『大阪経大論集』第49巻第3号(通巻245号)1998.9.15に掲載


文献をあつかう姿勢
――『呉▲人全集』を例として

樽本照雄


1 はじめに
 小説研究の基本作業のひとつに、版本探索がある。
 雑誌初出から単行本初版、再版と版を重ねる作品がある場合、それぞれに書き換えがないか、もしある場合は、どれが信頼するに足るのか判断を迫られることになる。海賊版、偽版が出現する可能性もあるだろう。
 清末小説は、今からわずかに百年前後の時間をさかのぼるにすぎない。しかし、信頼するに足る版本を確定するのは、それほどやさしいことではないのだ。
 問題は、版本探索のあとにも存在する。書誌を正確に記述しているかどうかだ。奥付の発行年月日を書き写すだけだ、と誰でも思う。だが、簡単なようでいて、ここにこそ研究者の研究姿勢が如実にあらわれる、と私は考えている。
 本稿の目的は、基本作業である版本記述に手抜かりがあった場合、どういう結果になるか、『呉▲人全集』を例にしてのべるところにある。

2 『呉▲人全集』の出現
 奇妙というよりも偶然なのだろう。1996年に「絵図海上名妓四大金剛奇書」の複写を、2度、求められたことがある。
 抽絲主人「絵図海上名妓四大金剛奇書」は、原文複写を『清末小説』第15号(1992.12.1)から掲載しはじめた。複写資料は、魏紹昌の提供による。貴重な資料だ。発表場所として研究誌『清末小説』は、最適だと今でも思う。2回で掲載を終える予定だった。紙幅の都合で回数を重ねてしまい、1996年冬の該誌第19号で完結するところまで来ていた時だ。
 叢書の1冊として該書を収録したい、というのが最初の依頼だった。もともとが魏紹昌のご好意でもらった資料である。依頼に応じたのはいうまでもない。
 もうひとつは、北方からだ。1996年春、『呉▲人全集』を編集しているという人物より、「絵図海上名妓四大金剛奇書」の残りを複写で欲しい、という手紙をもらった。雑誌『清末小説』掲載分にもとづいて本文を採録するから、未掲載分だけが必要だということだ。たぶん魏紹昌から回ってきた依頼なのだろう。あと1回で雑誌掲載が終了するのに、と思いもしたが、急いでいるようなので郵送した。このたびの『呉▲人全集』全10冊のなかに「絵図海上名妓四大金剛奇書」も収録されている。どうやら間にあったらしい。

3 『呉▲人全集』の構成
 『呉▲人全集』全10冊(哈爾濱・北方文芸出版社1998.2)は、呉▲人についていうと2度目の大型作品集だ。
 約10年前に、盧叔度主編『我仏山人文集』全8巻(広州・花城出版社1988.8-1989.5)が出版されている。どうしても、両者の比較になってしまう。
 『呉▲人全集』をざっとながめよう。
 全巻を通じて「顧問魏紹昌、主編海風」の表示がある。第10巻にのみ「責任編輯:梅慶吉」の名前が見え、出版事項を明示する。定価260元は、セット販売のみ、バラ売りはしないという意味なのだろう。
 まず奇異に感じるのは、全集全体についての「出版説明」、編者の「前言」「序」のたぐいが、まったく示されていないことだ。
 全集の特色、出版の意義、前の文集との違い、全集を編集する過程で遭遇した困難などなど、思い切り書いてほしい。この種の文章は、私にとっては、ぜひとも読みたい部類に属する。ものによっては、同じ序を各巻の冒頭にくりかえし掲載するものもある。編集者は、これを書くために作業に従事したのではないかと思えるくらい、普通は、力を入れるのだが、本全集は、あっさりしたもので、なにもない。各巻に「本巻説明」は、書かれている。しかし、これは担当者による版本などについての解説でしかない。『呉▲人全集』全体の説明にはならないのだ。
 呉▲人の肖像写真、関連著作の書影がないのもさびしい。表紙に眼鏡をかけ、帽子をかぶった呉▲人の肖像がデザインされている。これだけでは、わびしい。

4 版本の問題
 各巻冒頭にある「本巻説明」を見る。不可解な部分があることに、すぐ気づく。たとえば、あの「絵図海上名妓四大金剛奇書」(張安祖校点。第6巻所収)だ。

