![]() 商務印書館の規模拡大と繁栄ぶりを示した絵図に宝山路印刷所全景がある。 宝山路印刷所は1907年に落成した。その後、広大な敷地に印刷工場そのほかを不断に増築する。 創立35周年を記念した荘兪「三十五年来之商務印書館」(1931)に掲載されたそのイラストは、よく引用されておなじみのものだ。 見慣れた全景の絵図とはいえ、それらの建物がなにに使われていたのか、はっきりしない。 汪家熔氏にご教示をお願いしたところ、うえに掲げた配置図を送ってくださった。1921年のものだという。 中心は、第一印刷部と第二印刷部だ。 うえの配置図の左下に見える「新倉庫(新桟房)」と「旧倉庫(老桟房)」は、以前は、編訳所だった。 その編訳所は、1921年の時点で第一印刷部の右側、花園に新築して移転したとわかる。 第三印刷部のとなりにそれよりも規模の大きな第四印刷部が「建築中」と表示されている。 貴重な資料だ。簡単にご紹介した。 (2004.5.16) |
![]() 久宣『商務印書館――求新応変的軌跡』成都・西南財経大学出版社2002.1 [鍵語言及率:55%]久宣『商務印書館――求新応変的軌跡』成都・西南財経大学出版社2002.1 本書は、商務印書館が経験した百年の歴史をまとめたものだ。 沿革篇、経営篇、啓示篇および商務印書館百年大事記(1897-1997)によって構成されている。 沿革篇で、その経歴をのべる。経営篇では、刊行物と経営する学校、支店の設立、内部管理などをまとめる。啓示篇においては、主として商務印書館の職員および、関係する人々について紹介する。 冒頭に示した55%は、商務印書館が金港堂との合弁をした事実について鍵語をどれくらいの率で使用して説明しているかを示したものだ。 商務印書館の百年にわたる歴史のなかで、日中合弁の時期は、わずかに約1割にしかならない。 だが、資料の不足する時期をどの程度まで追求しているかを知れば、全体の研究水準がわかろうというものだ。 その沿革篇に「利用日資」という項目をもうけて金港堂との合弁を説明している。 しかし、55%という数字からわかるように、それほど詳細なものではない。 あいかわらず、金港堂が教科書疑獄事件によって上海に投資を決意したなどと、誤った俗説を引用して平気である。 推測に熱がはいってしまい、原亮三郎らは上海に到着すると、商務印書館が勢い盛んに発展しており、業務が日増しに高まっているのを見て、ただちに投資することに賛成した、という(13頁)。 あいた口がふさがらない。それほどまでに業務が発展しているのであれば、日本の出版社からの投資を受け入れる必要など、まったくなかった。合弁相手に、よりにもよって日本で教科書疑獄事件にまみれている金港堂でなければならない理由もない。 普通に考えて、矛盾がすぐにでてくる説明を、著者はなぜこうも簡単に書いてしまうのか。そちらのほうが不思議だ。 参考資料を明示しない。その意味で、該書は、一種の読物だと考えていいのだろう。 (2004.3.3) |
![]() 原本『図画日報』第1冊の表紙 発行年月日が明示してある 『図画日報』の影印版について、紹介したことがある(沢本郁馬「『図画日報』影印版のこと――附:『図画日報』所載小説目録」『清末小説から』第57号2000.4.1)。 見ることのできない刊行物を影印出版することの学術的価値は、きわめて高い。 『図画日報』の影印版全8冊(上海古籍出版社1999.6)がそれにあたる。 これが貴重な出版物でありながら、いや、だからこそ、学術的価値を損なう部分があることを残念に思ったのだ。 すなわち、「原物には、表紙がついていてそこに発行年月日が印刷されている。その表紙を影印していない」。 発行の日付が不明では、資料として使用できない、という当然な指摘にほかならない。 ちかごろ、同じ『図画日報』を収録した資料集が出版された。 『清末民初報刊図画集成続編』6-15(北京・全国図書館文献縮微複製中心2003.8 国家図書館蔵古籍文献叢刊)である。 私の所蔵する原本の幾冊と2種類の影印本をみくらべる。 いくつかの相違点があることに気づいた。 柱には、「環球社図画日報第○号第○頁」とある。 上海古籍出版社版は、上方に横書き、活字で表示する。 北京・全国図書館文献縮微複製中心版は、各ページの左側に手書き文字で表示する。中心版のほうが、原本のままだ。 中心版には、第69号と第70号の間に「上海環球社図画日報館刊印中西月〓fen表」がある(3121頁)。 