劉徳隆・朱禧・劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』 はよろしい


      樽 本 照 雄


 よき子孫を持つべきなのだろう。その意味で、劉鉄雲は、幸せな人である。
 劉鉄雲と「老残遊記」に関する資料が、その親族の手により努力の末に編まれた。四川人民出版社から発行された劉徳隆・朱禧・劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』がそれである。発行日付は、1985年7月となっている。
 劉鉄雲の日記を含めた珍しい資料集が出版されると報道されたのは、ちょうど4年前だ。上海『文匯報』1982年10月17日付で「劉鶚の日記四冊が公表される」と紹介された。聞くところによると翌18日は『羊城晩報』が、さらに19日には『人民日報』がニュースを流したという。香港でも、早速、10月26日付『大公報』が同主旨の短訊を掲載している。よほど世人の注目を引いたことが、これからもわかるだろう。
 それからが長かった。3年後、精装本4元、1985年5月発行予定、という出版予告が出、私が、朱禧氏より直接頂いたのがさらに1年後の1986年のことだ。定価も、さすがに5.05元に値上がっている。 印刷数は、1900冊。魏紹昌編『老残遊記資料』(上海中華書局1962年4月)が、1000冊だったのに比べれば、約2倍ではあるが、それは24年前のことだ。最近出た同種の資料集を見ると、魏紹昌編『呉汾l研究資料』(上海古籍出版社1980年4月)が1万冊、同氏編『李伯元研究資料』(同出版社1980年12月)は6000冊。同じく魏紹昌編集の増訂本『海花資料』(同出版社1982年7月)が1万7000冊という具合で、このたびの『劉鶚及老残遊記資料』は、いささか少ない発行部数であるようにみうけられる。ただし、精装本の数が少ないだけで、平装本は大量印刷しているかも知れず、こちらのほうは書店に予約注文している分がまだ到着していないのではっきりしたことはわからない。
 本書は、「後記」を含めて本文646頁の大著である。図版、劉ゥ孫「序」、編輯説明、目録、劉厚沢著「劉鶚与《老残遊記》」をひとまとめにし、続いて
 第1輯 劉鉄雲の詩と文章、
 第2輯 日記と書信、
 第3輯 劉鉄雲の父・成忠の詩文、劉鉄雲に関する中国内外の評論、
 第4輯 筆名、著作目録、『老残遊記』版本目録、研究論文目録、
 第5輯 太谷学派関係
という構成になっている。
 図版の「老残遊記」第11回手稿が珍しい。初公開である。現存する6枚のうち4枚が掲げられるが、なぜか残る2枚が省略されている。「老残遊記」と「文明
    ウウ
小史」の流用関係を知るための貴重な資料であるだけに、惜しまれる。
 巻頭にすえられた劉厚沢「劉鶚与《老残遊記》」は、1960年頃の原稿らしい。当時、『文学遺産』増刊第7輯に発表が決定されていたにもかかわらず送り返されてきたという。26年ぶりに日の目を見、劉鉄雲の生涯、思想を紹介し、「老残遊記」を分析して本書の導入部となっている。ちなみに、筆者の劉厚沢は、劉鉄雲の孫にあたる人物だ。編者の劉徳隆、徳平兄弟にとっては父であり、朱禧からいえば岳父である。
 第1輯に収められた「鉄雲詩存」は、1980年12月、劉ゥ孫の手によって標注せられ済南の斉魯書社から単行本として出版されている。しかし、単行本には「まったくのたわむれの作」という理由で削除された詩があるが、本『劉鶚及老残遊記資料』では、それを「補遺」の部分に収録する。厳密な編集姿勢が取られていることがわかる。単行本の『鉄雲詩存』、それも訂正再版本(1983.1)と併読するのがよい。
 庚子(1900年)8月、西村天囚は上海で劉鉄雲、牧放浪、方葯雨らと詩のやりとりを行なっている(「滬上小詩」碩園先生詩集巻二『碩園先生遺集』懐徳堂記念会1936.10.1。中村忠行氏のご教示による)。劉鉄雲の詩も見えるが、本書には未収録だから別に掲げておく。
 甲骨文、金石文に関する序、跋、また治河、鉱山開発についての公文書、意見書がひとまとめにされたのも便利だ。
 本書で劉鉄雲の日記が、全面的に公表されたのは、特筆に値する。
         ママママ
 劉鉄雲日記は、全6冊が保存されていた。辛丑(1901)全年、壬寅(1902)全年、乙巳(1903)正月から十月まで、および戊申(1908)正月から三月十五日まで(『老残遊記資料』96頁劉厚沢注14。『劉鶚及老残遊記資料』では、全7冊とする。207頁注1)。
 今回、公表されたのは、行方不明の辛丑(1901)分を除く、残りの4冊だ。
