商務印書館研究はどうなっているか


      沢 本 郁 馬


00
 商務印書館研究という分野があるかどうか、私は知らない。なければ、なに、作ればよいのだ。商務印書館に関して書かれた文章で、その後、私の眼に触れたいくつかを紹介してみたい。私が、関心をもっている商務印書館と金港堂の合弁問題を含めた初期商務印書館に的をしぼって見てゆく。

01
 まず、朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」(『文化史料(叢刊)』第2輯1981.11)からはじめよう。
 商務印書館の創立者は、鮑咸恩、夏瑞芳、鮑咸昌、高翰卿、郁厚坤、張蟾芬らだが、夏瑞芳と鮑咸恩のふたりが最初の発起人だ、というところから記述が、こまかい。鮑咸恩の弟は、咸昌、咸亨の順になるという。夏瑞芳、鮑咸恩と高翰卿(鳳池。美華書館に勤務)は、基督教長老会が経営する清心堂の同級生だった。彼らは、光緒二十二年三月初三日(1896年4月15日)をえらんで会合し、資金を集めることにする。
 資本金3750元の内訳は、次のとおり。

沈伯芬 2株 1000元 徐桂生 1株 500元
鮑咸恩 1株 500元 高翰卿 半株 250元
夏瑞芳 1株 500元 張蟾芬 半株 250元
鮑咸昌 1株 500元 郁厚坤 半株 250元

 筆頭株主の沈伯芬は、電報総局の天主教徒で、張蟾芬はその同僚。夏瑞芳の五百元は、夏夫人が女友達から借り、鮑咸昌の半分は、高翰卿から借入した、というところまで書いてある。
 商務印書館の創立は、1897年2月11日(光緒二十三年正月初十日)である。
 1900年、商務印書館は日商修文印書局を買収した。それは、印錫璋の紹介によるものだという朱蔚伯の指摘は、重要だ。1901年、印錫璋は張元済とともに商務印書館に投資し株主となるが、修文印書局の件がそのキッカケとなったのではなかろうか。印錫璋は、紡績工場主だったから、三井物産上海支店長として紡績事業に従事していた山本条太郎とは懇意の間柄である。山本条太郎の岳父は、金港堂の原亮三郎だ。印と山本の周旋で、商務印書館と金港堂の合弁がなる、という筋書きを、朱の証言が強化してくれている。 商務印書館と金港堂の正式合弁が1903年だというのは、ほかの資料にも書いてある。しかし、11月19日(陰暦十月初一日)であることは朱蔚伯の文章で、はじめて知った。
 原亮三郎が、小谷重と加藤駒二を伴い神戸から上海にむかったのが1903年10月11日のことだ。10月15日、上海に到着。合弁の話を煮詰めるのに約1ヵ月かかったことになる。長尾槙太郎(雨山)が、同じく神戸から上海へ旅立ったのが12月2日。両書店合弁後だ(『清末小説研究会通信』第24号1983.1.1、第38号1985.7.1参照)。
 朱蔚伯は、商務印書館の「編訳所職員録(1903−1930)」を見ている。私も拝見したいものだ。1909年3月、董事(理事)局を設立し、日本側からは加藤駒二と長尾槙太郎が列なった。編訳所には、さらに「中島端(号は復堂)、太田政徳(号は母山、愛知県師範校長)」の名前があげられている。
 太田政徳の職業と時期からピンとくるものがある。早速、資料ファイルをさがす。想像したとおり、教科書疑獄事件で拘禁されていた(『大阪朝日新聞』明治36年2月16日付)。太田も長尾、小谷、加藤らと同じ道をたどったと思われる。
 商務印書館における日中の人間関係は、悪くはなかったようだ。翻訳して引用する。「彼ら(注:日本人関係者)は、みな漢文に精通した教育家や漢学者であった。日本人の専門家、顧問は、生活は比較的つつましく、主客の間の交際はかなりうまくいっていた。彼らは、商務に彼ら自身なりの貢献をしていると考えていたので、若い労働者が技術を学ぶよう真剣に指導することが出来たのだ。技師の給料は、一般に80元から180元まで(木本<勝太郎>は技師長なので月俸は180元)だが、加藤、長尾の給料はふたりとも200元だった」
 長尾雨山は、金港堂と商務印書館が合弁していた期間、11年間を中国で過ごした。人間関係がうまくいっていなければ、11年という長い時間を商務印書館で送ることはできないのではあるまいか。
 商務印書館が金港堂との合弁を解消するにあたり、金港堂側の代表者として福間甲松の名がでている。合弁解消の調印が行なわれるのが1914年1月6日だというのとあわせて、初めて知ることだ。商務印書館が金港堂に支払った金額は、約58万8200元だったという。
 細かな数字までもあげ、詳しく述べられているところから、内部資料を使っていると思われる。教えられるところが多い。朱蔚伯は、商務印書館関係者ではなかろうか。本論文は、重要文献のひとつだ。

