贋 作 の 本 棚


      樽 本 照 雄


 現代中国のことを知るには、小説を読むのに限る。今関天彭が中国の友人からこう教えられて読んだのが、『海花』『二十年目睹之怪現状』などの清末小説であった。

 その他『老残遊記』と云ふ小説も見ました。それは老残と云ふ人が、支那の弊害のあるところを見聞し、また日本へ来て帰る時、朝鮮を通つて、朝鮮の国王と夢物語をすると云つた予言小説で、中々見識のあるものであります。是は『劉鉄雲』と云ふ人の筆だと云ふ事であります。劉鉄雲は活眼のある人で、始めて外国人と合弁事業を開いたのでありますが、それが祟つて、後に山西に流されたと記憶して居ります。かの羅振玉や王国維の遣つた殷墟文字の研究は、この劉鉄雲が一番先に遣つたものであります。そんな人でありますから、無論一読の価値がありました。就中、その見識は、日本の目ざましい攻勢に対して、進む事が非常に急であるから、退くことも火急である、そこを能く見究めてやらなければならないとの予言と、モ一ツ支那の事に就きまして、南革北拳即ち南の革命党と北の拳匪(団匪)が最も注意すべきものだと云ふ予言であります。
 これは、今関天彭が、1937年6月25日、東京青山会館で行なった講演での発言だ(今関天彭『中国文化入門』元々社1955.12.1。43頁)。同様のことを中国文学同人にも話している。

 私が北京に行つた時、画家として有名な陳衡恪が東京にゐた頃からの知合ひで万事この人が指導役でしたが、この陳が私に、君は支那の歴史や語学をやつてゐるが、早く支那を知るには小説を読むに限る、先づ近代のことを知るには海花、これを読むと、清末から民国にかけての環境といふものが実によく分る、と云ひます。(中略)劉鉄雲の老残遊記もすゝめられました。曾樸といひ劉鉄雲といひ、書いた人が識見の高い相当の人物だからかういふ小説は大に読むがよいといふのです。老残遊記には、何でも日本に留学をした朝鮮の王にあひ、日本の予言をなし、日本は進むことも早いがひくことも早いと云ふ所があります。薄い四冊ほどの本が出てゐました。(「民国初年の文人たち」『中国文学』第70号1941.3.1。汲古書院影印本609頁。前出『中国文化入門』にも収録。93−94頁)

 「日本へ来て帰る時、朝鮮を通つて、朝鮮の国王と夢物語をすると云つた予言小説で」とか、「何でも日本に留学をした朝鮮の王にあひ、日本の予言をなし」という部分には、首をかしげるだろう。そんなことが述べられていたかなぁ。それもそのはず、劉鉄雲の「老残遊記」には、そういう箇所はないのである。
 今関天彭が読んだのは、「老残遊記」の贋作であったのだ。
 今関天彭が、北京に行ったのは大正7年(1918)のこと。当時、流布していた「老残遊記」の版本で該当するのは、上海百新公司本(1916.8)くらいのものだ。全40章で構成される。前半20章は、「劉氏原本」とうたうとおり、劉鉄雲の文章である。しかし、後半20章は、劉鉄雲とはなんの関係もない。他人の作品だ。
 胡適が、その事実に気付いている。上海亜東図書館本『老残遊記』(1925.12初版未見。1934.10十版)に寄せた「老残遊記序」のなかで、劉鶚先生を侮辱するにも程がある!世の小説読者をあまりにも侮辱するものだ!、と「!」つきで大声をあげた。
 贋作が出版された経緯を、劉大紳は次のように説明する。
 上海の某書局が、『老残遊記続編』の出版広告を出した。問い詰めると、すでに広告費もかさみ、出版を中止することは出来ないので何とか許してほしい、という。しかたなく、鴻都百錬生の名前を使わぬこと、二編あるいは二集といわぬこと、原稿を前もって見せること、などを約束した(劉大紳「関於老残遊記」いま魏紹昌編『老残遊記資料』北京中華書局1962.4。采華書林影印。73-74頁)。
 上海百新公司2冊本(1916.8初版未見。1923.4第19次重版)を見る。上編20章の奥付には、原著者洪都百錬生と書いてある。劉大紳が、出版社に貸し与えた原本を元にしているのだから、それに間違いはない。下編20章のほうは、著者前人、となっている。「前人」であって洪都百錬生の名は使用していない、と言い逃れるつもりらしい。下編と称するのも同じ論法だろう。劉大紳との約束は、みな守られている、ことになる。さすがに、上海の出版社だ。
 劉大紳が挙げる贋作老残遊記は、そのほかに、漢口で「続老残遊記」、青島の『新語』副刊に掲載されたもの、天津で二種類、上海で一種類、があったらしい。 私が見つけたものは、ふたつある。そのひとつは、「劉氏原本 新式標点」と角書のある『正続老残遊記』(上海合成書局1930再版)である。上海百新公司本をもとにして作られた。ここまでくると、わずかの慎みすらなくなる。劉鉄雲作とするばかりか、胡適標点というにいたっては、贋作を指摘した胡適にしてみれば皮肉としかいいようがない。
 もうひとつは、楊塵因「(社会小説)老残新遊記」6章(『快活』3号より連載。刊年不記。1922?)だ。ただし、著者名が明示してあるように、贋作というよりは、続作、あるいは模作といったほうがいいかもしれない。

