井上紅梅・大成教・劉鉄雲


樽 本 照 雄


 ●谷間の大正

 劉鉄雲および「老残遊記」にふれた日本文を年代順にならべてみると、そのふれ方は、報道・紹介から言及へ、さらに研究へと変化していることがわかる。
 報道・紹介とは、劉鉄雲と同時代の日本人が、新聞などの記事にすることをいう。西暦でいえば1900年代、日本の明治30、40年時代が、ほぼ、時期的には一致する。
 たとえば、麻三斤坊(西村博)「劉鉄雲の慈善事業」(『大阪朝日新聞』1901.3.26)がある。義和団事件当時の、劉鉄雲の北京難民救済活動を報じたものだ。また、劉鉄雲の日本訪問を報道する、無署名「観光清人」(『大阪朝日新聞』1906.2.12。欄外記事)、 無署名「来往」欄(『大阪朝日新聞』1906.10.11。欄外記事)も報道に含まれるだろう。さらには、劉鉄雲の北京・東文学社に対する援助を記述する、中島裁之『東文学社紀要』(1908.1.5)は、同時代人の貴重な紹介となっている。
 1930年代からは、研究の時代だ。「劉鉄雲研究資料目録」(『清末小説研究』1977.10.1)によれば、 松井秀吉「『老残遊記』を読んで」(『満蒙』第13年第5-7号1932.5-7)をかわきりに、 『支那語』『同仁』『中国文学』といった雑誌に文章が発表されはじめる。
 1900年代の報道・紹介のあとは、1930年代以降の研究の時代に飛躍している感がある。つまり、1910、20年代(ほぼ、大正時代)には、劉鉄雲と「老残遊記」に言及した日本文を見かけない。いわば、谷間の大正というわけだ。
 この谷間の大正時代において、劉鉄雲、「老残遊記」に言及する人物に出あった。井上紅梅である。

 ●井上紅梅

 本名、進。生没年不詳。井上安兵衛の養子。寺田寅彦と交際があった。1913、14年頃、上海にわたる。1918年4月15日、上海で日本語雑誌 『支那風俗』 を創刊(発行兼編輯人の名義は、飯田雄三)、筆名・鑑湖漁客、聴雨楼主人、狂蝶生、荷葉子、海上道彦などを使用し、みずからの筆で誌面をうめながら、1922年まで足掛け5年にわたり発行をつづけた。紅梅みずから、「自分のひとり雑誌」と称している(『支那ニ浸ル』上海・日本堂書店1924.10.5)。1932年、魯迅の作品を翻訳し、魯迅にののしられる。著書に『支那風俗』全3冊(上海・日本堂書店1920.12.5-1921.5.25)、『匪徒』(上海・日本堂書店1923.1.30初版未見/1924.6.10三版)、『酒、阿片、麻雀』(万里閣書房1930未見)、小説『西門慶』(東京・弘文社1941.3.18初版未見/1941.4.25再版)など多数。翻訳に、『金瓶梅と支那の社会状態』(1923未見)、『魯迅全集』(東京・改造社1932.11.18。吶喊、彷徨の全訳)、『支那辺疆視察記』(陳Z雅著、武田泰淳と共訳。東京・改造社1937未見)、『阿Q正伝』(東京・新潮社1938.11未見)などがある。
 井上紅梅の名前は、 現在、 いわゆる「シナ通」などと、カッコつきで用いられるのが常である。そのことは、いま私が述べたいことと、直接の関係はない。
 さて、「老残遊記」あるいは劉鉄雲への言及である。
 井上紅梅「支那の寄席」(『改造』現代支那号・夏季増刊 1926.7.6)に次のような記述がある。

 梨花太鼓(傍点ママ)は劉鶚氏の老残遊記にある通り、清末山東地方といふ白Sといふ少女が工夫したもので、京劇の名家程長、庚張二奎、余三勝などの節を取入れ、それに南方の歌を加へて一種の新調を発明したのである。

 これ以上の説明があるわけではない。だが、「老残遊記」という書名があらわれた日本語の文章としては、初期のものであろう。大正15年で、からくも大正時代にひっかかる。

 ●「大成教」の説明

 劉鉄雲という名前だけならば、おなじく紅梅の著作に、もうすこし年をさかのぼって出現する。井上紅梅『匪徒』(上海・日本堂書店 1923.1.30 初版未見 /1924.6.10参版)である。 該書の執筆意

 ■井上紅梅『匪徒』表紙

図をのべて、「解題」には、次のように書いてある。

 爰に明くない政府と闇い政府とあつて、明くない政府は軍人と文人が支配し闇い政府は泥棒と乞食が支配してゐる。此間に介在して双方から苦しめられてゐるのが支那の民人である。彼等が生命財産の安全を計るには、先づ金力を以て明くない政府に依るか、或は腕力を以て闇い政府に奔るか、孰れかの道を撰ばなければならぬ。本書は其闇い方の説明である。 大正十一年十二月 南京にて 著者

 表の組織である政府が「明くない」とは、紅梅の理解である。「闇い政府」は、裏の組織で、裏だからはじめから暗い。裏の組織の「説明」をしようという該書でとりあげられるのが、青幇、紅幇、泥棒、悪徒、乞食、邪教というものであった。そのうちの「邪教」は、さらに、総説、白蓮教、天理教、彌勒教、中洋教、閨女不嫁教、最近の邪教、上帝教、三祖教、黄天教、在裏教、義和拳、薩満教、大成教、仏教救劫経に細分され説明がくわえられる。(「邪教」のうち「総説」から「最近の邪教」までは、「淫祠邪教」と題して『支那風俗』第4巻第1号<1922.1.1>に掲載されている。 この例からすると次の「上帝教」以下も『支那風俗』に掲載されたものだろう。ただし、こちらは未確認。)
 劉鉄雲の名前が出てくるのは、「邪教」のなかの「大成教」だ。

