清末小説研究の現状――日本で研究を行なう意味



樽本照雄




 15年前の10月1日は、天津の留学生宿舎で国慶節のパレードをテレビ中継で見ていた。15年ぶりのパレードがあった本日に、私がここにいるのも何か不思議な気がする。
 この15年間に変化したことといえば、私の髭に白髪が増えたこと、体重が12キログラム減ったことくらいだ。(さきほど阪口直樹さんに聞くと数ヵ月で14キログラムも減ったといいます。そうすると12キログラムもたいしたことがありません)
 変わらないのは、私の性格だ。
 研究にも、同じく変わらない部分も変わったこともある。

●日本において、清末小説研究に貢献できることは、なにか
 清末小説に限らず、日本における外国文学研究には、普通に考えて少なくともふたつの障害がある。
1.言語の問題
 中国語を母国語としない私にとっては、理解することがむつかしい
2.資料の問題
 外国文学を研究する場合、地理上の不利な条件が、存在する。日本も例外ではなく、中国大陸の関係機関に所蔵される資料の豊富さに比較すれば、問題にならないくらいに乏しい。
 1と2の弱点は、外国文学研究に共通のものだ。だが、研究であるからには、何か新しい知見を加えたい。どんなに小さくてもいいから発見をしたい。
3.資料にもとづいた立論
 発見のある文章を書くことを目的にすれば、これは外国文学研究というワクが外れて、研究一般に共通する課題となる。「発見」を研究の中心に置けば、中国の研究者に限らず、先行文献をまる写しにした論文は、発表できるわけがない。その際、重要なのは、資料にもとづいた立論だと思い続けてきた。

●日本における清末小説研究の実例
 清末といってもなにか遠い感覚しか感じられず、ぼんやりとした形にならない時代の印象しかないのではないか。現代とは無縁の存在のように思われるかもしれない。よく知られている魯迅を例にすれば、いくらかは接近できるだろう。
◎魯迅の場合
 魯迅から清末をみるのではなく、清末から魯迅を見るとどうなるか。
○「造人術」
 魯迅には、「造人術」という翻訳作品がある。今まで、あまり問題にされていない。
 熊融が、1960年代にその存在を発見した。(熊融「関於《哀塵》、《造人術》的説明」『文学評論』1963年第3期1963.6.14)
 米国路易斯託崙著、訳者・索子「造人術」『女子世界』第2年第4、5期合刊(原第16、17期 刊年不記)。文末に、萍雲(周作人)と初我(丁祖蔭)の評語がつく。刊年不記だが、1905年発表ということになっている。
 魯迅が翻訳したのは、人工生命の製造に取りつかれた人物が、それに成功し、受精卵の細胞分裂から、各器官の生成が起こる過程を描写した部分だ。普通、その過程は女性の子宮内で実行されるものを、この小説では、むき出しの机の上で繰り広げられるものとして記述しているだけだ。
 発見者である熊融は、「造人術」を評論して「当時、魯迅は、生命を人工的に製造することについて心から擁護しており、また深く信じて疑うことがなかった。この事実は、魯迅の唯物主義の科学観をあらわしている」(93頁)という。「唯物主義科学観」という単語をつかう文章がほかにもある。例えば、魯迅博物館魯迅研究室編『魯迅年譜』第1巻(北京・人民文学出版社1981.9)は、結論して、「魯迅は、この唯物主義科学観を信じており、特にこの文を翻訳して我が国の人民の思想を啓発した」(150頁)と述べる。
 短文であって、ほとんど荒唐無稽の内容にもかかわらず、「唯物主義科学観」という語彙を使用して肯定的な評価を下していることがわかる。
 「米国路易斯託崙著」と明記されている。だが、どうしたわけか中国には創作説が存在する。欧米の作家の作品としては単純にすぎる、翻訳を装った魯迅の創作ではなかろうか、という。原作の探求に努力するのではなく、なぜ安易に創作説をとなえるのか、理解できない。さすがに反論があった。戈宝権が、「関於魯迅最早的両篇訳文――《哀塵》、《造人術》」(『文学評論』1963年第4期1963.8.14)において、魯迅の創作説を否定する。
 魯迅が拠ったのは、原抱一庵主人(余三郎)訳『(小説)泰西奇文』(知新館1903.9.10)に収録された「ルイ・ストロング」原作、原題も同じく「造人術」である。初出は、『東京朝日新聞』(1903.6.8、7.20)に2回掲載された。ただし、『(小説)泰西奇文』に収録されたのは、『東京朝日新聞』の連載第1回分のみだ。
 日本語と漢語翻訳を対照すると、魯迅は、原抱一庵主人の日本語をかなり忠実に漢語訳していることがわかる。
 もう一歩進めると、原抱一庵主人が基づいた英文原作は、Louise J. Strong著“An Unscientific Story”(The Cosmopolitan誌1903年2月号)である。
 その粗筋はというと、ある教授が作成した人工生命が人間の魂を持つまでに成長し増殖するや、ついには怪物となり、教授はそれを滅ぼそうとし、結果として怪物は自滅する。一種の空想科学小説だ。
 原抱一庵の日本語翻訳は、英文原作の約7分の1にすぎない。原作冒頭の、細胞分裂をして人間状のものが発生する過程だけを翻訳した。英文原作には、あとに物語がつづくのだが、魯迅はそれを知らない。その主要な部分は、人工生命が、怪物となって教授を襲撃するまでに成長、増殖するところだ。人工生命創造の喜びから、おぞましき怪物、悪魔を製造したことへの苦悩へと話は展開する。問題なのは、英文原作で描かれた人工生命=怪物の形態なのである。