4-1 「絵図海上名妓四大金剛奇書」の場合
 「上海書局本を底本とした」と書いてある。正確ではない。さきに『呉▲人全集』の編集者から、該書の複写を求められたことを述べた。本全集に収録された挿絵の不鮮明さから見ても、あきらかに『清末小説』掲載のものを底本にしている。ここは、「上海書局本の複写を底本とした」と書くべきだろう。複写は、原本と同一である、と考えるならば、それはかまわない。しかし、複写しか見ていないのに、あたかも原本にもとづいたかのように書くのは、いかがなものであろう。ついでに、「日本『清末小説』掲載分も参照した」と書いてもらえばいうことはない。資料の出所を明らかにするのが、研究では常識である。厳密に書いていないのは、研究ではないからだ、というのなら話は別である。しかし、研究でないはずがない。
 「絵図海上名妓四大金剛奇書」のような例を見てしまうと、その他の版本は、だいじょうぶか、と心配になってくる。

4-2 「新石頭記」の場合
 「新石頭記」(朱子鋭、陳年希校点。第6巻所収)を検討してみよう。
 「今、上海改良小説新本ママを底本に整理した。挿絵を保存した(今以上海改良小説新本ママ為底本進行整理。保留了挿図)」とある。
 まず、「新本」とはなにか。意味不明である。単に改良小説社を誤ったものだろうか。
 挿絵をながめてみる。『呉▲人全集』に収録された挿絵は、概して不鮮明であるのが不審だ。当時の印刷技術は、たしかに発達していなかったかもしれない。しかし、本全集本の挿絵は、あまりにもボケて印刷されている。全集本の挿絵が不鮮明なのは、もともとが複写であるのに複写を重ねたからだとわかる。つまり、原本から直接複写したものではないものが多い。
 いくつかある「新石頭記」の挿絵を比較対照して見ると、奇妙な事実が浮かんでくる。
 「新石頭記」は、1905年に『南方報』に連載されたあと、1908年、上海・改良小説社から8冊本として単行本が発行された。長らく顧みられることなく、約80年後、ようやく復刻されたのだった。
 鄭州・中州古籍出版社本(王立言校注。1986.3)がそれで、挿絵は、はぶいてある。
 挿絵を収録するのが、我仏山人作品選本「新石頭記」(王杏根、盧正言校点。広州・花城出版社1987.9)だ。これは、『我仏山人文集』本(王杏根、盧正言校点。第4巻所収。広州・花城出版社1988.8)と同文であり、かつまったくおなじ挿絵である。
 ところが、もとづいた原本には、なぜだか第2回の挿絵が欠落していたそうだ。もとの挿絵とは異なるものが、あらたに描かれて選本、文集ともに掲げられている。説明すればいいものを、口をぬぐって知らぬ顔を決め込むものだから、読者は混乱しているのではないか。理解しがたい。
 私は、日本の古書目録に「新石頭記」を見つけて購入した。のちに、求められて、私の手持ちの版本から第2回挿絵の複写を人を介して王杏根に送ったことがある。
 挿絵を収録するもうひとつが、中国近代小説大系本(蘇越校点。南昌・江西人民出版社1988.10)だ。こちらの挿絵には、数箇所にわたり落書きがある。ほとんど信じられないことなのだが、中国近代小説大系本は、この落書きをそのまま複写して掲載している(図1を参照)。水中から吹きだす水の上に、女性らしき肖像が落書きしてある。もともとが稚拙な線描画だから、複写されてしまうとはじめから女性像らしきものが描かれているように見える。

【図1】

我仏山人作品選本「新石頭記」 中国近代小説大系「新石頭記」
我仏山人文集 第4巻 呉▲人全集 第6巻(落書き)


 本全集本は、落書きのある挿絵を掲げる。いきつく結論は、ただひとつだ。『呉▲人全集』本は、中国近代小説大系本に基づいているのではないか。
 原本に拠った、というのが怪しくなると、あとは不安だけになる。
 「二十年目睹之怪現状」も見ておこう。
 眉注の分けかたを見れば、本文は、、中国近代小説大系本に拠っているようだ。ただし、挿絵は、大系本にはもともと収録されていない。また、「我仏山人文集」「我仏山人作品選本」所収の挿絵とも異なっている。つまり、『呉▲人全集』に収録された「二十年目睹之怪現状」の挿絵にかぎっては、「説明」にある通り、1916年の新小説書社(説明は「新小ママ社」に誤る)本と1948年の広益書局本から採取していることがわかる。
 さて、本全集の「二十年目睹之怪現状」版本説明に目を転じたところで、何かひっかかるものを感じる。これこそ、文献をあつかう姿勢をあぶりだす好例になるだろう。追求することにしたい。

