あとがき



 初期商務印書館を主題にした一書をまとめることになろうとは、思いもしなかった。
 私と商務印書館の関係は、たどっていけば清朝末期の劉鉄雲「老残遊記」に関して論文を書いたことに始まる(1971)。
 「老残遊記」は、最初、『繍像小説』に連載された。雑誌編集者による改竄事件が発生し、劉鉄雲は、連載を中止する。その後、『天津日日新聞』に連載の場を移すなど、奇怪で複雑な経緯があった。不可解な部分を解明するためには「老残遊記」の各種版本を調査する必要がある。必然的にたどりつくのが『繍像小説』だ。これが、当時、澤田瑞穂氏が所蔵する『繍像小説』全冊の目録を作成することにつながった(1973)。『繍像小説』こそは、商務印書館が発行していた雑誌なのである。さらに『繍像小説』の編集者問題が提起される。「老残遊記」と「文明小史」の盗用問題にからんで、『繍像小説』の編集者が誰かを認定するために、中国の研究者と論争も行なった(1984)。発行元としての商務印書館が、私の研究分野のなかで特別な位置を占めるようになったといえる。
 清末に突然発生した小説の空前の繁栄は、小説専門雑誌群の創刊に支えられていた。それは、また、上海における近代的出版業の成立とも緊密な関係を有していることはいうまでもない。商務印書館が、清末以後、中国の出版業界において最大の成功をおさめた企業であることを考えれば、商務印書館研究こそは、清末小説研究に欠かせない部分を構成する。そこには、作品、作家、出版社の三方面から、清末小説研究は究明されなければならないという考えが、基本に横たわっているのだ。
 くわえて、商務印書館には、日本の金港堂との合弁会社であった時期が存在したと知ってからは、私の興味がいっそう深まった。ところが、合弁の経緯とその解消の事情について、長い間、日本と中国の双方においてほとんど何も解明されていなかったのが事実だ。私の知る限り、あらたに追求する研究者もあらわれない。不明ならば調べてみようか、と私は探索する気になった。
 鍵となる人物・長尾雨山を追跡して文章を発表したのが1979年だ。その時点で、まさかこれほどまで興味が続くとは考えず、その時々の商務印書館に関係する論文は、『清末小説閑談』(法律文化社1983)および『清末小説論集』(同前1992)に収録している。
 研究論文を必要に応じて発表することと、それを一本にまとめることは、直接には関係しない、まったくの別物だ。
 私が商務印書館関係論文を整理することになった直接のきっかけは、1999年、大阪市の勤務校で開催された市民講座である。題して「近代日中出版社交流の謎」という。
 長年にわたって発表してきた文章を集めると、かなりの分量になった。市民講座は、全体の流れを整理するのに、いい機会だったということができる。
 商務印書館と金港堂の合弁に焦点をしぼり、内容を無理矢理に圧縮し、2回に分けて紹介した。その結果わかったのは、内山完造、魯迅、巴金の名前は知られていても、商務印書館と金港堂の関係者について、会場の大多数をしめる年配の参加者には、何の知識もないらしいことだった。それほどまでに一般には忘れ去られた、あるいは知られていない事柄であるのだろう。
 日中友好がうたわれて長い時間が経過している。にもかかわらず、日中の書店が過去において合弁会社を組織していたという文化交流のまさに好例が知られていないのも不思議なことだ。いや、日本では、社会の動きと研究界は必ずしも一致しているわけではないから、不思議ではないか。どのみち、金港堂と商務印書館の合弁事業は、一般書で言及されるような話題ではない。共通の知識になりようがない。
