掲載誌:『大阪経大論集』第50巻第2号 1999.7.15




拠るべき研究文献
――劉大紳「関於老残遊記」の場合

樽本照雄



 劉大紳の「関於老残遊記」といえば、劉鉄雲と「老残遊記」を研究する場合の基本文献のひとつである。異論は、でないはずだ。
 父・劉鉄雲とその作品「老残遊記」についての回想を含んだ劉大紳の証言は、まことに貴重なものだといってよい。得がたい文献だからこそ、発表以来、いくどか刊行物に収録されている。転載された回数は、私の知るかぎり、3度にのぼる。初出を加えれば合計4回も読者の目の前に出現したことになり、その需要の多さを実感できる。
 初出と同じ文章が、くりかえし転載されたのであれば、私が、本稿を書く必要はない。実は、転載にあたって、いくつかの変更点が生じている。
 本稿の目的は、いくつかある劉大紳「関於老残遊記」のうち、どれが資料としていちばん信頼をおくことができるのかを明らかにすることにある。この作業は、同時に、資料を扱う姿勢を浮き上がらせることにもなるだろう。
 劉大紳「関於老残遊記」の現われかたを発表順に見ていく。

1.『文苑』第1輯1939.4.15
 初出である。この文章の末尾には、「二十五年十一月八日大紳述」と書かれている。
 1936年に書かれた文章が、約3年後の1939年に発表されたことがわかる。長い時間がかかったように見える。それには、いきさつがあった。
 当時、『老残遊記全編』の出版計画があり、その序として劉大紳の文章が収録予定であった。ところが1937年に日中戦争が始まり、出版はなくなった。1939年、劉厚滋(劉〓孫)がこの文章を輔仁大学に渡し、大学の刊行物である『文苑』創刊号に発表されたという経過である*1。
 劉大紳論文の内容を以下に要約する。

一 宣布作者姓名之前後
 「老残遊記」初集、二集発表の経緯を述べる。
二 著作老残遊記之源委
 劉鉄雲が「老残遊記」を書いた直接の理由は、友人連夢青を経済的に援助するためだった。『繍像小説』に連載中、改竄があったため掲載を中止し、あらためて『天津日日新聞』に最初から再度連載したこと、外編が存在することを明らかにする。
三 老残遊記之影射
 登場人物のモデルを指摘する。さらに劉鉄雲と太谷学派との関係を説明した部分は貴重である。
四 老残遊記中之疑問
 「老残遊記」の中で理解のしにくい、たとえば三元甲子とか、太谷学派にまつわる詩の解説をする。
五 老残遊記之〓作
 贋作が多く出版されていることを述べる。
六 遊記作者被禍始末
 劉鉄雲の波乱にとんだ生涯を簡潔に紹介する。
七 遊記作者之事業及家族
 劉鉄雲の家系と、彼自身がかかわった黄河治水、鉱山開発、鉄道敷設などの事業について説明する。
附言 告劉氏兄弟子姪書 劉氏世系表
 「老残遊記」と劉鉄雲について説明するつもりになった事情が、劉大紳から親族に向けて解説される。これに劉氏の家系図がつく。

 「老残遊記」の『繍像小説』連載が中止されたのは、なぜか。劉鉄雲と太谷学派の関係は、なにか。劉鉄雲の生涯はどういうものだったのか。
 「老残遊記」の作者そのものが、長らく秘密にされていた。それゆえ憶測風聞が広がっていたのだ。誤解を正すために書かれたのが、劉大紳の文章だった。親族でなければ書くことができない事実が、ここではじめて公開されたのだ。
 劉鉄雲と「老残遊記」に関する基礎的な知識が、それもかなり広範かつ深く読者にわかるように書かれていることが理解できる。「老残遊記」研究の基本文献のひとつであることは、疑いようがない。
 本文ばかりか、劉大紳自身による注が、全部で80条もつけられていて、理解をさらに深めることができる。
 『文苑』という雑誌は、第2輯より『輔仁文苑』と改題される。『文苑』創刊号は、日本にその所蔵を知らない。私は、1984年、天津で見た。
 初出は、それだけで貴重だが、雑誌そのものは一般に流通しているというものではない。また、劉大紳の文章そのものは、のちに転載されている。ゆえに『文苑』掲載ということで初出が、今までも、直接、問題にされることは少なかったということができる。
 当時、劉大紳「関於老残遊記」が重要文献であることを知る人がいたらしい。ほとんど時間をおかず『宇宙風乙刊』に転載された。

2.『宇宙風乙刊』第20-24期1940.1.15-5.1
 本文、注ともに1の初出『文苑』と基本的に同じといってよい。『文苑』は輔仁大学の出版物だから、印刷部数もそれほど多くはなかったであろう。『宇宙風乙刊』に再度掲載されたことにより、劉大紳「関於老残遊記」は、ひろく読者に読まれたと考えられる。該誌は、日本でも所蔵する図書館がある。参照することが可能だ。ただし、研究資料としての価値からいうと、次の『老残遊記資料』所載のものが、より重要となる。

