前号の訂正


 本誌第3号で、劉徳隆・朱禧・劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』を紹介した。のちに気付いたことを書いておく。
 平装本発行数について。別に買ったものをみると、5370冊となっている。精装本が1900冊だったから、合計7270冊だ。学術資料としてみれば、多い部類にはいろうか。伊藤漱平氏、劉徳隆氏からもご教示を受けた。お礼を申し上げたい。
 つぎに、資料として掲げた「抱残守缺斎日記」(『考古社刊』第5期1936.12)の年が誤っていることについて。
 この日記は、「辛丑(1901)」のものだ、と初出の雑誌には明記されている。収集した亀板、牛骨、金石を数えて喜色満面の劉鉄雲の様子がうかがわれて、おもしろい。『劉鶚及老残遊記資料』に収められた劉鉄雲日記にも同様の記述が散見され、収集家は、たびたび数えることに快感を覚えるのだな、と納得していた。おまけに、辛丑日記は行方不明というから、辛丑のこの記事は貴重な資料だと考え、わざわざコピーまで掲げたのだ。
 ところが、違うのだ。
 劉鉄雲日記を読み返してみると、おかしなことに気がついた。『考古社刊』に掲載されたものとそっくり同じものが壬寅(1902)日記にあるではないか。
 『劉鶚及老残遊記資料』は、日記の現物を復刻している。行方不明の辛丑日記がまぎれこむとは考えられない。ということは、50年前に発表された日記の年の方が誤っていたということになる。
 奇妙なことがあるものだ。
 自分で誤りを正すことができ、まずよかった、と、ここまで書いて、胸をなでおろしかけた。ところが、劉徳隆・劉徳平「甲骨文字史料新証」(解放日報理論宣伝部文学芸術部編『新論(未定文稿)』第115期1985.7.10))で、『考古社刊』掲載の「抱残守缺斎日記」は年が間違っている、とすでに指摘されているではないか。当論文は、劉徳隆氏からいただいたもので、私は、当然、読んでいた。忘れていたらしい。失礼のうわぬりをおわびする。
            (樽本照雄)