自著解説あるいは私のやり方
――『清末小説探索』を出版して


樽本照雄


 昨年出版した『清末小説探索』(法律文化社1998.9.20)を見なおすと、いくつかの感想があらためてわいてくる。
 中国を遠くはなれた日本において、清末小説を研究しようというのだ。地理から見ても資料の不備が、いつまでもまとわりつく。自国の小説を研究する大陸の研究者に比較して、私が日本で利用できる書籍、雑誌は、圧倒的に少ない。さらに、今から30年前は、清末小説が注目される状況ではないという時代的な背景もあった。
 日本における中国文学研究は、自由に行なわれているように見えるかもしれない。だが、それはあくまでも表面だけだ。その時代の動向と無関係ではありえなかった。ことに中国大陸の研究動向に影響されていたのが、ついこのあいだまでの日本における研究界である。
 すべてについて確かな知識もない当時の私にとって、研究対象を清末小説に決めたのにも、たいした理由があったわけではない。手を染める研究者が少ないのなら、また、中国で無視される研究分野ならば、やりがいがあるというものだ、という妄想だけがたよりだった。今から思えば、そんなところだろう。
 ただし、新資料を発掘しない限り、先人の研究をくりかえしてなぞるだけに終わるのではないか、という心配だけが私には最初からあった。どんな小さな事でもいい、先人が見つけていない、言及していない事柄を自分の文章に盛り込みたい。これが、私の論文の出発点となっている。中国の研究者と、直接、討論ができるようになるなど想像すらしていなかった頃のことだ。
 先行論文を読みながら、それらに引用され参考書としてあげられた文献を捜すことから始まった。資料を収集しながら、細かく事実を探索していくと、先人の記述とは異なる箇所を発見することもある。
 たとえば、呉〓人「電術奇談」の「再創作」問題がある。
 もともと、呉〓人「電術奇談」の原本が何という作品なのか不明だった。これが菊池幽芳「新聞売子」であることを私がつきとめたことに始まる。
 単なる原作探求と思われるかもしれない。「単なる」と修飾語をつけたのは、事実の「単なる」探索は、研究ではないと考えている人がいるからだ。その「単なる」作業がどれだけ手間ヒマのかかるものか、経験のある人は知っている。その「単なる」原作探しの結果、原本と呉〓人の文章を比較対照することができるようになったのはいうまでもない。
 原作と比較対照すれば、呉〓人の文章が翻訳であることは、一目瞭然なのだ。ところが、中国大陸では、魯迅以降、孫楷第(1933)から盧叔度(1980)、王立言(1988)、欧陽健と簫相〓(1989)など、専門家のほとんどすべてが「再創作」であるという。呉〓人「電術奇談」は、翻訳ではないと断言している。これら中国大陸の専門家は、菊池幽芳「新聞売子」を見たこともないのに「再創作」だと主張するのだ。原作を知らないから、先人の記述を無批判に受け入れ、引き写していたのだろう。大胆というよりも、ア然とするほかない。(中国で唯一の例外は、郭延礼1998である)
 もっとも、中国大陸において日本で出版された菊池幽芳の作品を捜査することはむつかしいかもしれない。
 では、李伯元と呉〓人の経済特科はどうか。
 経済特科とは、清朝末期に実施された科挙の特別試験である。経済といっても、現在、使っている意味ではない。「経世済民」という本来の意味で、国家有用の人材を選抜することを目的にしている。
 この試験に、清末の作家で有名な李伯元と呉〓人が推薦された、いや推薦を拒否した、1901年だ、1903年のことだ、と各種意見が提出されている。基づく資料は限られており、その資料そのものがあやふやな書き方をしている結果である。資料を検討してみればわかる。その場合、視点をかえて経済特科の究明から着手するのが普通ではなかろうか。ところが、中国文学研究者は、歴史研究とは無関係であると自らを規定しているように見える。だから、中国大陸の文学研究者の誰ひとりとして正確な記述ができず、先人の誤りをくりかえしてきたといっても過言ではない。
 経済特科について調査し、その過程で天津『大公報』の記事に李伯元と呉〓人の名前を見つけた。決定的な物的証拠である。天津『大公報』の影印出版が、以前にはできなかった資料調査を可能にしたということができる。私が天津『大公報』を見ることができるのなら、中国人研究者ができないわけはない。
 『繍像小説』の発行遅延問題はどうか。
