掲載:『書論』第30号 書論研究会 1998.4.30
長尾雨山の帰国
樽本照雄
一、上海へ
高等師範学校教授従六位長尾槙太郎(号雨山)は、一九〇二(明治三十五)年一二月に発生した教科書疑獄事件に巻き込まれ、収賄の容疑で拘引された。翌年二月に予審、三月に公判が進められ、それに対して控訴し、控訴公判が行なわれる。長尾雨山は、「金銭を受領したるは事実なるも収賄にあらず校閲料なりと信ぜり」と主張したが認められなかった。五月、控訴が棄却される。「重禁錮二ケ月、罰金七円、追徴金三百円」が実行されたと思われる。
教科書疑獄事件を惹起した金港堂主の原亮三郎(一九〇三年三月七日拘引)は、小谷重(一九〇二年一二月二二日拘引)と加藤駒二(一九〇三年一月二六日取り調べ)を伴い、七日、大阪花屋(中之島の旅館)に宿泊した後、一九〇三年一〇月一一日、神戸で伊予丸に乗船し上海へむかった。目的は、金港堂と上海・商務印書館の合弁を契約するためである。しかし、表向きは、「商業地理及び長江の名勝旧址を探る」(『大阪朝日新聞』一九〇三・一〇・一一)ということになっていた。伊予丸は、一〇月一五日上海に到着する。
金港堂と商務印書館が、双方ともに一〇万元を出しあい合計二〇万元の合弁会社となったのは、一九〇三年一一月一九日(光緒二十九年十月初一日)のことだった。原亮三郎一行が上海に到着して約一ヵ月後に成立したことになる。
二、上海・商務印書館と東京・金港堂
商務印書館は、一八九七年、上海で創業した。夏瑞芳、鮑咸恩のふたりが中心となり、キリスト教の信仰および血縁と友人を頼って合計三七五〇元の資金を集めて成った。教会などの印刷を請け負うことから事業をはじめる。順調な経営では決してなかったが、張元済という知識人と事業家印錫璋をひきつける人間的な魅力が夏瑞芳にあったらしい。張元済は、出版物の編集を指導し、印錫璋は紡績工場を経営して得た利益を投資する。
上海の三井物産(洋行)にいた山本条太郎を商務印書館の夏瑞芳にひきあわせたのは、印錫璋である。山本条太郎の妻は、原亮三郎の娘だ。原亮三郎には、もともと中国大陸で出版業をはじめるつもりがあった。夏瑞芳から商務印書館の建て直しを頼まれた山本条太郎は、原亮三郎に話をもっていく。原亮三郎は、まっていましたとばかりに承諾する。こうして、金港堂と商務印書館の合弁話は準備されたと考えられる。
日本と中国の会社が合弁したとはいえ、内実は個人的な結び付きであった。金港堂は原亮三郎の、商務印書館は夏瑞芳の、ほとんど個人商店のようなものだった。同じ体質の会社だと思ってもいい。金港堂からいえば、原亮三郎が個人で投資したものだったし、商務印書館の側は、夏瑞芳が全権を掌握していて独断で合弁を推し進めた。合弁の要となる夏瑞芳は、山本条太郎には援助を申し入れ、商務印書館の同僚にむかっては金港堂から合弁の話があるというように使い分けたかと推測される。当時の商務印書館には、資金、技術ともに金港堂に対抗できるほどの実力がなかったからである。商務印書館を存続させるためには、金港堂と合弁をする以外に選択肢はなかった。存亡の危機感を夏瑞芳たち商務印書館の首脳が持ったのは事実であろう。これがのちのち金港堂との合弁という事実を、商務印書館が隠したがる原因となる。
合弁話が出てくるのは、一九〇一、〇二年の頃だと私は推測している。将来の合弁を前提として、商務印書館は、赤レンガ三階建ての印刷所を建築しはじめた。そういう時期に、商務印書館が遭遇したのが八月の本社火災であり、金港堂が見舞われたのが一二月の教科書疑獄事件である。主として、金港堂側の事情で、合弁調印は予定よりも延びたのだろう。それが前述のとおり一九〇三年一一月一九日である。
長尾雨山は、原一行に少し遅れて、一九〇三年一一月二八日午後陸路東京より海岸西村に投宿した。西村旅館は、神戸より海外に出入りする人たちがよく利用する場所だった。一二月一日、河内丸で上海へ向け出発する。
三、上海で
長尾雨山、金港堂の小谷重は、なぜ上海に向かったのか。ただの物見遊山でないことは明らかだ。この二人には、上海の商務印書館で中国人向けの教科書を編纂するという仕事が用意されていたのである。