上海古籍出版社版は、第2巻228頁からすぐに229頁の第70号がつづいており、中西月〓表は、ない。収録もれということだ。 中心版には、第173号に活字印刷の「図画日報第二年出版紀言」がある(4364頁)。しかし、上海古籍出版社版には、ない。 中心版には、第184-196号が収録されていない。これは、重大な欠陥である。当然ながら、上海古籍出版社版には、収録されている。 発行年月日についてのべる。 上海古籍出版社版には、その記載がないことを、再度、いっておく。 中心版は、第214号より「二月十六日図画日報」のように日付を表示する。それは、原物にそのように印刷されているからだ。影印本にもかかわらず、それをわざわざ削除した上海古籍出版社版の編集方針が疑われる。 それよりも、2種類ともに、表紙を収録していないのは、なぜなのか。 上に示したように表紙が存在している。「已酉七月初一日出版」と書かれていることに気づくだろう。 すべての号に表紙がついていることを強調しておきたい。 中国で出版された2種類の影印本が、いずれも表紙の存在を無視するのは、不可解としかいいようがない。 重要な問題だ。『清末小説から』に本文を再掲載する予定にしている。 (2003.11.9) |
![]() ![]() 商務印書館版「説部叢書」の『補訳華生包探案』1903 あまりにも珍しいので紹介する。 上にかかげたのは、商務印書館版「説部叢書」に組み込まれた漢訳ホームズ物語だ。 なにが珍しいかといえば、ひとつは、その印刷形態である。 「華生包探案」は、ホームズ物語6篇を集めて、最初『繍像小説』第4-10期(1903)に連載された。 該誌は、活版線装本である。連載終了後、作品ごとにバラして抜き出し、それを単行本にできるように考えられていた。 該書は、活版線装本であり、『繍像小説』連載分をそのまま抜き出してまとめたものだ。組版は同一なのである。 奥付はない。印刷題簽の表紙と扉をつけて糸でかがれば、簡単に単行本になる。 珍しいそのふたつめは、書名だ。 雑誌連載時には、「華生包探案」だった。それが単行本になると『補訳華生包探案』にかわる。 ところが、これは後に書名を変更し、もとの『華生包探案』にもどるのだ。 みっつめは、「説部叢書」の成立を考える場合の資料のひとつとなる。 最初からきっちりとした構想があって「説部叢書」が開始されたのではない。 翻訳小説が増えてきたので、ひとつのシリーズとしてまとめようか、くらいの軽い感じで始まった。 それが、最終的には、初集から3集まで各100編プラス第4集の22編で合計322種の巨大翻訳叢書になった。 『補訳華生包探案』は、商務印書館版「説部叢書」の初期の形態を示している。 毛筆で「説部叢書」と発行所を記したものが元版のうちでも最初の形だ。 これが、活版印刷になり、のちには初集の名称に改められて一挙に印刷部数を多くする。 中国では、「説部叢書」の原物そのものは、すでに入手できないくらい貴重書のうちに数えられている。 ましてや、普及本の初集に先立つ元版など、影も形も見えない。だいいち、中国の研究者でさえ、元版の存在について言及しないくらい、知られていないのだ。 私は、該書を日本の書店から購入したのだが、それにしても珍しいものがあったものだ。(2002.1.15) |
![]() 煮夢生『(滑稽小説 絵図)滑稽偵探』 (上海・改良小説社 宣統三(1911)年正月) シャーロック・ホームズが、なぜだか中国上海にいる。やることなすこと全部が失敗するというのが、贋作ホームズ失敗物語である。『時報』に陳景韓と包天笑が連作したのがはじまりだ。 中国の作家も読者も、ホームズが中国で失敗するのを、ことのほか好んだ。 陳景韓、包天笑につづいて、上に示した煮夢生の作品がある。民国になってからも劉半農の連作が発表されるという具合だ。 煮夢生『滑稽偵探』は、題名を見ただけでは、それが贋作ホームズ失敗物語とは気づかない。また、そうと指摘する文章を見た事がない。それだけ忘れられていた作品となる。 ホームズが、中国の地方都市において主として人物観察術で失敗を重ねるという筋だ。女学生と妓女、警察と盗賊、学生と役者、盗賊と軍人などなど、その区別がつかないことをいう。中国の当時の情況をホームズという外国人の目を通してあぶりだす結果ともなる。 贋作ホームズ失敗物語は、中国において特異なひとつの分野として成立するかもしれない。 参考:樽本照雄「贋作ホームズ失敗物語――陳景韓、包天笑から劉半農、陳小蝶へ」『大阪経大論集』第52巻第1号(通巻第261号)2001.5.15 (2001.6.1) |