5 広智書局本「二十年目睹之怪現状」の怪
 「二十年目睹之怪現状」(林森校点。第1、2巻所収)の「説明」では、広智書局本を底本としているという。しかし、不可解なのは、広智書局本の出版月日を誤っていることだ。関係部分のみを抽出する。

5-1 「均同年十二月出版」の誤り
 いわく、「丁巻第46回から55回まで、戊巻第56回から65回は、いずれも同年(注:光緒三十二年<1906>)十二月に出版された」と。注目してほしい。第4巻丁巻、第5巻戊巻とも同じ光緒三十二年十二月の発行だ(均同年十二月出版)と書いている。 だが、これは事実ではない。
 簡単なことだ。広智書局本をさがしだして見ればよい。

【図2】

広智書局本「二十年目睹之怪現状」	広智書局本「二十年目睹之怪現状」
第5巻戊巻奥付 第4巻丁巻奥付

 原本第4巻丁巻の奥付には、「光緒三十二年十一月二日」とある。第5巻戊巻には、「光緒三十二年十二月十六日」と印刷されているのを見ることができる。
 『呉▲人全集』の解説では、第5巻についてはまだしも、第4巻の発行月日が違っているのだ。
 私は、天津でも原物を目にした(「天津図書館所蔵の呉▲人著作」『〓唖』第20号1985.3.10)。中島利郎は、増田渉文庫所蔵本にもとづいている(「我仏山人著作目録」大谷大学『文芸論叢』第24号1985.3.30)。
 両者ともに、原物を見ているのだから、間違いようがない(図2を参照)。
 清末小説研究会編『清末民初小説目録』(中国文芸研究会1988.3.1。146頁)、樽本照雄編『新編清末民初小説目録』(清末小説研究会1997.10.10。128頁)には、

第四冊 光緒32.11.2(1906.12.17)
第五冊 光緒32.12.16(1907.1.29)

と原本奥付にあるままが記述してある。(光緒部分は陰暦を、カッコ内は陽暦を示す)
 全集本には、なぜ間違った発行年月が記述されているのだろうか。原本を見ていれば、誤りようがないことなのだ。では、原本を見ていないのに、原本に拠ったというのか。不可解なことである。
 では、発行月までを明記するほかの各種文献も検証しておきたい。
 参考のためだから簡単にすませるつもりだった。ところが、これが意外な結果になるのだ。

5-2 阿英の記述
 阿英「晩清小説目」(『晩清戯曲小説目』上海文芸聯合出版社1954.8/増補版 上海・古典文学出版社1957.9)は、中国の研究者が、今でも利用する基本目録である。
 見れば、第4巻、第5巻ともに「一九〇六年十二月刊」(66頁)としているではないか。
 「一九〇六年」は、陽暦であり、「十二月」は陰暦を使用する典型的な混用例である。第5巻は、陽暦になおせば、上に示したように1907年1月29日とするのが正しい。阿英のいうような1906年12月ではありえない。
 同情の余地があるとすれば、阿英の時代は、資料が不備であったということはできよう。だが、「二十年目睹之怪現状」についていえば、発行月までも明らかにしているところからわかるように、阿英は、原物を手にしていた。その記述は、陰陽暦を混用して、とどのつまりは誤った結果に終わったのである。原物があるのに、なぜ写し間違うのか。私の理解を超えている。
 たどれば、すべての誤りは、ここから始まるのか。

5-3 魏紹昌の記述
 魏紹昌編『呉▲人研究資料』(上海古籍出版社1980.4)でも、「均同年十二月出版」(38頁)と書いている。
 魏紹昌は、阿英の誤りを踏襲したとしか考えられない。該資料は、「文革」後間もない出版であり、魏紹昌の手元には資料がなく確認できなかったのか、と想像する。しかし、これはあくまでも想像でしかない。
 誤記を信じた被害者が、日本にいる。今村与志雄である。
 「日本で行われた研究がどれほどあろうと、この際、すべて考察の外におき、割愛して、仕事をすすめた」「関連する中国での研究の成果を主として参考にする便法をとった」(『魯迅全集』第11巻 学習研究社1986.5.6。813頁)今村与志雄が、魏紹昌の記述を無批判に引用して誤る(同書555頁)のも当然のなりゆきである。
 ゆえに、「学研版のときと殆ど全く同じに、日本で行われた研究がどれほどふえていようと、この際、すべて考察の外におき、割愛して、仕事をすすめた」「関連する中国での研究の成果を主に参考にする便法をとり続けた」(魯迅『中国小説史略』下。ちくま学芸文庫1997.8.7。390頁)今村与志雄が、誤り続ける(323頁)結果となるのもうなずける。
 日本と中国で同一版本について異なる記述がある時、どちらを選択するかとなれば、無条件に本場中国の研究の方が信頼できる、と考えるのが「常識」だろう。だからこそ、今、こういうしつこい文章を書く必要がある、と私は考えるのだ。

