清末小説から


★『中国現代文学期刊目録彙編』
 上記の書物が天津人民出版社から出版された(1988.9。 260元)。
 『新青年』から『華北文芸』まで、合計 280種類(内、付録4種)の雑誌の総目録である。発行順にならべられ、1915年から1948年12月までとなる。総目録、作者索引、館藏索引、期刊基本情況一覧表あわせて3701ページ、なにしろ厚い。上下冊を重ねると15p、枕には高すぎる。各雑誌の簡単な説明もあり、索引とともにまことに便利な工具書といえるだろう。
 私が、31,200円 プラス消費税936円也を出費して購入したのは、目的があったからだ。『清末民初小説目録』の補充に使えるだろうと予想したのだ。
 『清末民初小説目録』は1918年までを収録範囲に設定している。『中国現代文学期刊目録彙編』が1915年から採録を開始していると広告で見た時から、これは好都合だと楽しみにしていた。
 書物がとどいて驚いた。厚い。私の細腕では片手でもちあがらない。本文の最初に出てくるのが『新青年』1915年9月15日発行、さて次が『毎周評論』1918年12月22日発行、ん?それだけ?つづくは『新潮』1919年1月1日発行となる。
 『小説海』(1915年)、『小説大観』(1915年)、『小説倶楽部』(1918年)、『小説季報』(1918年)などは収録されていないのだ。あきれて、2度、おどろいた。これなら『中国近代期刊篇目彙録』第3巻下(上海人民出版社1984.3)で十分だった。
 『中国現代文学期刊目録彙編』の前言によると、「現代文学」史上、影響のあって代表的でしかも資料価値のある刊行物を選んで収録した、と説明する。「代表的で資料価値のある」とは、誰が決めるのか。いいかげんに研究者を信頼したらどうだろう、といいたくなる。真に役立つ『中国近代期刊篇目彙録』の編集に学んでほしいものだ。


陳 平原○説《九尾亀》 『読書』1989年2期 1989.2.10
○『二十世紀中國小説理論資料』(1897-1916)第1巻 北京大学出版社1989.3 夏曉虹と共編
方  銘○応有同情的了解――関於張恨水小説的対話 『読書』1989年2期 1989.2.10
林  薇○<選注>『林゚選集』(文詩詞巻)四川人民出版社1988.7
○論林゚対近代小説理論的貢献 『中国社会科学』1987年6期 (総48期)1987.11.10
岡崎由紀○中国のシャーロック・ホームズ――『霍桑探案集』と程小青 『燎原』33号 1989.4
欧陽健、蕭相п宦s晩清小説目》補編 『文献』1989年2期(総40期)
1989.4.13
湯 志鈞○清末民初上海的報刊(二) 『出版史料』1988年3,4合期(総13,14期)1988.9
○清末民初上海的報刊(三) 『出版史料』1989年1期(総15)1989.3
汪 家熔○記《華英初階》注訳者謝洪賚先生 『出版史料』1988年3,4合期(総13,14期)1988.9
王先霈、周偉民○『明清小説理論批評史』広州・花城出版社1988.10
第11章 晩清小説理論之一
第12章 晩清小説理論之二
第13章 政治家的小説理論――梁啓超
第14章西方文芸思想的引進与小説理論的発展――林゚和王国維
姚 蔭梅○<改編>『啼笑因縁』上下冊 上海文芸出版社1988.6
袁健、鄭栄○<編著>『晩清小説研究概説』天津教育出版社1989.7
章 明寿○古代第一人称小説向現代発展的橋梁――《断鴻零雁記》 『文学評論』1989年1期1989.1.15
鄭 炎貴○張恨水的歴史地位与成就――張恨水学術研討会上的討論 『文学評論』1989年1期1989.1.15
樽本照雄○「老残遊記」の評について 『野草』44号1989.8.1


『明清小説研究』1989年第1期 1989.1.30

陸士諤的奇想之一:三国的改革――《新三国》析評………欧陽 健
<附>《新三国》(選載)……陸士諤著
……唐継評点
評呉熕l的《新石頭記》………王偉康、呉  平
《海上魂》《海外扶余》的作者与成書年代……………………王 立興
以上、清末小説を中心にして


★劉鉄雲死去の新聞報道
 下に掲げたのは、劉鉄雲の死去を報じる新聞記事である。掲載紙は『民吁日報』己酉九月十七日(1909.10.30)。「劉鉄雲がウルムチで死去したと伝え聞く」というわずか一行の報道だ。
 『民吁日報』は、于右任が『民呼日報』の停刊を命ぜられたあと、談善吾をまねいて上海で創刊した新聞だ。清朝政府と日本を攻撃したため、わずか50日前後で発行停止になる。
 1909年10月26日、伊藤博文がハルピン駅で安重根に射殺された。劉鉄雲の記事をはさむかたちで「伊藤」についての文章があるが、この伊藤博文のことだ。
 劉鉄雲がウルムチで死亡したのは、同年七月初八日(8.23)というから、ほぼ2ヵ月後のニュースということになる。
 伊藤博文関係の記事にまざって、なぜ一行だけ劉鉄雲の報道かよくわからないが、同時代の資料としてめずらしいので紹介しておく。

『民吁日報』1909.10.30