中島利郎『晩清小説研叢』について


樽本照雄


1.はじめに
 中島利郎『晩清小説研叢』(汲古書院1997.7.30)を書評しようとすると「仲間内」という言葉がじゃまをする。私と中島氏は、清末小説研究上において1970年代からの知りあいである。「仲間内」で書評するのは、それだけで偏見をもって見られる可能性がある。
 それでは、まったくの無関係の人ではどうか。すぐさま瀬戸宏氏(摂南大学)の例を思いうかべるのだ。
 瀬戸宏氏は、私の『清末小説論集』(法律文化社1992.2.20)を「書評」(『東方』1992年7月号)した。まったくの無関係の人である。
 それを読んで、私は、自分の目を疑った。瀬戸宏氏が清末小説についてほとんど何の知識も持ち合せていないことが判明したからだ。自分の知らない分野について、その専門書を書評しようというのである。たとえば、瀬戸宏氏は、「老残遊記」を「老山遊記」と間違う。瀬戸宏氏は、呉〓人を呉研人と誤る。基本語彙である。『東方』にも基本語彙の誤りを訂正することのできる編集者がいない。
 基礎的知識を欠く人物が「書評」して、編集者が知らずにそのままを掲載する。その結果が、無内容でしかも、ないものねだりになっているのも必然である。
 清末小説という研究分野が、日本において軽んじられていると感じるのは、瀬戸宏氏のこういう無知で厚顔な文章が、なんのためらいもなく書かれたうえに発表されるのを目にする時だ。
 知らないことについては沈黙を守る、という智恵があってもいい。もっとも、その智恵があれば、わざわざ出てきて文章を発表するわけがない。瀬戸宏氏は、瀬戸宏氏自身に智恵もつつしみもないことを瀬戸宏氏自ら証明してみせたわけだ。
 では、瀬戸宏氏の文章が、まったくの価値がないかといえば、そんなことはない。瀬戸宏氏自身が清末小説に関して無知であり、知らないことに対しては杜撰なことを平気でやることのできる人間であることを学界に知らしめたという点では、その存在価値は大いにあるのである。
 ひとことつけくわえれば、智恵がないという自覚を持たない分、瀬戸宏氏が、独特の怪演奇技でもってふたたび私たち観客をおおいに笑わせてくれる可能性もあるのだ。