 まったく別の作品に、図々しく著名作家の名前をつける場合がある。
 我仏山人『情魔』(競智図書館出版、上海広益書局発行1929.8続版)がそれだ。我仏山人といえば、呉〓人の筆名である。しかし、呉〓人の作品に該当するものはない。
 この『情魔』というのは、美国某著、無チ羨斎訳で広智書局から光緒三十二年(1906)八月初十日に出版されている作品だ。出版社が、勝手に我仏山人の名前をつかったのだろう。

 李伯元編訳『(殖民小説)冰山雪海』(総発行所:科学会社、発行所:楽群書局 光緒三十二<1906>年八月初版)となると、まぎらわしい。
 李伯元とくれば、筆名・南亭亭長で有名なあの李伯元だ、と誰しも思うだろう。楊世驥は、『文苑談往』(上海中華書局1945.4初版未見。1946.8再版本の影印による)において、「南亭亭長李宝嘉編訳」と、まるで、そう書かれているかのように紹介した。実際には、「李伯元」とだけ記されているのだが、李伯元=南亭亭長という固定観念から抜け出せなかったのだ。
 魏紹昌が、その誤りを指摘した。李伯元の作品は、南亭亭長、謳歌変俗人、游戯主人などの筆名、別号を用いて発表されたし、友人である呉〓人も、李伯元に『冰山雪海』などという作品があるとは書いていない、という(魏紹昌「《冰山雪海》是冒名李伯元編訳的一本仮貨」『清末小説研究』第3号1979.12.1。 のち改題して『李伯元研究資料』上海古籍出版社1980.12に収録)。
 たしかに、李伯元の死から五ヵ月後に<出版されているのがあやしい。
 李伯元の「官場現形記」にも似たようなことがある。
 日本吉田太郎『官場現形記』初編12巻1冊(日本知新社 光緒三十<1904>年六月)は、日本をいかに強調しようとも、中身は李伯元のものだ。これは、上述したのとは逆の例だ。
 もうひとつ、60巻で完結しているはずの「官場現形記」に76巻までの続作がある。増注絵図、4冊の石印本で、絵柄などから推測するに、粤東書局の出版らしい。増注本は、李伯元の存命中から出ていて、これに欧陽鉅源が関係しているから、この続作は欧陽鉅源の作品である可能性が高い。欧陽鉅源と李伯元の関係は、極めて密接である。ほとんど共同執筆者といっていいのではないか。この「官場現形記」続作を偽作と呼ぶのは、ためらわれる。
 「後官場現形記」とか、「新官場現形記」と称するものにいたっては、その数がかなり多い、とだけここではいっておく。

 呉〓人と李伯元を結び付けた本もある。 表紙、扉、奥付とそれぞれに表記が異なるこの本は、『二十年目睹之怪現状』の数ある版本のひとつだ。表紙に、我仏山人著作、南亭亭長評点、新小説社石印とある。扉には、絵図評点を加え、呉〓人著作、李伯元評点とする。これが、奥付になると、ごちゃまぜで著作者我仏山人、評点者李伯元、おまけに発行者名が表紙とは違い新小説書社と記される。丙辰(1916)正月の印行。
 李伯元評が偽物であることは、魏紹昌編『呉〓人研究資料』(上海古籍出版社1980.4。38頁)で触れられている。王俊年も、この版本に言及する。評の内容が呉〓人の経歴を述べたものだし、評を書いたとされる死裏逃生は、作者自身であるから、李伯元とするのは偽りだという(王俊年「呉〓人年譜」『中国近代文学研究』第2輯1985.9。267頁。注21)。
 『二十年目睹之怪現状』の発行情況を考えれば、評が李伯元のものではないことがすぐわかる。つまり、『二十年目睹之怪現状』は、最初、45回までを『新小説』に連載していたが、雑誌停刊により第46回以後は単行本で出版された。光緒三十二年十一月二日(1906.12.17)以降になる。ところが、李伯元は、光緒三十二年三月十四日(1906.4.7)に死亡しているのだ。李伯元の死後に発行されつづける『二十年目睹之怪現状』の評を書くことなど出来はしない。
 書店のほうで勝手に、呉〓人に李伯元という巨名を組み合わせれば売り上げが倍増するとでも考えたのではないか。

 私は、贋作というものを否定的にとらえてはいない。贋作が出てくるということは、それだけもとの作家なり、作品なりが広く世の読者を獲得しているという証拠になるからだ。