研 究 結 石


樽 本 照 雄


●劉鉄雲と日本人(補遺)●

 劉徳隆氏より、『南園叢稿』第十五冊「泗陽張沌谷居士年譜」に劉鉄雲と日本人の名前が見えるが、お前の「劉鉄雲と日本人」(『清末小説』10号1987.12.1)には記載がない、詳細はわからないか、と関係部分のコピーをもらった。
 見れば、光緒25年(1899)の項に、淮安で劉鉄雲、羅振玉らが東文学堂を創設し、日本人・井原鶴太郎および川西定及を教員として招いた、とある。
 私の「劉鉄雲と日本人」には、劉鉄雲の交際範囲に名前のあがった日本人一覧表をつけておいた。これは、主として、劉鉄雲日記に見られる日本人名を集めたものだ。この一覧表に井原鶴太郎と川西定及の名がない、ということは、少なくとも現存する劉鉄雲の日記には登場していない人物ということになる。
 劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』(斉魯書社1982.8)の該当年にも、これに関する記述はない。
 劉徳隆、朱禧、劉徳平著『劉鶚小伝』(天津人民出版社1987.8)には、「劉鶚与学習外国」という項目が書かれている。北京の東文学社には触れるが、ここでも、淮安の東文学堂には言及がない。劉徳隆氏の新発見である。
 当時の日本人を調べるのに、私はまずつぎの三書を見ることにしている。
1.『対支回顧録』下巻
  東亜同文会編
  原書房1968.6.20影印
2.『続対支回顧録』下巻
  対支功労者伝記編纂会(代表 中島真雄)著
  大日本教化図書株式会社1941.12.20
3.『東亜先覚志士記伝』下巻
  黒龍会著
  原書房1966.6.20影印
 川西定及について以上の三種には、残念ながら項目が立てられていなかった。
 井原鶴太郎の紹介が『対支回顧録』下巻(771-773頁)に見られるので、関係部分を次に引用する。

 「井原鶴太郎君
 君は信濃の人。井原喜十郎の長男として明治元年四月五日長野県下伊那郡那智里村に生れ、明治二十二年、上京、西ケ原蚕業伝習所に入学し、同二十五年卒業。一時岐阜県に就職したが、幾何もなく長野県に帰り、県下各地に養蚕業及び繰糸機業を指導教授して貢献する所があつた。/日清戦役後、君は日支提携の急務なるを痛感し、三十年六月、薩摩丸に乗じて横浜を出帆、上海に到り、同地に於て日支共営の事業計画を立案中、偶々藤田豊八(剣峯と号す、文学博士)の仲介を以て、江蘇省淮安府の東文学堂教習に就任した。当時、支那は康有為の変法自強で改新の気運勃興してゐる時で流行的に各地に東文学堂が設立されて居つた。淮安東文学堂も其一つで、郷紳羅振玉等の設立に係るものであつた。君が就任するや、先づ城内の荒蕪地六反歩程を開墾して農蚕業改良の為め試験圃とし、桑苗を選び、之を科学的に成長せしめて佳良な桑葉を得、一面には優良蚕種を取寄せて、最も進歩した養蚕の実際を伝授した。淮安の官民、之が為に君を徳とするもの多く、江北の蚕業、全く面目一新せりといつたと伝へられるが、決して誇言ではなかつた。/又寺院を借りて東文学堂の講堂に充て、上流の子弟約三十名を集めて、之に我が小学校程度の教育を施した。成績は非常に善く、約一年の後には、皆日常の通話を自由に為し得る迄に至つた。軍歌体操等は、日本式其の侭を教へたので、生徒が『四百余州を挙る、十万余騎の敵』と元寇の軍歌を高唱して、邦人参観者を驚かしめたといふ珍談も残つて居る。兎も角、我国定教科書を其侭支那子弟に施したものであつた。/三十三年、義和団の乱起りてより、東文学習の流行も、変法自強と共に漸次人気を失墜し、加ふるに外人排斥の気勢は君の淮安滞留を許さざるに至つたので、同年夏、君は上海を経て帰朝した。」