 それどころか、後に入手した和田博文ほか著『言語都市・上海1840-1945』(藤原書店1999.9.30)を見て、意外な気がしないでもなかった。「日本近代は<上海>に何を見たか」と帯に謳う該書の「上海関係・出版物年表」には、1897年の商務印書館創設を拾うだけだ。金港堂と商務印書館の合弁事業については、ひとことの説明もない。年表の記述は、本文で触れられていないことの反映だ。同じ年表の1903年には「漢学者長尾雨山、この年上海に渡り、商務印書館にて編輯を主宰する」と書かれるのみ。長尾雨山と教科書疑獄事件どころか、商務印書館と金港堂を結びつけるなんの手掛かりも持たなかったことがわかる。日本近代文学研究の専門家にとっても、金港堂と商務印書館の合弁関係は、関心の外にあることが理解できて貴重であった。
 考えてみれば、初期商務印書館に関して書かれたものは、実藤恵秀氏の論文があるくらいだった。そののち、途絶えた。今から約20年前は、日本の中国研究者も商務印書館を記述して事典項目にはする、あるいは論文で金港堂との合弁事業について簡単に言及するくらいが常だ。初期商務印書館に関して、専門論文が書かれる程には研究が深まらなかったといわざるをえない。
 日本で日中合弁を追究する研究者がいないのだから、中国の研究者がそれに関して独自の研究を展開するということもない。政治上の制約があったことを除いて、資料の点からみても、使用言語からいっても、中国において日本・金港堂とその関連事項を調査することは、ほとんど不可能に近い。
 初期商務印書館研究の情況が一変したのは、誰も指摘しないから自分でいうよりほかないが、1979年に発表した私の論文からである。
 長尾雨山をめぐる謎を中心に置いて執筆した。彼が上海の商務印書館に勤務することになったのは、金港堂と教科書疑獄事件に関連してのことであることを、資料にもとづいて詳細に跡づけ解明したのだ。秘密文書があってそれを発見したわけでは、決してない。明治時代に発行された普通の新聞を、丹念に調査して得られた結果である。誰でも、やろうと思えばできる。たまたま、それを実行する研究者がいなかっただけのことだ。
 これがきっかけとなって、商務印書館と金港堂の合弁事業が大きな問題として存在することが、内外の研究者の注目を集めた(中村忠行氏から、論文をほめてもらってうれしかった)。資料の掘り起こしと読みなおしが、あらためて始まることになる。
 中国における初期商務印書館研究の背景には、「改革開放」政策が研究界にも影響を及ぼしていることを言わなければならない。外国企業との合弁事業が推進される時代には、過去には負の評価しかしなかった、あるいは無視していた商務印書館と金港堂の合弁を研究論文にする、さらには積極的に評価することが許される。日本での研究は、中国の研究者によっても、典拠を明示するしないにかかわらず、大いに参考にされた。
 本書は、私が過去に書いた文章を基礎にしている。個々の論文については、巻末の文献一覧をご覧いただきたい。本書の全体の構成にしたがい、関連する文章を編集しなおして成った。すなわち、枝分かれしたと判断する部分、全体の構成から外れるものは、捨て、重なる部分も削除し、必要部分について新たに書き下ろし、不足を補うなどの加工をほどこしている。上記2著と本書の記述が重複している箇所がある。ご了承を願う。
 私が利用した資料は、日本、中国の両方とも公表されているものばかりだ。それらを調査し、拾いあげ、組み合わせる作業をくりかえしてきた。資料が存在しない箇所は、もっとも合理的だと私が判断した推測によって綴り合わせている。
 私の興味の中心は、中国・商務印書館と日本・金港堂の合弁事業にある。清朝末期から民国初期(日本でいえば明治から大正にかけて)の時期にあたり、商務印書館の文芸作品の出版活動と重なるからだ。
 初期商務印書館は、その創業時期には経済的困難を背負い、日中合弁期間中にはライバル会社との闘争を体験する。巨大出版企業に成長するためには、数多くの苦難を経験しなければならなかった。安楽な道ではなかったことを、事実に基づいて追跡するのが、本書の基本的な目的である。関係する人物に焦点を当てるのも、目的のなかに含まれるということができる。
 収集した資料によって可能な限り探求した結果、商務印書館と金港堂両者の合弁の基本構造とその経過は、ほぼ把握できたものと考える。流布している誤解もいくつかは、正すことができた。とはいえ、基礎資料がまだ不足している部分がある。今後の資料発掘によって訂正しなければならないかもしれない。そうなって欲しい、とも思う。
