劉鉄雲は梁啓超の原稿を読んだか2
「「劉徳隆・劉徳平両氏に答える「「


      樽 本 照 雄


 劉徳隆ならびに劉徳平様

 拙論「劉鉄雲は梁啓超の原稿を読んだか」(『節令』第7期1986.12.20)に対する反論「劉鶚与梁啓超及戊戌変法」、拝読いたしました。
 私が述べたかったのは、まことに単純なことなのです。
 問題を整理するため、時間の流れに沿って、関連する事実を並べてみます。

 1.梁啓超(のち披髪生<羅普>に交代)重訳「十五小豪傑」(ジュール・ヴェルヌ『二年間の休暇』。梁啓超の重訳は、森田思軒訳『十五少年』に基づく)は、まず、『新民叢報』に(第2−24号「「光緒二十八年正月十五日1902.2.22−十二月十五日1903.1.13)連載された。
 2.劉鉄雲壬寅(1902)日記「(三月)二十四日(5.1)、(中略)帰寓、『十
    ママママ
五小豪傑伝』を読み、題簽を書く」

 3.『十五小豪傑』、1903年、横浜新民社から刊行される(阿英『晩清戯曲小説目』上海・古典文学出版社1957.9による。実藤恵秀監修『中国訳日本書総合目録』香港・中文大学出版社1980には、上海広智書局1903、横浜新民社1904、上海小説林社1903などが見える)。

 劉さんたちは、上記の2と3にしか注
目しませんでした。(というのは、劉さんの文章には初出誌『新民叢報』への言及がないからです。)劉鉄雲は、単行本が発行される前に作品を読んでいる。ゆえに、梁啓超は自らが翻訳した原稿を劉鉄雲に送り、その書名を書いてくれるよう依頼したとしか考えられない、ということになったわけでしょう。
 劉鉄雲が読む前に、「十五小豪傑」は、『新民叢報』に掲載されている事実に気付けば、劉鉄雲が読んだのは、『新民叢報』掲載のものではないか。こう考えてみる必要があります。梁啓超関係の文章も二、三見てみましたが、彼が劉鉄雲に翻訳原稿を送ったなどという記述は、残念ながら見つかりませんでした。で、私の結論になったわけです。
 ところが、この度の原稿を拝読しますと、劉さんは、『新民叢報』が初出誌だと認められた上で、なおかつ、梁啓超は翻訳原稿を劉鉄雲に送り、題簽を書くよう求めたのだと主張なさっています。
 その主張の要点は、ひとつです。「写題簽(題簽を書く)」というのは、1、原稿に、2、別の紙に書くものであるから、もし、梁啓超の頼みがなければ、書く必要のないもの、となります。
 題簽とは、「だいせん 題簽・題籤・題箋  書名や順序数など記されて、表紙に張り付けられた、細長い小紙片。書簽。書籤。簽。籤題。貼外題。標題書。外題紙。」(長沢規矩也編著『図書学辞典』三省堂1979.1.20。88頁)というおなじみのものです。
 劉鉄雲日記をざっと見ただけで、問題
となる個所のほかに、

簽題《常道観碑》(150頁)
午後取旧蔵瓦当題簽(179頁)
検六朝碑、題簽(193頁)
晩写周布簽子(197頁)
査《昭陵碑》並題簽(229頁)
頁数は、劉徳隆・朱禧・劉徳平『劉鶚及老残遊記資料』(四川人民出版社1985.7)のもの。

という具合に、頻繁に出てくる言葉です。碑帳の類は、原稿でしょうか。題簽は、原稿だけに書かれるというものでもありますまい。
 『新民叢報』連載の「十五小豪傑」は、その部分を雑誌から切り離して製本すれば1冊の単行本になるという、当時、流行した体裁となっています。劉鉄雲が、切り離した「十五小豪傑」に、別に表紙をつけたと考えれば、題簽を書いても、なんら不思議はありません。
 劉さんのおっしゃるように、梁啓超の依頼で劉鉄雲が題簽を書いたとしましょう。そうなると、劉鉄雲の題簽は、それこそこれから単行本になるもののために書かれたことになり、梁啓超の翻訳原稿に直接張り付けるものではありえません。劉さんの説は、論理矛盾を起こしていると言えます。
 上海広智書局あるいは横浜新民社から出版された『十五小豪傑』そのものを見ることが出来れば、はたして劉鉄雲の筆になる題簽が掲げられているかどうか判明します。日本国内での所蔵を聞きませんから、中国で捜索してくださるとたすかります。
 また、劉鉄雲日記に梁啓超から題簽執筆の依頼が見えないという点について、穆寿山の例を挙げられました。私は、穆寿山という人が、劉鉄雲とどういう関係にあるのか知りません。ご教示いただければさいわいです。が、穆寿山と梁啓超を同等に扱ってもよいのでしょうか。おっしゃる通り、存在した事柄がすべて日記に記入されるとは限りません。劉鉄雲にとってありふれた、当たり前のことは書かれることはないでしょう。梁啓超の名前が見えないということは、そうすると、劉鉄雲と梁啓超が、きわめて親しい間柄であったということになるのでしょうか。そのような事実は、聞いたことがありません。
 以上が、「十五小豪傑」をめぐる劉鉄雲と梁啓超の関係についての私の見解です。
 戊戌変法に関しては、本文の主旨を越えますから述べるつもりはありません。
 ただひとこと言いますならば、保国会の名簿に、梁啓超、康有為とともに「劉鶚 江蘇丹徒」(湯志鈞『戊戌変法人物伝稿(増訂本)』上下冊。北京中華書局1961.4一版、1982.6二版。726頁)とあるのを見つけたとき、ヘェーと感じたことをおぼえています。この名簿は、『国聞報』光緒二十四年閏三月二十四日付に発表されたものらしく、1898年5月14日となります。
 一方、劉鉄雲が康有為、梁啓超たちを快く思っていなかった根拠とされるのは、ご指摘のように、「近頃、康(有為)、梁(啓超)のやからが、出てきてそそのかし、天下は危うい危うい(迩者又有康梁之徒,出而鼓蕩之,天下殆哉岌岌乎)」という文面です。これは、劉鉄雲自身が黄葆年にあてた手紙の中で述べていることですから、重視されて当然です。書かれたのは壬寅十月十七日です。1902年11月6日となり、1898年から数えて4年後ですから、劉鉄雲の考えに変化があったと言うことが出来るかも知れません。
 戊戌変法に劉鉄雲はかかわったのか否か。私も、知りたいところです。これがきっかけになり、その方面の研究が進むことを希望します。

 とりあえず、関係部分にお答えいたしました。