![]() SHERLOCK HOLMES IN NEW YORK ![]() STRAND BOOK STORE IN NEW YORK 立読みではすまなくなったのが、小林司、東山あかね編『シャーロック・ホームズ大事典』(東京堂出版2001.3.20)だ。読む事典だから、じっくりとページをめくれば、「中国」(実吉達郎執筆)という項目がある。 実吉達郎氏といえば、『シャーロック・ホームズと金田一耕助』(毎日新聞社1988.8.10)が手元にある。 事典の該文は、その前半が『シャーロック・ホームズと金田一耕助』の第4章「包孝粛・ホームズ・越前守」を下敷にしているとわかる。「公案」=裁判小説に言及し、胡適が包孝粛をホームズにたとえ、劉鶚「老残遊記」にホームズになってもらいたいというセリフのあることを指摘する。林語堂の「北京好日」を例にあげるのも同じだ。 後半部分が、今回、書き加えられたように思われる。それも中野美代子氏の『中国人の思考様式』からの引用による。つまり、以下のような文章になる。 ……近年でも范烟橋は「偵探小説は資本主義社会の腐敗面をある程度暴露した。しかし結局探偵の努力は資本主義を維持することになり、思想上の意味はない」といったような、小ッぴどい、しかしまるっきり見当ちがいで、野暮の骨頂のような決めつけ方をするに到っている(中野美代子「中国人の思考様式」)。(479頁) 上の引用文は、范烟橋「民国旧派小説史略」(上海文藝出版社1962.10初版未見/日本大安影印1966.10/のちの版本に、香港・生活・読書・新知三聯書店香港分店影印1980.1と上海文藝出版社1984.7がある。今、日本大安影印本による)からのものだ。 范烟橋の探偵小説意味なし論は、あたかもホームズ物語を指しているかのように書いてある。引用のしかたからしてそう読める。 しかし、それは正確ではない。范烟橋がいう「これらの探偵小説」とは、主としてコナン・ドイルとルブランを模倣して出現したもろもろの作品のことなのだ(234頁)。 もし、漢訳ホームズ物語について言うのであれば、范烟橋のつぎの部分から引用すべきだろう。 探偵小説は、清末にはすでに翻訳があり、最初の「ホームズ物語」は、『新小説』創刊号(注:『時務報』の誤り)に掲載された。コナン・ドイルは、この物語集で探偵ホームズと書記のワトスンの形象を作りあげ、人物情景の描写は細かく、構造も巧みで一定の文学価値をそなえている。(235頁) 范烟橋は、漢訳ホームズ物語についてそれなりの敬意を払っていることがすぐわかる。 引用の探偵小説意味なし論が、ホームズ物語と直接には結びつかないものだから、以下のように、中国人はホームズを「乾し殺してしまった民族」だと結論されるのは、間違っている。 ……しかし、シャーロック・ホームズをいったん受けいれながら、このように扱い、定着はさせず、持ち伝えず、ついには乾し殺してしまった民族は、中国人くらいのものであろう。(479頁) 「乾し殺してしまった民族」だとしたら、現在もホームズ物語の漢訳本は、中国にはないのだろうか。 いや、別の項目がそれを否定している。該大事典の「ホームズ本(アジア)」(とおのはるみ執筆)に、「北京・上海・広州などの都市の書店に数多く並んでいる。全集は5〜6種類」(777頁)と書いてあるではないか。決して「乾し殺してしまった」というわけではない。 そう見えた時代があった、というのならば、間違いではない。 中国の文献は、取り扱いに注意を要する場合がある。一般に知られていないかもしれないが、事実である。書かれていることを、そのまま信じてはならない。文化大革命以前の文章は、特にそうだ。 どういう意味かといえば、社会主義中国における文学研究は、政治と密接に結びついている。1960年代において探偵小説に対する評価は、全面否定であった。肯定する意見を発表することはできなかった。 日本の自由な状況を中国に当てはめることはできない。いやなら評論文など書かなければいいではないか、とはいかない。探偵小説を否定している時代に、同調する文章を書かないことは、「上級」の方針に反対していると受け取られる場合がある。肉体的な迫害を受ける可能性があった。