清末民初作家の原稿料


樽 本 照 雄


 清末からを雑誌の時代というならば、新しい時代をささえたのが出版社である。出版社と、作品の書き手である作者のあいだに発生してきたのが、原稿料という経済問題であった。
 創作、翻訳にかかわらず、出版社の作家に対する原稿料の支払い方法には、次の三つが考えられる。1.買い取り方式、2.印税方式、3.買い取りと印税の両方を併用、である。

 ★原稿料
 1.買い取り方式
 千字につきいくら、と計算する。清末当時、上海における小説の値段は、当然ながらピンからキリまであった。
 包天笑の場合を見てみよう。
 1905年頃、包天笑が上海の『時報』に友人の陳景韓をたずねたおり、狄楚青が提示した条件は、論説6篇に小説を書いて月額80元の給料というものだった。論説が毎篇5元で30元、小説が千字につき2元で50元という計算らしい。包天笑自

『民吁日報』1909.10.25
『民吁日報』1909.10.26

身、この月給は安いということにはならない、といっているし、千字2元の原稿料は、修改を必要としない一流の小説に対して支払われるものだとも認めている。添削が必要な原稿には、千字1元、はなはだしきはわずか5角の報酬しかなかった。
 のち、包天笑の小説は千字3元に値上げされた。商務印書館が、教育雑誌に彼の小説を必要としていたからだ。特別待遇といえるだろう。包天笑が例として掲げているのは、「馨児就学記」「苦児流浪記」「埋石棄石記」の三種だ。ともに翻訳小説である。「馨児就学記」は、商務印書館の『教育雑誌』(1909.2.15-1910.2.4)に連載後、商務印書館から単行本になっている(1910)。「苦児流浪記」(マロ原作「家なき子」)も同じく『教育雑誌』(1912.7.10-1914.12.15)連載後、単行本化される(1915.3.19。説部叢書)。「埋石棄石記」も『教育雑誌』(1911.2.8-1912.3.10)連載、のち出版(1912)。出版社が異なれば、原稿料もちがってくる。『時報』(有正書局)、小説林には、千字2元で計算していたともいう。
 特別優遇されていた包天笑だが、いつまでも千字3元というわけではなかった。彼はみずから、商務印書館の張元済に原稿料の値上げを要求して4元が認められている。ただし、翻訳を速くやるようにとの条件つきだ。
 清末から民初にかけて翻訳小説の原稿料は、だいたい千字2元というのが標準だった。商務印書館では、最高3元、次は2.5元、2元のランク分けになっていたことが張元済の日記に見える(1913.3.31)。
 商務印書館から独立した中華書局の陸費逵は、中国では、普通、原稿料は千字につき2元から4元で、5、6元のものは少ない。小さい書店では千字5角から1元である、と書いている。
 向яR(筆名:平江不肖生)の『留東外史』(上海民権出版部1916)は、最初、どの書店も欲しがらず、千字5角で売ったというから、原稿料としては最低ランクだ。それがベストセラーになったのだから、書店にしてみれば笑いがとまらなかっただろう。
 千字2、3角で仕入れた翻訳原稿を千字2元で商務印書館の夏瑞芳に売りつける人間もでてくる。原稿ブローカーの出現である。
 高額原稿料で有名なのは、なんといっても林゚だ。千字につき6元、当時では最高であった。それでも不満は出てくる。林゚は商務印書館の高夢旦に手紙を書き、翻訳料のもととなる原稿の字数計算が正確ではない、少なく計算しているので補償してほしい、とうったえたらしい。当時、商務印書館にいた謝菊曽は、林訳小説全部をページごとに字数計算をするよう命じられた。涵芬楼で調査すると、4、5字の行は行数に入れなかったり、注をほどこした部分も計算していないことが判明する。数えもれの字数は十万余字にのぼった。その結果、 600元あまりの原稿料を追加支払いしたという。高名な林゚の場合でもずさんなことが行なわれていたとなると、その他の作家の場合はどういう扱われ方をされたのか知れたものではない。
 林゚の千字6元というのは、金額だけを見ればいかにも高額な翻訳料である。しかし、林゚の場合、共訳者がいた。分配をどういう割合で行なっていたのか書いた資料を知らないが、林゚の取り分が3、4元とすれば、包天笑なみということになる。高額で有名なわりには、実質はたいしたことはない。
 文芸関係ではないが、字数計算による買い取りのほかに、朱樹蒸『英文成語辞典』などは、まるごと1冊 450元で買い取り、出版後製品を20部を送る、というような方法もあった。
 また、請け負い方式がある。たとえば、日本の英和双解熟語大辞彙を月 150元の給料で約半年で翻訳せよ、とか、張士一に英文読本5冊を 500元で6ヵ月のうちに編集するよう依頼するとか、郁少華に英華新辞典を 750元、1年間で編集してもらうとか、あるいはWHITE SIDEに英文の校訂を 400元でたのむとかいうものだ。いずれも1912、1913年頃の商務印書館の仕事である。
 『新青年』(1915年創刊。最初は『青年雑誌』)の原稿は無報酬というのは極端かも知れないが、『晨報副刊』(1919年から)は、1字1、2厘(千字になおせば1、2元か)という周作人の文章を見ると、清末民初を通じて、ほぼ同じ標準であったのかとも思う。1918年当時、胡適の原稿料が千字6元だった。民初という時期をズレるかもしれないがついでにいうと、梁啓超の七光で息子の思成の翻訳原稿が千字4元プラス梁啓超の添削費が千字2元(1921年)、梁啓超自身の原稿となると『大乗起信論考証』(1922)が、千字20元であった。破格といえる。原稿買い取りで最高価格は、上海現代書局出版の郭沫若著『創造十年』で、千字15元、と張静廬はいうが、梁啓超の20元にくらべると色あせてみえる。
 梁啓超の20元を見てしまうと、魯迅『二心集』(1932)が千字6元、瞿秋白の翻訳原稿が千字3元というのは、いかにも安く感じる。
 たとえば、1931年1月10日、王雲五が公布した「科学管理方法」に原稿料規定がある。著作、翻訳ともに同じ料金で、千字につき
  一級 6元  二級 5元 三級 4元  四級 3.5元 五級 3元 六級 2.5元  七級 2.25元 八級 2元
と細かく定められたという。
 この規定に照せば、魯迅の千字6元というのは、それほど悪くないように見えるが、1913年当時の最高3元にくらべると、約20年間にわずか2倍にしかなっていないし、10年前の梁啓超が20元というのと、どうしても比較してみたくなる。しかし、魯迅の場合は印税方式でもあったらしい。