 劉鉄雲の日記は、以前、ごく一部分が断片的に発表されたことがある。たとえば、『人間世』第24期(1935.3.20)掲載の「劉鉄雲先生日記之一頁」は、壬寅(1902)七月二十八日のものだし、同誌同期の「劉鉄雲先生日記中之幽黙」は、壬寅(1902)七月二十五日のものだ。さらに、『考古社刊』第5期(1936.12)には、「抱残守缺斎日記」と題して、辛丑(1901)十月二十日、二十八日、十一月初五日に殷墟甲骨を得たことを記録した部分を登載する。辛丑(1901)日記は、現在、行方がわからないらしい。『考古社刊』第5期の該当記事もここに掲げる価値があると考えた。ファイルを見ると、以前、私が書き写したものしかない。せっかく再録するならばコピーの方がよかろう、と該誌を見るために京大人文研を訪れた。ン?『考古社刊』第5期には、私の筆記していない、九月初一日の「抱残守缺斎日記」があるではないか。見落としていたらしい。危ういところだった。 発表順からいえば、つぎは蒋逸雪「劉鉄雲年譜」(『老残遊記資料』所収)である。これには、劉鉄雲日記からの多くの引用がある。ところが、蒋逸雪は、劉鉄雲日記の現物を見たわけではなかった。劉ゥ孫が作成した「鉄雲先生年譜長編」の原稿を孫引きしたのだという。
 「鉄雲先生年譜長編」は、劉ゥ孫が、1934年から資料を収集し、親族の証言を集めて作成したものだ。劉鉄雲日記を豊富に引用している点に特徴がある。これは、『老残遊記資料』に収録を予定されていた。ところが、出版されてみるとなぜかはずされている。別に単独刊行する約束で6回も書きなおし、定稿は成った。が、「文革」で散逸。その後、からくも発見された原稿が、済南の斉魯書社から出版される(1982.8)。原稿に着手してから約50年、定稿が出来てから約20年後ということになる。今のところ行方不明の辛丑(1901)日記は、一部分とはいえ、さいわい『鉄雲先生年譜長編』に引用されている。劉鉄雲日記を読む時は、『鉄雲先生年譜長編』も参照すべきだろう。
 劉鉄雲日記を一読して興味を引かれたのは、劉鉄雲が、沈、および連夢青ときわめて親しく往来していることだ。それと、上海では欧陽鉅源の名前が2度ばかり出ているのには驚いた。不思議な人事の環であるゾ。白い犬だ。オもしろい。ジックリ考える必要がある。劉鉄雲と李伯元の関係をとらえなおす材料となるかもしれない。
 第3輯に収められた劉鉄雲の父・成忠の詩文は、これまで未発表のものだけに、ありがたい。劉鉄雲に関する中国内外の評論には、鉄雲の兄・夢熊の曾孫に当る劉徳馨が書き留めた関係者の伝聞がある。また、魯迅、阿英、胡適、劉大紳などの著名な文章のほか、台湾の林瑞明、アメリカではハロルド・シャディック、馬幼垣、夏志清、また日本の樽本などの論文が収録されている。劉鉄雲研究あるいは「老残遊記」研究が国際化していることの反映であろう。
 第4輯の『老残遊記』版本目録には、1981年までに出された版本が、台湾省を除いた出版社別に46種掲載される。なお「老残遊記」の『天津日日新聞』連載を1904年とするが(536頁)、いまのところ原載紙を見ることが出来ないのだから未確認とすべきだ。さらに、天津孟晋書社『老残遊記』に注して、現在すでに失われていると書くが(545頁)、該書は、天津図書館に所蔵されている(樽本「天津で見つけた『老残遊記』初集」『中国文芸研究会会報』第48号1984.9.15)。
 劉鉄雲と「老残遊記」の研究論文目録は、建国以降のものに限っている。細かく拾っていていいのだが、同じ綿密さで建国以前の文献を網羅してくれれば言うことはなかったのにネ。残念だった。また、台湾、香港、外国の研究論文までは手が回らなかったらしい。それらの不足を補うには、清末小説研究会編「劉鉄雲研究資料目録」(『清末小説研究』第1号1977.10.1)および同会編「四作家研究資料目録補遺1」(同第6号1982.12.1)が役に立つだろう。
 劉鉄雲と太谷学派の関係について、一般にはそれほど知られていない。劉鉄雲に言及した文章の内容が深いか浅いか、それを知るための簡単な目安は、極端に言えば、太谷学派に触れているかいないかを見るだけでよい。劉鉄雲にとって太谷学派はそれくらい重要な意味をもつ。前出「劉鉄雲研究資料目録」に「いわゆる太谷学派および黄崖教案関係」という項目を立てて不十分ながらも文献を紹介した私としては、本書が第5輯に太谷学派関係の文献を収録したことをよろこぶ。そればかりではない。高く評価する。
 本書の発行によって、劉鉄雲および「老残遊記」関係の基本文献がようやくそろった、と言えるだろう。本格的な研究は、ますますこれからなのだ。