『大阪経済大学教養部紀要』第17号(1999.12.31)。図、写真は省略


黄河、鄭州に決壊す――「老残遊記」紀行


樽本照雄


1 鄭州決壊

 光緒十三(1887)年八月、黄河は鄭州において決壊し、賈魯河に入り淮河に注いだ。黄河主流は、それまでの方向を大きく変え、ふたたび東流から南流に転じた。
 関係者の必死の努力にもかかわらず、決壊箇所は、なかなかふさがらない。治水責任者である河東河道総督は、成孚から李鶴年(1887)をへて呉大澂(1888)へとめまぐるしく交替した。責任を取らされたのである。
 光緒十四年七月十日、呉大澂は、河東河道総督に任命された*9。
 同年八月五日、呉大澂は、開封に到着する。開封の西が鄭州だ。決壊箇所を視察したうえで、情況判断、工事の方法、進捗情況の報告とたびたび上奏文を提出することになる。それほど工事は長引いた
 なかなか工事がはかどらず、十一月には、呉大澂みずからが決壊の現場に駐在することにした。心労で肝臓と胃病を患ってもいる*10。
 呉大澂のもとに駆けつけたのが、劉鉄雲だった。劉鉄雲は、決壊箇所の修復に技術的な提案を行なう。土砂運搬車、電燈、汽船さらにはセメントなどの西洋機器資材を利用し、昼夜を分かたぬ工事の結果、十二月になって修復見通しが、ようやくにして、たつ。
 十二月十六日、玉を沈めて河の神を祭り、十七、十八日で決壊箇所(金門または竜口)を繋いだ(合竜という)。翌十九日、水が漏れないのを確認し(閉気)、これが工事完成日となった。決壊から修復まで十六ヵ月かかった計算になる。
 こんなことがあった。呉大澂は、官衣をぬぎ労働者の服装で人夫にまじって〓料(堤防工事用資材。高粱の茎など)を取りによく材料置き場へ行った。そうして賃金を受け取り、ピンハネしていないか調査するのだ。小役人は、呉大澂がためしているのを知らず、はたしてピンハネをする。呉大澂が皆について争うと、小役人は怒り、怒鳴ってつかまえ棒打ちをくらわそうとする。おつきの者が、この方をどなたと心得る、親方様であるぞ(水戸黄門だね)、と叱る。小役人は驚き恐れ、呉大澂は立ち上がって小役人をつかまえさせて棒打ち首かせの刑に処した*11。
 そこまでやるか?と思わないでもない。この部分を書いた銭基博は、呉大澂が心配りのある人物で、マメであったことを言いたかったのだろう。
 人夫にまじって働く、というのは、劉鉄雲について今までよく引用されてきた文章がある。劉鉄雲の息子劉大紳が、書き残す。劉鉄雲が、労働者の服装で人夫の間を歩き回り、みずから指揮してむちうち励ました、という例のものだ*12。
 それぞれの目的は異なっているが、同じような行動をとっているのがおもしろい。
 全身全霊を打ち込んだ黄河治水工事だった。呉大澂は、その労苦を思い成功を記念して別の字「鄭龕」を使用することにする。龕は、合と竜の組み合わせで、その意味は、いうまでもなく鄭州で合竜した、ということだ。長方形の印(図1)を作ったのも有名だろう*13。
 黄河治水における堤防については、ふたつの側面がある。ひとつは、堤防決壊の修復工事であり、もうひとつは堤防の決壊を防止する、保守工事である。
 劉鉄雲にとって、鄭州では黄河決壊の修復工事に参加する経験を得たことが貴重だった。もうひとつの保守工事は、のちに利津と蒲台の斜堤建設で体験することになる。
 百年をこえて、今、鄭州に当時の黄河決壊箇所を訪問するのが今回の旅行の目的である。劉鉄雲と「老残遊記」をめぐる中国紀行のひとつだ*14。

2 決壊箇所を訪れる目的

 実際に鄭州決壊箇所を訪問する目的は、みっつある。
 1.決壊箇所はどのような地形をしているのか
 決壊箇所修復に十六ヵ月もの時間がかかった理由を理解するために、現地の地形を見ておきたい。
 2.黄河と防波堤はどのようになっているのか
 約百年前とは地形が変化している可能性がある。河幅の増減、洲が耕地になる、人が住むなどなど。また、治水について技術的な面での進歩もあるだろう。こまかな部分は変わっているかもしれない。だが、黄河の流れとその防波堤には、基本的に変わらぬものがあるのではないか。これが、予想だ。堤の構築情況を確認しておきたい。地形の変化があれば、それも見たい。
 3.記念物があるのではないか
 鄭州工事は、難工事だけあって、その成功にはひとしおの感激があったであろう。呉大澂は、工事成功を記念して特に「鄭龕」と名のり、印までも作成している。その場所に関係のあるところで、現地に記念の祠、あるいは寺院のような建造物を残しているのではないか。記念碑でもいい。これまた約百年前の建物、記念碑が残っているかどうかは疑問ではある。だが、一応、捜してみたい。
 手ぶらで現地に行って、収穫があると思う方がおかしい。それ相応の下準備が必要だ。この場合、当時の地図を入手することからはじめなければならない。

