王俊年「呉〓人年譜」について


      中 島 利 郎


 この数年来の中国大陸において、「清末小説」に関する資料の出版がとみにさかんになってきた。阿英編の「晩清文学叢鈔・小説巻」(中華書局)の再版や上海書店の「晩清小説期刊」(『新小説』『繍像小説』『月月小説』『小説林』『新新小説』)のリプリント版の刊行、及び魏紹昌編の『呉〓人研究資料』『李伯元研究資料』(共に上海古籍出版社)などはその代表的なものであるが、その外にも清末の「四大作家」(劉鶚・呉〓人・李伯元・曾樸)の代表作もほぼ再版刊行された。また、つい最近では『劉鶚及老残遊記資料』という研究者垂涎の資料が、劉鶚の遺族等の手によって編まれ四川人民出版社より刊行されたし、いままで見ることがかなわなかった呉〓人の『新石頭記』も中州古籍出版社より王立言の校注を附して刊行された。その外のものについても枚挙にいとまがないほどである。このような「清末小説」の資料類出版に触発されて、当然大陸の清末小説研究も「四大作家」研究を中心にさかんになってきた。ここでとりあげる王俊年編の「呉〓人年譜」(以下「年譜」と略称)も、その研究成果の一端である。
 王俊年編のこの「年譜」は『中国近代文学研究』(中山大学中文系《中国近代文学研究》編輯部編・広東人民出版社)
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の第二輯(1985.9)及び第三期(1985.12)に掲載された七十四頁にわたる詳細な年譜である。呉〓人の年譜についてはいままで中国大陸において発表されたことはなく、これほど詳細な年譜の発表にあたっては呉〓人の事跡についてかなり新たな発見があったのではないかと思われた。それに、わたしも嘗て魏紹昌編の『呉〓人研究資料』(以下「魏氏資料」と略称)が出版されたのを機会に「呉〓人年譜稿」(『文芸論叢』20)を編んだこともあり、王氏の「年譜」に対する興味はひとしおであった。そこで拙編の「年譜稿」を手元に置きつつ王氏「年譜」と比較対照しながら読みすすんだ。
 王氏の「年譜」の構成は、a.まず西暦紀年と清代年号及び歳次干支と呉〓人の年齢(数え歳)を記し、b.その後に当時の中国に関わる内外の主要な記事を列挙し、c.次いで呉〓人の事跡とその依拠資料の提示、d.最後にその年に発表された呉〓人の作品類を配列し、必要があれば王氏自身の按語を加える、という方法をとっている。そして、この「年譜」を編むにあたっては「編者自身可能な限りの呉〓人の全著作及び彼に関する資料類にすべて目を通し、呉〓人の故郷である広東仏山に三度調査に行き、彼に関わる人々に手紙で問い合わせをし、且つ中山大学中文系の盧叔度先生からは手抄本の『呉氏族譜』を提供してもらって、呉〓人の原名及びその祖父呉尚志の卒年・父呉升福の生年を記した」と「前言」にことわっている。しかし、些か腑におちないのは、この「年譜」作成にあたって王氏は、「魏氏資料」をおそらくかなりの範囲にわたって使用していると思われるのであるが、「前言」にはその点についての言及がまったくないことである。たとえば魏氏が同資料中に「同輩回憶録」として、「周桂笙・胡寄塵・杜階平・陳伯煕・張乙廬・孫玉声・清ツ・包天笑」などの呉〓人に関する証言を種々の報刊類より収集しており、王氏「年譜」は、これらの証言を呉〓人の事跡を示す依拠資料としてたびたび引用しているのである。勿論、王氏が独自に収集したとも考えられるのだが、王氏の使用した資料の範囲がほとんど魏氏の収集した資料と重なっており、たとえ王氏がこれらの証言を原資料によって見たとしても、それは「魏氏資料」に教えられてのことと推測できるからである。また、呉〓人「還我魂霊記」からの引用にいたっては(第二輯234頁。以下、二−234のように略記する)、魏氏の手によって発見されたものであり、魏氏によって『漢口中西報』に掲載された事実が明らかにされたのであるから、これは「魏氏資料」を利用していることはあきらかである。その他にもこのような箇所はかなり見当たる(たとえば「呉〓人哭」への言及など)。しかし、王氏が魏氏の同資料によったと明記するのはわずかに「注」の(28)(29)の引用二箇所についてのみである。この点についてやはり「前言」において一言あるべきとは思うが、これは日本人的な感覚であり彼の地ではまた異なるのであろうか。また、他になにか理由があるのであろうか。
 それはさておき、次に王氏「年譜」にはどのくらい「新たな事実」がもりこまれたのか見ることにする。無論、「新たな事実」といえども既存資料よりの探索をさす。
 まず、呉〓人の世系を明らかにするのにかなり丹念に『石雲山人詩集』『呉栄光自訂年譜』『仏山忠義郷志』『南海画伝』などの資料を使用していることである。