 文中、淮安の東文学堂に井原を仲介したのは藤田豊八だとある。この藤田とあの羅振玉が親しい間柄であった。
 藤田豊八(1869-1929)徳島の人。京都三高、東大文科大学漢文科卒。早稲田大学、東洋大学に教鞭をとるかたわら東亜学院を設立し、『江湖文学』を創刊した。「清国淮安の主宰せる上海農学報館の聘に応じ、上海に赴いて、雑誌『回報』に執筆した。之れ君が支那に足跡を印したる第一歩であつて、後年の江南諸省及び両広地方に於ける活躍は一に羅振玉との聯絡に因るのである。(中略)三十一年、羅振玉と謀り、上海郊南高昌廟に於て郷紳経元善の経営せし女学校の跡を引受け東文学社を設立し、邦文に依て科学を支那学生に教授し、一時の盛を極め、同志田岡嶺雲を以て講師となち、その他農商務省練習生及び私費留学生等を収容して梁山泊を形成した。同時に日本の支那に関する新刊書を漢訳して公布したが、是れ実に清末に於ける新学勃興の先駆を為したもので、後年前清の遺老として天下に馳名したる王国維の如きも、亦当時東文学社の学生として在学した。」(同上書769頁)
 羅振玉とともに王国維の名前が見えるのが興味深い。
 1899年の淮安における、羅振玉らとの東文学堂設立、さらに、1901年の北京・東文学社(中島裁之が設立)への資金援助と、劉鉄雲の教育振興にかける情熱を感じることができる。
 そればかりではない。劉鉄雲も、日本語を学んだことがあったようだ。
 劉鉄雲壬寅日記の二月初七日(1902.3.16)に、「夜、日本語を読む、今日は、とてもむつかしく感じる(晩読東文,今日甚覚其難)」(劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』四川人民出版社1985.7。150頁)と書いてある。
 同年七月二十四日(1902.8.27)には、天津福住楼の妓女を評して、「そのうち歌えるものは三人、マサ、ユキ、キミである。マサがもっともうまく、次はユキ、キミが最下だ。最下でも北京の日本妓女より百倍もうまい(内能唱者三人,曰マサ、曰ユキ、曰キミ。マサ最佳,ユキ次,キミ最下。即最下者亦高出京師東妓百倍也」(187頁)
 劉鉄雲は、日記にカタカナを書ける程度の日本語を知っていたことがわかる。
 「老残遊記」第11回に、「エー・ビー・シー・デー・イーやア・イ・ウ・エ・オをならうと、すぐ家庭革命を言いはじめる(就学両句愛皮西提衣,或阿衣烏愛窩,便談家庭革命)」という表現がある。日本語を知っている劉鉄雲だからこそ「アイウエオ」と正確に書くことができるのだ。この部分を「盗用」した「文明小史」第59回の著者は、「アイ・イ・ウ・オ(挨衣烏窩)」としか書きあらわすことができなかった。馬脚があらわになったのである。