問題箇所:Pygmies, between three and four feet in height, immensely strong; long, thin, crooked limbs, in some of unequal length; squat, thick bodies; pointed heads, bald but for a tuft of hair at the crown; huge ears, that loosely flapped, dog-like; nose, little more than wide nostrils; mouth, a mere long slit, with protruding teeth; and eyes, ah! eyes that showed plainly far more than animal intelligence. They were small, oblique set closely together, of a beady black, their only lids being a whitish membrane that swept them at intervals ― but they sparkled and glowed with passion, dimmed with tears, and widened with thought.
 ピグミーのように、背の高さは3から4フィート(注:90-120cm)のあいだで、とてつもなく壮健。長く細くまがり均等ではない長さの手足。ずんぐりして厚い身体。とがった頭、ハゲているが天辺は髪の房をつける。ゆるく垂れ下がった犬のような大耳。やや広がった鼻孔の鼻。割れめだけの口で、出っ歯。目は、おお、目は動物の知能よりも明らかに上回っていることを示している。それらは小さく、斜めでふたつとも密接して位置しており、ビーズの黒さ。まぶたは、ただ白い膜で、間隔をおいて閉じる。しかし、それらは、情熱できらきら光り輝き、涙でぼんやりするし、思考することで大きくなる。

 ストロングの筆になる人工生命=怪物、悪魔は、なにかをモデルにして創作されたように思われる。
 そこで気づくのは、1903年当時のアメリカといえば、黒人差別と中国人差別が存在していた事実だ。あからまさな黒人差別が厳然と存在していたことに加えて、中国人労働者排斥法があった。アメリカの新聞、雑誌には、黒人と中国人を戯画化した政治マンガが流行していた時代なのだ。ストロングの英文原作は、そういう時代に創作発表された。
 アメリカにおける中国人差別をその政治諷刺マンガにさぐった『カミング・マン』という本がある。これによると、1903年前後にあふれた中国人のイメージは、つぎのようなものだった。
 「辮髪・出っ歯・細い眼など、中国人イメージは醜悪なものになる一方であった。/……醜悪に描かれたその姿は、中国人をして正真正銘の手に負えない「異教徒」の集団に仕立て上げてしまった」(胡垣坤・曽露凌・譚雅倫編、村田雄二郎・貴堂嘉之訳『カミング・マン』平凡社1997.4.16。11-12頁)
 もういちどストロングが描いた人工生命、すなわち怪物、悪魔を見てみよう。ピグミーの皮膚と背の低さをいうのは、黒人であることと背の低さを強調するためだ。「ハゲているが天辺は髪の房」は、辮髪を連想させる。「出っ歯」「小さく、斜めでふたつとも密接して」いる目から像を結ぶのは、当時のアメリカ人から蔑視されて戯画化された中国人にほかならない。すなわち、ストロングは、戯画化された中国人と黒人にもとづいて怪物、悪魔を創作し、自らの作品に登場させたと考えられる。
 中国の都市では、アメリカの中国人労働者排斥法に反対する集会がもたれ、アメリカ製品ボイコット運動が活気づいていた時、魯迅は、日本において、知らなかったとはいえ、自らの中国人を怪物、悪魔として作品に登場させたストロングの「造人術」を一生懸命中国語に翻訳していた。しかも中国大陸で発行されていた『女子世界』に発表もしている。いいようのない気持ちになるのが正直なところだ。
 英文原作を知らなかった魯迅はしかたがなかったとしても、私が問題だと思うのは、魯迅の翻訳だからといってそういう作品を、「唯物主義科学観」がうかがわれるなどと賞賛する現代中国の魯迅研究者がいることなのだ。
【参考】神田一三「魯迅「造人術」の原作」『清末小説』第22号 1999.12.1
 ―― 「魯迅「造人術」の原作・補遺」『清末小説から』第56号 2000.1.1