5-4 王俊年の記述
 王俊年「呉▲人年譜(続)」(『中国近代文学研究』第3期1985.12。302頁)の1907年の項目を見られたい。この月というから1月だが、ここに「二十年目睹之怪現状」の第4巻丁巻と第5巻戊巻が上海・広智書局から出版されたと書かれている。
 光緒三十二年十二月を1907年1月としたのは、阿英の「一九〇六年十二月」よりも陽暦で統一した分、正確に見える。だが、第4巻と第5巻を同年同月出版としている点では、同じく不正確なのだ。
 王俊年の該文は、『我仏山人文集』第8巻およびこの『呉▲人全集』第10巻にも収録される。1907年1月の項目において同じ語句が使用されており、誤ったまま記述に変更はない(文集360頁、全集46頁)。

5-5 盧叔度の記述
 盧叔度(『我仏山人文集』第1巻広州・花城出版社1988.8。2-3頁。我仏山人作品選本『二十年目睹之怪現状』同出版社、同年。1頁)も、「ともに光緒三十二年十二月(1907年1月)に出版された(均光緒三十二年十二月(公元1907年1月)出版)」と説明する。語句までが魏紹昌とほとんど同じというのはどういうことか。
 私の知るかぎり、盧叔度は、「我仏山人作品考略――長篇小説部分」(孔版1979.11)を発表していて、ここにはすでに「光緒三十二年十二月(公元1907年1月)印行」と記している。発表年を見れば、魏紹昌よりも盧叔度のほうが早いことになる。
 盧叔度の編集した『我仏山人文集』は、ほとんど全集とかわらず、専門書である。その影響は大きいといわねばならない。

5-6 中国近代小説大系本の記述
 「中国近代小説大系」本(南昌・江西人民出版社1988.10)も、盧叔度とおなじく丁巻、戊巻ともに「光緒三十二年十二月(1907年1月)」とする。誤りである。

5-7 裴效維の記述
 『呉▲人全集』第10巻所収の「呉▲人著作系年」において、丁巻、戊巻ともに「同年十二月(1907年1月)出版」(346-347頁)と書いて誤る。

 中国近代文学大辞典を含めて、辞書類、出版解説類も手元にあるものは、一応、見た。それらの書物において、広智書局本については、月日まで示さず、大まかな記述しかなされていない。大筋は、以上に紹介したとおりだろう。
 阿英を先頭にして、すべての解説説明記述が誤っている。基礎事実について、中国の著名な専門家の全員が誤記しているといわれても、誰も信じないのではなかろうか。
 広智書局本は、底本とされるくらい重要な版本だという認識は、共通している。その発行年月日を間違っているのだ。私の方こそ、自分の目を疑いたくなるほどで、驚くべきことだとしかいいようがない。
 阿英以後、「二十年目睹之怪現状」の一部出版年月日について、中国の研究者のそのことごとくが誤っている事実はなにを意味しているのだろうか。

6 その底にあるもの――文献をあつかう姿勢
 私は、中国の研究者が広智書局本の原本を手にしていないとは思っていない。だいいち、中国近代小説大系本の口絵には、第4巻丁巻の書影を掲げている。また、原本を見ずして本文の校勘などできるはずがないからだ。それにもかかわらず、なぜ、出版年月日という基礎事項を誤って記述するのだろうか。書誌は、研究の基礎そのものだと思うのだ。
 細かいことを問題にしている、といって批判したつもりになる研究者がいるに決まっている。私の経験から、それがわかる。
 書物の一部分の出版年月日が違っていようが、それと「二十年目睹之怪現状」の文学的価値となんの関係があるというのだ、というご意見である。なにをおっしゃる。私は、小説そのものの価値を問題にしているのではない。問題をすり替えないでほしい。
 書誌のような小さく細かい問題にこだわるより、大きな問題に取り組め、と言いたそうな顔も見えるようだ。
 出版年月日は、確かに小さく細かい問題かもしれない。原物を探しだし、その奥付を書き写すだけの作業だろう。簡単このうえない。誰でもできる、と考えているはずだ。それなら、大きい問題を論ずる前に、誰にでもできる、こんな細かい問題は、チャッチャッと手早く正確にすませておいたらどうだ、と反論することが可能だ。大問題をあつかうことのできる能力があるのなら、出版年月日を書き写すことなど、いとも簡単ではないか。そんな容易窮まりないことを、なぜ、間違うのか。
 研究の基礎をおろそかにしていいのか、と私は問うているのだ。書誌の間違いを、別の問題でおおい隠そうとしてもムダである。間違いはマチガイに決まっている。
 これは、結局のところ、研究の信頼性の問題なのだ。
 間違いを認める研究姿勢がないかぎり、少なくとも、記述の典拠を明らかにすることがない限り、実際に原本を見たという信頼性が揺らぐことに、なぜ、気づかないのか。
 先人の間違いをそのまま踏襲していることは、その他の部分も、みずから汗することなく先人の研究業績をなぞっているにすぎないのではないか、という疑惑になる。誤ったのは裏目にでたに過ぎない。これは、ほとんど研究者の自殺行為に等しい。
 話をもう少し続けたい。『呉▲人全集』の特色についても言っておきたいのだ。

