研 究 結 石      


    》金井 雄の手紙《


 曾孟樸に日本語を教えた人物・金井雄の手紙を紹介する。宛先は、小川平吉。

 8 金井 雄 明治35年11月10日

前略先日申入候送金百円は定めし已に御托郵の事と存候へ共心配之余り此に御尋ね申上候。已に昨日も杭州の本願寺より厳重なる催促申来候。余り長引故無理ならぬ事と云ふべく候。〇常熟の諸生は東文已に成り目下は日本書を訳し日々来りて訂正を乞ふのみ。大に無聊を感じ居候処常州より予を招くものあり。即ち之に応じ不日出発いたし可申候。今回も矢張り無報酬に御座候(元来三十元の月給にて予の助教を聘せんとせるも助教久山なる者にては学力足らず、故に予自から往くに決す。然れ共三十元計の少額を受取るは実に内心に快からず。故に之を辞す。来使云、然則以書籍代之。小生の支那に来る専ら奇書を獲んが為なり。其喜びや知るべき也)。然れ共常熟とて閉校するに非ず。助教を留めて代理せしむる筈に御座候。〇先日願上候博文館書籍之外に更に十六七円の註文を致候間電話にて申来候はゞ御払渡被下度候。〇若し万一にも未だ送金の手運に至らざる如き事あれば夫こそ大変なり。故に更に左に大書し御注意を奉請候。
  金百円也
右金額郵便為替にて蘇州盤門外大東輪船公司梅津駒治氏宛にて至急御送被下度候也。
 〔註〕封緘ハガキ表に壬寅(旧)十月十一日とあり。
  『小川平吉関係文書2』みすず書房
   1973.3.30。377頁

 金井雄の中国行は、1902年(明治35)、教師として、であることを述べたことがある(『清末小説研究会通信』第7号1981.1.1。のち『清末小説きまぐれ通信』1986.8.1所収)。この書状からは、日本語教師としてつとめる雄の様子が窺われる。そればかりか、「専ら奇書を獲んが為なり」と訪中の目的を金井自身が述べているのがめずらしい。曾虚白の「曾孟樸先生年譜」では、金井雄を「革命亡命者」とするが、これを訂正する資料ともなろう。
 小川平吉(1869−1942)は、長野県の人。弁護士をへて衆議院議員に当選14回。近衛篤麿に従って東亜同文書院の創立に参画。国勢院総裁、司法大臣、鉄道大臣を歴任した。金井之恭の長女・金子(戸籍名、喜舞子)と結婚。この金子の兄がすなわち金井雄である。つまり、金井雄と小川平吉は、義理の兄弟ということになる。ちなみに、平吉の次男が平二(国務、労働、自治、文部などの大臣を歴任)四男が平四郎(駐中華人民共和国大使)である。


 》贋作「官場現形記」の続作《


 「官場現形記」の贋物である続作は六編巻61−76しかないとばかり思っていた。だから、本誌前号の「贋作の本棚」にもそう書いたのだ。
 それは、違う、続作は92巻まである、と大塚秀高氏より教えていただいた。私信から引用させてもらう。

 「官場現形記七編」と題する4冊1帙の石印小本で帙題、題箋とも最新増註絵図官場現形記とあり、封面には最新増註絵」図官場現形」記 庚戊春仲 月湖漁隠題とあり、裏に七編十六巻とあります。七編目録には巻77から巻92までがあがっており、図は各冊あて2葉、4冊で全8葉16図附せられています。本文題はなく毎半葉14行毎行32字からなり、本文には夾注があります。因に六編もこれと同じで、角書きが帙題で増註絵図、題箋で絵図増註、封面で増註絵図である点が違うくらいです。

 いや、めずらしい本だ。魏紹昌の『李伯元研究資料』(上海古籍出版社1980.12)にも触れられていない。本当に、どこにどんな本があるか、わからないものです。こんなことがあると、つい、喜んでしまう。大塚氏にはあらためてお礼を申し上げます。


   》「老残遊記」の続作《


 似たようなことが「老残遊記」の場合もある。
 楊塵因「(社会小説)老残新遊記」が『快活』に連載されていることは、前号ですでに触れた。
 張純「晩清小説研究通信」第4期(86.12.10発行。87.1.17受領)から紹介する。
 『老残遊記』の続作については、
             ママママ
阿英、劉大紳ともに「百新書局」の偽作本一種を挙げるのみである。さきごろ、筆者は全国近代文学討論会に参加する機会を利用して、新たな続作を見つけた。『絵図老残新遊記』と題し、四冊、石印本である。連史紙に印刷され、北楊塵因著と署名する。世界書局印刷発行。中華民国十三年五月出版。現在、広州中山図書館所蔵。(後略)