○「斯巴達之魂」
 自樹名義の「斯巴達之魂」は、『浙江潮』第5期(癸卯五月二十日<1903.6.15>)、第9期(癸卯九月二十日<1903.11.8>)の小説欄に、2回連載された。
 魯迅の翻訳だとばかり、私は思っていた。スパルタを題材にした創作小説にはなりようがないと考えていたからだ。
 しかし、中国大陸には、創作小説だと主張する研究者がいる。呉作橋「魯迅的第一篇小説応是《斯巴達之魂》」(『上海魯迅研究』第4輯 1991.6)、呉作橋、周暁莉「晩清小説的奇株異葩――談魯迅的《斯巴達之魂》」(『清末小説から』第55号 1999.10.1)などだ。
 呉作橋らが主張するところによると、該作は、魯迅の創作短篇小説第一作であるという。
 定説は、魯迅の創作短篇小説第一作は、「懐旧」(1911年執筆。『小説月報』第4巻第1号1913.4.25掲載)という。もし「斯巴達之魂」が小説第一作になれば、10年もさかのぼることになる。
 「斯巴達之魂」が創作であるというその理由は、日本語原作が発見されていないからだ。女性のセレナが登場する部分は、ヘロドトス「歴史」には見られないから魯迅の創作であり、創作部分が含まれている作品は、翻訳ではない。ゆえに該作品は、中国文学史上、はじめて近代的風情をそなえた短篇小説である、と高く評価する。
 周知のとおり、「斯巴達之魂」は、テルモピュライにおけるスパルタ戦士の全滅物語だ。日本に来てそれほど時間のたたない魯迅が、古代ギリシアについての資料を何も持たずに創作できるような題材ではない。ギリシア、ペルシアの人名、地名などの固有名詞を見れば、拠った日本語資料があるはずだと想像がつく。
 例をあげよう。地名・テルモピュライを魯迅は、「温泉門」と表記している。テルモが温泉でピュライが門だと魯迅が理解していたとは考えにくい。もとづいた日本語資料に温泉門と書いてあったのをそのまま使用したのだろう。
 私は、「斯巴達之魂」は、複数の日本語資料+魯迅の創作部分によって構成されていると見る。
 ヘロドトスの「歴史」には、眼病のためテルモピュライの戦闘に参加できなかったアリストデモスが、スパルタに逃亡し、皆から辱められて、後の戦争で武勲を立てると書かれている。
 魯迅は、敵前逃亡者アリストデモス(亜里士多徳/実在)に妻がいることに改変した。その妻セレナ(〓水+矣}烈娜/創作)およびケルタス(克力泰士/創作)が魯迅が創作した人物だ。魯迅「斯巴達之魂」の最重要部分である。
 魯迅がスパルタ人として登場させたセレナは、しかし、スパルタ人ではありえない。その証拠をあげるならば、身重のセレナが、敵前逃亡してきた夫・アリストデモスを自らの死をもって諌めたという箇所がそれなのだ。身重で自殺したのならば、セレナは、わが子を殺したことになる。
 スパルタには、男子の戦場での死と同価値のものとして、女子には、出産時における不慮の死のみを認めていた。女性の出産をそれほど重要視していたのだ。そこからは、身重の女子が自殺をすることは、国家に対する犯罪を意味していたことがわかる。スパルタの女子にあるまじき行動を、魯迅は、セレナに取らせた。
 魯迅がケルタスをわざわざ創作して、セレナとの間に関係があったように匂わせて書くのも、魯迅がスパルタの歴史を知らないためだ。ギリシアの古文書によると、スパルタには、不倫は存在しないことになっている。
 そのほか、魯迅は、ヘロドトスの「歴史」を書き換えて、アリストデモスの首に懸賞金を出して犯罪者にしてみたり、戦争とは関係のない奴隷を主人と一緒に「スパルタの戦士」だと叫ばせて闘いに参加させたりしている。
 魯迅にとっては、その方が自然だったのだろう。だが、魯迅が創作した部分は、いずれもヘロドトスの「歴史」の世界では、ありえない事柄だった。
 魯迅は、ヘロドトスの「歴史」をねじ曲げて、セレナとケルタスを無理やり古代ギリシア世界に移植しようとした。セレナがスパルタ人でないとすれば、残るは、中国人だと考えざるをえない。だから当時の中国人留学生たちにとって容易に感情移入ができ、魯迅の作品に感動した。
 魯迅の「斯巴達之魂」は、スパルタについての知識が少ないからこそ書くことのできた作品だということができる。古代ギリシアに中国人を登場させてヘロドトスの物語世界を破壊した作品であり、奇妙きわまりない作品だとしか考えられない。なぜこの作品が、呉作橋のいうような「晩清小説創作の特に人の注目を引く収穫である」といえようか。ヒイキの引き倒しだと考える。
【参考】樽本照雄「魯迅「斯巴達之魂」について」『清末小説』第22号 1999.12.1

