研 究 結 石


樽 本 照 雄



》 曾孟樸の経歴ひとつ 《


 1906年といえば、曾孟樸は、前年、上海に創設した小説林社の業務拡充に尽力していた頃である。彼の活動を伝える新資料を見つけたので紹介する。
 新聞の原文を引用する。

『同文滬報』明治39(1906)年12月18日(光緒三十二年十一月初三日)
本埠新聞
●書業商会設学 上海書業商会創設学徒補習所挙事務長兪仲還教務長陸費伯鴻教務評議夏頌莱曾孟樸何澄一子英教員徐琴生田翼甫幹事兼監察員呉秋坪趙廉臣厳馥葆於十一月初一日考取学生初三日開課并補考学生業已訂定簡章容続刊報

 上海書業商会が学徒補習所を設立し、その教務評議に曾孟樸がなっているとわかる。
 上海書業商会とは、教科書出版業者を中心とした組合であったらしい。こちらについても、関連文章を引用しておく。

○『上海指南』商務印書館宣統元年5月/七月再版
各種公会
上海書業商会 在英租界望平街二百号 正董兪仲還。副董夏粋方。

〇良「上海市書業同業公会簡史」『出版週刊』新160号商務印書館1935.12.21
(略)光緒三十年(民元前八年),出版学校教科書及新学堂之書業逐漸発展,於是有書業商会之組織,由兪仲還,夏粋芳,席子佩,夏頌莱,陸費伯鴻,何澄一等発起,挙兪仲還為正会董,席子佩夏頌莱副
之,夏粋芳為経済董事,陸費伯鴻為書記,
  ママ
呉秋 ,趙廉臣為幹事,并設補習夜課,至民国十九年併入同業公会。現在同業公会所用之会所,即書業商会旧址,所有基金,亦移交焉。(後略)

○陸費伯鴻「論中国教科書史書」の注3
張静廬『中国近代出版史料初編』上海上雑出版社1953.10 214頁
 一九〇六年上海書業商会出版『図書月報』、在第二期載有已入会之会員二十二家、絶大多数都是以出版教科用書為専業的。計有文明書局(兪仲還)、開明書店(夏頌莱)、点石斎(席子佩)、商務印書館(夏粋芳)、広智書局(何澄一)、昌明公司(陸費伯鴻)、中国教育器械館(包文信)、啓文社(費子和)、新智社(呉秋坪)、会文学社(沈玉林)、通社(応季審)、新民支店(馮鏡如)、群学会(沈継先)、東亜公司新書店(張金城)、彪蒙書室(施錫軒)、時中書局(顧子安)、有正書局(狄楚青)、小説林(鄒仲寛)、楽群書局(汪継甫)、普及書局(陶甲三)、鴻文書局(凌仲辛)、新世界小説社(凌培卿)。
又拠『中国出版界簡史』当時未入会者「尚有:作新社、蒙学書局、藻文堂、湖南新書局、上海排印局、福瀛書館、華美書館、文瀾堂、東亜書局、同文書局、拝石山房等。」

○蒋維喬「創辧初期之商務印書館与中華書局」 張静廬輯註『中国現代出版史料丁編』(下冊)北京中華書局1959.11香港影印 397頁
(略)先是,約在民元前三年間,高夢旦常代表商務,出席於書業商会。屡与文明書局代表陸費伯鴻見面,談論之下,大奇其才。

〇熊尚厚「陸費逵」『民国人物伝』第3巻北京中華書局1981.8 231頁
1906年6月,陸費逵在上海書業商会主編《図書月報》,該刊出至三期停刊。同年冬,他在上海文明書局任職員兼文明小学校長和書業商会学徒補習所教務長。

 学徒補習所などについても後考をまつとして、
○曾虚白「曾孟樸先生年譜」上中下『宇宙風』第2−4期1935.10.1−11.1
魏紹昌編『゙海花資料』所収 上海中華書局上海編輯所編輯 北京中華書局1962.4/増訂本 上海上海古籍出版社1982.7
○時萌「曾樸生平系年」『曾樸研究』上  海上海古籍出版社1982.8
といった曾孟樸伝記関係書を見てみたが、曾孟樸が書業商会学徒補習所に関係していたことについて言及はなかった。まだまだ明らかになっていない事実があるに違いない。


