『大阪経大論集』第50巻第2号(通巻第249号)1999.7.8


阿英「晩清小説目」の旧暦新暦問題
――竺慶麟氏への反論をかねて


樽本照雄



1.はじめに
 呉〓人「二十年目睹之怪現状」の発行年月に関して、今、日本と中国の研究者の間で論争が進行している。論争の舞台は、北京で発行されている『読書』という雑誌だ。小さな紙幅しか占めてはいないが、この論争が内包する研究上の意味は、小さくない。
 「二十年目睹之怪現状」は、分冊で単行本化された。阿英は、その第4冊は「一九〇六年十二月」に発行されたと書く。
 日本の樽本照雄は、阿英の記述は間違っているといい、中国の竺慶麟は、阿英は間違っていないと反論する。
 対立している両者の主張は、どちらが事実であろうか。
 論争の内容を検討する前に、論争の焦点となる旧暦新暦について簡単な説明をしておく。

2.旧暦新暦の混用表示
(本稿では、旧暦は和数字、新暦はアラビア数字を使用する。ただし、引用文は、その限りではない)
 清末小説についてまわるやっかいな問題のひとつに、旧暦新暦の換算、あるいは混用表示がある。
 清朝から中華民国への大変動にともなって、暦も旧暦から新暦に変更された。すなわち、旧暦宣統三年十一月十三日を新暦の中華民国元(1912)年1月1日とし、以後、新暦が使用されることになる。
 ただし、新暦使用の決定があったとはいえ、事前に旧暦で印刷していたものが改暦後も市中に出回ることは容易に想像できる。あるいは、旧暦新暦の変更にともなう混乱を出版物の内部でなんとか制御しようとする動きがある。
 たとえば、辛亥革命をのりきった上海・商務印書館の文芸雑誌『小説月報』に混乱の例を見ることができよう。
 私の見た『小説月報』は、第2年第8期の奥付に「宣統三年八月二十五日」と明示されていて、期日通り、あるいは前もって印刷発行されたことを示している。しかし、これが、次の第9期になると、「辛亥年九月」と印刷されていながら、「中華民国元年四月再版」と表示される。同じく第10期も「辛亥年十月」、「中華民国元年四月再版」、第11期が「辛亥年十一月二十五日」、第12期は「辛亥年十二月二十五日」とある。第3年第1期にいたりようやく「中華民国元年四月」と記述される。
 宣統の年号をはずしたのは、清朝が滅亡すると見た商務印書館の判断だろう。あるいは、中華民国以後に奥付だけをつけかえて再版を装った可能性もある。
 だいいち、旧暦十一月十三日が新暦への切り替わり日である。第11期の「辛亥年十一月二十五日」は、新暦に転換するのが間に合わず旧暦の印刷のままに出荷したことがわかる。
 つまり、『小説月報』の奥付にみる混乱は、社会の混乱をそのままに反映している。それぞれの発行期日である「辛亥年九月」は旧暦で、「中華民国元年四月」は新暦だ。ここでは、旧暦新暦が混在している。
 旧暦新暦が混在しているだけならば、それだけのことで別にたいした不便も生じない。
 しかし、問題を複雑にしているのが、旧暦と新暦を区別しない研究者の無理解である。あるいは、旧暦新暦の区別を一応はしてはいるが、独特の書き方をして誤解を与えている実例のあることだ。
 「一九〇六年十二月」という記述は、旧暦なのかそれとも新暦か。
 わかりきったことだと感じられるかもしれない。1906年とあるからには、これは新暦に違いなかろう。こう考えるのが普通だと誰しもが思う。だが、中国では、実情はそれほど単純ではない。
 読み方の可能性としては、ふたつある。
 ひとつは、そのまま1906年12月という新暦を示しているというもの。ただし、清朝時期であれば旧暦を使用するのが通常だから、新暦表示は研究者が換算している場合が多い。換算する時に、間違いが生じることも充分ありうる。
 もうひとつは、「一九〇六年」は新暦であって、「十二月」の部分は旧暦であるという奇妙なもの。この普通に見れば奇妙な書き方が、中国では奇妙だと意識されていないところに問題の深刻さがある。

