秋 瑾 来 日 再 考


樽 本 照 雄


 秋瑾の東京到着について、私は、1904年7月4日(陰暦五月二十一日)のことである、と推測した。これに対して、中国のある研究者は、新資料を提出し、さらに詳細な考証をくわえ、樽本の結論には誤りがあると指摘するに至っている。
 秋瑾の着京日時を含め、彼女の来日について、再度、考えてみたい。

私 の 調 査
 秋瑾来日に関して、私は、以下のような文章を発表している。話の都合上、わずらわしいかも知れないが、説明しておく。

文献1984A 秋瑾東渡小考 「文学遺産」第629期『光明日報』(中国語)1984.3.13
文献1984B 秋瑾来日考 『大阪経大論集』第159-161号合併1984.6.30
文献1985  新聞に見る秋瑾来日 『中国文芸研究会会報』第53号1985.6.30

★図1 天津『大公報』1904.7.22
★図2 天津『大公報』1904.6.23
★図3 『神戸新聞』1904.7.3
★図4 『神戸新聞』1904.7.3

文献1986  秋瑾着京「清末小説・研究結石」『中国文芸研究会会報』第60号1986.7.31

 執筆の順序からいうと、 文献1984Bのほうが文献1984Aよりも早い。 資料は、主として服部繁子「秋瑾女士の思い出」(『季刊東西交渉』第3号1982.9.15)を使用し、次のような結論を述べた。

 秋瑾は、服部繁子、高橋勇らに同行して、1904年(明治37年、光緒30年)6月28日(五月十五日)、北京を出発した。同日、塘沽からインデペンデント号に上船、仁川、釜山を経て神戸に上陸したのは7月2日(五月十九日)である。二日がかりの汽車の旅を終え、東京に着いたのが7月4日(五月二十一日)のことであった。

 服部繁子は該資料で、一行が神戸についたのは「7月12日」、と書いている。当時の新聞を調査して、「7月12日」は「7月2日」の誤りであることは、わかった。しかし、北京を出発したのが6月28日、塘沽、インデペンデント号などについては、服部繁子の記載のままにするほかなかった。当時、これらを否定する資料を、もっていなかったからだ。秋瑾一行の東京着を7月4日としたのも、繁子の「東京行きの汽車が兵士の輸送で進行の遅い事、遅い事。二昼夜かかって新橋駅につくと(後略)」という証言に基づいている。
 ゆえに、文献1984Aは、1984Bの結論をそのままに、また、インデペンデント号を「独立号」と翻訳して中国語で発表したのである。
 ところが、その後、『大阪朝日新聞』、『大阪毎日新聞』を調べて、服部繁子の証言が誤っていたことに気がついた。6月28日ではなく6月23日(五月十日)、塘沽ではなく大沽、インデペンデント号ではなくバベルスベルグ号であったのだ。このように訂正したのが文献1985である。
 『東京朝日新聞』1904年7月5日付の記事で、服部繁子とともに秋瑾が来た、と報道されている。そこで、文献1986では、秋瑾の東京到着は、7月4日で間違いないだろうとした。
 以上が、秋瑾来日に関する私の調査である。