蒋維喬日記には、一九〇四年一月より、張元済、高夢旦、小谷重、長尾槙太郎が集まって教科書編集会議を続ける様子が記録されている。中国人は、長尾に日本の教科書、教育制度などについて詳しい説明を求めた。教科書編集に熟練した長尾と小谷であるから、商務印書館にとってはまたとない人物であったはずだ。きわめて短期間に編集作業は終了し、できあがったのが『最新国文教科書』である。『東方雑誌』第一期(一九〇四・三・一一)には、「日本文部省図書審査官兼視学官小谷重君高等師範学校教授長尾槙太郎君」と日本人を前面に推しだした広告が掲載されている。
上海・商務印書館における長尾雨山の仕事は、教科書編集のほか、『東方雑誌』への寄稿、商務印書館が小学教員を養成するために創設した速成小学師範講習所の教師などを勤めることだった。私的なものとしては、中国知識人との詩会を開催してもいる。
長尾雨山と鄭孝胥は、日本で知りあっていた。鄭孝胥は、雨山の詩をきわめて高く評価している。だからこそふたりの交際は長続きしたのだろう。鄭孝胥が商務印書館に入ることになったのは、張元済、高夢旦らともともと交遊があったからだ。一九〇六年より鄭孝胥と長尾雨山の交際が再び始まる。鄭孝胥日記を見る限り、詩のやり取りが中心となっている。
長尾雨山の上海時代については、詳細がわかっていない。一九一三年の蘭亭旅行など、杉村邦彦氏の一連の研究でようやく姿を現わしつつある*1。
商務印書館において日本人と中国人の関係は良かったという。印刷技術向上のため日本から何人もの技術者が上海に招かれた。教科書販売も順調に軌道にのった。教科書以外の出版にも業務を拡大した。日中合弁時代をつうじて株式配当は平均二割をこえている事実が、事業好調を証明している。
しかし、政治情況が日中合弁を許さなくなった。
四、日中合弁解消
商務印書館が日本の資本と合弁しているという事実は、いくら隠そうとしても漏れるものらしい。清朝末期から、日本資本が入っているという理由で、教科書採択の対象からはずされたり、辛亥革命以後は、中華書局から攻撃されたりした。商務印書館首脳陣の精神的苦痛には、大きいものがあったという。経済的利益を捨ててまでも合弁をやめたかった、というのがひとつの理由である。
異民族支配からの脱却が、中華民国成立であるとするならば、日中合弁企業である商務印書館がそのままでいられるはずもない。経済上の事情ではなく、政治的に日中合弁は解消されなければならなかった。これがふたつめの理由である。
考えられるみっつめの理由は、専門知識の修得である。日本人から中国側に伝えられた編集印刷出版の専門知識は、金額に換算できないくらい貴重だという中国の研究者もいる。合弁の一〇年間に、専門知識を十分に吸収した、これ以上日本人から学ぶものはない、と商務印書館は判断したのではなかろうか。
商務印書館には、合弁を解消したい理由があろうとも、金港堂にしてみれば直接の関係はないといってもいい。金港堂の日本における事業がはかばかしくないという背景もあり、きわめて高い利益をあげている企業から、そう簡単に金港堂が手を引く理由がない。一九一三年から商務印書館では、株主会に秘密で日本株回収の具体的行動にでることにした。同年九月、合弁解消の協議をするため夏瑞芳が長尾雨山を同道して日本へおもむく。しかし、金港堂は拒否した。
一一月、金港堂から福間甲松が派遣されて来て、ようやく合弁解消の協議に入ることになった。両者の交渉は、一株をどれだけの金額に評価するかが中心となる。長くこまかい交渉の結果、一株を一四六・五元にすることでようやく双方が合意した。一九一四年一月六日、商務印書館は日本株を回収し合弁解消が成立する。商務印書館が発行する『学生雑誌』創刊号(一九一四・七・二〇)では、「完全華商股」となった記念に図書券を発行したと広告している。よほど嬉しかったと見える。