3.樽本照雄の指摘
 呉〓人『二十年目睹之怪現状』第4冊の発行年について、阿英の記述が誤っていることを述べたのは、樽本照雄だ*1。
 該作品は、最初、雑誌『新小説』に連載された。『新小説』が休刊したのち、分冊で発行されていることは周知のことだろう。中国の研究者が、第4、5冊の発行年月を説明して「ともに同年(注:1906)十二月に出版された」と書く。その根をさがすと、阿英にたどりつく。阿英は、第4、5冊ともに「一九〇六年十二月刊」*2と記しているのが証拠だ。阿英が「晩清小説目」に記述しているのだから、「ともに同年十二月に出版された」と説明してどこが間違いであろうか、というわけだ。
 しかし、作品の原物を見れば、第四冊の奥付には、「光緒三十二年十一月二日」と印刷されている。光緒三十二年は、いうまでもなく1906年にあたる。
 「十一月刊」と書くべきところを、阿英は、「十二月刊」と書き誤った。だから、第4冊と第5冊の発行が同時だと誤解されることになったのだ。のちの研究者が、すべてこれを踏襲した。ゆえに、阿英にはじまって、中国の専門家全員が明らかに誤っている、と樽本照雄は述べた。

4.竺慶麟の指摘
 いや、阿英の記述は誤っていない。間違っているのは、樽本照雄の方だという人物が出現する。
 樽本照雄は、阿英の間違いを引き継いだ専門家として魏紹昌、王俊年、盧叔度、裴效維らの実名を掲げている。いささかでも事実に相違すれば、彼らから反論批判がなされないわけがない。研究者は、正確な記述をするために神経をすり減らしているといっても過言ではないからだ。
 中国の学界において、氏名を明らかにして誤りを指摘することが、どれほどの衝撃をおよぼすものか、体面を重んじる歴史的背景を知る人は理解している。今回の指摘が外国人によって行なわれたことは別にして、通例として何がなんでも反論したいところだろう。私の過去の経験からしても、充分に予想がつく。
 ところが、今回は、彼ら専門家からの直接の反論ではないことが不思議のひとつだった。
 そればかりか名前をあげた専門家のなかの一人からは、『二十年目睹之怪現状』の初版を見ていないから阿英の書いている通りにしたがった、という意味の手紙をもらっている。
 当事者にはわからなくても、遠くから見る人には理解できることもあろう。以下において内容を紹介する。
 竺慶麟「阿英氏は間違ってはいない(原文:阿英先生没有錯)」(『読書』1998年第12期1998.12)の論点は、ふたつある。旧暦新暦の換算と各研究者の記述方法だ。

5.旧暦新暦の換算
 「光緒三十二年十一月二日初版発行」は、新暦になおせば「一九〇六年十二月十七日」となる。阿英の記述は「一九〇六年十二月」だから、これは正しい。阿英は、間違ってはいない、と竺慶麟はいう。
 旧暦新暦対照表にもとづいて調べた結果であることが述べられている。竺慶麟には、自信があるのだろう。絶対的な自信があるからこそ竺慶麟は、『読書』誌に自説を公表したにちがいない。
 この部分のみを見れば、いかにも竺慶麟説が正しいように思える。だから『読書』編集部も掲載に同意したものと想像される。
 しかし、竺慶麟は、「光緒三十二年十一月二日」は、新暦「一九〇六年十二月十七日」だと強調しているにすぎない。阿英が書いている「一九〇六年十二月」がどういう性質のものであるのかを考えていないのが不思議のふたつ目。
 阿英のいう「一九〇六年十二月」は、まるまる新暦であると竺慶麟は信じているらしい。そうでなければ、旧暦を新暦に置き換えただけで反論が成立すると考えはしないだろう。問題は、それほど単純ではないのだ。
 樽本照雄が、旧暦を新暦に換算しもしないで、阿英が間違えている、という結論に達したとでも竺慶麟は考えているのだろうか。換算したうえで、なお阿英の記述には誤りがある、と樽本照雄は言っている。これを知らないとすれば、知らなくとも想像することができなければ、竺慶麟は、研究それ自体をあまりにも軽視しているといわざるを得ない。
 竺慶麟は、該作品の第4冊のみを問題にしているから全体との関係が分からなくなっているのだ。つまりは、阿英が「二十年目睹之怪現状」の発行全体についてどのような書き方をしているのか竺慶麟は見ていないといえよう。