 栄光には二男一女がいた。長男は名を尚忠、字を春卿といい嘉慶元年丙辰二月(1796年3月)の生まれ。監生で江蘇常州の知府。仏山の鄭氏をめとる。一女は名を尚熹、字を禄卿、小荷また小荷女史・南海女士と号した。嘉慶十三年戊辰十月(1808年11月)の生まれ。詩画に巧みで“才媛”と称され、『写韻楼詩稿』などがある。尚志はその次男である。(二−228)

 「栄光」とは、呉〓人の曾祖父。「尚忠」は呉〓人の伯祖で、「字を春卿といい」から「仏山の鄭氏をめとる」までは、新たに明らかにされた事実。また「尚熹」は呉〓人の叔祖母で、「小荷女史・南海女士」との号、及びその生年も新たな事実、という具合に、以上に掲げた資料類より呉〓人の世系に関して王氏の手によって明らかになった部分も少なくはない。 次いで、呉〓人の遺族に関しても、彼の孫娘に当たる盧錦雲から、彼女の母つまり呉〓人の娘の呉錚錚が「のち広東三水盧玉麟に移り、上海の虹口で一男盧錫彪と一女盧錦雲を産んだこと」、錚錚が「光緒三十年二月十二日(1904年3月28日)に生まれ、1971年1月4日に病で亡くなった」ことを聞き出していることは、貴重な記録といえるだろう。(二−268) さらに、呉〓人の筆名のひとつである「中国老少年」が『中国偵探案』の「弁言」に附された筆名であることや(二−224)、『月月小説』第八号(光緒三十三年四月十五日)掲載の「譏弾」二則及び「主筆房之字紙類」七則が無署名ではあるが、この文の表現する内容や風格及び当時の呉〓人の状況から呉〓人の作であると断定してもよいこと(二−307)など、教えられた点も多かった。
 しかし、王氏の「年譜」における「新たな事実」の発見はほぼ以上に掲げた三点に尽きており、呉〓人の全著作及び彼に関する資料類にすべて目を通し、呉〓人の故郷である広東仏山に三度調査に行き、彼に関わる人々に手紙で問い合わせをし、『呉氏族譜』の提供をうけながらも、直接呉〓人の生前の活動に関わる新たな事実は発見できなかったのである。わたしがもっとも期待した、呉〓人渡日の時期の確定についてもただ「魏氏資料」をそのまま注に引用するにすぎない(二−268・注28)。その他の呉〓人の生前の動向についても、現在知見可能な資料類からの抜き書きを、年月日順に列挙するに終わっているのだ。
 わたしも過去に呉〓人の動向について、「呉〓人年譜稿」「我仏山人著作目録」「呉〓人と『月月小説』」などを発表したが、これらの拙稿と王氏の「年譜」とをひき比べても、彼我の間には基本的には大差がないと思う。こう書けば、王氏の「年譜」を批難し、またナイモノネダリをし、且つ拙稿の自慢をしているように思われるかもしれないが、そうではない。わたしの云いたいのは清末随一の多作家であった呉〓人の生平の活動が、他の清末作家「「劉鶚・李伯元・曾樸などと比べて、中国においてもなかなか知り難くなってきているということを指摘したいのであり、これからよほどの新発見でもないかぎり、現在流布する資料類からは王氏の「年譜」以上のものは作成し難いと云いたいのである。