7 『呉▲人全集』の特色
 本全集の特色は、ふたつある。
 ひとつは、呉▲人関連作品のいくつかについて、本文をも収録していることだ。たとえば、呉▲人が評語をつけた作品があるとする。従来ならば呉▲人の評語だけを抜きだして収録していた。今回の全集本は、もとの本文も一緒に収めているのが特色だといえるだろう。主として第9巻が充てられる。

7-1 『呉▲人全集』の構成
 各巻にどんな作品が収録されているのか別に示す。★印をつけた作品は、『我仏山人文集』に収録されず、本全集に収められた。
 ★印作品について少し説明しておきたい。つまり、この全集でなくても読むことができるかどうか、珍しいものかどうか、だ。
 「活地獄」は、李伯元のあとを引き継いだものだ。初出の『繍像小説』は、影印されているから見ようと思えばみることができる。
 「剖心記」は、魏紹昌『呉▲人研究資料』と中国近代小説大系に収録されている。裴效維が「呉▲人著作系年」(第10巻。385頁)で、『呉▲人研究資料』ではなく、収録先として『我仏山人文集』をあげるのは、勘違いではないか。
 「海上名妓四大金剛奇書」は、日本の『清末小説』第15-19号に掲載されている。見ようという気があれば、みることができる。中国大陸そのほかに在住する研究者で、『清末小説』を見ることのできない人にとっては、全集本が初お目見えとなろうか。
 第8巻所収の「《▲廛詩刪剰》外詩」および雑文ともに、あちこちに発表されたものを集めていて便利だ。
 さて、第9巻である。
 「毒蛇圏」は、フランス人の原作を周桂笙が翻訳したもの。呉▲人は、評を書いた。『我仏山人文集』では、評語だけを収録する。本全集には、本文もすべて収める。もともとが『新小説』に連載されたものだ。『新小説』は、影印されているから、読むことができる。第9巻「本巻説明」で『月月小説』によって収録した(1頁)とあるのは、誤り。『新小説』が正しい。
 「新庵訳屑」は、はじめ『新小説』『月月小説』に掲載された周桂笙の翻訳文で、呉▲人の評語がついたものを集成する。本全集では、『新菴筆記』(上海・古今図書局1914.8)所収分に『月月小説』掲載の2篇を追加している。『新菴筆記』は、一般にはあまり目にすることのできない本だ。『新小説』『月月小説』ともに影印があるとはいえ、まとまっていれば利用するのに便利だ。
 「賈鳬西鼓詞」も、『月月小説』に連載された。本文とともに呉▲人の評語を収録する。
 「情中情」も、『月月小説』に連載されたもの。侠心女史訳述、呉▲人点定とする。呉▲人が文章を書いたわけではないが、『呉▲人全集』なのだから、収録してもいいだろう。
 以上は、雑誌掲載のものを再録している。雑誌自体は、影印でも目にすることができるから、珍しいというものではないかもしれない。
 ただし、「新庵諧訳初編」は、珍しい。上海・清華書局(1903)本だという。私は、この書籍を見たことがない。呉▲人の「序」は、魏紹昌『呉▲人研究資料』、『呉▲人文集』第8巻に収録されている(文集には、書影も掲げられる)。全集に本文をそのまま収めてもらったのは、研究に役立つ。ありがたい。