 さて、以下に述べることは、知っている人にとっては、ご存じの話題だが、知らない人の方が多いと考える。なぜなら、問題提起してから十年以上たっているにもかかわらず、大部分の研究者は、あいかわらず従来からのいわゆる「定説」を守っているからだ。

○周樹人がいっぱい
 1899年12月18日付(光緒二十五年十一月十七日)『遊戯報』に周樹人の名前があるらしい。
 そこから仮説が提出される。1899年、魯迅は本名・周樹人で『遊戯報』の徴詩に応募し、一等第7位に入選した。こう述べるのは、路工「魯迅与民間文学」(『新建設』1959年12月号1959.12.7。51頁)だ。周樹人は、魯迅だと路工は信じて疑わない。
 以来、魯迅博物館魯迅研究室編『魯迅年譜』第1巻(北京人民文学出版社1981.9。67頁)をはじめとして、ほとんどが路工説に従う。10人の中国人研究者がいれば、9人までは、そう書く。
 だが、当時、複数の周樹人が存在した。
  1 『遊戯報』に詩を投稿した周樹人
  2 魯迅という筆名をもつ周樹人
  3 通州のひと 周樹人(墨生)
  4 貴渓のひと 周樹人
  5 山西のひと 周樹人(年代不明)
 魯迅の名前は、周樹人である。しかし、反対からいえば、周樹人は、すべて魯迅という筆名を持つ人物だとは限らない。複数の周樹人がいることがわかっている。ゆえに『游戯報』に見えるのが周樹人という名前であったとしても、それがただちに魯迅と同一人物であるとするのは早計である。
 目を魯迅から転じてみよう。いろいろと問題が存在するのだが、中国の研究者は、通り過ぎる部分が多いのだ。
【参考】樽本照雄「周樹人がいっぱい」『清末小説探索』法律文化社1998.9.20