当時、長尾雨山が所持していた四五株は、換算すると六五九二・五元となる。雨山が上海に来たころの給料は、二〇〇元だった。一九一三年には、いくらだったかは不明である。仮に二〇〇元のままだとして計算すると約三三ヵ月分の給料だ。このほか蓄えがあったのか、長尾雨山は、日中合弁でなくなったあとも一年近く上海に留まっている。七月には中国国内を旅行しており、日本に帰国することになったのは一二月である。
一二月一四日、長尾雨山は鄭孝胥を訪ね、帰国後は東京大学が自分を漢文教授としてむかえる予定となっており、月俸三〇〇元だと告げている*2。
はたしてそういう事実があったのかどうか、確認できていない。鄭孝胥は、長尾雨山から、帰国後は京都室町出水上に居住するとつげられている。東京大学に招聘されているのならば、なぜ京都に住むといったのだろうか。
商務印書館の関係者によって連日のように歓送会が開かれた。このことは、長尾雨山の商務印書館における位置を示しているだろう。一九一四年一二月二二日、長尾雨山は山城丸で上海をあとにした。
五、帰国
山城丸は長崎に到着した。長尾の談話が記録されているので紹介したい。(ルビは省略)
『大阪朝日新聞』一九一四・一二・二七欄外記事
●長尾雨山氏帰国(長崎) 十二年余支那にありて歴史研究に従事したる長尾雨山氏は二十四日朝入港の山城丸にて上海より京都に帰れるが同氏の談に曰く
近来支那政府の神経過敏となり外人の内地旅行をなすに従来の如く決して容易ならず何れの土地に入るも先づ城外にて番兵に誰何され護照の有無等厳重に取調べられ辛うじて城内の旅館に入るや直ちに巡邏の御見舞を受け更に五六名乃至十名余の兵卒を引き連れたる官民来りて厳密なる取調をなし態度頗る傲慢にて遂には其の無礼を叱咤するの己むなきに至ることあり旅行中の不快云ふべからず是れ支那官憲が如何に日本人に対して猜疑の眼を放てるかを証するものなるが一は邦人中革命党に加担し或は革命党員が邦人を装うて横行するを恐れ或は邦人売薬行商等が不正を働く等に依るべく察せらる尤も革命党に対する警戒の厳重なるは単に邦人に及ぶのみならず支那人に対しても固より然る処にて一老夫と雖も猥りに城内に入り込むを許さヾる有様なり然かも一般人民が革命党に対する同情は今や地を払ひ居れば大なる資金と相当の武器を有せざる限り最早革命党の勃興し得ざるものと観測せらる。
文中の内地旅行というのは、長尾雨山が帰国前に行なった中国国内旅行のことを指しているのは明らかだ。辛亥革命後、政情不安と都市の治安悪化の様子がうかがわれる、ということはできるかもしれない。それにしても、上海に一〇年以上滞在していた人の談話としては、なにか唐突な感じをぬぐうことができない。ある程度の量がある談話のうちのほんの一部分が活字にされたような印象を受ける。「欄外記事」は、新聞の折り目部分に掲載されるものだ。紙面に入り切らない、あるいは突発ニュースを押し込む場所と考えられる。長尾雨山の帰国談話は、どちらかといえば埋草程度のあつかいにしか見えない。新聞記者が興味を感じたのが上の箇所だけだったのだろうか。
内容とは別にあらためて驚くのは、上海から帰国した長尾雨山をさがしだし、その談話を朝日の記者がよく取ったものだと思う。長尾雨山の帰国は、秘密でもなんでもないが、またおおさわぎされることでもなかった。雨山を出迎えた人がいたのかもしれない。
長尾雨山の実質一一年間にわたる上海滞在は、こうして終了した。
【注】
(一)次のような文章がある。
杉村邦彦「有関長尾雨山的研究資料及其韻事若干」『印学論談』杭州・西〓印社出版社一九九三・一〇
杉村邦彦「上海時代の長尾雨山と西〓印社及び呉昌碩との関係」一九九三・一二・一二書論研究会公開講座報告要旨
杉村邦彦「上海に長尾雨山の足跡を訪ねて」(上)(中)(下)『出版ダイジェスト』一九九五・四・一/九・三〇/一二・一一
(二)中国歴史博物館編、労祖徳整理『鄭孝胥日記』北京・中華書局一九九三・一〇。一五四三頁。
長尾雨山と鄭孝胥の関係については、樽本「鄭孝胥日記に見る長尾雨山と商務印書館」全五回(『清末小説から』第三五−三九号一九九四・一〇・一−一九九五・一〇・一)を参照のこと。