3 鄭州決壊の場所

 呉大澂の光緒十四年九月二十九日の上奏文に「北岸花園口、東路王屋荘、西路趙荘、平皋灘等處」*15などと書かれている。黄河決壊場所は、それらとは離れていないだろうと予想をたてる。
 ただし、問題は、こまかな地名を記載した古地図を見ることができるかどうかだ。
 さいわい、『山東直隷河南三省黄河全図』(上海・鴻文書局 光緒十六年孟冬<旧暦十月> 石印)大冊(縦横34×30cm)5冊を入手することができた。これこそ鄭州工事完成後、劉鉄雲も参加して、黄河流域を調査した地図集なのである。
 この地図に、「鄭工合竜処」と明示した箇所がある。さらに説明文が添えられている。

光緒十三年八月、鄭州で増水し、十堡にて溢れて決壊した。幅547丈。地名は石橋という。尚書李鴻藻、河督呉大澂、豫撫倪文蔚らが処理し、十四年十二月合竜する。公費1200万両。

 花園口(図2a)の東、河辺に沿って十堡、十一堡に「金門口」(図2b)がある。これが決壊箇所を意味する。そこから少し南に石橋という村の名がある。
 この地図だけを頼りに現地へ行って調査するのは、むつかしい。なぜなら、黄河沿岸の記載はあるにしても、この決壊箇所から賈魯河へ繋がっていたはずなのに、肝心の賈魯河が記載されていない。位置関係がアイマイなのだ。
 さらに事情を困難にしているのが、現在の鄭州近郊の詳しい地図が、日本では入手できないことだ。
 それでも昔に比較すると、情況が変わったと思うのは、日本で『鄭州生活地図冊』(中国地図出版社1993?)を購入できたからだ。だが、これは鄭州市内の地図で、近郊の黄河となると、簡略した地図にわずかに花園口くらいしか記載がない。
 というわけで、鄭州において詳しい近郊地図を探しながらの現地調査となった。