中 国 で の 研 究
 その後、秋瑾来日について、中国の研究者が発表したものを見る機会があった。以下の二点だ。

  郭延礼編『秋瑾研究資料』
済南・山東教育出版社1987.2
  郭長海、李亜彬編『秋瑾事跡研究』 長春・東北師範大学出版社1987. 12

 前者所収の「秋瑾年譜簡編」(郭延礼著)は、秋瑾来日に関する部分は、文献1984Aに拠っている。 ただし、7月2日の神戸着には触れない。また、6月28日の部分に注をほどこし、以下のようにいう。天津『大公報』の1904年7月22日付記事では、秋瑾が北京から日本に赴いたのは「五月初九(6月22日)」であるとしている、どちらが正しいかは検討を待つ、と。さらに、郭延礼は、秋瑾の東京到着を7月3日(五月二十日)とする。これには根拠をあげていないが、上記『大公報』の記事をもとにしているのだろう(以上は27頁)。私の訂正文・文献1985は、間に合わなかったらしい。
 後者の『秋瑾事跡研究』は、豊富な資料発掘と精密な考証で読者を圧倒する。
 郭長海、李亜彬両氏の秋瑾来日に関する部分を見てみよう。
 該書において関係部分は、ふたつある。「秋瑾事跡系年」と「秋瑾事跡考」に見られる「九 秋瑾両度赴日時間考」だ。
 まず、秋瑾、服部繁子らが北京を離れたのは6月22日(五月九日)だとする。独立号という誤った単語を使用している部分は、 郭延礼と同じく私の文献1984Aに拠ったからだろう。途中の寄港地と日にちを詳細に確定し、神戸到着は7月2日を受け入れる。秋瑾の東京着を7月3日にしているのも、郭延礼がよったのと同じ『大公報』の記事からだ(以上24〜27頁)。郭長海、李亜彬は、私の文章のなかでは、 中国語の文献1984Aしか見ていないらしい。
 郭長海、李亜彬の考証部分「秋瑾両度赴日時間考」を紹介し検討する。
 便宜上、秋瑾の来日を三つの部分に分ける。1.中国出発、2.日本上陸、3.東京到着である。
 1.中国出発
 郭長海、李亜彬は、『大公報』1904年7月22日(六月初十日)の記事に、秋瑾が「先月初九日、北京より出発、日本に遊学した」(図1)とあるところから、陰暦五月初九日(1904.6.22)に北京を出発したに間違いない、という。さらに、同じく『大公報』6月23日の記事の「北京大学堂教習、日本人服部氏の夫人は、昨日朝、北京より汽車で塘沽に至り、汽船に乗り換えて帰国する」(図2)という報道をさがしあてた。秋瑾らが北京を離れたのは6月22日に違いない、私のいう6月28日ではない、という。
 私も、すでに、6月28日は違っていたと訂正している。そのかわりに「6月23日(五月十日)天津・大沽からバベルスベルグ号で出発(「上船」と書いたのは、不正確であった)」と考えている。確かに、6月22日に秋瑾ら一行は、北京を離れた。それならば、私のいう6月23日は、間違いかというと、そうでもない。
 6月23日という日付が出てきたのは、『大阪朝日新聞』7月3日欄外記事の「同船帰客の語る所を聞くに天津を発したるは去二十三日未明なりしが」という証言があったからだ。もうひとつ、『大阪毎日新聞』7月3日付に服部繁子、秋瑾に同道した高橋勇の談話が掲載されている。それによると、

●北京大学堂近況 北京大学堂教習高橋勇氏は昨日入港のバベルスベルグ号にて北京より神戸に帰着し海岸西村に休息の上帰東せり。氏の談に……(後略。ルビ省略。以下同じ)
 ▲予が服部夫人及び清国女学生秋ホ卿直隷省農務顧問楠原正三氏等と共に大沽を発したるは六月廿三日にして……(後略)

