引 き 裂 か れ る 清 末


樽 本 照 雄


 1982年、河南省開封市において第1回近代文学学術討論会が開催された。議題のひとつは、近代文学史の時期区分についてであったようだ。
 報告文(柯夫、效維「全国首次近代文学学術討論会綜述」『中国近代文学研究』第1輯1983.11。243-251頁)には、次のように書いてある。「過去において近代文学史の始めと終わりの年代を確定するのに、近代歴史をそのままあてはめていた。すなわち一八四〇年のアヘン戦争をその上限とし、一九一九年の五四運動を下限とする。その間、約八十年」討論会では、この定義に対しておおいに議論が沸騰したというのだ。
 討論が盛りあがったのは結構なことだと思う。しかし、私の今までの受けとめかたとは、どこか、少々、くい違っている。1840年から1919年までに区切る部分は、今、おいておくとしても、問題のあつかわれかたが、今までとは違う。どこかが異なる。
 まず、「近代文学」という呼称が前面に大きく出ている点が、人目をひく。なにしろ第1回目の全国大会なのである。
 過去における「近代文学」の扱われかたが、どういったものであったのかを知りたければ、辞典類をのぞいてみるとすぐわかる。
 現代文学と古典文学に分けるのが一般である。古典文学の最後に「清代及近代作家」をまとめる。ふるいところの『辞海試行本』(中華書局1961.10香港影印)でも、近くは『辞海』(文学分冊 上海辞書出版社1981.11)でも同じだ。
 これが清末となると、だいたいが清代のシッポにつけられるか、あるいはシッポにもなれず、無視されることが多い、とついひがみたくもなる。
 それが今回、独立して「近代文学」が議論されたという。どうやら、今までのあつかいを変更するぞ、という態度表明であるらしい。
 中国での情勢の変化が、私に複雑な感情を引き起こしたのだ。これが戸惑いの原因だった。
 このたびの全国大会は、私の見るところ「近代文学」の独立宣言なのだ。こうなった必然が、過去の歴史にあるに相違ない。
 現在までに出版された文学史のなかで、清末がいかなる扱いを受けてきたか、振り返ってみることにする。

 主としてよった資料は、陳玉堂『中国文学史書目提要』(黄山書社1986.8)である。これには、通史132種、時代別57種、分類別156種、合わせて345種の文学史が収められている。集書の範囲は、中華人民共和国成立以前までだ。
 このなかから、小説を中心に選んでみた。ただし、日本人の著作の翻訳や、明代以前の時代別文学史、あるいは当代文学史、小説以外の分野別文学史などははぶいてある。
 1949年以降に発行された文学史は、私の手元にあるものを掲げる。遺漏があるだろうがお許しねがいたい。
 どれだけの文学史が、清末に言及しているか。ほぼ発行順に、一覧表にしたものが次に掲げる「文学史における清末小説一覧」である。陳玉堂自身が未見のものも含まれているので、それは書名だけを掲げておく。6頁にわたり場所ふさぎのようではあるが、扱いの時代変遷をみるために必要だ。
 最初の文学史、黄人著『中国文学史』は、清末1905年前後に発行されているらしい。番号195銭理群らの『中国現代文学三十年』は発行が1987年だ。一覧の書籍は、ほぼ80年間に出版された文学史となる。おおざっぱにいえば、この80年間は、中華人民共和国成立を境に前後40年に分割できる。
 陳玉堂の紹介をてがかりに、どこらあたりまで記述されているのかをさぐると、全体で123種の文学史が考察の対象となった。
 清末のあつかいに焦点をあてる。阿英『晩清小説史』などの専著を別にすれば、つぎの6類型にわかれる。

 1.清代までで記述が終わっているもの。清末には言及しない。これを「シッポなし」という。
 2.清代のおわりまで、つまり清末まで説きおよぶもの。「シッポである」
 3.清代から五四へ、通史なのだが清末に触れないもの。清末が「無視される」とする。
 4.清代から、清末をも解説し、五四へつなぐもの。当然、「通史で言及」となる。
 5.いきなり五四からはじまり、清末を無視するもの。これじゃ「アタマなし」でしょうが。「五四」とするのは、1917,18,19年とマチマチだからだ。
 6.五四のまえに清末を置くもの。こちらは、「アタマである」となる。

 ★:清末に言及しているもの、
 ×:言及のないもの、
 】:ここまで記述されている、
 【:ここから記述がはじまる、
という記号を使用して123種の文学史を分類すると、以下のようになった。

●文学史を分類する
シッポなし  清】 ×     28
シッポである 清  ★】    21
無視される  清  ×  五四 24
通史で言及  清  ★  五四 10
アタマなし     × 【五四 28
アタマである   【★  五四 10
専著        ★      2

 ざっと見ただけで、シッポもなく、アタマにもなれない、つまり清末が無視されるものが多いことに、気がつかれるであろう。
 シッポなし、シッポありのなかの配分はどうか、アタマではどうなっているか、もうすこし詳しく見てみよう。

●80年間を通して
清末に言及するもの  43/123 約35%
  (?を含めるので、やや基準はゆる
  めである)
通史で言及のあるもの 10/33 約30%
シッポにするもの   21/49 約43%
アタマにするもの   10/38 約26%

 全体の約35%しか清末に言及していない。通史で言及が減少するのは、紙幅の関係もあるだろうからやむをえないことかもしれない。シッポにする文学史が、アタマにするものよりも多いのは80年間全体の傾向だ。
 中華人民共和国成立前後を比較するとおもしろいことがわかる。

●中華人民共和国成立以前に発行された文学史
清末に言及するもの  28/84 約33%
通史で言及のあるもの  9/31 約29%
シッポにするもの   11/37 約30%
アタマにするもの    7/14  50%

 清末にふれるものが約33%と少ないのはかわらない。ここで特徴的なのは、アタマにする文学史が、割合のうえではシッポにするものよりも多いことだ。中華人民共和国成立前では新文学の開始を清末に置く考え方が優勢をしめていたといっていいだろう。
 ところが、中華人民共和国成立後の数字をみると、変化が見られるのだ。

●中華人民共和国成立以後に発行された文学史
清末に言及するもの  15/39 約38%
通史で言及のあるもの  1/ 2  50%
シッポにするもの   10/12 約83%
アタマにするもの    3/24 約13%

 中華人民共和国成立前後、それぞれ約40年間と時間はほぼ同じながら、発行された文学史の数が半減している。そのなかで五四以降を記述する文学史がほぼ倍増するのが目をひく。また、清末に触れるものが増えつつあることも見逃せない。
 しかし、清末をアタマにするものがわずかに13%と中華人民共和国成立前の50%から激減していることに注目せざるをえないのだ。反対に、シッポにするものが83%と、これは中華人民共和国成立前の30%からすれば約3倍ということになる。
 つまり、中華人民共和国成立を境に、清末はアタマからシッポに配置換えになったということだ。その原因が、毛沢東「新民主主義論」にあったとは容易に想像がつく。
 新旧文学の間で無視されることが多く、視野にいれられたとしても新旧の両側から引き裂かれるのが清末であった。
 中国における「近代文学」独立宣言は、(研究室の独立、専任研究員の配置、学生の募集、予算の配分などというなまぐさい部分はさておくとしても)従来の文学史で冷遇されていたことへの反作用でもあるのだろう。また、それが許される情況になったことをも印象づける出来事である。