 2.印税方式
 良友公司は、文芸書についてはすべて印税方式で15%、春秋決算、魯迅に関していうと、ほかの書店の慣例にしたがい20%だ、と趙家璧は書いている。陸費逵は、印税は10%だが、林語堂、周越然、魯迅などは特別だという。ここの特別とは、10%の印税でも印刷数が多いという意味だろう。張静廬が注しておおよそ次のようにいっている。新書業印税規定では、一般に15%である。胡適は、自分で初版15%、再版20%ときめていた。学校教科書でもっともはやく印税にしたのは、商務印書館発行アメリカ人著の実習英語教科書などで、定価の7掛けに15%であった。中国人編著のものでもっともはやいのは商務印書館出版の模範英文読本、編者は周越然、のちに林語堂が開明書店のために編集した開明英文読本で印税は10%だった。教科書ならば大量販売が期待できる。それに肩をならべるのが魯迅の著作ということか。

 3.買い取りと印税の両方
 ものごとには、例外というものがある。
 アダム・スミス著、厳復訳『原富』(1902)15万字に南洋公学は2000元を支払い、そのうえ印税20%をあたえた(汪家熔による)。15万字2000元は、千字になおすと13.3元となる。また、『社会通詮』(1904)に、商務印書館は40%の印税を支払った。上にはうえがあるものだ。こういうのは、やはり例外だろう。

