新しく発見された呉〓人の作品


    顔 廷亮著・沢本香子訳


 【編者から】本文は、原題を「一篇新発現的呉〓人佚作」といいます。『寧夏社会科学』1987年4期(87.7)に発表されました。ところが、発表誌の都合で、肝心な呉〓人の原文が掲載されませんでした。既発表の説明文は、日本語に訳し、ここにあらためて呉〓人の逸文を掲載いたします。

 先頃、『民吁日報』を調査していた時、己酉九月初二日(西暦1909年10月15日)号に、「我仏山人投稿」という短編が掲載されているのを筆者は、偶然、発見した。題名を「短篇小説中霤奇鬼記」という。
 「我仏山人」とは、当然、呉〓人である。しかし、呉〓人作品についての著作目録を調べてみても、いずれもこの作品に言及していない。王俊年「呉〓人年譜」(『中国近代文学研究』第2、3期)も触れていないし、呉〓人の短編小説を集めて最も完備しているといえる盧叔度の「我仏山人短篇小説集」(花城出版社1984年9月)にも同じく収録されていない。だから投稿者が確かに呉〓人だとすれば、これは新発見の呉〓人逸文ということになる。
 それでは、投稿者は、確かに、呉〓人なのだろうか。私の知るところ、当時の文壇には、「我仏山人」を号としたふたり目の作家は、いはしなかった。もし、
投稿者が呉〓人でないとすれば、当然、「我仏山人」を装って投稿したことになる。しかしながら、その可能性はそう大きくない、と私は考える。
 まず、呉〓人は名高い大小説家で、当時、ちょうど上海で生活をしていた。『民吁日報』は、当時の朝野を感動させていた著名な新聞として、呉〓人は、当然、注目していたはずで、彼の号を署名した作品が発表されれば、本人がたとえ目にしなかったとしても、彼に告げる人があったにちがいない。また、該新聞の編集者も呉〓人に知らせたはずだ。このような情況のもとで、もしもこの作品が彼の書いたものではなく、他人が偽ったものだとしたら、呉〓人は冷静でいることができたであろうか。当然、そのようなことはありえない。ただ、呉〓人が情況を説明し、是非を明らかにするのを、われわれは見つけ出していない。
 次に、『民吁日報』の編集者達は、みな上海文壇で活躍している人物で、呉〓人については、当然、熟知していた。呉〓人が、1910年10月21日(庚戌年九月十九日)、逝去したのち、10月28日付けの『民立報』(基本的に『民吁日報』のもとの人員によって創刊された)に「小説家逝世」と題するニュースが掲載された。それは、呉〓人研究者にとって、当然、重要なものだが、まだ誰も言及したことがないようだ。標点をほどこし、以下に掲げる。

  本埠武昌路公立広志両等小学校校長曁両広同郷会会長、南海呉〓人征君沃堯,為荷屋中丞栄光曾孫。家学淵源、著述ル富。嘗究心経世之学,而淡於栄利。国家開経済特科,有詔征之,不起。旅滬二十余年,歴充各報記者。継以為庄論危辞不如諧語之易入也,乃肆力於小説,窮思極想,レ心嘔血,成書数十種。復創設広志学校,造就旅滬同郷子弟,苦心孤詣,竭蹶支持,数年来成才頗衆,而君之心力交瘁矣。患咳嗽気喘症,久治ロ効,遂於九月十九日子時謝世,年僅四十有八。征君交遊遍天下,想聞リ耗,靡不揮涙哀悼也!
 当地武昌路公立広志両等小学校校長、両広同郷会会長、南海呉〓人沃堯氏は、荷屋中丞栄光の曾孫である。家に代々伝わった学問は、源ふかく、著述は、きわめて豊富だ。かつて経世の学を極めたが、栄誉利益には淡泊であった。国家が経済特科を開設し、彼を招いたが、応じなかった。上海にいること二十余年、各新聞の記者を勤める。重々しい論調、きたんのない正論は、滑稽な言葉の受け入れやすいのに及ばないと思いいたり、小説に力を注ぎ、知恵をしぼり想を練り、心血をそそいで数十種の本を書いた。また、広志学校を創設、上海在住の同郷の子弟を養成しようと、人知れぬ苦労をし、困難に耐え、これを維持した。数年来、人材は多く育ったが、氏の精神力体力ともに極度に疲労した。ぜんそくをわずらい、長らく治療したが効なく、ついに九月十九日真夜中に逝去。年はわずかに四十八。君の交遊は天下に遍き、ふ報を聞いて涙を流し、哀悼しないものはいなかった。

 このニュースは、『民吁日報』の諸人が呉〓人についてほんのわずかしか知らないということはありえない、ということを示している。もしも、短編の投稿者が呉〓人ではなく他人が偽っているとすると、彼らが気がつかないわけがない。また、われわれは、『民吁日報』の諸人が、当時あるいはその後に、短編は呉〓人を装った他人が発表したのだ、というようなことを述べたものを見たことがない。
 最後に、この短編の後ろには、『民吁日報』が加えた編者の説明がある。全文は、以下の通り。

  記者按:此蓋為□□□貨事、窘於圧制、不能竟其志而発也。其曰“心之所貴、唯其堅也”、吾深有取於斯言。(標点筆者)
 記者の言葉:これは、□□□が、圧制のために窮し、その志をまっとうすることができぬところから発っせられたものだろう。「心の尊いのは、ただ、その堅固なところである」というが、私には、その言葉から深く得るものがある。

 上の“□□□貨事”は、“抵制美貨事(アメリカ製品ボイコット)”である。すなわち、1905年に爆発した激しい反米愛国運動だ。この「記者按」から、反米愛国運動が清朝政府の圧制を受けて失敗したことに対してあきらめていないことを知ることができる。この点は、呉〓人個人の経歴と符合する。つまり彼は、まさに反米愛国運動が爆発した後、アメリカ商人が漢口で創刊した『楚報』を離れ、上海にもどって反米愛国運動に参加しているからだ。運動が失敗したあと、彼は悲しみと憤りを胸一杯にして、この思想感情を述べた作品を書いた。たとえば有名な『人鏡学社鬼哭伝』などである。つまり、『民吁日報』のこの短編は、呉〓人の手になるもので、他人が偽った作品である可能性はそれほどないのだ。