海風主編『呉▲人全集』全10巻 哈爾濱・北方文芸出版社1998.2

★印:『我仏山人文集』に収録されず、『呉▲人全集』に新たに収められた作品
第1、2巻 二十年目睹之怪現状 108回 2冊
第3巻 発財秘訣 10回、瞎騙奇聞 8回、糊塗世界 12回、最近社会齷齪史 (原名近十年之怪現状) 20回、上海遊驂録 10回、★活地獄 第40-42回、★剖心記 2回
第4巻 痛史 27回、両晋演義 23回、雲南野乗 3回、九命奇冤 36回
第5巻 恨海 10回、劫余灰 16回、情変 8回、電術奇談 24回
第6巻 新石頭記 40回、白話西廂記 12回、★海上名妓四大金剛奇書 100回
第7巻 慶祝立憲、預備立憲、大改革、義盗記、黒籍冤魂、立憲万歳、平歩青雲、快陞官、査功課、人鏡学社鬼哭伝、無理取閙之西遊記、光緒万年、中霤奇鬼記、中国偵探案、(我仏山人)札記小説 4巻、▲廛剰墨、▲廛筆記、上海三十年艶迹、新笑史、新笑林広記、〓皮話、滑稽談
第8巻 ▲囈外編、▲廛詩刪剰、★《▲廛詩刪剰》外詩、曾芳四伝奇、〓烈士殉路、★文(呉▲人哭57則などを除いたいくつかは始めて収録する)
第9巻 ★毒蛇圏 23回((法)鮑福著 周桂笙訳 呉▲人評点)、★新庵訳屑(周桂笙訳 呉▲人編輯、評点)、★賈鳬西鼓詞(賈鳬西 呉▲人評点)、★情中情(侠心女史訳述 呉▲人点定)、★新庵諧訳初編 2巻(周桂笙訳 呉▲人編次)