中国の厳しい政治状況は、同じ時間をすごした経験をもちながら、日本人には理解できないものかもしれない。 だから、范烟橋の文章のどこを引用するかも、引用する人の見識がとわれる。 范烟橋が書いた文章に、探偵小説を否定している箇所があったとしても、それは、いわば当時の「公式見解」にあわせた部分ではないかと疑ってみる必要があるのだ。 1960、70年代の探偵小説全面否定の状況は、「文革」以後、すでに消滅している。中国における最近の漢訳ホームズ物語の出版ブームと探偵小説研究の隆盛には、目をみはるものがある。漢訳ドイルの研究については、簡単ながら、別に文章を書いた(樽本「漢訳コナン・ドイル研究小史」『大阪経大論集』51-5。2001)。 (2001.5.3) |
![]() 1907年10月12日付『時報』 『繍像小説』の主編は、李伯元であるかどうか。1984年以来、討論されてきた世界的規模の学術論争である。 商務印書館に勤務していた汪家熔が、商務印書館が発行する『繍像小説』の主編は李伯元ではない、と主張したのだから、研究者の誰しもが驚いた。 樽本照雄が、「文明小史」と「老残遊記」の盗用問題などを根拠に、汪家熔説に反対をとなえる。こうして長い論争がはじまった。 李伯元自身が、そうだとは書いていない。友人たちの証言もない。だから、汪家熔は、自説をまげない。決定的な証拠がない、と主張するのだ。 武禧によって発掘された『時報』掲載の広告を、もう一度、見て欲しい。商務印書館自身が、それも広告というかたちで公表したところにこの資料の価値がある。じっくりご覧いただきたい。 つけくわえれば、1907年10月9日、12日付『時報』は、私が上海図書館のマイクロフィルムで確認した。同じく、1907年10月9日付『中外日報』にも同文の広告が掲載されている。(資料提供:劉徳隆氏) (2001.4.19) |
![]() 2001.3.18 上海の古本屋について、上海人に聞くと古籍書店の名前をあげるくらいだ。数年前は、解放以前のそれらしき古雑誌などが置いてあった。私も『新民叢報』を購入したことがある。 また、その向いの上海書店の3階だったかにも古本が、それでもかなり陳列されていた。これも10年前くらいのことだ。 今回、訪問してみると、見るべきものは何もない。上海書店の階上には、もうしわけ程度に少しばかり石印本があった。あとは解放後の古本、雑誌などだ。購入したのは、李伯元『南亭筆記』(上海・大東書局1923.2.10。石印本4冊)のみ。150元。 出版社の友人に聞いて見るとたずねてくれた人が言うには、古本は儲からないから誰も扱っていません、ということだった。 日曜日に古本市が立つというので、老西門の文廟を訪問した。旧城内で、昔の雰囲気がかろうじて残っている。 入場料は1元。中庭に台が置かれて、ざっと50軒ばかりか。この数は、正確ではない。個人の露店商という風情である。客も押し合いしていて活気がある。 売られているのは、新しい流行小説、連環画、1950、60年代の古本、ごくまれに解放前の単行本といったところだ。せっかく来たのだ。記念のために買ったのは、劉半農等著『賽金花本事』(長沙・岳麓書社1985.6)6元であった。 中国の古本は、すでに、書店の目録を通してしか入手できないのかと疑っている。 (2001.3.20) |
![]() 呉相『従印刷作坊到出版重鎮』 南寧・広西教育出版社1999.9 本書は、創業から日中戦争終了までの商務印書館を概説する。 張元済を中心にして商務印書館の歴史を述べたものは、今までいくつか出版されたことがある。だが、商務印書館の全体を概括する書籍としては、本書は中国ではほとんど最初のものだろう。創業者、編集者、組織、出版教育活動などなど、広範でしかも詳細な説明がある。 著者は、未発表論文、内部資料を含んだ多数の文献を参照している。だからこその詳しい記述が可能だった。 ただし、金港堂との合弁部分については、いくつかの疑問が生じる。 ひとつだけ例をあげよう。商務印書館の方に主権があった、ということを著者はくりかえす。だが、その事実はない。 商務印書館首脳は、金港堂との合弁を最初から公表するつもりはなかった。関係者は、外に隠したぶん鬱屈した気分を、合弁解消のはるか後に「自分の方に主導権があった」とウソをついて心のバランスをとっていたのである。 商務印書館と金港堂の合弁は、その背後に複雑な事情があった。資料の吟味が欠かせないのだ。 文献にあることをそのまま信じてしまうと事実とはかけはなれた結論になる見本である。これはなにも呉相に限ったことではない。 (2001.1.14) |
