厳薇青氏のこと

厳民(左) 厳薇青(右)



厳薇青氏のこと


樽本照雄


 1997年11月25日、厳民氏より彼女の父・厳薇青氏(山東師範大学)の死去を知らせる手紙をいただいた。厳民「悼父親」(『人民権利報』1997.8.23)の複写が同封してある。唐突すぎて、言葉が出ない。
 郵送した『新編清末民初小説目録』は、10月にはお手もとに届いているはずだ。そういう場合、懇切なお手紙を書かれるのが厳薇青氏の常である。氏の専門のひとつである「老残遊記」に関連して、その版本もできるだけ収録したのがこの『新編清末民初小説目録』だ。ご意見をお聞かせくださるものと思っていた。そのお知らせがないのは、ご多忙なのだろう、くらいにしか考えていなかった。8月3日にお亡くなりになっていたとは、想像もしていなかったことだ。『新編清末民初小説目録』を見ていただけなかったとは、残念でならない。
 私からお送りする刊行物に対して、氏から受領のお返事を拝受した。また、劉鉄雲と「老残遊記」についての発表論文を送られることもあった。厳氏にとって劉鉄雲「老残遊記」研究は、氏の幅広い研究の一部分を占めているにすぎない。しかし、思いかえせば、私が一人で決めているのだが、厳薇青氏と私は、劉鉄雲「老残遊記」研究という一点で結びついた師弟の関係であった。
 「関於《老残遊記》的作者劉鶚」(『文史哲』第1期1962)の著者として、厳薇青氏のお名前は、私が大学院生のころから聞いていた。
 1970年に香港で発行された論文集で知ったのだ。そのころ中国大陸では「文化大革命」により出版界も活動を停止していた。論文を読むのも香港の影印本にたよっていた、といっても今では理解しがたいかもしれない。
 該論文は、劉鉄雲を反動派の人物として徹底的に批判する文章に対し冷静に反論するものだ。「政治思想上、彼(劉鉄雲)が改良主義者であることを肯定するからには、彼には、当然、反動の一面があるが、また進歩の一面もある」と述べ、劉鉄雲の生涯について客観的に、全面的に、具体的に検討を加えることを要求する文章となっている。
 厳薇青氏のこの公平で沈着な研究姿勢は、当時の中国の政治状況では認められなかった。ついには研究論文の範囲を逸脱し、激しい個人攻撃にさらされることになる*1。
 劉鉄雲「老残遊記」批判は、もともと胡適批判の枝葉として1950年代に発生している。胡適批判が中国共産党中央の政策として発動されたものであるならば、劉鉄雲「老残遊記」批判もその一環ではなかろうか。そういう疑問を私は抱いていた。胡適が「老残遊記」を評価したからには、「老残遊記」は批判されなくてはならない。どう考えても奇妙な論理ではあるが、こちらの論理が大勢を占めていた時代であった。
 厳薇青氏が、いくら冷静に、たとえ研究論文としてであっても、劉鉄雲「老残遊記」批判に楯突く文章をあえて書かれた理由がわからず、のちにお会いしたおりに質問せずにはいられなかった。
 「いや、胡適批判は中央からの批判運動だったが、老残遊記批判は、自発的なものだったのだ」
 厳薇青氏は、両者の根本的な違いをそう話される。その場では、わかったような気になった。それ以上、質問をしなかった。だが、今考えれば、やはりよくわからない。なぜなら、結果的には、研究と政治の区別がつかなくなり、老残遊記批判が厳薇青攻撃に直結してしまったのが事実なのである。厳薇青氏のお言葉からは、1960年代初期には、まだ研究と政治が分離されているという認識が残っていたことがうかがえるだけだ。結局は、厳薇青氏の判断は、事実によって裏切られた、ということになるのだろうか。
 厳薇青氏と私が連絡をとりあうようになったきっかけは、劉〓孫氏(福建師範大学)がつくってくださったらしい。厳薇青氏が注をほどこした『老残遊記』(済南・斉魯書社1981.2)を私に送るよう劉氏が厳氏に依頼されたとうかがった。