◎『繍像小説』の発行年月
 商務印書館が李伯元を編集長に招いて創刊した小説専門雑誌が、『繍像小説』である。創刊は、光緒二十九年五月初一日(1903.5.27)、半月刊で発行され、第13期より発行年月日を記載しなくなる。
 「定説」は、第72期の停刊は、光緒三十二年三月十五日(1906.4.8)であるというもの。停刊の原因は、李伯元の死去(光緒三十二年三月十四日<1906.4.7>)である。疑問の余地がないように見える。
 1906年4月停刊とする説は、あたかも雑誌そのものに刊行年月日が記載されているかのように確固としたものとして、あらゆる文章に記述される。中国の研究者の10人のうち10人近くが、そのように書いている。
 だが、実際の発行は、第13期の発行年月日を記載しなくなるころから、徐々に遅延していた。雑誌に掲載された作品の内容から、また、雑誌広告、天津『大公報』に掲げられた雑誌到着広告などを総合して、刊行が遅延していた事実が判明している。停刊は、定説の1906年4月ではなく、光緒三十二(1906)年の年末である。
 単なる雑誌の発行遅延問題には終わらない。派生する問題として、李伯元の作品とされている「文明小史」は、李伯元の死後も連載が続いていたことになる。李伯元の友人・欧陽鉅源が南亭亭長の名前で最後の部分を代筆した可能性が高い。雑誌の発行時期が、作品の真贋問題に直結している。
 事実をもって問題提起しているにもかかわらず、反応を示す研究者は、ほとんどいない。
【参考】樽本照雄「『繍像小説』の刊行時期」『清末小説論集』法律文化社1992.2.20

○翻訳「電術奇談」
 「電術奇談(一名催眠術)」は、日本菊池幽芳氏元著・東莞方慶周訳述・我仏山人衍義・知新主人評点と記されて発表された。掲載誌は、『新小説』第8号(光緒二十九年八月十五日<1903.10.5>)−第2年6号(第18号、刊年不記)であり、全24回の連載だ。
 日本語原作は、菊池幽芳『新聞売子』前後編2冊本(大阪駸々堂発行。前編第1-37回、202頁、1900.9.12。後編第38-75回、186頁、1900.10.30。 国会図書館所蔵)である。もともと新聞に連載されていたものを単行本にまとめた。。
 日本語原文と漢語翻訳を対照すると、加筆があったりして直訳ではないにしても、原作の筋をかなり忠実に追った漢語翻訳である。ところが中国大陸では、呉〓人が「再創作」したとする論文記述がほとんどだ。だが、あきらかに翻訳であって「再創作」であるとするのは誤りである。中国の研究者が、日本語原文を見ているのなら、「再創作」という説明は出てこないはずなのだ。原史料を見ないで発言するのである。
【参考】樽本照雄「呉〓人「電術奇談」の方法」『清末小説論集』法律文化社1992.2.20

◎李伯元と呉〓人の経済特科
 経済特科は、清末に提案され、また実施された臨時の試験である。時務に通じた人物を選抜するのを目的とした。
 李伯元と呉〓人が経済特科に推薦されたとは知られているが、それがいつなのか、1901年、1903年などの説がある。また、李伯元と呉〓人は別々の経済特科に推薦されたような書き方をされたり、どちらか一方の名前しか挙げられておらず、どれが本当なのかも不明だった。
 天津『大公報』(1902.12.3)に掲載された「保挙経済特科員名単」には115名の名前が掲げられているのを見つけた。この名簿によると、李伯元、呉〓人、連夢青(文澂)たちは同時に推薦されていることがわかる。動かぬ証拠により、李伯元と呉〓人が同時に、1902年に推薦されたことが確定できた。
【参考】樽本照雄「李伯元と呉〓人の経済特科」『清末小説探索』法律文化社1998.9.20

 以上に述べたことは、見方によれば、些細な事実にしかすぎない。
 韓国ソウルで国際学会があったときの経験を思い出す。経済特科の推薦年について1901年でもなく、また1903年でもないことを報告した。私の報告にコメントするためにだけ中国大陸からソウルにやってきていた老年の研究者は、1年くらいの違いはどうでもいいではないか、と発言した。なるほど、中国では、指導教授(博士課程の学生を指導する資格を持っていると名刺に印刷してあった)がそういう態度であれば、中国大陸で誤りが数十年も受け継がれるわけだと納得したのだった。