2.中島利郎氏の研究
 私は、はじめ、中島利郎氏は、五四以降の中国近代文学を専攻する人だと思っていた。20年以上も昔のことだ。私が最初に見た中島氏の論文が、「胡適の白話詩について(付胡適年譜私稿1)」(『〓唖』第2号1974.5.1)だったからである。
 その後、「増田渉先生退職記念」と銘打った『阿英著「晩清小説史」固有名詞索引』(関西大学文学部中国文学研究室編発行 刊年不記<1974.10付序がある>。油印)が出た。中島氏たちの仕事だ。それにつづいて、該誌第4号(1975.7.31)に「雑誌所収清末小説関係文献目録(初稿)」が掲載される。
 そのころ、私は、劉鉄雲と「老残遊記」を中心とした文献目録より、すこしずつ範囲をひろげつつあったから、便利な目録だと感じた。だいいち、清末小説関係の文献目録は、当時、ほとんどなかったというのが実情だ。中国では「文化大革命」が継続されていて研究どころではなかったし、ましてや、清末小説研究など問題外だった。
 さらに、該誌第5号(1975.12.31。入手したのは1976.3.25)から「阿英『晩清小説史』試訳ノオト」が始まる。詳しい注がついていた。毎号、大きな関心を持って読んだことを覚えている。この注は、後日、阿英著、飯塚朗、中野美代子訳『晩清小説史』(平凡社1979.2.23)に生かされることになる。
 清末小説関係の資料収集整理、および特に呉〓人を中心とした論文執筆に専念する中島氏は、私にとって頼りになる存在だった。1970年代、清末小説研究の分野において、日本の研究者は、本当に少数だったからなおさらのことだ。『清末小説研究』創刊(1977)とその発行継続にも協力してもらった。また、『清末民初小説目録』(中国文芸研究会1988.3.1)編集にもお世話になった。
 過去においては、中国大陸の研究情況に左右されて、日本でも無視される研究分野があったのは事実である。清末小説研究であり台湾文学研究だったといえるだろう。
 無視される事物、研究分野に対して、中島氏は、大きな興味を抱くらしい。清末小説研究から、あれよというまに、そのころごく少数の人しか関心を示さなかった台湾文学研究の分野にも参入していった。
 中島氏の主力は、清末小説から台湾文学に移ったようだ。ご自身は、そのつもりはないかもしれない。だが、発表される清末小説関係の論文が、1985年を頂点にして以後急激に減少する。1975-93年のうち、75%の論文が前半の11年間に集中しているのだ。1993年を最後に清末関係の論文を目にすることがなくなった。中島氏が清末小説の研究を放棄したとは思わなかったが、中断したように、私には、見えた。
 中島氏は、台湾文学関係の編著を発表し有名である。だが、清末小説研究は、台湾文学研究よりも(と比較する必要はないのだが)年季が入っている。
 台湾文学関係の編著で中島氏を知っていただけの読者にとって、『晩清小説研叢』の出現が、もしも、意外に感じられたとすれば、それは、以上にのべた中島氏の研究歴を知らないからだといっておこう。もっとも、『『台湾時報』総目録』(緑蔭書房1997.2.15)の編者紹介に掲げられた主要論著には、魯迅と台湾文学関係のものしか掲げられていない。その書物の性格を考えてのことだろう。清末小説研究の業績が示されていないのだから、知ろうとしても無理か。
 さて、資料の収集整理と論文執筆という両輪をうごかしながら、中島氏は、1975から1993年までに、清末小説関係に絞って見ると、私の知る限り70本の文章を発表している。そのうち目録類は15本、翻訳が11本、論稿31本、書評6本、その他が7本だ。この論稿31本のうちから22本を選び『晩清小説研叢』が成っている(既発表論文を再構成しているので章立てと収録本数は異なる)。目録と翻訳は、紙幅の関係からか、訳注の1本を例外にして今回は収録を見合せられているようだ。
 本書は、中島氏の清末小説研究の、いわば、ひとくぎりとして位置付けられていると私は判断する。