 『繍像小説』の編者問題から始まった。従来、『繍像小説』の編者は、李伯元だと考えられてきた。それは違う、と汪家熔が、まず反論する。その汪家熔説に、さらに反対したのが私だ。周辺の情況を考え、掲載された作品の「老残遊記」と「文明小史」の盗用問題を考慮すれば、李伯元の編集以外に考えられない。盗用問題というのは、「文明小史」に「老残遊記」から盗用する箇所が存在することを指す。李伯元が『繍像小説』の編者でなければ、「老残遊記」から盗用することはできないからだ。
 これも「単なる」編者問題のように見られていた。
 そこに、『繍像小説』の発行が遅延していたという新説が登場する。李伯元が死去したあとも『繍像小説』は発行されていた。必然的に、南亭亭長の名前で発表されている「文明小史」は、李伯元の作品でない部分が存在することになる。続作したのは、李伯元の親しい友人である欧陽鉅源だという結論にならざるをえない。
 『繍像小説』の発行遅延を証明するために私が拠ったのは、新聞、雑誌の出版広告だ。これらも最近影印出版されているから、誰でも利用できる。誰でも利用はできるが、追求した人はいない。
 「単なる」編者問題が、「文明小史」の作者にまで関係してくるのだ。清末小説研究においても、作品の作者が違ってくれば、当然のように論述のしかたが異なる。今まで「文明小史」を李伯元の作品だとして論じてきた文章は、一瞬にしてその存在価値を失う。重大な問題提起となったことが認められるだろう。
 重大な問題提起であるにもかかわらず、『繍像小説』は、月2回の定期発行を守って終刊したという考えから抜けだすことのできない研究者の方が多いのが現状なのだ。
 以上は、中国大陸だから、日本だからという問題ではなく、共通の課題として討論されてきた。
 事実の探索から着手すれば、先人また同時代研究者の誤記誤解の指摘につながる。それは、批判と言ってもいい。だから、論争になる。中国大陸の研究者との討論が進行形でくりひろげられるそのままが、私の論文に反映されることになった。
 ひとつの主題について、海を隔てて討論を行なう。交流を遮断していた一昔前の中国を知っている人にとっては、まるで夢のような変化であるといえよう。私自身が、そう感じているひとりにほかならない。
 本書にその夢の一部が実現している。特色のひとつだろう。人がいわないから、自分で言う。
 資料の探索追求を軽視する人がいる。もっと大きな問題を論じろ、といいたいのかもしれない。そうしたい人は、そうすればいい。私は、自分のやりたいようにする。それが以上に述べてきたものだ。手間と暇がかかる。李伯元の誕生日を探るために、一字2万5000円、四文字で10万円の出費も覚悟しなければならない。お金もかかるのだ。
 本書では、わずらわしいと思われるほどに詳細な文献情報を書いておいた。資料に基づいた記述であることを明確にしたかったからだ。また、私の明示した文献によって追跡調査ができるように配慮したということでもある。当然のやり方だとは思う。だが、中国大陸で発表される論文のなかには、自他の区別をしないものもあって、それらと一線を画するためでもあった。
 「重箱のスミをつついているだけ」という反応があることは、承知のうえだ。では、つつかないで、先人の誤解誤記を大事にくりかえすことの方がいいのか。そうすることが大きい問題を論じることだと思っている人は、そうすればいい。私とは、無関係の考え方である。
 重箱のスミを、徹底的に、自分の気のすむまでつつきたおして、重箱そのものを破壊する。重箱が壊れれば、また新しい視野も開けてこようというものだ。これが私のやり方なのである。

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樽本照雄『清末小説探索』目次

日本における清末小説関係資料
清末小説家の落魄伝説
清末四作家の生卒年月日
「老残遊記」批判とは何か
「老残遊記」の成立
「老残遊記」三集は存在するか
「老残遊記」の「虎」問題
井上紅梅・大成教・劉鉄雲
呉〓人訳「電術奇談」余話
「新繁華夢」の老上海は呉〓人か
経済特科考
李伯元と呉〓人の経済特科
李伯元、呉〓人と経済特科の意味
一字2万5000円――李伯元の誕生日
南亭亭長の正体――『繍像小説』編者論争から始まる
『繍像小説』の刊行時期ふたたび
『繍像小説』の刊行時期みたび――張純氏に答える
梁啓超の盗用
梁啓超の「群治」について
梁啓超「群治」の読まれ方
周樹人がいっぱい

あとがき
索引