 ★細かいことをおろそかにする人は、大きいことも成すことはできない。

 文学評価の本質とは関係のない事柄だとさえいうことができよう。だが、私が行ないたいのは、正確な事実の積み重ねによる研究なのだ。大局から全体を述べる方法もあれば、細かな事実にこだわった方法もある。こうしなくてはならない、こうあるべきだ、と考える人はそうすればいい。自分の考えを他人に押しつけるな、というのが、私の基本的立場であることを述べておきたい。私の好きなように研究する。好きに研究して来て、いくつかの発見をした。確かに細かい事実には違いなかろう。だが、それらは、今まで中国人研究者ですら明らかにできなかった事ばかりである。先行文献になにか新しい発見を小さくてもいいからつけ加えたい、というやり方から必然的に帰着する地点だ。

◎情報化時代の研究の二極分化
 清末小説研究は、中国人研究者だけの研究範囲内であることを、やめてすでに久しい。外国で新しい発見が公表され続けている。しかし、中国大陸では、情報に対するアンテナの張りかたが強い研究者とそうでない研究者に分化しはじめているといってよい。結果としてその研究成果にも大きな差が生じることになった。

○裴效維の場合
 裴效維(1938- ) 山西楡社の人。1963年北京大学中文系卒業。中国社会科学院文学研究所所属。中国近代文学学会理事など。
 裴效維編「呉〓人著作系年」(『呉〓人全集』全10冊(哈爾濱・北方文芸出版社1998.2)が、ある。光緒二十四年(1898)、呉〓人三十三歳の時に発表した作品から始まり、発表の順番に詳細な解説を加えて中国大陸における研究の最先端にあるといってよい。
 該書にある誤りを列挙する。
1.「二十年目睹之怪現状」第4巻丁巻の発行年について誤りをおかしている。「十一月」と書くべきところを「十二月」と記述する。阿英に始まり魏紹昌、王俊年、盧叔度らに継承された。←いずれも初版原本を確認していないことによる。(裴效維さんから直接お手紙をもらいました。たしかに間違っている、阿英の目録によったからだ、初版は入手しにくく見ていない、ただし、そのことと呉〓人の文学評価とは何の関係もない、という内容でした。当たり前です。私が問題にしているのは、研究者の文献を扱う姿勢なのです。たぶん、理解されないでしょう)
2.「電術奇談」の原作が菊池幽芳の「新聞売子」であることに言及しない。不十分である。また、これが、呉〓人の「再創作」の作品であることをいう(353頁)。←日本語原文「新聞売子」を確認していない。
3.『繍像小説』の月2回の発行が、最後まで守られたと信じている。李伯元の死去1906年4月に該誌が停刊したとする。『繍像小説』が第13期より発行年月日が記載されていない事実を無視する。←雑誌の原物で確認していないのではないか。
4.広智書局『恨海』の出版年月日を、「本年九月(10ママ月)」(364頁)とする。しかし、原本を見れば、「光緒三十二年九月三十ママ日」と記されていることがわかる。同年九月は「二十九日」までであり、「九月三十日」は存在しない。
5.「学界鏡」の作者は、〓叟と署名される。阿英は、この〓叟は呉〓人の筆名だとした。裴效維は、阿英の記述には根拠がないことをいい、『月月小説』第22号に「古燕談治〓叟」をさがしだした(最初に指摘した魏紹昌の名前を出していない。裴效維は独自に調査したのか?)。〓叟は、呉〓人とはまったく別人である。その正体は、談治であり、その出身は、古燕、当時の直隷、今の河北省であると結論する。←同主旨の論文を、私は、ほとんど10年前に発表している。〓叟の名前が『民呼日報』『民吁日報』に出現していることを紹介し、あわせて談治が談長治(善吾)であることをつきとめた。
6.「盗偵探」も、阿英が根拠を提示することなく呉〓人の作品としたことを述べる。←同主旨の論文を、私は、ほとんど10年前に発表している
7.「新繁華夢」の著者・老上海は、呉〓人である、と言いだしたのは江蘇省社会科学院明清小説研究中心編『中国通俗小説総目提要』(北京・中国文聯出版公司1990.2/1991.9再版)だ。呉〓人は、老上海という筆名を使ったことがある。しかし、「新繁華夢」のそれが呉〓人のものとは限らない。裴效維があげる根拠は、阿英が「新繁華夢」に言及して、それが呉〓人の作品であるとは断定していない、というものだ。確証がないという結論に落ち着く。←私も、「新繁華夢」の老上海が呉〓人であるという意見には反対する文章を過去に発表している。私は、老上海という筆名を持つ別人、すなわち陳輔相(无我、旡我)を提示しておいた。
 以上に関する論文は、より掘り下げた文章を含めてすべて日本において過去に発表されている。外国における研究状況に無関心でいることが、みずからの研究の進歩発展を阻害した例である。
【参考】樽本照雄「文献をあつかう姿勢――『呉〓人全集』を例として」『大阪経大論集』第49巻第3号(通巻245号)1998.9.15

