつける。ABC順に作品を抽出する。抽出した作品に連番を振る。翻訳作品だけを選択し表示させてから翻訳を意味する「*」印を添付する。これらの作業は、ひとつひとつを手で行なうわけではない。電脳に指示を与えれば、勝手に作業してくれるのだ。ほとんど時間を要しない。これでこそ電脳を使用している意味がある。
 版下を作成するため、ABC順に作品を整列させたうえでこのデータをワープロ・ソフトの松で整形する。見やすいかたちになおすのだ。すなわち、作品名をゴチック体に指定し、著者、掲載誌あるいは発行所、注は2字サゲに、という具合だ。ここは、手作業になる。
 整形する過程で、間違いが見つかることがある。そうするとその項目は、もとのデータ・ベースにさかのぼって訂正し、もう一度全体を整形しなおす。これを繰り返すのだ。
 索引は、三段組にし、見やすいようにこちらも整形しなおす。
 問題の外字については、本当に往生した。松は、一度に約180字の外字しか管理できない。それでファイル毎にそれに対応する外字ファイルを作成する。数えてみれば、今回使用した外字は621種だった。これでなんとか切り抜けることができた。
 以上の作業を単調にこなした結果が、『新編清末民初小説目録』の発行である。
 装丁デザイン、割り付けなどすべてを指示することができる幸せに恵まれた。木村桂文社と製本、製函の各社のご尽力により、立派な印刷物にでき上がったと思う。個人電脳で、どれくらいのことができるか、この目録を見てもらえばその水準を理解することができる。
 記述の間違いは、私の責任である。今後も増補訂正作業を継続する。
 さて、定価である。
 最初に予定した35,000円は、消費税3%時の数字だった。1997年、消費税が5%に上がったことによって、変更を余儀なくされる。定価を変更せずにすませたかったが、文部省の指導で以前の本体価格33,981円は変更してはならないという。中途半端になったのにも理由があるのである。

『中国文芸研究会会報』第192号1997.10.26