連 夢 青 の 災 難


樽 本 照 雄


 1903年、上海のことである。『国民日日報』癸卯年八月念七日(1903.10.17)の「雑記」欄に「上海国民之風潮」という記事が掲載された。地名の上海と一般名詞の国民は、結びつかない。ここでいう「国民」は、固有名詞だ。ただし、掲載誌『国民日日報』そのものではなく、「国民叢書社」の「国民」である。つまり、翻訳すれば「上海・国民叢書社の騒動」ということになる。
 報道によれば、およそ次のような事件である。

 ●事件の概要
 湖北の人・王公侠(名を慕陶という)は、上海英租界新馬路餘慶里十九号で国民叢書社を開設していた。ひろく新書を翻訳し、有志の評判を得ている。最近、王社長は、同郷の張香全を入社させここに住み込ませた。この張香全は、アヘンばかりか女色を好み、大いに同社の秩序を撹乱する。同社の諸君は、これを憎んだが、同郷の王社長のうしろだてがあるため、張ははばかるところがない。八月十八日夜、張はひそかに女性を該社にひきいれ枕を交わした。翌朝、ことがバレて大騒ぎ。皆は、某が街娼をひきいれたと社長の王氏をなじった。(社員一同が集まって、口角アワをとばして議論しているのが目にうつるようだ。大騒ぎしているところに出くわした人間が、いた。たまたま新聞関係者だったらどうなるか。結果は想像のとおり、騒ぎがひとまわり大きくなる。)
 連夢青という人、その事を知り、世界繁華報館の記者に話した。(連夢青の登場である。世界繁華報館が出ているのにも注目されたい。)記者は、いそいで新聞に掲載したが、張香全ひとりの行為と同社社員とを混同してしまった。(伝聞を急遽記事にしたため、事実と異なってしまったのだ。『世界繁華報』は、小新聞といわれているが、たしかに国民叢書社の、いってみればゴシップには違いない。記事にされた方は、怒る。)
 王社長は、名誉を傷つけられたと、ある広東人に相談をもちかけた。この広東人、英国籍で名前を盧和生という。(問題の盧和正なのだが、なぜ英国籍なのか、といった説明はない。)盧は、外国租界の警察署の有力者と自称しているフランスの無頼漢とともに、王社長の友人・劉の案内で、二十五日正午、繁華報館に乗り込んだ。着くやいなや、大声でどなりちらす。ちょうど、連夢青も繁華報館に居あわせていた。劉は、フランスの無頼漢を指し、「こいつはオレが香港で知りあった親友だ。警察に行ってもらおうじゃねぇか」と連夢青を脅迫する。(『世界繁華報』に事件をもらしたのは連夢青だとわかっていたらしい。)にらみあったところに、鍾という人物がやってきた。例のフランス人は、鍾を見て顔色を変える。その日、フランス人は、鍾に銭をせびり、おまけに、かつて水夫をやっていて酒に酔ってクビになったと自ら話していたからだ。鍾は、英語で例のフランス人に「よけいなことをするんじゃない」と叱った。(外国租界の警察署の有力者というのが笑わせる。ヘマなフランス人だ。)チャンスが失われたと見た盧和生は、まず、逃げる。王社長は、泥城橋のあたりで待っていたが、あとで劉がしばらくごまかしを言って、フランス人をさがしに一緒に行ってしまった。(つまり、王社長、盧和生のたくらみは失敗したということだ。ところが事は、このままで終わらない。)
 昨日午後三時、盧和生は、路上で連夢青に出会うとひとこともいわずつかみかかり、洋傘で連の背中をなぐりつけた。警官が来たときには、某書局の玄関先の取っ組みあいから書局にはいりこんでまくしたてている。盧和生が王社長のために私怨をはらそうとし、連夢青の名誉を損なおうとしていると知れた。盧和生は、広東語をあやつっていて聞いてもなんのことやら分からない。どうやら連によって華安里に住む某女史のことが侮辱され、連がデマをとばしているといったことのようだ。連夢青は、何を言われているのかわからず目を見開いたまま、しばらく怒りで言葉につまっている。盧和生は、書局の某君によって追い出された。のち、某女史のことをさぐってみると、盧和生が故意にデマを捏造して復讐をしようとしているのがわかった。盧和生は、某女史に、連某がデマをとばしているのだから必ずや連にけんかを売らなくてはならないという。某女史は、その理由がわからず、連某のデマを誰が聞いたのかと詰問すると、盧は答えることができない。女史は、証拠がなく、またあなた自らが聞いたわけでもないのだから、私は(女史のことです)連にケンカを売ることができないばかりか、このような無根の話などできません、ゆえなく人の名誉をきずつけるのはおだやかではない、といった。(堂々と退けるところがすごい。ただ、某女史と連夢青、盧和生の人間関係が、わからない。盧との会話が記録されているところからすると、盧と某女史が親しいのか。)連夢青は、某書局においてこの事を話し合うと、繁華報館は文書でつぎのようにいう。弁護士・候魯公(ものの本では、本名を C.R.Holcombという外国人)が該館の弁護をする、該館に連の侮辱された経過をのべるよう書信で通知してきている、と。連夢青は、該館にゆくと、殴られたことには証拠があること、あいまいにすることはできないこと、本当の外国人であろうとニセものであろうと抗議しないわけにはいかない、とのべた云々。
 以上が事件の概要である。
 表題「上海・国民叢書社の騒動」からいえば、たしかに「騒動」なのだが、奇妙な記事、事件である。なぜかといって、騒動の元凶は、張香全なのだ。国民叢書社の社長・王慕陶の同郷で、女性を同社に引っぱりこんだ張本人である。その張香全は、いつのまにやら姿を消してしまっている。助っ人であるはずの英国籍の広東人・盧和生と、これまた第三者である連夢青の争いになっているのだ。
 社員の不祥事から、第三者どうしのあらそいに発展し、出版社と新聞社の対立にまでふくれあがった。奇妙な、と書いたが、大騒動の原因は、えてしてそんなものかもしれない。
 この新聞記事では、悪役は盧和生、被害者は連夢青、謎の某女史という構図で事件が記述されていることに注意しておく。