3.魏紹昌編『老残遊記資料』北京・中華書局1962.4(采華書林影印あり)
 劉鉄雲と「老残遊記」に関する最初の資料集である。劉〓孫、劉厚沢兄弟および魏紹昌が編集に参加したと書かれている。該書出版後、関係者内部にゴタゴタが発生したらしいが、本稿には直接関係がないので触れない。
 亜東図書館本『老残遊記』のために書かれた胡適の序が、収録されている。胡適批判が行なわれたのちに出版された本であるから、魏紹昌は、「編者按」をつけて胡適批判について触れざるをえなかったのだろう。反対から言えば、「編者按」をつけても収める価値のある文章だともいえる。
 収録された劉大紳「関於老残遊記」の本文にも、その影響が少し見える。
 注の部分に初出「胡適之先生」とあるのに、『老残遊記資料』では「胡適之」(55頁。頁数は『老残遊記資料』のもの。以下同じ)と呼び捨てる。
 また、初出「……不少,此吾劉氏子裔対於胡適之先生及選節之諸君所最致感謝者也」と胡適に感謝する箇所が、そっくり削除され、「……不少也」(56頁)と改められているのには、編者の細心の気配りに同情してしまう。
 胡適とは関係のない箇所で、なぜだか知らないが、初出末尾の「二十五年十一月八日大紳述」が、『老残遊記資料』では削除されている。
 こまかいところを見れば、時代の制約を受けた収録だとはいえる。しかし、特筆すべきは劉厚沢の注釈32条がつけられたことだ。
 劉大紳以後、すなわち1930、40年代以降に出現した問題なども盛り込んでいるのは、時間がたっているのだから妥当な処理だ。
 劉大紳の文章が書かれた経緯、「老残遊記外編」手稿が発見された状況、「老残遊記二集」切り抜き本についての説明、林語堂主編『人間世』に二集が発表された経過、などなどいずれも興味深い。
 そのなかで注目されるのは、「老残遊記二集」の原稿執筆についての問題提起だ。
 簡単に説明しておこう。
 「老残遊記二集」について、1905年の劉鉄雲日記には、巻11を書いた翌日に巻15を書き終えたと記述されている。では、二集巻12-14はいつ書いたのか*2。当然すぎる疑問である。編者である魏紹昌も、この問題について何も書き留めていない。中国大陸では、疑問のままに長期間にわたって放置されたのだ。
 答えをいってしまえば、劉厚沢をはじめ阿英を含めて研究者全員が、劉鉄雲日記に記された「老残遊記」を二集についての記述だと誤解していたのだ。日記に見える巻11とは、『繍像小説』でボツにされたものを復元した原稿にほかならない。すなわち「老残遊記」初集である。巻12-14は、すでに『繍像小説』に発表されているから、ここでわざわざ書くこともなかった。だから、記述がないのである。
 1976年に私が上の見解を発表してから、現在にいたるまで異議は提出されていない。広く認知されたと判断する。
 劉厚沢自身は、問題提起だとは思っておらず、ただ、疑問を述べただけなのかもしれない。だが、問題点を明らかにした功績を無視してはならない。劉厚沢の注釈は、それだけ重要な意味をもっている。
 私は、修士論文を書くために『老残遊記資料』の原本を日本でさがしたことがある。そのとき、日本で所蔵する図書館はなかった*3。
 魏紹昌編『〓海花資料』(北京・中華書局1962.4)は、のちに増訂本(上海古籍出版社1982.7)が出版された。しかし、『老残遊記資料』にかぎって、再版されていない。編者内部のゴタゴタのためか。ただ、初版原本は、日本で影印本が出されたことがある。今、日本で見ることができるとすれば、この影印本であろう。