○王学鈞の場合
 裴效維と対照的に外国における研究に敏感なのが、南京社会科学院文学研究所に所属する王学鈞だ。
 薛正興主編『李伯元全集』全5巻(南京・江蘇古籍出版社1997.12)が出版さた。その第5巻は、王学鈞編集で、説明(7頁)、李伯元詩文集(161頁)、李伯元年譜(236頁)、李伯元研究資料篇目索引(47頁)によって構成されている。
 その編集の特徴は、広がりと深化のふたつにまとめることができる。
◆広がり
1.材料採取対象範囲が広い。鄭逸梅の著作、『繍像小説』、魏紹昌編の資料などからばかりでない。日本『清末小説』掲載の中村忠行論文から、また入谷仙介論文から原資料を採取する。という具合に目が外国にも向いている。
2.「庚子蘂宮花選」を『清末小説研究』第5号の影印掲載から採録する。『庚子蘂宮花選』は、李伯元が直接に実施した妓女コンテストの報告文書である。中国の文献のどこにも採録されていない、貴重な書籍なのだ。その存在に気づいたのも研究の目を海外に向けている王学鈞だからこそだ。
◆深化
「李伯元年譜」は、今までの李伯元年譜のなかではいちばん詳しい。李伯元の経歴で問題となる事項が、すべて浮き彫りにされている。
1.生年月日:呉〓人がいう同治六年四月十八日(1867.5.21)と魏紹昌が李錫奇の記述にもとづいていう同年同月二十九日(1867.6.1)を並べて書く。どちらかを確定する資料がない以上、並べて記す王学鈞の書き方が、正しい。
2.『游戯報』に掲載された周樹人は、魯迅だ、という説である。1950年代に路工が指摘した。研究者は、今まで、路工説を疑うことなくそのまま引用してきた。王学鈞は、違う。当時、同姓同名の周樹人が複数いたことをいう(144頁)。結論は、『游戯報』に掲げられたという周樹人は、魯迅である可能性はそれほどない、となる。妥当な意見である。
3.李伯元と呉〓人の経済特科問題
 1901年だ、1903年だ、李伯元だ、呉〓人だと推測ばかりが横行していたのが実情である。王学鈞は、1902年、天津『大公報』の「保挙経済特科員名単」を証拠として提出する(172頁)。ふたりが同時に推薦されていた事実がここにある。
4.『繍像小説』の編者は、李伯元なのかそうではないのか。中国大陸、日本でくりひろげられた一大論争だった。1905年に上海郵政局が調査した文献により李伯元が『繍像小説』の編者であったことが確定する(179頁)。
 以上、1から4まで、問題の指摘は、すべて日本においてなされた。日本の雑誌、紀要に論文が発表されているものを王学鈞は、丹念に収集して考察の対象とし、熟考のうえで自分の文章に盛りこんでいる。
【参考】沢本郁馬「李伯元研究の広がりと深化――王学鈞編『李伯元全集』第5巻の特色」『清末小説』第21号 1998.12.1

 清末小説の分野は、今や全世界的規模で研究されているという認識を持つ必要がある。中国大陸で発表される論文だけに注意を向けていたのでは、研究はすでに成立しにくくなっているのだ。
 最後に、中国大陸でようやく実を結びはじめた新しい研究動向についてひとつだけ紹介しておきたい。

