劉鶚と戊戌変法の関係について


      劉   〓 孫


 『清末小説から』1987年第6期は、樽本照雄「劉鉄雲は梁啓超の原稿を読んだか2」と私の甥劉徳隆・劉徳平兄弟の「劉鶚及梁啓超与戊戌変法」を発表した。 彼らは、劉鶚(私の祖父)が、梁啓超の翻訳小説『十五小豪傑』の題簽を書いたか、書かないかについて討論している。 樽本先生が考えたのは、『十五小豪傑』という本は最初に『新民叢報』に連載されたのだが、その時、題簽を書くことは出来ない、もし題簽を書くよう頼んだとすれば、単行本を出版する頃であろうが、今、最初に出版された上海広智書局本と横浜新民社本は、日本では見られないから証明することは出来ない。また劉鶚の「日記」中の記載数条によれば、『新民叢報』連載の『十五小豪傑』はその部分を雑誌から切り離して製本すれば、一冊の単行本になるという、当時流行の体裁となっている。劉鉄雲が切り離した『十五小豪傑』に別に表紙をつけたと考えれば題簽を書いても、なんら不思議はない、といっている。
 劉徳隆らの説は「日記」壬寅(1902)三月二十四日に、「『十五小豪傑』を読む、題簽を書く」の記載によって、梁啓超が『十五小豪傑』の題簽を書くことを劉鶚に頼んだ、という。また、これから劉鶚は、梁啓超と友誼があったし、そのほかの史料によって劉鶚は戊戌変法に参与したと考えた。
 この劉徳隆らの『十五小豪傑』に関する説には、本当に幾つかの問題がある。その(1)、「日記」の記載はあまりに簡単すぎ、明解に問題を説明できない。(2)、「日記」に標点がないから、「読『十五小豪傑』,写書簽。」というように標点できるし、「読『十五小豪傑』。写書簽。」ともできる。もし後者ならば、別の題簽を書いたのかもしれない。(3)同日「日記」によると、劉鶚は総理衙門へ王文韶に会いに行っている。また、西堂子胡同へも行った。このことによって、その時、劉鶚は北京にいたことがわかる。同時に梁啓超がちょうど海上に亡命する頃、どうして『十五小豪傑』の原稿を劉鶚へ送って題簽を書くよう頼む必要があるだろうか。このことは、再び吟味する必要があるだろう。樽本先生の考えには、十分な理由がある。だが、両者ともに推論するばかりであります。
 今、いっそう肝要なことは、劉鶚が戊戌変法に参与したか、否か、ということである。これも劉徳隆らが文章を書いた目的であろう。
 実にこの問題は、五十年前に学術界ですでに吟味している。あの歴史時代に劉鶚のような活力充満した社会活動家が、変法運動に参与しなかったとは考えにくいからである。
 1935年頃、私は康有為の弟子、『万木草堂全書』(康有為の全集)を編集した張篁渓氏の息子張江裁氏と一緒にもと北平研究院史学研究所の編集を勤めていた。張篁渓氏は、私の家に康有為と劉鶚に関する通信の資料があるかと尋ねた。また、私も同院の字体研究会の常務理事であった、梁啓超の友、『飲冰室文集』を編集した林志鈞先生(現在北京大学林庚教授の父)に同じ問題をたずねた。それらの手紙は、みつからなかった。そこで、劉鶚は戊戌変法に参与しなかっただろうと皆は考えた。
 今度、劉徳隆らは、またこの問題を提出し、かつ天津『国聞報』に掲載された保国会の名簿により、劉鶚が保国会に参加しているから、変法に参与していたと説明した。樽本先生もこの問題に興味を感じているようだ。
 主に保国会の性格を吟味してみよう。
 保国会は、京城保国会という。1957年上海人民出版社版『戊戌変法資料叢刊』第4冊第396−405頁に「保国会章程三十条」と入会者の名簿 179人が収録してある。その保国会は康有為が組織したものだ。宗旨は、国土と国権が日々に衰弱し、人民の生活が日々に困難となったため、国人と一緒に国土を保ち、国民を保って聖教を保つ道を講じるところにあった。変法が立憲かについては、一言も言及していない。入会者のなかに戊戌変法の核心的人物康有為、梁啓超、林旭、楊鋭、楊深秀、劉光第の名前がある。譚嗣同は北京にいなっかたから入会していない。康広仁の名前もない。この名簿には、劉鶚と宋伯魯以外にも有名な人士が沢山のっている。たとえば喬樹 、傅増湘、冒広生、汪翔鸞諸人は、皆戊戌変法に参与していない人々である。かつ保国会の宗旨が「保土、保民、保教」だけで清朝政権を保つとはいわないため、短期間で清朝政府はこれを禁止したのだ。同年の秋、激しい変法の闘争が起こったころ、保国会は早々に解散してしまった。故に保国会に入会した人々が、必ずしも戊戌変法に参与したとは限らないだろう。
 保国会が成立したのは、清光緒二十四年(1898年)二月二十四日である。同年正月に康有為は第2回変法の上書をすでに光緒帝に提出しているが、その精神は保国会の章程と序言に少しも見られない。よって、康、梁以外の入会者が変法に参与したとは考えられない。組織は、愛国的な大衆団体である。それゆえ、保国会の入会者が、戊戌変法に参与したということはできない。
 別の面からいうと、劉鶚は太谷学派の主要成員であり、学派は儒家思想の民間の暗流であった。その政治主張は、「誰でも奉仕すれば君で、その人々も使えば人民だ(何事非君、何使非民)」というものだ。狭猛なる一朝や一始に忠君しない。主なる目的は、「民を養う」ことである。そうすると保国会の宗旨は、学派と違わない。むしろ一致していると考えられるから、劉鶚は保国会に入会した。その後、康、梁が保皇党になると、劉鶚は、同意しなかった。劉鶚が黄葆年先生にあてた手紙の中で述べたのは、この思想が反映されている。劉鶚の思想は、変化しなかった。
 朋友の関係といえば、劉鶚は、宋伯魯と友人であったし、のち鄭永昌と一緒に塩業会社を経営したこともあった。二人とも康、梁と接触したことがある。だからといって劉鶚が戊戌変法に参与したとは言うことはできない。
 たとえば、日本宮崎滔天という方は、孫中山を一番助けた人だ。その方も劉鶚の良い友達だった。これによって、劉鶚が革命党に参与したとは言えないのと同じであろう。
 大刀王五については、平木不肖生の『江湖奇侠伝』や、ン之誠氏の『骨董日記』にも彼のことが書かれている。ただ、王五が外国兵に銃殺された後、劉鶚は、掩埋局の人に王五の遺体を埋めさせている。私も『劉鶚年譜』の作者蒋逸雪氏にこれをたずねたことがある。蒋は一般の伝聞以外に信じられる資料を見ていなかった。大抵、劉鶚が北京にいた頃、自宅の武術教師王師傅という人が振遠局の一人で、王五を知っていただけだろう。ある人が『老残遊記』中の劉仁甫のモデルは王五だというが、疑わしい。
 劉鶚が、梁啓超と友誼があり、戊戌変法に参与したかどうかについては、新しい有力なる論証が必要となろう。
              1987.9.5