 該書には、初集20回のほかに二集9回および外編残稿も収録する。初集20回には、厳薇青氏によって詳細な注がつけられているが、二集と外編残稿には、注釈がついていない。これはなぜなのか、その理由をおたずねした記憶がある。その返事は、「二集ほかは、劉鉄雲の著作ではないと考えていたからだ」というものだった。まことに正直なお言葉である。
 厳薇青氏の公平で冷静な研究姿勢は、自説に固執しない、正しいと思われる方向に意見を修正することをためらわない部分にうかがうことができる。意見の修正には、事実の裏付けがあることはいうまでもない。
 1987年11月、淮安で開催された劉鉄雲学会でのことを思い出す。厳薇青氏にはじめてお目にかかったのが、この淮安だった。氏は、「論文に書いてくれてありがとう」と言われる。私には、厳薇青氏がどの論文について言われているのかすぐに理解できた。
 「老残遊記」のモデル問題である。
 「老残遊記」に登場する不思議な人物、黄竜子と〓姑に関して、厳薇青氏は、注釈本の「前言」では、ふたりとも虚構の存在であると述べられている。しかし、その後、考えを改めた。「読《老残遊記》札記」(『柳泉』1982年第2期)において、彼女らは太谷学派の関係者にもとづいて劉鉄雲が創り上げた人物形象である、とする。太谷学派関係の文献を根拠とした推測であり、それ以前の阿英の唱える虚構説を否定する見解が厳薇青氏によって提出されたわけだ。
 私は、諸文献と記述の流れを整理し総合して厳薇青氏の新見解をも含めて検討したことがある。その結果、氏の見解を支持した*2。
 厳密に点検すれば、厳薇青氏の説が妥当である、というごく当たり前のことを書いているにすぎない。わざわざお礼をいわれるようなことではないのだ。ここは、ただ、話のきっかけだろうと思った。
 1993年10月、済南で開催された「劉鶚及《老残遊記》国際学術討論会」のことだ。2度目にお会いした時にも、「あの論文は、ありがとう」とおっしゃる。謙虚なお人柄であるとますます好感をいだいた。
 「老残遊記」に描かれる桃花山は、実在の黄崖山である、というのは私の思いつきだ。私のそんな思いつきにも、厳薇青氏は、考えられたうえで賛同してくださった(前出「読《老残遊記》札記」)。ほかならぬ厳薇青氏のお言葉である。うれしいに決まっている。これもなつかしい思い出となってしまった。
 「老残遊記」の舞台となった済南市内と黄河を見物に行ったことがある。私が天津に長期滞在していたころだから1984年だ。その時、厳薇青氏とはお会いできなかったが、その後、私と顔を会わすたびに、「あの時は申し訳なかった」とおっしゃる。恐縮せざるをえない。
 1993年の済南では、劉〓孫、劉徳隆氏をはじめとする劉鉄雲関係者にまぜてもらいお宅にご招待を受けた。これもいい思い出だ。
 実際にお目にかかったのは、淮安と済南の2度にすぎない。しかし、書面による交流があった。私にとっては30年近いおつきあいになるのと同じである。
 人柄は、物静かで誠実、しかし、研究には厳しい。ただし、外国人の私にはいろいろとご教示くださることを厭われなかった。
 厳薇青先生、あなたは、私の研究上のよき師でありました。遠く日本より心から哀悼の意を表します。(1997.12.5)

【参考】厳薇青氏の著作などについては、樽本照雄「済南再会――厳薇青氏と老残遊記研究」(『清末小説から』第33号1994.4.1)をご覧ください。

【注】
1)樽本照雄「「老残遊記」批判とは何か」『野草』第47号1991.2.1
2)樽本照雄「「老残遊記」のモデル問題――〓姑の場合」(『野草』第33号1984.2.10。のち『清末小説論集』法律文化社1992.2.20所収)

【追記】本文を書いた後、厳薇青、厳民著『済南瑣話』(済南出版社1997.8)をいただいた。

『中国文芸研究会会報』第194号1997.12.30掲載