![]() 『張元済日記』上の表紙 張元済著、張人鳳整理『張元済日記』上下(石家荘・河北教育出版社2001.1)を張人鳳氏よりいただいた。発行年月日よりも以前に出版されるのは、中国では、珍しいのではないだろうか。遅れて出ることの方が、今までは多かったからだ。 同名の『張元済日記』上下は、以前に出版されたことがある。北京・商務印書館1981.9だから、今から20年も前のことになる。 両者を比較すれば、前者にあった「出版説明」が後者にはない。この説明は、商務印書館編輯部の名義になっている。1912-1926年間に書かれた全35冊の全文を、商務印書館創立85周年を記念して発行するとある。 この「出版説明」が削除されたのは、発行元が商務印書館より河北教育出版社に変更になったからだろう。というよりも、整理者に張人鳳の名前があがっているところから、整理者の変更が、出版社の違いになったのかもしれない。だから、別のかたちで説明があってもいいはずなのだが、説明に類する文章は、まったくない。ついでに、張元済の肖像も、日記の書影も削除してある。 大きな違いは、前者になかった「一九三六年日記残本」と「一九四九年赴会日記」がこのたび新しく収録されたことと、人名と書名の索引がつけられたことだ。 商務印書館の責任者である張元済の日記だから、細かく読んでいけば、当時の文藝界の様子をうかがう新事実が出てくるかもしれない。 (2000.12.6) |
![]() ![]() 『続包探案』表紙と奥附 漢訳ホームズ物語の初期単行本に、いわゆる『続訳華生包探案』というものがある。 阿英「晩清小説目」(177頁)には、以下のように書かれている。ただし、増補版であるから注意されたい。 続訳華生包探案 警察学生訳。光緒二十八年(一九〇二)刊。文明書局刊。収探案七種: 三K字五橘核案/跋海E王照相片/鵝腹藍宝石案/偽乞丐案/親父囚女案/修機断指案/貴胄失妻案 だが、この書名が、問題なのだ。 私は、『続訳華生包探案』は、不適切な書名だと考える。正しくは、『続包探案』というべきだ。 『続包探案』と書いても知る研究者は、少ないだろう。阿英の目録にも見えない。郭延礼『中国近代翻訳文学概論』にも名前を見いだすことはできないのだから。 上の写真をみてほしい。 表紙と扉は同一で、中央に縦書きで大きく『続包探案』とあり、左に添えて「総発行所文明書局」と印刷する。 表紙、扉、奥附、柱は『続包探案』となっている。ただ、目録と本文冒頭にのみ『続訳華生包探案』と印刷されているにすぎない。 ひとつの書物に『続訳華生包探案』と『続包探案』のふたつの書名が共存しているが、どちらかといえば、『続包探案』の方が目立つように配してある。 阿英は、表紙、奥附の『続包探案』を無視して、本文冒頭にある『続訳華生包探案』を書名として採用した。 だが、表紙、奥附に大きく見える『続包探案』のほうが、正式書名としてふさわしい。まず、なによりも「華生包探案」が、誤訳であるからだ。 (2000.12.3) |
![]() 『華生包探案』表紙 『華生包探案』といえば、清末翻訳界では、あまりにも有名な作品である。 最初、『繍像小説』第4-10期(癸卯閏五月十五日-八月十五日(1903.7.9-10.5))に合計6篇が連載された。 のちに商務印書館編訳所訳『(偵探小説)華生包探案』(上海商務印書館 丙午(1906)四月/1914.4再版 説部叢書1=4)として単行本になった。 いうまでもなく、コナン・ドイル原作のシャーロック・ホームズ物語である。 どこが誤訳なのかといえば、書名だ。 「華生」は、ワトスンを指す。ホームズは、福爾摩斯と漢訳する。だから、『華生包探案』は、日本語になおせば『ワトスン探偵事件』となる。 ホームズが主人公の作品に、ワトスンの名前を前面に出してどうするのか。 ワトスンが筆記したというのなら、『華生筆記』とすべきだろう。 ゆえに、後には『福爾摩斯偵探案』などとするのが普通になる。 中国の研究者の誰一人として、この奇妙な書名について指摘していないのは、やはり、ヘンである。 (2000.11.8) |
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