3.全体の構成
 本書の全体は、3章に分かたれる。
3-1 第1章は、「阿英と『晩清小説史』」と題し4本の論文を収録する。
 『晩清小説史』は、阿英が個別に発表した論文をもとにし、それらを分類しなおして成立し、阿英は「「晩清小説」をほぼ一九〇二年以降に出現した小説と考えていた」(8頁)という。阿英の個別論文と小説史の各章を対照させて説得力がある。中島氏の指摘には、誰もが納得するだろう。
 さらに、引用文を問題にする。阿英が『晩清小説史』で行なっている引用は、原文と異なる部分があり、はては改竄する箇所が存在することを述べる。また、彼の改訂改稿には政治的背景があり、胡適批判を強化し、周作人部分は削除している事実を明らかにしている。新旧の文章を細かく対照し、その変化を追求した点が評価できる。中国大陸においては、文学史といえども政治情勢からは無関係ではありえなかった実態が痛々しいまでに伝わってくるのだ。
 台湾にも似た例がある。「台湾商務印書館「人人文庫」所収リプリント版」(15頁)とあるが、これである。中島氏が、「一部削除がある」(24頁)という部分を補足すれば、この台湾版『晩清小説史』(台湾・商務印書館1968.5)は、第14章翻訳小説の魯迅兄弟部分を全面削除している。これも同様に政治的理由だったと推測することができる。台湾の学術論文に大陸で発行された1949年以後の書籍が引用されるようになったのは、ようやく1970年代になってからだ。それまでは、大陸で発行された書籍は、台湾には一般に持ち込みが許可されなかった。1997年、北京瑠璃廠の書店に行けば、書籍小包の小山が通路をふさいでいる光景を見ることができる。ほとんどが台湾むけのもので、台湾の研究者が書籍の買いだしに北京に赴いているのである。台湾における大陸出版物持ち込み禁止など、ウソのような気がしても無理はない。過去において、たしかにそういう事実があったことを知っておくのも無用ではなかろう。
 中島氏を含めて、原文に当って阿英の誤りを明らかにすることができるようになったのは、研究情況に変化が生じたからだ。それまで、一部しか見ることができなかった雑誌が影印された。「晩清小説期刊」と題して『新小説』『繍像小説』『月月小説』『小説林』『新新小説』が出版され、容易に入手できる(上海書店影印、香港・商務印書館1980.12)。そのほか、復刻本も出版されるようになっている。阿英の編集シリーズしか資料がない、という情況が解消されたのが小さくない原因である。
 注目されるのは、本書で中島氏が、研究者の意識を問題にしている点だ。中島氏の実体験を紹介して、呉〓人の作品を追求する過程で、中国人研究者の協力をもとめたが、成果だけを発表されてしまったという。
 こういう類の話が表面に出ることは、あまりない。口頭で罵倒していても、文章にするのははばかられる。上品ではないと思われるのだろう。だが、事実そのものが濃淡こそあれ醜悪であることを忘れてはならない。事実を明らかにすることも学術交流のひとつだと考えれば、目をつむることは研究の前進にはつながらないのだ。
 情報の交流も活発になっている現在だから発生する問題かもしれない。競争が激しくなっているのも本当だろう。しかし、そこにはおのずとお互いに了解すべき規則というものがある。
 引用であることを明記する、引用文献を明示する、といった学術論文を書く場合の基本規則を守らない論文が出現している。引用を明記しなければ、盗用となりかねない。事実は、誰が書いても事実だ、という考えが中国にあると聞いたことがある。だが、努力をして発掘しなくてはならない事実もあるのだ。その努力に対して敬意をはらうのが研究の前進につながることになぜ気づかないのだろうか。
 二重投稿はしないのも当然の規則であるが、日中間では、事情が異なるらしい。日本で編集発行している年刊誌『清末小説』、季刊誌『清末小説から』に掲載された論文が、そのまま初出誌を明記しないで中国大陸の学術誌に載ったりするのだ。
 具体名をあげよう。前述の中島氏に関するのは、王俊年「呉〓人的一七首佚詩和一篇佚文」である。私の編集する『清末小説』第10号(1987.12.1)に掲載された。驚いたことに、この王俊年論文は、10年後の張正吾主編『晩清民国文学研究集刊』第4輯(1996.8)に再び発表されている。初出を明示しない。これを称して無断転載という。同誌には、もうひとつ、魏紹昌「林語堂愛読的両本通俗小説」が収録されている。これも『清末小説』第10号からの無断転載である。
 「緊密な交流」ということばを聞く。結構なことである。ただし、この「交流」は、一方的なものであってはならない。あくまでも基本規則を守ったうえでの双方向でありたい。
 記述のなかで触れておいたほうがいいと思うことを指摘しておく。
 「現在まで新たな『晩清小説史』は出版されていない」(53頁)とある。この論文が発表された1991年以前にもすでに新しい文学史は出版されている。清末を含んだ近代文学史で私の知っているものを示しておく。中島氏が知らないはずがないから、これらは、補遺として掲げてもよかった。

陳則光『中国近代文学史』上冊 広州・中山大学出版社1987.3
任訪秋主編『中国近代文学史』開封・河南大学出版社1988.11
時 萌『晩清小説』上海古籍出版社1989.6
陳平原『二十世紀中国小説史』第一巻(1897-1916) 北京大学出版社1989.12
管林、鍾賢培主編『中国近代文学発展史』上下 北京・中国文聯出版社1991.6
欧陽健『晩清小説簡史』上下 瀋陽・遼寧教育出版社1992.10
江 辺『20世紀中国文学流派』青島・青島出版社1992.12
喬福生、謝洪杰主編『二十世紀中国文学』杭州大学出版社1992.12.1
陳伯海、袁進主編『上海近代文学史』上海人民出版社1993.2
黄 霖『近代文学批評史』上海古籍出版社1993.2
郭延礼『中国近代文学発展史』全3巻 済南・山東教育出版社1990.3,1991.2,1993.4
范伯群、朱棟霖主編『1898-1949中外文学比較史』上下 南京・江蘇教育出版社1993.9
楊義、中井政喜、張中良合著『二十世紀中国文学図志』上下冊 台湾・業強出版社1995.1。のち『中国新文学図志』と改題し出版された(上下冊 北京・人民文学出版社1996.8)。
鍾賢培、汪松涛主編『広東近代文学史』広東人民出版社1996.1