4 現地調査

 ここであらためて考える。光緒十四(1888)年の鄭州決壊に興味を持っているのは私くらいのものだ。複数の文献を見ても、私の興味と一致する記述は、ない。誰もやらないからこそ調べてみたい。だが、中国で入手した『中国汽車司機地図冊』(北京・中国地図出版社1998.3/1999.2 第4次印刷)を見ても、鄭州市から黄河付近に記入されている地名は、花園口と馬渡の2か所があるのみ。その他、複数の地図を購入したが大同小異でしかない。悪い予感がするのは、今の地図に見える黄河の形態と古地図に描かれた同一箇所の形が異なっているからだ。
 過ぎ去った111年の年月は、黄河の流れを変化させても不思議ではない。特に泥砂が蓄積しやすい性質が、本来、黄河にはある。古地図にも決壊箇所の前面に砂州がひろがっており、河の流れはずっと北側に移動している。この形は、今の地図に見える流れと一致する。ということは、鄭州決壊箇所は、現在の水流からずっと離れてすでに陸地の一部分になってしまっていることを意味する。
 鄭州での決壊で、今にいたるまで話題にされるのは、光緒十四(1888)年ではなく、1938年の国民党軍による花園口での黄河堤防破壊だ。日本軍の侵攻を阻止することを目的とした。黄河は、南に氾濫して賈魯河に流入し、潁河、渦河より淮河を経て長江に注ぎ海に入る。鄭州決壊の場所は、1938年の花園口堤防破壊箇所にちょうど重なることが地図を見ただけで理解できる。
 花園口は、今も昔もその場所にある。鄭州市内から車でゆっくり走って約40分くらいの距離だ。20キロメートルにも満たないか。
 「黄河花園口旅遊区」と名付けられた大門がある。入場券を買って堤防に出ると、そこは水門が建設されている場所だ。黄濁色の水面が見えると、すぐ先に広がるのは雑草の生えた砂州である。堤防のまわりは水が淀んでいる。はるか遠くは対岸らしいが、遠すぎて肉眼では確認できない。9月としては普通の水量だそうで、堤防の底付近をわずかに濡らしているくらいに見える。場所にもよるが、中央部の水流の速さは相当なものだ。黄濁した水面が太陽光線に反射して複雑な形状を示していてそれがわかる。昨年も断流現象は頻発したという。だが、今は、表面上は穏やかに流れている。右手に黄河大橋が見える。真っ直ぐに対岸に延びたまま、その先は霞むほどに距離がある。
 1984年、済南近郊で黄河を訪問した時のことを思い出す。比較すれば、その河幅の広さで花園口は済南を圧倒する。向こう岸が見えないくらいの広さから、下流の方が河幅が狭くなっていることになる。西の河南で広く、東の山東で狭いならば、同じ水量であれば水はけがよほど順調でなければ河南で氾濫するはずだ。
 自分が立っている堤防は、河の流れに突き出す形で構築されている。
 今、堤防と書いたが、漢語でいえば、正しくは「〓」と称する。大堤から流れに突き出す枝のように建築される。黄河に建築された特有の構造物で、その形状により、また、突き出す角度により名称が分かれている。丁〓、挑水〓、人字〓、順水〓などがそれで、形状は異なってはいるがその作用はほぼ同じだ。流れを狭くして黄河中央に蓄積しがちな泥砂を押し流そうとする。流れが、直接、大堤に当たれば堤防崩壊の危険性が高くなる。それを予防するための役割もはたす。現在の〓は、以前と違い側面全体が石で覆われている。そうでなければ〓の効果も著しく減少するのは当然だ。
 〓を石で覆うという工法は、現在であれば普通の発想かもしれない。だが、以前の〓の白黒写真(図3)を見れば、高粱などの植物繊維をまぜた土を打ち固めている情景を写し出している。〓を石で補強するという考えは、それほど普及していなかったことがわかる。
 すぐ連想するのは、劉鉄雲が黄河治水について書いた「治河七説」のなかの「善後説」である。
 内容は、黄河の日常の保守について提案をする。その提案のひとつは、「頂のぶつかりから救うことだ」。頂とは、縷堤、すなわち黄河の水流にむかってでっぱった形で建設した堤防のその先端箇所を指す。流れの中に突き出す堤防だから、当然、その頂がある。その昔は、ただの土を固めただけだから、水流に洗われて崩壊しやすい。頂部分を砕石で覆い崩壊から防ぐことを提案する。石を切り出して運搬する必要があるのは、考えればわかる。それが、当時は、難しかったのだ。
 現在、堤防全体および〓も、石で舗装されている。ここには長い時間の経過が反映されているといっていいだろう。
 頭の中では、〓の役割を以上のように理解していた。だが、古地図でみる〓と実際の〓は、印象が異なる。比較の問題だろうが、花園口のように河幅の広い場所では、〓といっても、その長さは十分でないように思える。短すぎると言ってもいいのではなかろうか。いくつか斜めに平行させて〓が流れに突き出す。〓の間には、当然のように泥砂が溜まっている(図4)。手前の〓と向うの〓の間に、泥砂が堆積している様子が、肉眼で確認できる。
 定期的に浚渫しなければ、〓の役割を果たさなくなるだろう。これだけ河幅が広い場所における〓の効果は、流れを束ねて水流を速くするためではなかろう。護岸を目的したものだと推測する。特に水門が設けられている箇所に設置されている〓は、直接にはこの水門を保護するためだと理解できる。水流を水門の先に逃し、流れに影響されないように水を堤内に導く働きをする。だから同じ〓でもその建設される場所によって、黄河の状況によって、その期待される働きは異なる。
 〓の形状は、空から見たほうがわかりやすい(図5)。今、写真集『河頌――殷鶴仙黄河撮影作品集』(鄭州・黄河水利出版社1998.6)から引用する。
 写真に見えるのは、渇水期の黄河らしい。〓の底に盛り上がるかたちに砂利を敷きつめ土台を補強し、その周りに泥砂がすでに沈殿して露出している状況が目視できる。その沖は、これまた泥砂の中州ができている。浚渫船が、岸からのパイプで繋がっており、泥砂を吸い出している作業中だとわかる。広がる中州に比較して浚渫船の影が小さいことが、黄河の河幅の広さと泥砂の堆積が大きいことを際立たせている。堤防の内側は、耕作地が広がり、植物の姿が見えない部分は、増水期の遊水池として考えられているのだろう。
 もう一枚の空中写真は、花園口の水門を画面に収めている(図6)。手前の三角形に突き出した〓の右側に水門がある。見えるのは、見張り小屋の四角い建物だ。柵では、囲まれていない。昔は、ここを見せるのに入場料は取らなかったらしい。今は、どこに行くにも、特に観光地は、あれやこれやと料金を科せられる。写真の上方に橋梁が建設中でクレーンが見える。これが、現在は完成している黄河大橋である。大堤の内側にはすでに家屋が建設されていることがわかるだろう。
 以上、2枚ともに水量の少ない季節の写真である。沈殿して堆積した泥砂は、肥沃な耕地になる。
 堤防の上は、車両が通行できるように道路が作られている。私が訪れた時はアスファルト舗装の工事中であった。東にしばらく行くと、1938年の花園口決壊の東箇所に記念碑「界碑」(図7)がある。御影石のプレートが張られた台石のうえに黄河の水を意匠化して人物の顔と組み合わせた塑像だ。説明文を刻んで同じものが西にもひとつ設置されており、東西で一対になる。花園口での決壊幅をそれによって示す。黄河大橋は、この東西の「界碑」の真ん中に建設されている。言うまでもなく、相応の意味を持たせてあるのだろう。
 堤防の上を花園口から東に向かって歩きながら、やはり地形が古地図で見ているのとは違うことを確認する。河幅がやや狭くなっている。つまり、今、私が立っている場所は、黄河の中にせり出している。古地図に見えた砂州が、砂州でなくなっているのだ。今では、広大な耕作地に変化している。これでは、あの鄭州決壊修復箇所を探ることは不可能である。残念だがしかたがない。