 ●事件の余波
 『国民日日報』には、続報がある。翌日の八月念八日(1903.10.18)に、この事件に関連する三本の文章が掲載された。
 その1 「女性を中傷する大ウジ虫を 討て」福建林宗素 「演壇」欄
 冒頭を訳してみる。「ああウジ虫め、ああウジ虫よ。今、女性にようやく一筋の光明があるかと思えば、忽然とウジ虫が出現し、女性の前途を邪魔する。このようなウジ虫は、殺さずして何としよう、殺さずして何としようか」、という調子でエンエンと続くのだ。ウジ虫とは、「口にするだに忌まわしい」、広東人にして英国籍に入った盧和生なのである。林宗素女史は、1.外国籍でその祖先の同胞を侮辱したこと、2.ゆえなくデマをとばし女性の名誉を中傷したこと、3.自分でデマをでっちあげておきながら他人のせいにしたこと、4.侮辱したとして人を殴ったこと、と盧和生の罪を数えあげている。
 林宗素の文章は、具体的な情況をのべない。デマというが、どういうデマなのか、これまた不明である。事件については、前日の『国民日日報』の報道をなぞっているだけだ。ただ、新聞報道の「某女史」とは、この林宗素のことだったのかと推測がつく。
 その2 「盧和生の罪状と上海の保安 条令」 無署名 「短批評」欄
 英国籍の盧和生がフランスの無頼漢と知り合い、恐喝をおこない、白昼、わが同胞を殴りつけた。上海という文明の地で、このようなもののけが白昼に人を殴るなどということを許しては、上海の治安は保ちがたい………。
 と上海の治安の面から、盧和生の罪状を糾弾する。盧たちを手引きしたのは、前の報道では「王社長の友人・劉」とだけあったが、それが「劉禹生」であること、もうひとり「王侃叔」という人物もいたことが明らかにされている。
 その3 盧和生からの手紙 「雑記」 欄
 国民日日報主人にあてた盧和生の手紙である。日付は、ちょうど盧が連夢青を殴った日(八月二十六日<10.16>)となっている。原文は英文だそうで、中国語に翻訳したものが掲げられる。
 内容は、某の名誉をきずつけた連夢青を深く恨み、やむをえず、本日午後、彼に罪を認めるよう命じたが、貴報館がバックにあるのをたのんで罪を認めようとしなかった、この件に干渉するな、というものである。
 この手紙につけられた新聞社の解説によると、盧和生は、連夢青の華安里に住んでいる某女史のことに関連して、次のようにいったという。
 「昨日(10.15)午後4時、某女史をつれ某医院に診察にいったところ、連某がそとで某(盧のこと)と某女史のことについてデマをとばしている。これが連某を殴った理由なのである」
 某女史は、盧和生と病院にいく間柄だった。と、書くのも妙なものだ。当時の上海では、男女で病院にいくというのは、特別な意味をもっていたのだろうか。性的な連想をさそう行為だと考えられていたのかもしれない(?)。連夢青が本当にデマをとばしたとは思われれない。盧和生のほうに後ろめたいものがあり、そこから邪推したとするのが自然だろう。記事からは、そのように読み取ることができる。
 連夢青も、盧和生からの手紙を受け取っていた。10月15日付けのもので、名誉をきずつけたから謝罪せよ、謝罪しないのなら訴える、という内容だ。
 新聞社は最後に、盧和生、王慕陶たちが、連夢青、繁華報館と争うのと本社は何のかかわりもない、連が謝罪するかいなか、それは連夢青の問題だ、とつっぱねる。