 本書は、初期商務印書館の動きを、営業の側面に焦点をあてて描くことになった。それは夏瑞芳を本書の中心に位置づけることを意味する。商務印書館の張元済を主軸にして記述する文章、著作は多い。しかし、夏瑞芳に重点を置いた著作は多くはない。専著としては、本書がはじめてではないだろうか。
 日本の金港堂については、稲岡勝氏の論文に負うところが多い。ただし、その成果をすべて吸収できているという意味ではない。本書は、あくまでも商務印書館を中心にして金港堂との合弁からその解消までの時期に限定している。それが私の最初からの意図でもある。ゆえに金港堂の全体像をより詳しく知りたい方は、文献一覧に掲げた稲岡氏の諸著作をご覧いただきたい。
 上海へ行くまでの長尾雨山について知りたい方には、杉村邦彦氏の連載論文がある。
 中村忠行氏は、商務印書館と金港堂の合弁を実証的に探求されていた。それが中断する結果となったのは、まことに惜しいことだった。
 思い出すことがある。初期商務印書館について調査と論文執筆を並行して行なっていたころのことだ。金港堂関係者には、少数ではあるが電話と手紙で取材をしていた。だが、商務印書館側については、手がかりがない。しかたなく北京の商務印書館あてに手紙を書いた。両社の合弁に言及する何か資料が残っていないか、という問い合わせである。研究目的のためだけで、他意があったわけではない。雑誌『清末小説研究』第3、4号と論文別刷りを手紙に添えた。該誌には、それぞれ樽本「金港堂・商務印書館・繍像小説」、沢本郁馬名義「商務印書館と夏瑞芳」が掲載されている。別刷りは、樽本「商務印書館と山本条太郎」(『大阪経大論集』第147号 1982.5.15)だ。これらによって、私がどのあたりに興味をもって研究しているかを知ってもらいたかったからだ。
 1982年7月30日付の商務印書館総編室名義で(個人名は書かれていない)、公印を押した返事があった。それには、翻訳すると、「わが館の早期保存資料は、1932、1937年の淞滬抗戦期にすべてを失ってしまい、ゆえに提供しようにも方法がありません」と書かれている。つまり、日本軍がすべて破壊してしまって何も残っていない、というわけだ。文章の真意は、日本人のお前が要求している資料は、ほかならぬ日本軍が破壊したのだ、と言っているとしか私には受け取ることができなかった。
 外国人が、自国の企業について過去の歴史を知りたい、と希望すれば、外国人にしては感心であると思わないまでも、常識的にいって、好意的に処遇するのではないか。ましてや大国中国の世界的大出版企業の商務印書館であるから、なんらかの示唆、手引き、力添えがあるものと期待をしても不自然ではない。だからこそ手紙を書いて、そのうえ印刷物までもわざわざ添えたのである。その答えが返書1枚だ。私の勝手で甘い期待は、商務印書館自身の手によって砕かれた。
 商務印書館にしてみれば、見知らぬ日本人からの質問にいちいち答える義務も時間もない、返書を送っただけ、まし、というところだろう。それはそれで正しく、私が、異議を唱える筋合いのものではない。
 それにしてもだ。商務印書館の公印が使用してあるのだから、商務印書館の公式見解だと考える。文面からただよってくる冷ややかな態度と人を拒絶する雰囲気に、私の気分は、いっぺんにさめてしまった。こういうことになるのなら、返事などなかった方が、よほどよかった。問い合わせるなど余計なことをしたものだ、と自らの軽率さを自分で罵った。
 その一方で、私が進めている初期商務印書館研究は、商務印書館関係者にとってはなにやら迷惑な様子であることも、その手紙からうかがえるような気がしてならなかった。なぜなのか、その時は理解できない。心に長くひっかかることになる。