◎新しい動き――『中国近現代通俗文学史』の発行
 范伯群(蘇州大学教授)主編、中文系の研究者を集めて執筆されたのが、『中国近現代通俗文学史』だ(2000年出版予定)。
 該書には、賈植芳の序がついている。(賈植芳「反思的歴史 歴史的反思――為《中国近現代通俗文学史》而序」)
 賈植芳の考えは、失われたもうひとつの翼を取り戻す(找回〓ling一只翅膀)のが該書の役割だという。
 范伯群の基礎認識を紹介して、「現在ある中国文学史は、不完全な文学史である」「不完全さの程度ははなはだしく、我々は過去においてただ半分の中国「現代」文学史を研究していたにすぎない」とする。
 賈植芳は、いう。過去に、ある種の歴史の「誤解」と「誤誘導」によって、我々の文学研究はかつて自覚的に俗文学の系列を現代文学研究の視野の外に排除してしまい、たまに言及したとしても、文学史の逆流として批判してきた。この誤解は、偏見から発生し、偏見は無知に誘導する、そうして無知はさらに進んで偏見へと誘導する。
 そこで反省が生じる。
 賈植芳は、続ける。清末から1949年以前の通俗文学作品――鴛鴦蝴蝶派、礼拝六派は、新文学家からの攻撃に出会い、「文学乞食(文丐)」「文学娼婦(文娼)」などと排斥され、彼らの作品といっしょに厳しく徹底した批判にさらされた。その後、数十年にわたりこの重要な文学部門は20世紀中国文学史の研究範囲から排除され、今日の読者は彼らについてすでに見知らぬものになってしまっている。しかし文学史研究の角度から見れば、これらの作家作品を文化現象の存在として完全に無視することは、かえってはなはだ科学的ではない。
 該書の意義が強調されるのは当然だ。
 中国近現代文学史上の空白を埋めるだけでなく、文学史研究の科学体系を完全なものにし、文学史研究領域中のある観念(マルクス主義文芸観?)を改めて、現代文学史の編集構成を改変した。同時に、近現代文壇上の主要な流派――「鴛鴦蝴蝶−礼拝六派」に対して客観的で公平な評価を与え、それが中国古代白話小説の伝統を継承するもので、近現代大都市が形成される過程において繁栄し成長した通俗文学流派であることを指摘する。それの歴史の真価を肯定し、またその歴史的限界をも指摘する。
 以上の理由で、記述されるのは、通俗文学の「四大金剛」――社会、言情、武侠、偵探、および「二大品種」――歴史演義、滑稽幽黙である。
 これこそ近現代文学史研究の大変革にほかならない。別の角度からいえば、通俗文学の失地回復である。
【参考】沢本香子「『中国近現代通俗文学史』の出版予告」『清末小説』第22号 1999.12.1

 日々進展しているのが、清末民初小説研究の分野である。その状況を把握するための便利な媒体はなにかといえば、日本で発行されている研究専門雑誌なのである。

◎情報の入手方法
○研究雑誌の発行
 過去の一時期、中国大陸で「近代文学」の研究専門雑誌が発行されたことはある。しかし、現在、それらはすべて停刊している。一誌も残っていない。
 現在も継続発行されているのは、日本の年刊『清末小説』第22号(1999)、季刊『清末小説から』第55号(1999.10.1)の2種類のみである。雑誌の発行は、研究者に交流の場を提供するものだ。研究動向を知るための手掛かりにもなる。
○目録、年表の出版
 専門雑誌のほかに、単行本も出版している。『清末民初小説目録』(中国文芸研究会と共同出版。1988)『新編清末民初小説目録』(1997)『清末民初小説年表』(1999)などがある。
○清末小説研究会のホームページ(http://www.biwa.ne.jp/~tarumoto)
 インターネット時代の研究に対応するためにホームページが設けられている。そこには、『清末小説』『清末小説から』に掲載された論文を読むことができる。さらに研究ガイド、論文目録、著作目録なども掲載されているから、何かの参考になるであろう。