7-2 研究資料
 本全集のもうひとつの特色は、研究資料巻として第10巻を充てたことだ。
 研究資料といえば、魏紹昌編『呉▲人研究資料』(上海古籍出版社1980.4)がある。該書の上巻は、呉▲人の伝記に関する各人の文章を集め、下巻は、作品の版本と関連文献目録で構成されていた。
 『呉▲人全集』では、裴效維が編集して「呉▲人研究資料彙編」と題する。当然、『呉▲人研究資料』をにらんでおり、その続編となるように意図したという。主として1950年以後の研究論文を収録する。
 第一輯は、呉▲人の伝記についての研究論文を集める。
 第二輯は、総合研究、小説理論、作品研究だ。
 第三輯が、著作年表、研究目録となる。
 見れば、呉▲人研究の広がりを反映したものになっている。つまり、中国大陸、香港の研究者ばかりでなく、日本、チェコ、カナダの研究論文をも収録する。時代の流れを感じないわけにはいかない。
 なかでも力のはいっているのが、裴效維編「呉▲人著作系年」だろう。
 光緒二十四年(1898)、呉▲人三十三歳の時に発表した作品から始まり、発表の順番に詳細な解説を加える。
 力作であることを認めたうえで、誤りを指摘しておく。
 「二十年目睹之怪現状」の第4巻丁巻について不注意な誤りをおかしている。すでにのべた。
 「電術奇談」の原作が『大阪毎日新聞』に連載されたあと大阪駸々堂より単行本として出版されたことは述べる(352頁)。そこまで書きながら、菊池幽芳の作品名が「新聞売子」であることに言及しない。不十分である。また、これが、呉▲人の「再創作」の作品であることをいう(353頁)。原文「新聞売子」と比較していないのに、なぜ、そういうことができるのか。誤りである。
 裴效維は、『繍像小説』の月2回の発行が、最後まで守られたと信じているらしい。「活地獄」の掲載を該誌第70、71期にそれぞれ「二月十五日」「三月一日」を明記する(361頁)ところからそれとわかる。『繍像小説』の該当号そのものに、発行年月日が記載されていない事実を無視するのだ。
 広智書局『恨海』の出版年月日は、原本を見れば、「光緒三十二年九月三十ママ日」と記されていることがわかる。同年九月は「二十九日」までであり、「九月三十日」は存在しない。だから「本年九月(10ママ月)」(364頁)となることはありえない。陽暦になおせば11月の可能性がある。
 もともとが詳細な裴效維の解説だから、誤りがつい気になってしまうのだ。細部を軽視してはならない。
 裴效維の実力は、「附録一 呉▲人未刊、初刊不詳、真偽未定著作録」「附録二 呉▲人著作辨偽」において、十分に発揮されている。
 なかでも私の興味を引くのは、附録二の偽作についての文章だ。
 10点の作品がとりあげられ、それぞれが呉▲人の作品ではないことが論証される。
 「学界鏡」「盗偵探」「新繁華夢」の3点について紹介しておこう。
 「学界鏡」の作者は、〓叟と署名される。阿英は、この〓叟は呉▲人の筆名だとした。裴效維は、阿英の記述には根拠がないことをいい、『月月小説』第22号に「古燕談治〓叟」をさがしだした(最初に指摘した魏紹昌の名前を出していない。裴效維は独自に調査したのか?)。〓叟は、呉▲人とはまったく別人である。その正体は、談治であり、その出身は、古燕、当時の直隷、今の河北省であると結論する。
 つぎの「盗偵探」も、阿英が根拠を提示することなく呉▲人の作品としたことを述べる。
 ふたつとも阿英の影響力の大きさを見せつけるかのように、その後発表された多くの文献に誤りが踏襲されることにも言及する*1。
 裴效維は、文献と資料を掲げて説明が具体的である。その結論は、説得力をもっている。
 裴效維の結論に賛成する。しかし、同主旨の論文を、私は、ほとんど10年前に発表しているのだ*2。
 私の場合は、談治だけに終わらなかった。そこは、いわば出発点であって、その先がある。〓叟の名前が『民呼日報』『民吁日報』に出現していることを紹介し、あわせて談治が談長治(善吾)であることをつきとめた。もし、裴效維が私の論文を読んでいたら、私の探索に対して賛成なり、反対なり、もう少しつっこんだ記述になっていたのではないかと想像する。
 だから、私の論文を文献目録に収録してもらったのはいいのだが、「〓叟其人――很像呉▲人的筆名」(471頁)と翻訳されれているのを見るとがっかりする。「呉▲人の筆名をめぐって」が、「呉▲人の筆名のようだ」と意訳されて、日本語原文から遠くはなれてしまった。だいいち、私の論文の主旨とは正反対を意味する翻訳になっているから、首をひねるし、納得がいかない。裴效維は、私の論文を見ているわけではなさそうだ。日本語に翻訳したのは、別人らしいからしかたのないことなのだろう。
 「新繁華夢」の著者・老上海は、呉▲人である、と言いだしたのは江蘇省社会科学院明清小説研究中心編『中国通俗小説総目提要』(北京・中国文聯出版公司1990.2/1991.9再版)だ。呉▲人は、老上海という筆名を使ったことがある。しかし、「新繁華夢」のそれが呉▲人のものとは限らない。裴效維があげる根拠は、阿英が「新繁華夢」に言及して、それが呉▲人の作品であるとは断定していない、というものだ。確証がないという結論に落ち着く。
 これも偶然なのだが、私も、「新繁華夢」の老上海が呉▲人であるという意見には反対する文章を過去に発表している*3。
 私は、老上海という筆名を持つ別人、すなわち陳輔相(无我、旡我)を提示しておいた。裴效維が、これを読んでいたら、別の意見を出していたかもしれない。
 ここでも説明しておきたい。私は、裴效維論文を批判しているわけでは決してない。裴效維の論考が、一般のものよりも数歩先を行っているからこそ、私は、注文をつけているのだ。
 そもそも、〓叟とか、談治とかに注目する研究者は、中国大陸には、裴效維以前には魏紹昌しかいなかった。この二人を除いて、ほとんどの研究者は、阿英の記述のままをくりかえしていたにすぎない。「新繁華夢」を問題にする人物もいなかった。疑問を感じた人は出現しなかったのである。裴效維は、問題の存在を敏感に感じ取り、資料にもとづいて考察している。それだけでも、裴效維の功績は、大きいといわねばならない。
 おわりに、研究論文目録を簡単に紹介しておく。
 中国大陸で発表された研究論文は、1995年までを収録する。詳細であり、大いに役に立つ。文学史と辞書を別項目に立てているのは、親切だ。
 台湾、香港、日本の論文目録は、樽本照雄「清末民初小説研究目録」(『中国近代文学大系』第30巻 上海書店1996.7)から採取したという(日本語は、中国語に翻訳されている)。だから1991年までで打ち切られている。連絡があれば、追加も可能だったろうが、後の祭りである。有用な論文目録だからこそ、なおさら惜しいと思う。
 情報の時代だといっても、まだまだの感がある。日本の情報を、中国大陸を含めて世界に発信するのに、今までのやり方では不十分なのかもしれない。いくら『清末小説』『清末小説から』が、長期にわたって継続発行されているといっても、届かない部分があることが明らかになったのである。
 原物を自分の目で確認することが、なによりも重要だ。いまさら何を、と思われるかもしれないが、この基本を、再度、強調しておきたい。文献をあつかう姿勢の問題なのである。
 今後、一層の努力を期待したい、とちょっと他人事のように、『呉▲人全集』をながめながら、私は、思ったのだ。