● 曾 孟 樸 の 写 真 ●

 『清末小説研究』第2号(1978.10.31)に、曾孟樸アルバムを掲載した。曾孟樸のご子息・虚白氏よりご提供いただいた貴重な写真である。この中の白馬にまたがる一枚は、はからずも、魏紹昌編『゙海花資料(増訂本)』(上海古籍出版社1982.7)に転載された。
 『清末小説研究』掲載の写真の中には、画面を白線で囲んだものが2枚ある。曾孟樸43歳(4頁)の時の写真と曾虚白と一緒に写っているもの(6頁)だ。後者には、曾孟樸の直筆で「民国十八年五十八歳」「この写真は良友図画報に掲載されたもの」などと書き込みがしてある。写真に見える白線は、雑誌掲載にあたってトリミングを指定したものであるらしい(曾虚白『曾虚白自伝』上集<台湾・聯経出版事業公司1988.3>にも掲載される。ただし、トリミングの白線は、消去してある)。
 説明に見える『良友図画報』をさがしていたが、最近、中国から影印本が出版された。雑誌名は、『良友(画報)』という。その第29期(1928.8.30) に上述の曾孟樸父子の写真があった。虚白の文章「我的父親」につけられた写真である。
 曾虚白「我的父親」の文末に「十七、七、二十、在真美善編輯所」とある。「真善美」とは、曾孟樸親子が、当時、経営していた書店だ。文字通り1928年の執筆であろう。『良友』の発行日1928年8月30日からしても数字は合う。となると、曾孟樸の直筆という「民国十八年五十八歳」が、おかしくなってくる。雑誌の掲載が1928(民国17)年だから、1年ずれるのだ。
 写真に添えられた曾孟樸の説明文は、見たところ、一度にまとめて書かれた模様だ。曾孟樸の記憶違いとうことだろうか。


●『清末民初小説目録』の欠点●

 清末小説研究会編『清末民初小説目録』(中国文芸研究会1988.3.1)を見られた中国の研究者からご意見をいただいた。

 1.翻訳と創作を分けていない
 2.長編と短編を分けていない
 3.年代も分けていない

 返事を書いた。しかし、考え直して投函はしなかった。問題は、個人の感想の範囲に留まるものではないと判断したからである。
 上に述べられた意見は、そのうち少なくともふたつは、従来からの中国における見解にもとづいて指摘されたように私には思われた。『清末民初小説目録』は、その考えを否定するところから出発しているといってもよい。

 ★翻訳と創作を分けない
 阿英は、分ける。「晩清小説目」がその例だ。一見便利なように見える。しかし、翻訳と創作のふたつともにページを操らなければならないことが多く、不便を感じていた。『清末民初小説目録』では、その不便を克服するために翻訳と創作を統合したのだ。その上で翻訳には*印をつけて区別できるようにしてある。
 中国で、翻訳は中国文学ではない、という研究者に会ったことがある。翻訳を無視するためには別々になっているほうが好都合かも知れない。だが、翻訳作品を除外しては当時の文学状況を理解できないのは、当然のことであろう。

 ★長編と短編を分けない
 かりに近代小説全集などのような大型企画を編集しようとするならば、区別する必要があるかもしれない。
 しかし、長編、短編はまだしも、それでは中編はどうするのだろうか。実際に作業を進めた場合、分類の煩雑さに比べてそれほどの研究効果があるとは想像しがたい。

 ★年代を分けない
 清末と民初を区別していないという意味であろう。
 「清末」は清末、「民国」は民国と別々にし、あたかも両者は対立するもののように、それぞれについての目録がある。前述の阿英「晩清小説目」であり、現在発行中の『民国時期総書目』である。
 しかし、当時の小説界に、「清末」と「民国(初期)」の名称があらわすような断絶があるわけではない。ここはどうしても、ひとまとまりのものとして考えなければならない。書名の上では、便宜的に辛亥革命を目安にし「清末」と「民初」の名称を使用した。だが、目録本体では両者の区別をしなかったのだ。そのため『清末民初小説目録』は、中国にもない特異な目録として出現することになった。この点が、中国の研究者に違和感を与えたのかもしれない。
 ある中国の研究者が欠点であると指摘された部分こそが、『清末民初小説目録』を編集する際に意を用いた箇所なのである。
 今までの目録とは違ったものになったとは思う。しかし、ここであわててつけ加えるのだが、実際の目録が完璧であるなどど考えているわけでは、決して、ない。記述の間違いと、採取モレはついてまわる。新しい叢書、復刻の発行もある。現在、増補訂正作業を継続していることをつけくわえておく。