とここでも「6月23日」である。
 つまり、北京を出発し港に着いたのが6月22日の午後1時ころ、遥か沖合に停泊している本船に乗りうつったのが夕方5時(日にちを除いた時間は、前出服部繁子の文章による)。その日のうちには出発せず、翌23日未明にようやく出港した、ということになる。
 2.日本上陸
 以前にも明らかにしたように7月2日神戸に到着している。郭長海、李亜彬は、これには異論をとなえていない。
 3.東京到着
 秋瑾の東京到着について、郭長海、李亜彬は7月3日説を主張する。
 その根拠とするものは、前出『大公報』7月22日付の記事である。天津に住む女友達にあてた秋瑾の手紙を紹介して、「二十日東京に到着し、すぐさま実践女学校に進み……」(図1)とある部分に注目した。陰暦「(五月)二十日」すなわち陽暦7月3日だという。私が7月4日としたのは、推断から得られたものである、とも郭長海、李亜彬は断定する。
 ふたりは、さらに考証する。簡単に郭長海、李亜彬の説明を紹介してみよう。
 神戸から東京まで、距離からしても二日間の時間は必要ではない。服部繁子が書いている「二昼夜」とは、連続した二日間という意味である。すなわち、7月2日が一日で、夕方、神戸で乗車し、7月3日がまた一日で、新橋駅に到着する。「二昼夜」というのは48時間である必要はない。
 傍証として、1905年春、宋教仁が東京から大阪まで旅行をしたことをあげる。宋教仁の場合、所要時間は、実際には20時間で、2月15日昼の12時から翌16日午前8時までだ。秋瑾が日本に到着した時より7ヵ月隔たっているが汽車の時間は、それほど変らないものだろう。
 もうひとつ、当時の資料によると、神戸から東京までは、汽車で17時間である。二日もかからない。
 以上を総合して、秋瑾が東京に着いた日時は『大公報』の記事が正しく樽本の結論には誤りがある、と郭長海、李亜彬は結論するのだ。
 スゴイ、の一言につきる。なるほど、私の述べたものは、推断である。服部繁子が証言する「二昼夜」が48時間である必要がないという箇所など、うなってしまう。当時の神戸・東京間の所要時間についても、よく調べられていて感心する。
 なんといっても、郭長海、李亜彬の切札は、『大公報』7月22日付記事の「二十日東京に到着し」という部分である。
 それでは、たずねたい。この『大公報』の記事は、全面的に信用できるのであろうか。記憶違い、書き間違い、誤植などの可能性はないのだろうか。
 服部繁子の述べる「二昼夜」は、繁子の書き間違いか。しかし、7月2日の夕方神戸を出発し、翌3日に新橋駅に着いたのならば、日本語の習慣としては「一昼夜」とするのが普通である。「二昼夜」とは、いわない。また、宋教仁が東京・大阪間を20時間で旅行したからといって、そのまま秋瑾の場合にあてはめることができる客観的な条件があるのだろうか。
 実のところ、『大公報』に見える「二十日東京に到着し」を裏付ける客観資料は、なにもない。だからこそ、傍証として宋教仁の記録、日本遊学指南から列車の所要時間をひっぱりだし、さらには日本語「二昼夜」についての珍解釈を披露することになったのだ。
 私の7月4日説が推断であるならば、郭長海、李亜彬の7月3日説も同様に推断である。

秋 瑾 着 京 再 考
 1904年7月2日、神戸に到着したのは、服部繁子、秋瑾一行だけではなかった。天津・大沽からのバベルスベルグ号と同じ日に、上海よりベングロー号が遅着している。

 『大阪毎日新聞』1904.7.3
 ●北清航路船の帰航 日本郵船会社上海航路雇船ベングロー号は定期より二日間後れて昨日午後神戸に寄港せり。同船の積荷は鶏卵、麩、苧其他雑貨等にて本日午前六時神戸出帆横浜に向ふ筈。又同社雇北清船バベルスベルグ号も昨日午後神戸に帰港せしが次航は六日午前十時神戸出帆門司、長崎および韓国諸港を経て大沽へ向ふ筈なり。

 上海を出港したベングロー号には、四川省からの留学生一行が乗船していた。

 『大阪毎日新聞』1904.7.3
 ●清留学生 清国四川省の留学生百三名は監督周凰翔氏と共に昨日ベングロー号にて上海より神戸に着し海岸田中方に休憩の上同夜七時十三分三宮発汽車にて東上したり。

 『大阪朝日新聞』1904.7.3
 ●清国四川留学生来る 清国四川省より派出の留学生一行百三名は監督周凰翔に率ゐられ二日午後汽船ベングローにて神戸に着し海岸の田中方に立寄り同七時十三分発車東上したり。

 留学生一行が、午後「七時十三分」三ノ宮発の列車で東京に向かったと報道されているのがわかる。
 服部繁子、秋瑾らも神戸上陸後、西村(旅館)で休憩し、同日夕方、陸路東上した。(図3)
 秋瑾らが乗車したのは、何分発の列車だったのだろうか。定期列車と臨時列車のふたつの可能性を探りたい。