 ずっと後になって、『清末民初小説目録』(旧版1988)と交換するかたちで『商務印書館館史資料』を複数冊入手した。商務印書館総編室が発行するタイプ孔版印刷の内部刊行物である。書名のとおり、商務印書館の歴史に関する資料の発掘、関連論文を掲載する学術誌だ。掲載された文章が、別の学術刊行物に再録されることもある。資料重視が編集方針だと私は理解した。さすがに歴史ある出版社は、違う。内部での地道な資料発掘と研究の積み重ねを実践している。
 それはいいのだが、見れば、私の論文2本が、漢語に翻訳されているではないか。我が目を疑うとは、このことだ。1982年に問い合わせた手紙に同封した文章にほかならない。沢本郁馬名義の論文が、漢訳題名「商務印書館与夏瑞芳」(筱松訳、汪家熔注。『商務印書館館史資料』之二十二 北京・商務印書館総編室編印1983.7.20)で掲載されている。訳者は私の知らない人だ。さらに、別刷り論文も漢訳題名「商務印書館与山本条太郎」(東爾訳。『商務印書館館史資料』之四十三 北京・商務印書館総編室編印1989.3.20)になっている。
 論文2本ともに、事前に翻訳許可を求められたということは、ない。話に聞くところによれば、無断翻訳のこころは、頼まれもしないのに漢訳して宣伝してやったからありがたく思え、ということなのだそうだ。まさか私に降りかかってこようとは思いもしなかった。世界的に著名で長い歴史をもつ巨大出版社であるにもかかわらず、著作権については無神経なのだ。翻訳掲載誌が、私宛に送られてくるということもない。だから、自分の論文が中国で翻訳されていたことなど、知るよしもなかった。原物を目にして意外な気がしたのが正直なところだ。
 私あての手紙では、あれほど冷淡だった。にもかかわらず、なぜ私の日本語の論文をわざわざ漢語に翻訳して掲載するのだろうか。矛盾しており不可解な行為だと私には思えた。
 本書を書き上げた今、商務印書館からもらったあの手紙を、あらためて手もとにおいてながめている。文面の冷淡さと商務印書館の内部刊行物に私の論文を無断翻訳掲載している事実を並べるとどうなるか。
 なるほど、手紙の文面にただよう冷たい拒絶の姿勢は、商務印書館が金港堂と合弁会社であったことを外部には知られたくない、という伝統的姿勢を表わしている、と今なら理解できる。事実を知って研究しようという私に対して、知らぬ顔をしても無駄なのだが、そうせずにはいられない。合弁会社の実状を探索する人間には、反射的に身構えてしまうらしい。
 合弁関係の資料は、すべてを失っているはずなのに、汪家熔氏の手によっていくつかが、その後、発掘発表された。つまり、資料は保存していても、外部の人間に提供するつもりがなかったということだ。
 内部刊行物における日本語論文の無断翻訳掲載は、商務印書館の内側であれば、事実として触れざるをえないものは認める、というこれまた商務印書館の定まった行動様式だろう。連綿として伝統は、息づいている。
 本書によって初期商務印書館研究の空白部分をいくらかは埋めることができたとは思う。だが、私は、ひとつの仕事をやり終えたという満足感、達成感を味わうことができない。この爽快感のなさ、後味の悪さはどこからくるものなのか、と考える。
 金港堂および長尾雨山の関係者からは、昔のことをいまさらほじくりかえして、と迷惑がられる部分があるかもしれない。商務印書館関係者からは、余計なことを、と感じられる可能性もないことはなかろう。もしそうならば、私の説明に言葉が不足しているためであるとあらかじめお断わりしておく。
 商務印書館と金港堂の日中合弁事業は、歴史の闇のなかに置いておいたほうがよかったのだろうか。だが、私は、事実を知りたいという欲望を抑えることができなかった。事実を追求していったら、こういう結果になったというよりほかない。

 稲岡勝、Manying IP、筧文生、黎活仁、杉村邦彦、汪家熔、張人鳳、中村哲夫、故中村忠行各氏から資料を提供していただきました。昔のことで資料を提供したことをお忘れになった方もいらっしゃるかもしれません。しかし、その時々の資料は、私にとっての大いなる援助でありました。感謝いたします。

2000年4月19日

樽本照雄