6.事実と阿英の書き方
 事実から出発しなければならない。
 単行本『二十年目睹之怪現状』の発行情況を、一覧表として下に掲げる。それを新暦に換算し、阿英が「晩清小説目」でどのように書いているかも見てみよう。

『二十年目睹之怪現状(社会小説)』 8冊 108回 我仏山人(呉〓人) 総発行所上海広智書局 発行所横浜新民社
阿英
第一冊 光緒三十二年 二 月十八日(1906.3.12) 一九〇六年 二 月刊
第二冊 光緒三十二年 四 月 六 日(1906.4.29) 一九〇六年 四 月刊
第三冊 光緒三十二年 九 月廿二日(1906.11.8) 一九〇六年 九 月刊
第四冊 光緒三十二年十一月 二 日(1906.12.17) 一九〇六年十二月刊
第五冊 光緒三十二年十二月十六日(1907.1.29) 一九〇六年十二月刊
第六冊 宣統 元 年 三 月十五日(1909.5.4) 一九〇九年 三 月刊
第七冊 宣統 二 年 八 月十五日(1910.9.18) 一九一〇年 八 月刊
第八冊 宣統 二 年十二月 (1911.1) 一九一〇年十二月刊
(本稿で問題にしている第4、5冊を線で囲んでおく)

 見れば理解することができる。
 阿英は、旧暦の「光緒三十二年」を機械的に「一九〇六年」に置き換えた。同じく「宣統元年」は「一九〇九年」に、「宣統二年」は「一九一〇年」に書き換える。ただし、換算したのは、年だけで、月は旧暦のままにした。「宣統二年十二月」は、新暦になおせば1911年1月になる。しかし、阿英は、「一九一〇年十二月」と記述しているところからも彼の書き方を確認することができる*3。
 結局のところ、阿英は、旧暦新暦の換算を年にのみ適用したことになる。月は旧暦だから、これを旧暦新暦混用という。
 問題にしている該作品第4冊の「一九〇六年十二月」は、「一九〇六年」部分が新暦であり、「十二月」部分が旧暦であることが理解できるはずだ。
 もし仮に、竺慶麟が主張するように、第4冊「一九〇六年十二月」が新暦だとしよう。そうすると、阿英の書く第1冊、第3冊、第5冊、第6冊、第7冊、第8冊はすべて誤りということになる。1ヵ所を擁護するために、残りの6ヵ所(1ヵ所は旧暦新暦の月が、偶然、一致する)を誤りだとして犠牲にするつもりか。
 ゆえに、くりかえせば、第4冊の「一九〇六年十二月」は、阿英の書き方に従えば、本来「一九〇六年十一月」と表記しなければならない箇所である。「十二月」としたのは、阿英にしてみれば予想外の誤記となってしまったのが真相であろう。樽本照雄が指摘する阿英の誤りとは、まさにこのことを指している。
 阿英の記述方法は、もともとが典型的な旧暦新暦混用の例なのである。
 「光緒三十二年十一月二日」は、たしかに新暦「一九〇六年十二月十七日」ではある。しかし、これは、阿英の書く「一九〇六年十二月」と見た目は同じもののようでいて、実は、なんの関係もないことなのだ。
 中国の専門家からの反論がないのは、阿英の記述全体を知ったうえでの誤りであることを認識しているからだと理解できる。