第10巻 裴效維編「呉▲人研究資料彙編」

第一輯
呉▲人年譜………王俊年
呉▲人伝略稿………(日本)中島利郎著、王維訳
呉▲人生平及其著作………李育中
呉▲人到上海年〓考………葉易
呉▲人与《漢口日報》――対新発現的一組呉▲人材料的探討………王立興
李、呉両墓得失記………魏紹昌

第二輯
五十年来中国之文学(節録)………胡適
呉▲人………阿英
呉沃尭論………任訪秋
中西合璧的〓盤――呉▲人政治思想初探………胡冠瑩
苦難的心霊歴程――呉▲人与晩清社会………張強
呉▲人的小説論………黄霖
晩清小説中的情節結構類型………(捷克)M・D・維林吉諾娃著、(台湾)謝碧霞訳
読《二十年目睹之怪現状》札記………呉小如
従《九命奇冤》的表現特色看它在文学史上的地位………王俊年
論《恨海》中的人物塑造………(加拿大)邁克爾・伊根著 趙〓虎訳
《上海遊驂録》――呉▲人之政治思想………阿英
《呉▲人伝》和《▲人十三種》………呉小如
試論呉▲人的短篇小説………陳子平
関於我仏山人的筆記小説五種………盧叔度
《〓皮話》前言………盧叔度
一篇新発現的呉▲人佚作………顔廷亮
呉▲人的両篇佚文………魏紹昌
新見呉▲人《政治維新要言》及其它………張純
関於《海上名妓四大金剛奇書》的両組資料………魏紹昌

第三輯
呉▲人著作系年 附録一:呉▲人未刊、初刊不詳、真偽未定著作録/附録二:呉▲人著作辨偽………裴效維
呉▲人研究資料索引 附録:台湾、香港、日本研究呉▲人資料索引………裴效維
《二十年目睹之怪現状》索隠………(香港)高伯雨


【注】
1)「学界鏡」「盗偵探」の部分のみが事前に発表されている。裴效維「千慮一失 張冠李戴――阿英在晩清小説研究中的失誤」上下(済南)『作家報』第62、63期1997.8.7、9.11。
2)樽本照雄「〓叟という人物――呉▲人の筆名をめぐって」『清末小説』第12号1989.12.1。『清末小説論集』法律文化社1992.2.20所収
3)樽本照雄「「新繁華夢」の老上海は呉▲人か」『清末小説から』第22号1991.7.1

【追記】『呉▲人全集』の編者である梅慶吉氏より1998年6月2日付手紙をもらった。本稿で私が提示した疑問に関係しているから内容を要約しておく。
 1.全集の前言あるいは序がない件
 ある高名な学者に執筆を依頼したが、ご高齢でもあり断わられた。本来は、自分が書きたかったが時間がなかった。
 2.主編海風とある件
 梅慶吉の筆名である。全集の責任編集者だから主編には筆名を使用した。
 3.哈爾濱で編集出版した件
 『呉▲人全集』の編集は、多年の願望だった。大学時代から清末小説に魅せられ、特に鄭振鐸が計画して果たさなかった企画を私(注:梅慶吉)が完成させようと決心した。当時、黒竜江省社会科学院にいて、材料を収集し、学者を訪問して意見を求めた。これが哈爾濱で編集して北方文芸出版社から出版した理由である。
 4.『我仏山人文集』と比較して
 『呉▲人全集』では、呉▲人の著作以外に、彼が評点、編集した著作の原文をも収録したところが異なる。もうひとつは、最新の研究資料を収録していることだ。魏紹昌編の資料と合わせれば完備したものとなる。

 手紙を読んで編集状況がいくらか理解できたとはいえる。だが、全集というからには、やはり前言、序は書いて欲しかった。主編に筆名を使用するのも、いかがか。実名でいいではないかと思う。よけいな詮索をしてしまう結果にならないかと不安になるのだ。梅慶吉氏が、多年にわたって願望を実現するために努力されたことは、私も認める。そうであるならばなおさらのこと、細部にもこだわってもらいたかった。版本の一つひとつに細心の注意を払ってもらいたかった、というのが正直なところだ。