 張純は文中で『快活』に触れてはいないが、該雑誌に連載されたものの単行本化であるのは明らかである。
 現在作成中の『清末小説目録』に入力したのは言うまでもない。


》李伯元と『天香閣写蘭図題詠』《


 1898年冬から翌年春にかけて、李伯元は、龍華(一説に静安寺付近)に妓女たちの墳墓を建立しようと提案した。群芳義塚、俗称を花塚という。
 李伯元は、自ら主宰する『游戯報』紙上で広く詩文を募集し『玉鈎集』(未見)を編集するかたわら、病紅山人・樹柏と茂苑惜秋生欧陽鉅源に『玉鈎痕伝奇』を書かせ雰囲気を盛り上げた(劉文昭「李伯元瓜豆園雅集」香港『大公報』1962.10.15初出未見。魏紹昌『李伯元研究資料』上海古籍出版社1980.12。59頁)。
 花榜、花選と同じく、新聞『游戯報』の販路拡張を兼ねていたものだろう。ところが、この花塚にたいしておおよその妓女たちは、必ずしも積極的ではなかった。華やかなコンテストにくらべ、ただ寄付金を集めるだけの催しものには力がはいらぬのも無理はなかろう。
 そのなかで協力を申し出たうちのひとりが、天香閣金小宝である。名は、粟。姑蘇の人。李伯元の花榜で第2位に選ばれ、林黛玉、陸蘭芬、張書玉らと「四大金剛」と称せられる。蘭を描いて有名。その特技をいかし、扇面百枚をもって募金活動を援助した次第である。(「天香閣韻事」海上漱石生<孫玉声>『退醒廬筆記』下巻 近代中国史料叢刊80 台北文海出版社参照)
 『新驚鴻影』上海時報館発行1914.7.1
         関西大学図書館所蔵

 李伯元が、感謝の意を表わすため特に編んだのが『天香閣写蘭図題詠』だ。
 南亭亭長(李伯元)署の扉につづく「天香閣主人写蘭図小影」には、たぶん添付されていたであろう写真はなく、花ケイで囲まれたワクのみが残されている。「金小宝伝」が、巻頭をかざる。ただし、無署名だ。李伯元が、金小宝のために作った書物であるから、これは李伯元作の可能性がある。
 雛雲序(光緒戊戌孟冬「「1898年陰暦十月)、茂苑惜秋生序(欧陽鉅源、同年冬至後十日)、虞山長相思室主病紅山人後序(・樹柏、同年陰暦十一月十四日)と序が置かれ、本文の詩がつづく。約30名の寄稿者の中には、瀛客来青散人(永井禾原)の名も見える。董康(綬経)、放浪牧巻次郎、立庵山根虎之助、富卿小田切万寿之助、これに李伯元をまじえ、永井禾原を上海に迎えて天香閣に集ったことがあった(中村忠行<麗澤生>「『游戯報』抄」『清末小説』第9号1986.12.1。72−74頁)。天香閣とは、金小宝の寓居にほかならない。
 詩を寄せた人物には惜秋生(欧陽鉅源)が含まれる。彼が参加しているのは当然だ。この惜秋生に関して、すこし気になる事がある。収録された「贈金小宝詞史十絶」に署名して、「惜秋生漫稿於洗紅ヲ」とある。洗紅ヲが欧陽鉅源の別号で
ある可能性はないだろうか。別号であるとすれば、『繍像小説』第1−38期に掲載された洗紅ヲ主演述「泰西歴史演義」は、欧陽鉅源の作品だということになる。洗紅ヲ主の作品は、『繍像小説』にしか見られない点からも、確率は高いように思う。
 さて、金小宝の画蘭による奉仕は、花塚建立にとどまらなかった。
 1900年、天津、北京は義和団事件で混乱した。難民救済のため乗り込んだ救済会の陸樹藩にあてた金小宝の手紙が残っている。

……思い起こせば戊戌の冬、姉妹たちと群芳義塚を建立しようといたしましたが、そのおりわたくしは蘭を画くことをもってその慈善行為に参加したのでございます。この度もやはり蘭を画くことで二百元を寄付致したく存じます。まず現金一百元を立て替えお送り致します。……
         「天香閣金粟来書」
       『救済文牘』巻6 1907

 金小宝は、李伯元が詩集を編集し献じたくなるほどの人物であったようだ。

(中島利郎氏にお世話いただきました資料を紹介するのに、10年もかかってしまいました。お礼を申し上げます)