7.各研究者の記述方法
 もうひとつの問題点は、阿英の記述をウのみにした専門家についてだ。
 彼らが誤っているかどうかは、旧暦を使用しているのか、それとも新暦を使用しているのかをそれぞれについて見なければならない、というのが竺慶麟の主張だ。
 これまた一見もっともらしい。
 しかし、私が言っているのは、「二十年目睹之怪現状」第4冊と第5冊のふたつながらに同年同月に発行されたとする記述が間違っているということなのだ。旧暦であろうが新暦であろが、そのどちらも成立する問題である。竺慶麟は、そこまでも考えていない。
 それぞれの研究者が、旧暦、新暦のいずれを使用しようとも、原物さえ確認していれば、第4冊は「十一月二日」に、第5冊は「十二月十六日」に出版されたことが理解できる。間違いようがない。それをなぜ誤るのか、と問題にしている。
 いってしまえば、中国の専門家は、原物にもとづいて記述する手間を惜しんだのではないか。これこそ研究の姿勢に関係するものだ。大きな事を論ずることを重視するあまり、小事を軽んじているのではないか、という疑問表明なのである。

8.結論
 竺慶麟の反論が誤ったのには、ふたつの理由がある。
 その1。旧暦新暦混用という事実があることを竺慶麟は知らなかった。
 混用は、まことに困ったことではあるが、中国ではありふれた現象でしかない。こまかいことをいえば、年月表示のみで日の記載がない当時の出版物は、正確な新暦換算ができないことがある。これが旧暦新暦混用の原因のひとつかもしれない。
 その2。「二十年目睹之怪現状」第4冊のみの発行年月にこだわって、作品全体の発行に関する阿英の記述には注意を払わなかった。
 反論を提出するためには、発表された文章の一部分についてのみの考察では充分ではない場合がある。部分を全体の流れのなかに置いて、ようやくその部分の意味が判明する。阿英の原文に当る必要性をあらためて教えてくれる。
 樽本照雄と竺慶麟の論争は、清末小説の研究に旧暦新暦問題が存在していることを広く明らかにした。旧暦のみ、新暦のみの表示のほかに、旧暦新暦混用例が普通にあることは、専門家には周知の事実だ。これを一般にまで知らしめた点が、功績のひとつだ。
 中国の専門家にも研究上の弱点があることが判明した。先行文献を丸呑みにして原物を確認せず、その結果、誤った記述をしたのが一例だ(40年をうわまわる長きにわたって、阿英の誤りを指摘した中国人研究者がいなかったのも事実だ)。また、文章の一部分だけをつかまえて、それを根拠に、結果としてそれら誤った専門家に続こうとする人も出現する。このことを明らかにしたのももうひとつの功績だといえるだろう。

【注】
1)樽本照雄「文献をあつかう姿勢――『呉〓人全集』を例として」『大阪経大論集』第49巻第3号(通巻第245号)1998.9.15
樽本照雄「不要軽視小事」『読書』1998年第8期1998.8。今回、竺慶麟の反論を引きだしたのは、この文章だ。
樽本照雄「発言のあと――「不要軽視小事」のこと」『清末小説から』第52号1999.1.1
2)阿英「晩清小説目」『晩清戯曲小説目』上海文芸聯合出版社1954.8/増補版 上海・古典文学出版社1957.9。66頁
3)ここで少し説明しておく。阿英「晩清小説目」において「二十年目睹之怪現状」についての記述だけが、月までを掲示している。ほかの部分は、基本的に年だけなのだ。たとえば、「宣統元年(一九〇九)」のように書いている。月まで書き込まなければ、旧暦新暦混用に悩まなくてもよくなる。阿英は、なぜ「二十年目睹之怪現状」に限って「光緒」「宣統」の年号を省略して、旧暦新暦混用にしてしまったのか、不思議でならない。

【附記】
 本稿を提出したのは、1999年2月だった。その後、ゲラ刷りが出て来る4月下旬までに郭延礼「阿英先生的記載是用的夏暦」(『読書』1999年3期 1999.3)が発表されていることを知る。本稿と同主旨であることを記しておきたい。(1999.4.22)