4.劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』成都・四川人民出版社1985.7
 劉鉄雲の親族により編集されたこの資料集は、劉鉄雲日記を収録するのを最大の特色とする。劉鉄雲日記は、それまでそのごく一部分が、まれに雑誌などに発表されたことはあった。しかし、現存する日記のすべてがここではじめて全面公開されたのだ。
 また、劉鉄雲が書いた論文の一部、書信、関連論文、太谷学派関係の文章などをも収録して充実したものとなっている。劉大紳「関於老残遊記」が収められているのは、いうまでもない。
 では、どこか変化があるのだろうか。
 説明によると、資料集収録にあたって該文は、劉大紳の原稿(影印)にもとづいたと書いてある。原稿が残っていたらしい。
 なぜ、初出『文苑』、『宇宙風乙刊』、『老残遊記資料』掲載のものではなく、原稿であるのかの説明はない。
 もとの原稿には、「遊記作者所語之異事」と題する附録があるという*4。しかし、この附録は資料集には収められていない。原稿にしか付いていないという文章を資料集に掲載しないで、なんのために原稿に拠ったのだろうか。疑問は深まる。
 『老残遊記資料』のものと語句を対照してみる。
 「上海某書局」(73頁)を「上海百新書局」(399頁)と実名にした部分や、「鴻都百錬生」(74頁)を「洪都百錬生」(399頁)に訂正し、「《新語》副刊」(74頁)を「《新語月刊》」(400頁)と直したところはある。しかし、圧倒的に多いのは少しの字句の違いであり、大きな違いという部分はほとんどない。
 ところが、本来はあるべき、「以一年而言、一年亦只有二個三元甲子」(70頁)、「至吾家世系本無与於遊記、原可不言。惟近年冒為吾者、不独時有所聞、且竟有公然筆於書者、此在冒者固不妨謂他人父他人母、然在吾劉氏則不敢竟以人子孫也。茲為簡表如左」(87頁)などが抜けているのは、なにかの手違いかもしれないが、資料としてはあってはならない間違いだろう。
 間違いではなく、劉大紳が雑誌に掲載する時に加筆したのかもしれない。それならば、やはり原稿ではなく雑誌初出の文章を資料集に収録すべきだろう。
 本来の末尾にある「二十五年十一月八日大紳述」が、該資料集には、「二十年十一月八日大紳述」となっており「五」が落ちている。これも小さな誤りだ。
 なによりも残念に思うのは、劉大紳と劉厚沢の注を全部は収録していないことだ。初出にあった劉大紳注の80条のうち14条だけ、『老残遊記資料』の劉厚沢注32条のうち7条を収録するのみであるのは、かえすがえすも惜しいと思う。
 例をあげよう。「老残遊記」初出の発行情況を述べる劉太紳の注がある(75頁)。初集は、新聞の副刊に掲載したものを『天津日日新聞』に頼んで20部だけ装丁したものがあり、これが最初で最後の原印本だと説明する。
 『繍像小説』に連載していた「老残遊記」には、劉鉄雲の関知しない改竄がある。雑誌での連載を中止し、あらためて新聞紙上で連載を開始した。20回で一応の完結を見たものが『天津日日新聞』本だ。
 劉大紳の解説から、新聞の切り抜きを装丁したものがあることがわかる。
 劉厚沢は、劉大紳注に注28を振る(103頁)。劉厚沢が見たものは、『天津日日新聞』の単行本だけだという。劉厚沢注11を参照しろとあるのでこちらも見る。線装本上下冊に分かれ「印刷所:天津日日新聞社;発行所:天津孟晋書社、毎部定価大洋三角半」(毎部は毎本が正しい)と書かれ、裏には広告など印刷されていない、などなど。「老残遊記」の版本を追求していくうえで大いに参考になる。貴重な証言だ。
 「老残遊記」は、当時、『繍像小説』連載のものと『天津日日新聞』連載の2種類があった。一般読者は、一部内容の異なるこの2種類のいずれが劉鉄雲の意図するものであるのか理解できなかった。「老残遊記」成立の事情がわからないのだから無理はない。
 それを説明したのが劉大紳論文である。例としてあげた劉大紳注、劉厚沢注は、ともに「老残遊記」が『天津日日新聞』に連載されてから、新聞の切り抜きを装丁したものと、新聞の「老残遊記」部分だけを別に印刷して販売したものがあることを明らかにした。重要な指摘であることが理解できよう。しかし、『劉鶚及老残遊記資料』には、ふたりの貴重な証言が収録されていない。
 資料集には、それまでの資料があまさず収録されていてほしい。編集の段階において編者の判断で材料を取捨選択されてしまうと、利用者にとっては迷惑である。資料の取捨選択は、利用者にまかせてもらうのが原則だ。
 劉厚沢は、劉徳隆、劉徳平兄弟の父にあたり、朱禧の岳父でもある。劉厚沢名義の注釈は、劉大紳注釈とともに全部を収録してほしかった。編者には自分の考えがあったのだろうが、利用者にしてみれば、以前の出版物を引っぱりだして使わなくてもすむものを新しい資料集には期待するのだ。
 劉大紳「関於老残遊記」についていうと、本文、注ともに新しいものを付け加えるどころか、削除があるとなれば、やはり『老残遊記資料』を持ちださざるをえない。
 劉大紳「関於老残遊記」一覧をかかげておく。本文と劉大紳注、劉厚沢注の収録が一覧できるようにした。

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劉大紳「関於老残遊記」一覧
     初出 宇宙風乙刊 魏紹昌編 劉徳隆編
本  文 ○    ○    ○    ○
劉大紳注 ○    ○    ○    △
劉厚沢注 −    −    ○    △
○印 収録する
△印 一部のみ収録
−印 もともと存在しない
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 以上に述べてきたように、劉大紳「関於老残遊記」を利用する場合は、劉厚沢の注があることで魏紹昌編『老残遊記資料』をもとにしつつ、確認の意味で劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』を参照するのがよい、という結論になる。



【注】
1)魏紹昌編『老残遊記資料』北京・中華書局1962.4(采華書林影印あり)。劉厚沢の注1。91頁
2)劉厚沢の注9。94頁
3)その後、私は日本の書店からの目録で見つけて原本を購入した。
4)劉徳隆「集多『家』美誉於一身――我所知道的劉鶚」台湾『中央日報』1995.2.22-23