》 『女子現形記』について 《


 送られてきた古書店の目録、その1行に目がとまる。

 「女子現形記 華文 龍田吉 光緒 2,500」

とあるのだ。
 詳しいことは、書かれていない。「華文」と注記があるところからもわかるように、中国書籍を専門にあつかう古書店の目録ではない。日本文学関係古書店の書目に中国語の本が載るのは、まったくないわけではないが、珍しい。
 「現形記」とあって「光緒」とくれば、李伯元の「官場現形記」に影響されて書かれた作品ではなかろうかと、予想がつく。
 ねんのため、清末小説研究会編『清末民初小説目録』(中国文芸研究会1988.3.1)を見てみる。ところが、該書は収録されていないのだ。目録を編集するに際し、先行文献にはできるだけ目を通したつもりだが、もちろん万全というわけにいかない。採録漏れが出てくるのは、いたしかたない。奥が深いのである。
 夜分ではあったが、とりあえず長距離電話を書店に入れる。留守番電話に伝言をたのんで、確認のハガキも出しておく。抽選で当たるかどうかは、わからない。
 忘れたころ、『女子現形記』1冊が届いた。
 表紙なし。和紙に活版印刷、袋とじ。今の判型でいえば、A6判に近い。コヨリで綴じてある。1頁20字9行。「原序」を含めて、本文63頁。薄い文庫本という感じだ。
 奥付けには、

光緒三十三年六月印行 定価参角
印刷者 田所定吉
発行者 龍田吉
寄售處 各大書肆

とあるだけで、著者名、出版社名はない。
 「原序」によると、『女子現形記』は、もともと作者不明で、刊本なしの抄本であったという。数十年捜し求めて得られず、友人が入手してくれたと記し、「順治五年季冬抱虎老人敬識」でしめくくる。順治五年は、1648年となる。
 なるほど、1648年の序がついた抄本が、約260年後の光緒三十三年(1907)に活版印刷されたのだ、と考えるのは早計である。どこか、あやしい。
 まず、内容が、ある女性の性遍歴を述べたものなのだ。
 おまけに、日本語による校正が施されている。欠字(俗にゲタをはかす、という)に朱を入れ、活字の配置を訂正する。たとえば、「女子現形記上編」の「上編」が小活字で右に寄っているのを、「マンナカニスベシ」と指示するが如くである。日本語で校正されているから、日本の印刷所で植字されたことがわかる。
 表紙もなく、コヨリで仮に綴じられたこの本は、どうやら校正刷りであるらしい。
 秘密出版めいた印刷物の場合、いくつかのボカシがはいる。
 作者名をぼかす。
 印刷所をぼかす。
 出版社をぼかす。
あるいは、原稿の出所をぼかす。
 年代をいつわるのは、常套手段である。『女子現形記』の「原序」に、「順治五年季冬抱虎老人敬識」とあるのは、はたして本当かどうか。
 印刷者が田所定吉、発行者は龍田吉、となっているが、実在するかどうかは、不明である。
 李伯元「官場現形記」の題名流行に便乗したキワモノ出版といったところだろう。……
 と、早合点しそうになるのが、私に教養のない証拠である。
 なにか手がかりがありはしないかと、先頃出版された太田辰夫、飯田吉郎共編『中国秘籍叢刊』(汲古書院1987.10)を見る。覆印されている本文が、私に色目を使うのだ。
 なんのことはない、この『女子現形記』は、『痴婆子伝』そのものであることに気がついた。『痴婆子伝』についての詳しい解説は、『中国秘籍叢刊』研究篇をみてもらいたい。
 研究篇であげられた『痴婆子伝』の版本9種類のなかには、『女子現形記』は収められていない。その分、珍しいかもしれないが、私にしてみれば、清末の小説ではなくてガッカリである。
 『女子現形記』と改題したところに、李伯元『官場現形記』の流行を見て取ることができて、面白いといえば、おもしろい。


》 呉 梼 の 別 名 《


 翻訳家・呉梼については、気になっている。しかし、彼の経歴など詳しいことを明らかにするには至っていない。
 断片を述べてみる。
 『繍像小説』をみれば、「銭塘呉梼重演」「中国銭塘呉梼重演」とある。浙江省銭塘の人であるらしい。
 『小説月報』に、「呉梼亶中訳」と書かれており、別名が亶中であることがわかる。筆名録の類にも、これくらいのことは掲載されている。
 呉梼が翻訳した作品は、別の「呉梼翻訳目録」を見てもらいたい。そこからひとつの傾向を読み取ることができる。
 呉梼が中国語訳をする際によった原本は、ほとんどが日本語のものであることだ。
 呉梼の翻訳は20種が、今のところ、判明している。それらの原作者、あるいは原訳者を列記すると、以下のようになる。

