劉鉄雲日記中の日本人


阿 部   聡


 劉鉄雲と日本人の交遊関係をテーマにした最初の論文は、樽本照雄氏の「劉鉄雲とその友人たち――内藤湖南の中国旅行記を手掛かりとして」(『野草』17号1975年6月1日。のち『清末小説閑談』法律文化社1983年9月20日所収)であった。内藤湖南、牧放浪、近衛篤麿と劉鉄雲の交遊が詳細に調べられている。劉鉄雲日記の全貌が明らかでなかった時によくぞあそこまで、と思わせる力作である。その後、同氏は、「劉鉄雲と中根斎」(『中国文芸研究会会報』34号1982年5月15日)を発表している。
 劉鉄雲と日本人の交遊関係がテーマというわけではないが、蒋逸雪氏「劉鉄雲年譜」、魏紹昌氏『老残遊記資料』(中華書局1962年所収。のち采華書林1972年影印)や、劉闡キ氏『鉄雲先生年譜長編』(斉魯書社1982年8月)の処々に劉鉄雲と日本人の関係が触れられている。沢本香子氏「劉鉄雲辛丑日記を再構成する」(『清末小説』9号1986年12月1日)は、前出の『鉄雲先生年譜長編』の辛丑日記記事を日付順に再構成したもので、人名に簡単な説明がつけられている。
 樽本氏が、劉鉄雲と日本人の関係について、5年間の沈黙を破って発表したのが、そのものズバリ「劉鉄雲と日本人」(『清末小説』10号1987年12月1日)である。この中で氏は、西村時彦、牧放浪、小田切万寿之助、西村博、中島裁之、近衛篤麿、森井国雄、郡島忠次郎、中根斎、内藤湖南、鄭永昌、丹波雪子、榎目夷真、御幡雅文と劉鉄雲との交際関係を明らかにするとともに、実際に交際があったと思われる日本人64名の一覧表を発表した。この一覧表はなかなかありがたいものである。これまでの研究がどこまでされているかが一目でわかるからだ。姓名の名の方が空欄だったり、職業が空欄だったりする人物はチェックである。(1)
 そして最近、樽本氏は「研究結石」として「劉鉄雲と日本人(補遺)」(『清末小説から』14号1989年7月1日)を発表された。井原鶴太郎についての調査結果である。その他に藤田豊八なる人物についても調査しておられる。劉鉄雲とどこかできっとつながっていると言わんばかりの書き方だ、チェック。川西定及という人物は不明か、フムフム。と言うわけで、現在、劉鉄雲と交際関係にあった人物は、66、67名ということになるだろう。
 以上、劉鉄雲と日本人の交際関係を扱った論文、書籍を紹介してきたのは、暇つぶしのためではない。私も仲間に入れてほしいからだ(ハッキリ言っちゃう)。勿論手ぶらではない、と言っても鳴り物入りでは決してない。極々わずかではあるが、 先の樽本氏の作成された一覧表(前出『清末小説』10号28-29頁)の22番目の人物「松浦(甫)」と51番目の人物「井戸川」について述べさせていただきたい。
 なお、引用文中における括弧は、筆者の注である。

1.松浦与三郎
 「松浦」あるいは「松甫」の名がみえるのは、壬寅日記三月初四日(1902年4月11日)、 同四月十七日 (同年5月24日)、同七月二十五日(同年8月28日)である。
 三月初四日は来訪者の一人として、四月十七日は、劉鉄雲が北京から上海に向った日で、その見送りに来た友人の一人として名があがっている。そして七月二十五日には次のように書かれている。

 (前略) 飯後至報館,与松浦議醤園事,定以四百元入本,二百元浮借。(2)

 この「松浦」という人物は『続対支回顧録』(3)によれば、「松浦与三郎」という人らしい。1864年に宮崎県で生まれ、1879年に鹿児島県師範学校に入学。1882年上京し、警視庁巡査となったが、翌年辞職。その後、製糖業や材木業などを手がけたがいずれも失敗し、1900年に同郷人井戸川辰三の勧めで中国に渡った。劉鉄雲の名も見えるので、その部分を引用する。

同年(1900年)冬彼の義和団事件に乗じて荒井、森脇等と共に北京に乗込み、呉汝綸、劉鉄雲の援助を得て占領米の払下げ、長蘆塩の販売に従事し、兼て天津に於て醤油醸造を開始したが、其秋君は母の喪で帰郷中に塩五千俵の没収に遭ひ、それが為めに資本の缺陥を生じて是れも亦た廃業するに至つたのであつた。(下巻455頁)

