『繍像小説』発行遅延説をめぐって
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      樽 本 照 雄


 『繍像小説』は、従来、考えられていたよりも遅く終刊したのではないか。これが問題提起である。
 『繍像小説』の刊行時期についての通説は、次のようなものだ。「「『繍像小説』半月刊は、光緒二十九年(1903)五月初一日に創刊され、編集者李伯元の死(光緒三十二年<1906>三月十四日)により終刊となった(光緒三十二年三月十五日)。全72期を発行。
 通説に対して最初に疑義を提出したのは張純である。雑誌掲載の作品に反映された当時の事件を根拠に、終刊は今まで考えられていたよりも遅い丁未(光緒三十三、1907)年だという(『晩清小説研究通信』1985.4.17。のち、「関於《繍像小説》半月刊的終刊時間」『徐州師範学院学報』総46期1986年2期)。つづいて、樽本は、『繍像小説』の発行を知らせる新聞雑誌広告を手掛かりに、光緒三十二年末終刊説を出す(「『繍像小説』の刊行時期」『中国文芸研究会会報』第55号1985.9.30)。
 張純は作品内部から、樽本は雑誌の外部から、それぞれ探求したことになる。その結論は、『繍像小説』の終刊が遅れていたという大筋では一致した。ただ、時期の確定がズレる。史料の発掘と、討論が望まれる所以である。
 『繍像小説』の終刊が遅れていた事実から生ずる問題は小さくない。
 いくつかある問題の中で、注目すべきことをひとつだけ述べる。
 李伯元の死後も『繍像小説』は発行されていたことになる。そうなれば、南亭亭長の名を冠した「文明小史」、「活地獄」の後ろ部分は李伯元の筆ではなくなる。
 李伯元に関する作家論、作品論の根底をゆさぶる問題であろう。
 いかなる作家論、作品論も、事実の上に構築されなければならない。この逆があってはおかしいのではないか。
 問題の重要性を考慮し、専門家のご意見をうかがうことにした。
 1985年末、張純、樽本論文のコピーを添え、時萌、汪家熔、王俊年、魏紹昌の四氏に原稿執筆を依頼する。本号に間にあったのは、時萌、汪家熔両氏の分である。
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