(日)柳川春葉
石井ブラック
(日)高須梅渓
(日)押川春浪 3種
(日)田山花袋
(日)尾崎紅葉 2種
(日)黒岩涙香
(日)薄田斬雲
(日)中内蝶二
(日)登張竹風
(日)広津柳浪
(日)原抱一庵
(日)上村左川
(日)大沢天仙
嵯峨の家主人
(日)長谷川二葉亭
不明1

 呉梼は、日本に留学したことがある、といいたくなる。ところが、それを証明する材料をさがしあてることが、できていない。捜査は続行するが、その過程で見つけた、呉梼のもうひとつの別名を、ここでは紹介することにする。
 ひとつの資料は、新聞である。資料であるから原文のまま引用する。

★『同文滬報』光緒三十三年七月十六日(明治40<1907>年8月24日)
英租界
○新刊小説 商務印書館近訳新刊欧美家名小説漫郎攝実戈係法国雷華斯徳原着又袖珍小説銀鈕碑及薄命花一俄人著一日本人著皆由銭塘呉丹初訳均最新頴之小説也

 「欧美家名小説」は、「欧美名家小説」の誤植ではないかと思う。法国雷華斯徳原着『漫郎攝実戈』の著者名には、頭に「伯」が落ちているが、アベ・プレヴォ(本名Antoine F. Prevost)の作品『マノン・レスコオ』である。1907年6月23日付けで「説部叢書」第2集第42編として出版された。
 『銀鈕碑』は、(俄)莱門M甫(莱蒙托夫)の作品で、呉梼の翻訳として知られている。光緒33.6(1907)に発行された。袖珍小説。レールモントフ(LERMONTOV)著「現代の英雄」1840を、嵯峨の家主人が「当代の露西亜人」と題し、『太陽』1904.4に掲載したもの。
 おなじく、『薄命花』も、(日)柳川春葉著で、呉梼訳。光緒33.6(1907)発行の袖珍小説。
 いずれも「呉梼」の翻訳である。『同文滬報』には、それを「呉丹初」訳としているのに注目してほしい。
 資料は、もうひとつある。張元済の日記だ。これも、原文を引用する。

★『張元済日記』上冊(北京商務印書館1981.9)
(1912年)九月初九日 七月廿八 星期一
編訳 呉丹初来、告以擬請将已訳之小説編為浅文、或白話。試撰若干再定局。報酬一層亦請酌示。伊云、請我処酌定。答以彼此諧議。/呉丹初於十一月廿二日晩来寓。言演訳小説、不定約亦無妨。但如需停止、応先期知照。余問如何辧法。渠云、如於将停止之時、最好於交末次演訳之書時、即告以此書訳完即行停止。否則於訳至一半時告知。余云此為難。俟将蛇女士訳畢後再行商議。壬/11/23菊生記。

 呉丹初の翻訳原稿の売り込みであるらしい。呉梼が商務印書館編訳所に勤めていたとすると、翻訳報酬の話が出るだろうか。疑問だ。「蛇女士」という書名らしきものが書かれている。林゚・魏易同訳で『蛇女士伝』(コナン・ドイル原著)が、商務印書館から発行されている。初版は、光緒三十四年九月二十三日(1908.10.17)だから、張元済日記の記述より四年前のことだ。これと関係があるかどうかは、わからない。
 おなじく、『張元済日記』より。

(1912)一月三十日 十二月廿四 星期四
編訳 収呉丹初訳稿侠女郎、学生捉鬼記、拊髀記三種。共四十六頁。交許徹翁収。

 押川春郎著『侠女郎』は、初出が『小説月報』で、第3巻10−11号(1913.1−2.15)に連載され、のち、説部叢書第2集第47編に収められた(1915.5.26)。
 『拊髀記』も押川春郎著で、『小説月報』第4巻3号(1913.7.25)に掲載された。
 両書とも、呉梼の翻訳である。張元済に渡された呉梼の翻訳原稿のうち、「学生捉鬼記」については、不明である。
 以上、呉梼の別名に「呉丹初」があることを述べた。