 ★給料
 さきに包天笑の月給80元というのを見た。1912年の『張元済日記』に記載された商務印書館職員の給料をざっとながめると、 凌文之60元、王雷夏50,60元、譚廉遜(『地理歴史詳解』を編集したことあり。現在、民立で月給45元)40元で商務印書館へ移ってもよい、赤萌、如仲鈞のふたりに各20元、張子貞、周衡甫、李心蓮にはそれぞれ24元、楊仲達 160元、諸真長80元などとなる。平均すると月給は、約60元だ。
 1909年、上海居住の3世帯の家計が公表されているから、参考までに紹介しよう。
 『民吁日報』1909年10月25-27日に連載されたものである。
 例1:ある店員
 夫婦ふたりのみで、ほかに係累なし。収入が15元。1.33元の赤字を記録している。生計費の中に占める飲食費の割合をいうエンゲル係数は、約45だ。生活は、きわめてきびしい。
 例2:ある教員
 夫婦ふたり、親ひとり、こどもふたりに下僕ひとり。収入は40元。赤字14.74元。エンゲル係数は、約29。こどもの学費、新聞紙代、書籍費が計上されている点が、教員らしい。毎月14元の赤字を出していたら、年に 200元近くになってしまう。これも苦しい生活といえよう。
 例3:ある役人
 親ひとり、アヘンを吸い、妻ひとり、妾ひとり、下僕3人、コック、車夫各ひとり。収入は、 140元。それでも赤字が104.17元もでている。副食費が15元と多いのは、肉食をしているからなのだそうだ。西洋料理を外食するらしく14元が計上されている。これを含めてエンゲル係数は、約20。男性の下僕に給金が11元、女性の下僕には4元、ただし、女性の下僕はふたりだから、ひとりの給金は2元となる。
 少ないのから多いのまで、すべて赤字

『民吁日報』1909.10.27

をだしているのが目をひく。以上の3例を平均すると、やや乱暴ながら、上海の一家庭あたりの月給は、65元という数字が得られる。資料が不足しているのでこうしか言うことができない。民初における商務印書館の給料平均が約60元だった。それをあわせ見れば、60-65元が、上海の平均月給として納得のいく金額ではなかろうか。しかも、赤字をともなう月給である。
 清末上海の標準的月給を約60元としよう。60元あれば、親子4人家族がカツカツ生活できると考える。その60元を原稿料だけで稼ぎ出すことができるだろうか。連夢青の場合を見てみよう。

 ★連夢青の月収を試算する
 連夢青は、人の紹介で『繍像小説』雑誌に原稿を売ったが、千字につき5元の報酬だったという。それが事実だとすると、商務印書館にしては、破格の原稿料ということになる。標準が2元の時代に、連夢青にかぎりなぜ5元なのか説明した資料はない。
 連夢青が『繍像小説』に連載していた作品は、「鄰女語」と「戈布登軼事」の2作品だ。『繍像小説』は、半月刊だから各作品2回分で計算すれば、1ヵ月の執筆収入がわかる。
 「鄰女語」第1回が約4250字、第2回約4350字、「戈布登軼事」は、各回約1850字、合計約12300字。千字につき5元だから、約61.5元となる。
 連夢青は、繁華報に籍をおいていた。繁華報館から月給をもらっていたのか、それとも原稿料での契約であったのかはわからない。しかし、かりに『繍像小説』の原稿料約60元だけだとすれば、たしかに生活は窮屈だったのではないかと想像できる。劉鉄雲がみかねて「老残遊記」を書き、連夢青の生活を援助しようとしたという説明も納得できるのである。


【参考資料】
陸費逵「六十年来中国之出版業與印刷業」『申報月刊』創刊号1932.7.15/張静廬輯註『中国出版史料補編』北京・中華書局1957.5所収。注部分は、張静廬。
周作人「関於魯迅」『宇宙風』29期1936.11.16。『瓜豆集』所収。宇宙風社1937/香港影印225頁。
蒋維喬「創辧初期之商務印書館與中華書局」『人文』復刊1巻1期に「民元前後見聞録」として掲載。初出未見。張静廬輯注『中国現代出版史料』丁編(下冊)北京・中華書局1959.11。香港影印395頁。
劉大紳「関於老残遊記」『老残遊記資料』上海・中華書局1962.4。日本影印57頁。
包天笑『釧影楼回憶録』香港・大華出版社1971.6
謝菊曽「林゚稿費的找補」「涵芬楼往事」『随筆』6集1980.2。81-82頁。
呉泰昌『藝文軼話』安徽人民出版社1981.5。71-72頁
『張元済日記』上冊 北京・商務印書館1981.9。2-4、6、9-11、13、14頁。
趙家璧『編輯生涯憶魯迅』北京・人民文学出版社1981.9。10頁
鄭逸梅「林゚訳《茶花女遺事》及其他」『書報話旧』上海・学林出版社1983.3。32頁。
張文達「「゙海花」作者曾孟樸外伝」香港『時報』1983.5.7。
汪家熔『大変動時代的建設者』四川人民出版社1985.4。33、74頁。
林煕「從《張元済日記》談商務印書館(一)」『出版史料』5輯1986.6。40-41頁。