02
 高嵩「商務印書館今昔」(『出版史料』第1輯1982.12)は、合弁問題に軽く触れる程度。夏瑞芳が中国の印刷事業を振興するために、外国の先進技術を導入することから着手し、日商との合資経営を辞さなかった、ということになっている。あくまでも、夏瑞芳が主導権をにぎって、外資を利用し、近代印刷技術を導入、そうして先進設備をそなえた後は、ただちに外商を断絶した、とする。金港堂、あるいはその関係者の名前は出てこない。商務印書館が合弁解消をせざるをえなくなった歴史的背景、すなわち辛亥革命という政治社会情況の変化を考慮していない。「外資利用説」は、合弁問題に触れる中国の文章に多く見られる立論だ。
 汪守本「愛国出版家張元済」(『人物』1982年第4期1982.7)、賈平安「商務印書館与自然科学在中国的伝播」(『中国科技史料』1982年4期初出未見。『新華文摘』1983年3期1983.3.25)には合弁問題への言及がない。また、『出版史料』第2輯(1983.12)に掲載されたいくつかの回憶録、すなわち葉聖陶「我和商務印書館」、楊蔭深「在商務印書館的十八年」等は、時期的なズレがあって、これらにも合弁に関する発言はない。書かれる目的が違うのだからしかたがない。まあ、商務印書館についての文章がある、というだけで……。

03
 王紹曾の『近代出版家張元済』(北京商務印書館1984.11)には、核になる文章があったらしい。張元済の古書整理出版について書いたその論文をもとにする。分量からいうと、それが該書の約6割を占める。修正は商務印書館の汪家熔が担当したと後記に書いてある。
 家系と生涯、近代出版事業の開拓者、戊戌新文化運動から五四前後まで、古書の整理出版という4章にわけ、張元済の人となりと業績が述べられる。
 ところが、金港堂と商務印書館の合弁については触れていない。張元済が商務印書館に入ってのち、小学教科書を編集するにあたり、特に日本人長尾槙太郎と小谷重を招へいし、顧問としたことだけが書いてある(23−24頁)。それも、槙太郎を太郎に誤っているのだ。
 たしかに、張元済について記述することを目的にしたのが本書である。商務印書館に関しては副次的になるのはやむをえないかもしれない。しかし、王紹曾自身がのべているように、「彼(張元済)は、商務創業の元老であり、編訳所の基礎を定めた人である」(138頁)。張元済と商務印書館は切ってもきれない関係にある。その11年間を合弁していた相手の金港堂について、少しは言及があってもいいのではないか。汪家熔がついていながら、この結果である。残念なことだ。

04
 利波雄一「李伯元と商務印書館」(早稲田大学『中国文学研究』第10期1984.12)は、初期商務印書館にふれつつ、李伯元と『繍像小説』の関係を洗いなおしている。汪家熔が通説を否定して、李伯元は『繍像小説』の編集者ではないと主張した(汪家熔「商務印書館出版的半月刊「「《繍像小説》」『新聞研究資料』総第12輯1982.6、「《繍像小説》及其編輯人」『出版史料』第2輯1983.12)。これをにらみながら、利波雄一は、次のように結論する。「『繍像小説』は翻訳小説を中心とする翻訳読物は商務印書館編訳所、その他小説を中心とする創作は李伯元、そして全体の編輯はやはり商務印書館編訳所がそれぞれ担当していたのではないかと思われる。」新しい見方である。編訳所の組織、人員、活動等の実態が明らかにされると、より一層の説得力が獲得できるのではあるまいか。また、李伯元の死後も『繍像小説』は発行されている。私としては、創作担当は李伯元、という箇所に、協力者である欧陽鉅源を加えたい。補記がある(利波雄一「『李伯元と商務印書館』補記」『中国文芸研究会会報』第53号1985.6.30)。
 『繍像小説』が出てくると、合弁問題とのからみで、中村忠行「清末文学研究時評」(『中国文芸研究会会報』第54号1985.7.30)をはずすわけにはいかない。 中村忠行は、上海商務印書館と中国商務印書館のふたつがあることに注目し、『繍像小説』は金港堂が発行したものだとする。「《繍像小説》は、全く原亮三郎個人の考えで創刊され、原自らの判断で廃刊されたのである。」これが、結論だ。ウーム。うなってしまった。いかにも、ありそうな話だ。『繍像小説』の刊行が遅れていたという新説がある(張純『晩清小説研究通信』1985.4.17、7.17。樽本照雄「『繍像小説』の刊行時期」『中国文芸研究会会報』第55号1985.9.30)。中村忠行が該文で展開した李伯元と劉鉄雲の確執説は手直しをせざるをえまいが、『繍像小説』金港堂発行説が当っているとすると、おもしろいことになる。
 利波雄一のいう、『繍像小説』の創作は李伯元、全体の編集は商務印書館編訳所という説に、中村忠行の、『繍像小説』発行は金港堂だ、というのを重ねるとどうなるか。
 まず、商務印書館編訳所に、長尾槙太郎を中心とした、加藤駒二、小谷重、中島端、太田政徳らの日本人グループが存在していたという事実に注目しないわけにはいかない。そうすると、『繍像小説』は、原亮三郎の意を受けた商務印書館編訳所の日本人および李伯元と欧陽鉅源の、ふたつのグループが共同して動かしていたと考えることが出来る。利波説と中村説は、ピタリとかみあうのだ。
 事実が知りたい。ここは、中国側からの、資料に基づいた反論を期待したいところだ。