大成教
 大成教又大乗教ともいふ、本来無名のまゝ一種の学説を立てたものが、後ちに宗教化し其徒弟等は勝手に斯く名づけたのである。(中略)/太谷の大弟子で有名な者は福建の韓子兪、安徽の陳子華、儀徴の張石琴、李晴峯などであつたが、そのうち石琴と晴峰が尤も世に著はれた。石琴名は積中、北派と称し山東肥城の黄崖山に居を構へた。晴峰名は光、平山と号し、世に竜川先生と称せられ、南派の祖となり江北裏下河一帯に居り、後ち四方に周遊して伝道に力め、泰州の黄隰朋、葆年これを再伝して、染絲岐路説、遊学説の著述をなし晴峯の学説を盛んに宣伝した。黄隰朋は十余年間官界にあり、嘗て山東泗水の県令に任ぜられたことがあつたが後ち官を辞し蘇州に於て徒を集め教主となつたのである。黄隰朋と同学の者に王啓俊、呉慕ラ、趙明湖、毛実君方伯慶蕃、劉鉄雲観察鶚、喬茂萱左丞樹楠の徒あり、いづれも晴峰に親炙せず、惟その遺像を瞻拝した者で従つてその学説も浅薄たるを免れず、栄華卿尚書慶も此教を奉じてゐたが志あつて未だ逮ばざる者なりと評せられてゐた。(後略)(傍点樽本。339-341頁)

 本文中に劉鉄雲の名前が見えるごとく、この大成教こそ、今でいう「太谷学派」のことである。劉大紳は、泰州学派、大成教、聖人教、黄崖教などという名称をあげて、すべて門人の承認せざるもの、もともと名称のないものである、と書いている(劉大紳「関於老残遊記」『文苑』第1輯1939.4.15。今、魏紹昌編『老残遊記資料』上海・中華書局1962.4の影印版による)。無名では説明しにくい。現在では、提唱者・周太谷の名前にちなみ、いちおう「太谷学派」と呼ぶことが一般化している。
 該書が発行された1923年の時点で、劉鉄雲と太谷学派(文中では大成教)のかかわりを日本語にするなど、かなりはやい。一瞥しただけでは、井上紅梅は、よく調べている、との感を抱くであろう。
 ただ、残念なのは、劉鉄雲の名前が出ていながら「老残遊記」にふれていない。また、上の引用文のあとには、張積中と黄崖山の説明がつづいているのだが、その黄崖山が官憲の手によって攻め落とされるという、いわゆる「黄崖教案」に言及していない。太谷学派か黄崖教案かといわれるくらいであるのに、紅梅の解説がないのが、不思議といえば不思議だ。
 ついでにいえば、典拠資料が明らかにされていない。典拠を明示して、追跡検証を可能にする、というのが研究上、不可欠の手続きのはずである。それをしないと、どこまでが他人の説で、どこからが自分の発見かがあいまいになる。
 太谷学派と黄崖教案関係の資料ファイルを調べていて、奇妙なことに気がついた。紅梅が説明する「大成教」と同じ題名の文章があるのだ。

 ●タネ本
 
 よく読んでみると、徐珂『清稗類鈔』(上海・商務印書館1917.11)第15冊宗教類に収められた「大成教」というのが、井上紅梅「大成教」のタネ本であることが判明した。紅梅の記述は、原文のままに、ほぼ、忠実に日本語に翻訳したものである。『清稗類鈔』第9冊獄訟類には「黄崖誣反案」と題する「黄崖教案」についての文章が収録される。しかし、紅梅は、こちらの方には気がつかなかったようだ。
 それどころか、そういう目で紅梅の文章を見ると、「邪教」部分は、ほとんどが『清稗類鈔』によっていることがわかった。『清稗類鈔』宗教類の「旁門左道之宗教」以前をまとめたものが、紅梅の「総説」である。以下、白蓮教、天理教、彌勒教、中洋教、閨女不嫁教が、タネのまま。ひとつとんで、つづく上帝教、三祖教、黄天教、在裏教、義和拳、薩満教もタネのまま。ただし、「最近の邪教」については、『上海日日新聞』の記事からと書いてある。最後の「仏教救劫経」は、出典不明で経文を原文のままを収録するという具合である。

 ●タネ本のタネ
 
 徐珂『清稗類鈔』については、実際の編集作業を担当した謝菊曾の証言がある。それによると、当時流行していた鴛鴦蝴蝶派の小説雑誌、『遊戯雑誌』『小説叢報』『小説新報』『眉語』『鴬花』などから、徐仲可雑纂部部長が赤で印をつけた記事を写し取ったものだそうだ。大量の材料を、のちに、徐仲可が分類して出版した。典拠を明示していないため、読者は、徐仲可の著作だと考え、その博学多識におどろいたともいう(謝菊曾「涵芬楼往事」『随筆叢刊』第6集広東人民出版社1980.2所収の「《清稗類鈔》是怎様成書的」。のち、『十里洋場的側影』広州・花城出版社 1983.4 所収。16-17頁)。
 紅梅の本には、タネ本がある。しかし、そのタネ本の『清稗類鈔』にも、タネがあったというわけである。
(付記:井上紅梅著作の閲覧に関して、関西大学図書館ならびに大阪経済大学図書館のお世話になりました。感謝します)