5 結 論
 まず、黄河流域の地形の変化があった。これが光緒十四(1888)年の鄭州合竜場所を特定することを困難にさせている最大の理由である。さらに、戦乱があり、花園口での堤防破壊が発生し、「文化大革命」を経て、現在にいたるまで関係の建築物あるいは記念物が存在していると考える方がおかしいのだろう。
 同じ花園口附近での黄河決壊といっても、光緒十四(1888)年と1938年を比較すれば、意味が異なる。どちらを重視するかは、為政者の意識による。1938年を記念して碑を建立するのは、そのためだ。
 決壊箇所はどのような地形をしているのかを探るのが、今回の鄭州黄河訪問の目的のひとつだった。その河幅の広さを確認したことにより、増水期の水位の上昇が、圧倒的であったことが容易に想像できる。さらに堤防の側面が土のままであったのではないかとの推測もある。これに加えて、泥砂の堆積のため河底があがり、一部は古地図に見るような中州となっていた。黄河氾濫の要素がここらあたりに集中していたと思われる。決壊箇所の大きさを考えれば、修復に時間がかかるはずだ。
 黄河と防波堤の関係は、地形が変化しているから111年前とは、当然、形が異なる。花園口の水門と、その防御を目的とした〓を確認したのは、予期せぬ収穫のひとつだということができる。


大阪経済大学1998,1999年度特別研究費による研究成果である。

【注】
9)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2474頁
10)顧廷竜『呉〓斎先生年譜』燕京学報専号 哈仏燕京社1935/東方文化書局影印。172頁
11)顧廷竜『呉〓斎先生年譜』173頁
12)劉大紳「関於老残遊記」86頁
13)顧廷竜『呉〓斎先生年譜』175頁。また、郭長海「劉鉄雲事跡拾零」『明清小説研究』1994年第4期(総第34期)1994.12.1。94-95頁
14)樽本照雄「「老残遊記」紀行――済南篇」『野草』第38号1986.9.10
15)朱寿朋編、張静廬等校点『光緒朝東華録』総2508頁

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キャプション(図、写真の下に配置する)
図1:「鄭工合龍」印。印形について、楕円だの円形だのと言われているが、示すように長方形が正しい
図2a:『山東直隷河南三省黄河全図』花園口
図2b:『山東直隷河南三省黄河全図』鄭工合竜処
図3:旧時の〓。増水した黄河から堤防を守るため〓を構築する。植物をまぜた土を打ち固めている。鄭州・黄河博物館の展示写真より
図4:花園口附近の〓。手前と向うの〓の中間に泥砂が堆積し、そこには、すでに植物が生えている
図5:黄河に突き出す〓の形状と浚渫船。〓と〓の間には、泥砂が堆積しているのがよりはっきり見える。『河頌――殷鶴仙黄河撮影作品集』より
図6:鄭州・花園口附近。〓の根元に水門が設置されている。『河頌――殷鶴仙黄河撮影作品集』より
図7:1938年の花園口決壊を記念する「界碑」。東西に一対が配置される