05
 汪家熔『大変動時代的建設者』(四川人民出版社1985.4)は、扉を見てはじめて「張元済伝」であることが知れる。8頁にわたって巻頭を飾るのは、張元済と関係著作の写真だ。本文を読めば、張元済を中心にすえて、同時に商務印書館史ともなっていることがわかる。表紙に著者・汪家熔の名が見えないのは、編集の誤りか、あるいはこの「走向未来叢書」の方針なのか。
 本書は、張元済に関して流布する逸話を、資料に基づいて正す目的で書かれた(後記)。全20章の本文には、各章のおわりに主要引用材料があげられ、巻末には11頁にわたる引用書目がつく。まず、その材料の豊富さに目を見張る。張元済と商務印書館に言及した文章を、単行本、雑誌、新聞から博捜しているのだ。中国語(台湾、香港を含む)のほかに、日本語、フランス語、英語の文献までが列挙される。公表された文章ばかりではない。関係者の談話記録、談話テープ、商務印書館株主会記録、理事会会議録、商務印書館館史資料、張元済の手紙などの内部資料もふんだんに使われる。商務印書館に勤務する汪家熔にしてはじめてできることだ。それだけに読みごたえがある。
 たとえば、『外交報』だ。『外交報』は、汪家熔も引用するように、「清季重要報刊目録」、張静廬「出版大事年表」あるいは商務印書館自身が出した大事記には、商務印書館が創刊出版したものだと書かれている。ところが、1982年に発見された株券、「外交報社庚戌年結清単」を材料に、『外交報』は、張元済が主宰する独自の機構で、商務印書館は投資者のひとつにすぎないことを明らかにした。
 これは重要だ。商務印書館の公的記録ともいうべき大事紀要に、その創刊をうたわれている『外交報』でさえ、その実態は、張元済が創刊した別個の刊行物だという。そうなれば、奥付(表三)に「総発行所 上海棋盤街中市商務印書館」と刷り込んではいるが、商務印書館の大事紀要にはその誌名をはずされている『繍像小説』が、金港堂すなわち原亮三郎の出資で発行されていたとしても、不思議ではない。中村忠行説が成立する可能性は、充分にある。
 張元済が商務印書館に参加した経緯について、五十年来の「謬見」があるのだそうだ。汪家熔は、それをどのように正したか。
 「謬見」とは、こうだ。夏瑞芳が時流に応じ、日本語からの翻訳物を出版しようと訳稿を買いいれた。いくつか出版したが売れない。夏瑞芳はいぶかって、面識のある張元済に訳稿と出版物を見てもらうと、訳文がでたらめであることがわかった。南洋公学訳書院に改訳をたのんだが完成しない。経営不振におちいった商務印書館は、外部からの投資をあおぐことにし、張元済がそれに応じた。また、夏瑞芳が張元済に編訳を主宰してくれるようにたのんだ時、張元済はたわむれに南洋公学訳書院の月俸は350元だが、商務印書館に出せるかと問うた。夏瑞芳がすかさず承諾したので、張元済はことわることができなくなった、というエピソードを添える(47−48頁)。
 これらの「謬見」をまきちらしているのは、引用書目を参考にすると、林煕、『文史資料選輯』、蒋維喬、王雲五、沢本郁馬および前出朱蔚伯である。ただし、朱蔚伯は、350元エピソードで否定的に引用されるだけで、引用書目に朱の名前はない。
 汪家熔が非難するのは、いずれもが具体的な資料を提出していないということだ。全部否定をしている。蒋維喬、王雲五(それに朱蔚伯を加えてもいいと思うが)らは、商務印書館に勤務して張元済を知る人たちだ。その証言だからこそ、私は注目したのだが、そういうものか。
 張元済が商務印書館に入ったのは、教育を普及させるために出版を選択したためで、主導権を握っていたのは、夏瑞芳ではなく、あくまでも張元済の方だ、と汪家熔は主張する。張元済は上海で資金を集め出版を行なう意志を持っていた。1901年四月二十五日、厳復が張元済にあてた手紙が証拠だと、それを出す(53−54頁)。しかし、夏瑞芳が張元済に投資をたのんだから張元済が資金を集めようとしていたのかも知れないではないか。前後関係が明らかにされていない。