3-2 第2章は、「呉〓人とその作品」について論じた文章13本が、収録される。
 呉〓人関係の論文をこれだけ集めたのは、中国語による専著は別にして珍しい部類に属すると思う。日本では、空前である。
 李葭栄の筆になる呉〓人伝を翻訳し注釈をつけて呉〓人その人の紹介にかえたのは、ひとつの工夫だ。
 もっとも、魏紹昌氏が、魯迅の『中国小説史略』から呉〓人部分を取りだし、それに注をつけて略伝にかえている例がある(『呉〓人研究資料』上海古籍出版社1980.4。2-9頁)。魏紹昌氏は、李伯元についても同じことをしているが、これは魯迅の文章を引用すれば批判を免れるという当時の中国大陸の政治情況を反映しているのだろう。政治上の理由から魯迅の文章が選ばれているだけであって、研究上、それが適当かどうかは、また、別の問題だ。
 中島氏が、方法を魏紹昌氏にならったとして、呉〓人の伝記に関して李葭栄の文章を選択したのは、魯迅のものよりもはるかに妥当である。だいいち李葭栄の方が、記述が詳しい。
 細かいことをいえば、引用される田原天南編『清末民初中国官紳人民録』(78頁注2)は、台湾影印本の書名である。原題は、『最新支那官紳録』(北京・支那研究会1918.8.20初版未見、1919.9.10三版)という。
 「一九〇三 ……また、この頃、経済特科に推薦されるが辞退する」(85頁)は、1902年に移動すべきだ。1902年発行の新聞を調査して、私は、「李伯元と呉〓人は 経済特科に同時推薦されていた」(『清末小説から』第34号1994.7.1)事実を明らかにしたことがある。
 呉〓人の歴史小説3篇および「九命奇冤」と「恨海」「上海遊驂録」を論じ、短篇小説に言及して、彼の関係する『月月小説』その他について述べる、という順序だ。それぞれに興味深いのだが、ここでは特に「恨海」の版本をあつかった部分をとりあげたい。さきに紹介した阿英の引用文改竄を明らかにした手法の原型が、ここに示されているからである。
 阿英の編集した作品そのものに改竄された箇所があれば、誤った記述に拠って得た結論が誤る危険性が生じる。研究の根幹にかかわる問題だ。
 中島氏は、呉〓人「恨海」の版本について「現在知られる『恨海』の版本は六種類である」(159頁)と書く。これは、論文が書かれた1980年時点での話だ。この時、初版である広智書局本を見ることができなかった。つまり、一番重要な版本を欠き、次善の策として「拠原刊本排印」とある阿英編集本を根拠に5種類の本文批判を行なう。その結果が、「現在の段階で『恨海』の版本について最も信頼するに足るものは、「拠原刊本排印」と註記した「阿英版」ではなく、「広益版」継いで「台湾版」ということになる」(166頁)。常識を覆してみせたところが、よい。字句の一つひとつを対照させて精密な作業を経たうえでの結論なのだ。検証してみなければ得ることのできない結果だといえる。
 これで終わらせず、中島氏は、さらに「『恨海』版本二種」(『中国文芸研究会会報』第32号1982.2.14)を発表している。だが、不思議なことに、本書には、この論文を収録していない。その理由を知らないが、問題を継続追跡する研究姿勢がうかがうことができるのだから、捨ててしまったのは惜しい。
 1984年、私は、天津に留学した。そこで、偶然、「恨海」初版本を見つけることができた(「天津図書館所蔵の呉〓人著作」『〓唖』第20号1985.3.10)。さらに、中島氏に点検してもらった『清末民初小説目録』には、22種の版本を収録する。もうひとつ、訂正増補した『新編清末民初小説目録』(清末小説研究会1997.10.10)では34種にのぼる。つまり、中島氏は、それ以後の資料で、やろうと思えば、本書収録の論文を補正することができたのだ。今回それができなかったのには、時間の制約とか、いろいろな理由があったのだろうが、まことに残念なことだと思う。
 追跡調査の中断は、ほかにも見られる。
 呉〓人の作品だと考えられている「学界鏡」「盗偵探」がある。魏紹昌氏が、これに関して呉〓人の作ではないと書いた。中島氏は、それに対して「明証が提示されておらず、いまは一応従来の阿英の説に従って呉〓人の作とした」(215頁注2)。以来、中島氏は、この段階に止まったままなのだ。私は、証拠を提出して呉〓人の作品ではないことを述べている(「〓叟という人物」『清末小説』第12号1989.12.1。のち、『清末小説論集』所収)。
 経済特科、「恨海」の版本問題、また、〓叟という筆名にしろ、新しい文献が出ているにもかかわらず、それらについての言及がなされなかった。中島氏は、研究の主力を台湾文学に移行させた結果、清末小説研究は中断した、と私が考えた理由のひとつでもある。
 「あとがき」を読むと「二十年目睹之怪現状論」が準備されているという。本書には、収録されなかった文章とあわせて次回の出版に期待する。
3-3 第3章「その他」3本については、触れる余裕がなくなった。魯迅『中国小説史略』、黒幕小説、徐枕亜「玉梨魂」に関する論文である。魯迅はさておき、残るふたつは、あまり論じる人のいない珍しいものだ。
 民国初期の作品に関する論文が、なぜ清末小説研究の本書に収録されているのか、といぶかる人がいるかもしれない。清末に時期的に異なる民初を含めるのか、という問題になる。余裕がなくなったといっているのだから、ここで文学史の時代区分を述べるつもりはない。中島氏自身が、本書のなかで、「たとえば「晩清民初期小説」との新しい小説区分が見えてくる可能性がないとはいえまい」(61頁)と書いている。そうすると、本書は、本来ならば『晩清民初期小説研叢』と称すべきだったのかもしれない。