 ●事件の解明
 これは、やはり奇妙な事件である。以上の報道を見てみると、どうやら二つの事柄がからみあっているらしい。ひとつは、そもそもの事件の発端である張香全の件。もうひとつは、某女史(林宗素?)をめぐっての盧和生と連夢青の確執である。
 事件の経過を整理する。
八月十八日(10.8) 張香全事件発生
八月十九日(10.9) 国民叢書社大騒動
   ?日     『世界繁華報』に暴露記事が掲載される
   ?日     王社長、対策を盧和生に相談
八月二十五日(10.15) 正午、盧和生ら繁華報館へ殴り込む
  同日      ★4時、盧和生、某女史を医院へ
  同日      ★盧和生、連夢青へ謝罪要求の手紙を出す
八月二十六日(10.16)★3時、盧和生、路上で連夢青を殴打
  同日      ★盧和生、国民日日報社へ手紙を出す

 ★印をつけたのは、盧和生の私怨部分である。国民叢書社の騒動に盧和生が関係し、その盧和生は、某女史のことで連夢青に恨みをいだいていた。その連夢青が、また、国民叢書社の醜聞を世界繁華報にもらした。こういう図式なのである。
 二つの事件を結びつけるのが盧和生ということだ。
 英国籍の広東人、盧和生というのは、なんという人物なのだろう、悪いやつだ、でこの事件はくくられる。連夢青については、不明のことだらけだが、上海での活動の一端でもわかってよかった、で終わりそうだ。
 それにしても、不可解の感をぬぐいさることができない。本当に、盧和生は悪人であったのかもしれないが、一方的な盧和生への攻撃は、尋常ではない。
 ところが、この奇妙な事件には、ウラがあったのだ。
 
 ●事件の背景
 『国民日日報』に関して、解説した文章がある。陳旭麓、熊月之「国民日日報」(『辛亥革命時期期刊介紹』第1集。人民出版社1982.7所収。392-414頁)という。これによると、『国民日日報』は、『蘇報』が封鎖されたあと、蘇報で活躍していた人々と愛国学社の革命志士が創刊したものだという。挙げられている人名を見ると、出資者が江西・謝小石、『蘇報』の元主筆・章士および張継、何靡施、盧和生、陳去病などである。さらに、盧和生を説明して、「盧和生、広東東莞の人、幼い頃より香港でそだち、はやくに英国に留学、かつて上海の外国新聞の記者をしたことがある。清朝政府の干渉を避けるため、『国民日日報』は、盧和生を発行人とし、英国駐上海領事館で登記した」と書いてある。
 これは、どういうことなのであろうか。『国民日日報』紙上で、「広東人にして英国籍に入った」人物として、さんざん罵られたのが盧和生その人である。その盧和生が、『国民日日報』の創設者のひとりであり、発行人であったとは。
 説明によると、『国民日日報』を発行して数ヵ月後、新聞社の経営者と編集のふたつが、権限の問題で大いに争い、それぞれが外国の法廷に訴訟を提出する事態となった。上海の革命党人士である馮鏡如、葉瀾、連夢青、王慕陶の諸人が奔走し調停したが効果がなかった、という。
 これが、盧和生事件の背景であった。『国民日日報』の報道は、自社の内紛を女性問題と暴力問題で粉飾し、盧和生を悪者に仕立てあげるためのものだったのである。
 紛争の調停にのりだした連夢青が、盧和生に殴られるというのは、災難としかいいようがない。
【付記】『国民日日報』は、台湾学生書局1965.5発行のものを使用した。