 張元済は、英語はできたが、日本語は理解しなかった。だから、日本語原文とその翻訳を対照することはできない、と汪家熔はいう(56頁)。日本語原文といちいち照らしあわせたのではないと私も思う。その限りで、汪家熔は正しい。しかし、それをもって張元済が中国語の訳稿を見なかったと拡大解釈することはできない。朱蔚伯は、訳稿を張元済に点検してもらった、と書いているだけだ。張元済ほどの人であれば、訳稿を読むだけでそれが使いものになるかどうか判断できるであろう。カス原稿をつかんだ夏瑞芳が、自前の編訳所を持つことの必要性を感じ、具眼の士として張元済に白羽の矢をたてたという経緯の方が納得しやすい。
 汪家熔は、商務印書館には経営不振の事実はないという(57−58頁)。張元済が商務印書館に投資したのは、出来合いの機構と夏瑞芳らの経営人を、自らの理想のために利用しようとしたためで、夏瑞芳が欠損を出すような人間だとしたら、協力しようとはしないだろうし、投資などさらに言うまでもないのだそうだ(58−59頁)。これでは、まるで、「封建等級社会で、張元済と夏瑞芳の間に大きな等級差別が存在」(54頁)するのをカサにきて、張元済が自らの教育普及という理想のために、夏瑞芳の経営する商務印書館を乗っ取った、という印象を与えかねない。張元済はそういう人物だったのか。「張元済は、きわめて心のさっぱりして、無欲で、強情な人である」(48頁)と汪家熔は張元済の人となりを描くが、それと矛盾しないか。
 350元のエピソードは、まさに、張元済がたわむれに言っただけのことだ。夏瑞芳が張元済をそれほど高くかっていたことを示す例として、朱蔚伯はこの逸話を紹介している。張元済が商務印書館に移ったのは、その金額が理由だなどと朱は書いているわけではない。汪家熔の誤解ではないか。
 長尾槙太郎は、商務印書館の顧問にすぎなかったとあるが(72頁)、「編訳所職員録」にそう書いてあるのだろうか。長尾は、商務印書館においてどういう役割を果たしたのか、詳しく知りたいところだ。
 商務印書館と金港堂の合弁の経過(81頁)については、樽本照雄「金港堂・商務印書館・繍像小説」(『清末小説研究』第3号1979.12.1)、および「商務印書館と山本条太郎」(『大阪経大論集』第147号1982.5.15)を参考にしている。樽本は、印錫璋の依頼を受けた山本条太郎の周旋で両書店の合弁がなったとする。ところが、汪家熔の記述では、印錫璋が姿を消す。さらに、金港堂は教科書疑獄事件で出獄した人々を按排するため、中国に投資することにし、山本に調査を行なわせたと書いている。何によったのか。これは正しくない。
 本書が豊富な資料をもとにして書かれた、はじめての本格的な張元済伝「「商務印書館史である事実には変わりがない。ただ、論述の方法として、否定するために引用するという著者の書き方は、なにかムキになっているような姿勢がうかがわれ、ほほえましい。
 気のついた誤植をあげておく。実滕恵秀は実藤が正しい(60頁)。映雪書院ではなく、蛍雪書院(60、299頁)。陸費逵の姓は、陸ではなく、陸費という複姓である(153頁)。樽本照雄《商務印書館和山本条太郎》天理大学学教は、大阪経大論集の誤り(299頁)。同じく《金范堂・商務印書館・繍像小説》は、金港堂の誤植(同上)。

06
 東京に行ったおり、東洋文庫で、『商務印書館図書目録』2冊を見かけた。その足で神田の中国書籍専門店をたずね、在庫の有無を聞いたが、入荷していないという返事だ。よくよく聞いてみると、該書は発行されたが非売品であるという。さいわい、阪口直樹氏が所有されており、1897−1949年部分を見せてもらった。発行は1981年。総類、哲学、宗教、社会科学、語文類、自然科学、応用技術、芸術、文学、史地にわけられた分類目録だ。それに、叢書総目録(これも分類され、文学の項目には、当然、説部叢書、林訳小説叢書が含まれる)と付録がつく。便利ではある。しかし、最大の欠点は、発行年が書かれていないことだ、これでは、ただ、こんな本を1897−1949年の間に出しましたよ、というだけのことにすぎない。せっかくまとまった貴重な資料であるのに、かえすがえすも残念である。