4.おわりに
 最後に、希望と意見を述べる。
 索引は、本書をより有効に利用するために、この種の学術出版物には、不可欠のものだ。ページ数、時間の問題だとくりかえしてもいいが、それにしても、索引がないのは不便である。索引部分だけを別の形で発表してもらうとありがたい。
 収録論文の初出一覧がある。題名を変更したものについては、まとめて説明をしてもよかったのではないか。
 中国人研究者が、清末小説関係の論文集を出版するのは、経済上の困難があるにしろ自国の文学なのだから当たり前だ。しかし、中国語を母国語としない研究者が、清末小説についての専著を出版するのは、世界的に見ても貴重な部類にはいる。最近では、韓国の呉淳邦氏を唯一の例外として知るだけである。
 日本における学術出版には、困難がつきまとう。ましてや清末小説関係では、その困難は、より大きい。それだけに中島氏の『晩清小説研叢』の出版には、心からの拍手を送りたいと思う。
 同時に、本書の出版は、これまでの研究に一応のくぎりをつけ、中断していた清末小説研究をまた始めるという中島氏のいわば研究再開宣言である、と私は理解した。

5.誤植
 気がついた誤植を掲げる。

誤 正
67頁10行 略談鴉篇戦争依頼文学…… 略談鴉片戦争以来文学……
80頁14行 光緒三〇年 光緒三一年
81頁1行 『漢報』 『漢口日報』
84頁10行 『字林報』 『字林西報』
85頁6行 『漢報』 『漢口日報』
157頁5行 一九三六 一九三九
268頁10行 『電術奇妙』 『電術奇談』
269頁8行 巻に 巻二