 1.定期列車の場合
 『神戸新聞』(1904.7.3)の欄外にある「汽車時間表」(図4)を見てほしい。
 神戸発の上り列車は、午前に7本、午後に5本ある。そのうち新橋行きは、午前7時6分発が1本、午後7時6分が1本のみである。
 神戸、新橋間の列車が1日にわずか2往復とは、意外に感じられるだろう。本数が少ないのは、日露戦争の影響である。1904年(明治37)「2月14日 日露戦役軍事輸送のため戦時ダイヤ『普通』『特別』『凱旋』の3運行設定、『特別運行』開始により新橋・神戸間直通旅客列車2往復に削減。以後山陽・日本鉄道等も、出兵のつど『特別運行』運転、民間輸送を圧迫する」(大久保邦彦「国鉄時刻改正(運転運輸)等の変遷」『時刻表の歴史』復刻版『懐しの時刻表』別冊付録 株式会社中央社1972.4.1。30-31頁) 
 「汽車時間表」を見る限り、7月2日の午後で東京新橋行きの列車は1本しかない。四川省の留学生一行も秋瑾一行も、同じ列車に乗り合わせた可能性もある。
 では、四川省の留学生一行が新橋に到着したのは、はたして何日何時であったのか。

 『東京日日新聞』1904.7.4
 ○清国留学生入京 今回本邦留学を命ぜられたる一行百六名は本日午前六時新橋着列車にて入京する由。

 4日付の報道で「本日午前六時」というのだから、4日である。

 『東京電報』1904.7.5
 ○清国留学生の到着 今回本邦留学を命ぜられたる一行百九名は昨日午前六時新橋駅に到着せり。

 5日付の記事で「昨日午前六時」というのは、当然、4日のことを指す。
 7月2日、午後7時6分神戸を出発、午後7時13分に三ノ宮を発車した列車は、4日午前6時にようやく新橋に到着しているのだ。

 2.臨時列車の場合
 四川省の留学生一行が乗車したのは、臨時列車であるとする新聞記事がある。

 『大阪朝日新聞』1904.7.4
 ●四川留学生等 既記ベングロー号にて二日上海より着神せる四川留学生一行は総数百二十名にして中百十三人は早稲田大学生曹騰芳氏の嚮導を得、監督周梓庭と共に即夜十時三十分臨時列車にて東上し残七名は三日正午同船にて横浜に向へり(後略)

 この臨時列車は、前出記事の三ノ宮発7時13分におくれること約3時間である。
 出発が3時間おそくなった分、新橋到着もそれにあわせて遅くなる。

 『国民新聞』1904.7.5
 ◎清国留学生百九名四日午前九時十四分入京せり。

 以上のように、四川省の留学生一行が乗車した新橋行き列車には、二説ある。7月2日午後7時6分発のものと午後10時30発の臨時列車だ。現在、いずれかに特定できる資料をもっていない。
 しかし、見方をかえれば、2日の午後に乗車することができ、しかも新橋行きの列車は、わずかに2本しかないことがわかるのだ。秋瑾一行は、そのどちらかに乗車したに違いない。新聞の報道は、秋瑾一行の東京行きを、いずれも夕方とする。夕方というならば、午後10時半の臨時列車よりも、どちらかというと、7時6分の定期列車のほうが当てはまる。 神戸発の2本の列車が新橋駅に到着したのは、4日午前6時、あるいは同日午前9時14分だ。服部繁子の証言通り「二昼夜」かかっている。
 定期、臨時のいずれにしても、秋瑾一行の東京到着は7月4日であることにかわりはない。

戦 時 ダ イ ヤ
 『汽車汽船旅行案内第百拾八号』(1904年7月1日発兌。前出復刻版)に見える戦時ダイヤには、午後7時06分神戸発、翌日午後9時14分新橋着とある。各駅停車で所要時間は、約26時間である。しかし、時刻表の時刻は、あくまでも予定であることを知らなければならない。2日神戸発の列車が新橋に到着したのは、実際には、大きく遅延して7月4日の午前になったことは、上に見てきた通りである。

結 論
 秋瑾らが新橋駅に着いたのは、やはり、7月4日(五月二十一日)午前中である。
 郭長海、李亜彬にならうならば、『大公報』の記事は正しくなく、郭長海、李亜彬両氏の結論には誤りがある、というよりほかない。
(付記:大阪経済大学図書館、神戸市立中央図書館、京大人文科学研究所、国立国会図書館の資料を使わせてもらいました。感謝します)