 劉鉄雲の日記と『続対支回顧録』をまとめると、1900年冬に松浦は、救済活動を行っていた劉鉄雲と知り合い、占領米の払下げや販売に一役買い、1902年春に松浦と劉鉄雲は醤油醸造業を始めたが、その秋には失敗してしまった、ということになろう。
 この松浦与三郎という人物、登場回数こそ少ないものの、1908年の劉鉄雲逮捕・流刑の原因が占領米払下げにあるとしたら、因縁浅からぬものがある。また、「荒井」「森脇」という人物も、松浦とともに北京に乗り込んだのみならず、占領米払下げに関係していたとすれば、劉鉄雲と日本人との交遊名簿にその名を入れておく必要があるだろう。

2.井戸川辰三
 乙巳日記九月十五日(1905年10月13日)には次のように書かれている。

歇一日。午後至軍政署送信。井戸川不在,見太田憲兵大尉,取護照一紙。雇車三輛,毎輛十二元三毛。(4)

これより2ヵ月ほど前に、劉鉄雲は鄭永昌と「海北塩公司」を設立した。上記の九月十五日もその「海北塩公司」に関する用事で、劉鉄雲は北京から瀋陽に向かう途中の、新民屯にいた。
 ここに出てくる日本人は二人、「井戸川」と「太田憲兵大尉」である。後者は未調査だが、前者は『続対支回顧録』(5)から、「井戸川辰三」という軍人であることがわかる。『続対支回顧録』の編者中島真雄は、井戸川自身から聞いた話として、次のように記述している。

其頃奉天(現瀋陽市)と新民屯との間にはまだ鉄道がなく軍事上甚だ不便であつた(中略)。それから今一つ問題を起したのは輸送券の発行で、これは糧餉を第一線に送るのに支那馬車なぞでやると、いつも途中の軍隊に横取りされ向ふへ届いた例がなかつた、そこで一策を按じ『これは第一線に行くのだ』といふ証明書のやうな切符を作つて渡すやうにしてからは途中も無事に通過が出来るやうになつた。此事を聞き伝へた一般の支那馬車からも此切符の交付を希望するものが続出するに至つたので、二銭か三銭の手数料を徴つてこれを交付する事にした(以下略)。(下巻450頁)

つまり、九月十五日の劉鉄雲の行動は、新民屯軍政署軍政官井戸川辰三の所に出向き、彼に手紙を送り届け(情報を知らせ?)ようとしたが彼は不在だったので、太田憲兵大尉に届け、同時に瀋陽までの輸送券(原文「護照」)をもらい、馬車をチャーターした、というものだった。
 友達の友達は皆友達だ、というわけで、劉鉄雲、松浦、井戸川は一つの友達の輪を形成しているのである。
 なお、井戸川辰三の略歴を付記しておく。
 1869年生れ、宮崎県出身。1885年陸軍士官学校の幼年生徒となり、1891年には歩兵少尉となる。1895年日清戦争で初めて中国大陸の土を踏み、1897年には四川駐在武官になる。1904年2月北京駐在武官となり、特務の組織にあたる。同年、日露戦争下で満州軍総司令部付となり、1905年3月奉天占領とともに新民屯軍政官となり、1906年12月まで新民屯に駐在していた。後に中将まで昇進した。

 以上、「松浦(甫)」「井戸川」について述べた。本稿で名前のあがった「荒井」「森脇」については、一覧表25番目「山本」53番目「田鍋」54番目「大原」64番目「船津」らとともに、次の機会に述べてみたい。



1)樽本氏の一覧表(『清末小説』10号28-29頁) に若干の遺漏があるので指摘しておく。 頁数は特に指定がないものは『劉鶚及老残遊記資料』(四川人民出版社1985年7月)による。
・一覧表(以下略)12番目「斎藤」は、『鉄雲先生年譜長編』 118頁(16)に「斎藤俊」とある。ただし、日記には「俊」の文字は見えない。
・22番目「松甫(浦)」は、 156頁(壬寅三月初四日)にも名前がある。
・23番目「小田」は 172頁(壬寅五月二十一日)にも名前がある。
・「小栗」 の名前がない。 218頁(乙巳二月十二日)、 220頁(同二月十六日、同十八日)に出てくる。
・「円山(原文――圓山)」の名前がない。244頁(乙巳六月十三日)に出てくる。
2)『劉鶚及老残遊記資料』(注1参照)187頁。
3)対支功労者伝記編纂会(代表中島真雄)編『続対支回顧録』大日本教科図書株式会社1941年12月20日。上・下巻2冊に分かれている。「松浦与三郎」は下巻454-455頁。
4)注1と同じ。265頁。
5)「井戸川辰三」『続対支回顧録』(注3参照)下巻445-453頁。