劉鉄雲日記中の日本人(2)


阿 部   聡


3.内田康哉*6
 内田康哉自身が劉鉄雲日記に登場することはない。日記に登場するのは「内田夫人」、つまり内田まさ子(旧姓土倉)で、登場回数は辛丑十月二十六日(1901年12月6日)と壬寅二月初三日(1902年3月12日)の2回である。
 内田康哉は1865年に熊本に生まれ、東京帝国大学法科を1887年に卒業し、直ちに外務省交際官試補となり、駐米公使陸奥宗光(当時)の下で外交事務の見習をして認められ、陸奥の出世とともに出世し、1900年には外務省総務長官に進み、同年9月21日に西駐清公使への大臣訓令伝達及びそのほか外交上の要務のため北京入りし、同年10月7日に帰国した。翌1901年には北京駐箚特命全権大使を命じられ、同年11月10日に北京入りし、義和団事件後の極東問題の処理にあたった。
 さて、伝記『内田康哉』によると、内田は駐清公使の任につくと、民間人である中島裁之*7ほか2名を清国内地の事情調査の任にあてたという。また、二等通訳官高州太助には通訳のほかに清国当局者との直接交渉の任にあたらせ、同島川毅三郎*8には北京における各種新聞の操縦や清国朝野の人士と交際し彼我の意志疎通を図る任にあたらせ、通訳生小村俊三郎*9には主として清国在野の志士との意志疎通を図らせるとともに清国側における諸種の情報収集および新聞操縦の任にあたらせたという。更に、内田は新聞を利用して内外の世論喚起に努め、大阪朝日新聞北京特派員の牧巻次郎(放浪)や順天時報・満州日報の社員などとはほとんど連日のように会見し、時には彼らをして諜報任務にあたらせたという*10。
 上記に名前の出てくる中島裁之、島川毅三郎、高州太助、小村俊三郎、牧巻次郎といった人々が鉄雲と接触があったことは劉鉄雲日記に記されている。また、鉄雲が順天時報、満州日報両紙の創始者である中島真雄と友人関係であったことも日記に記されている。さらには、上記には名前はないが、「牧田」なる人物も公使館職員として日記に出てくる。
 劉鉄雲日記には内田康哉本人の名前はないが、内田の夫人や側近・部下たちを通して、内田と鉄雲との交際の深さが想像されるのである。

4.高州太助*11
 高州太助は1869年に現在の山口県萩市に生まれ、1885年に叔父の南貞二が香港領事に任命されると、それに随行して中国に渡った。その後、外務省に入り、主に中国で活動し、1901年の春に三度目の北京在勤となった。翌1902年1月には二等通訳官となり、内田康哉公使の下で働いた。高州が鉄雲と集中的に会っているのはこの年のことである。
 劉鉄雲日記を見ると、高州は壬寅正月初七日(1902年2月14日)、同月二十四日(3月3日)、同月三十日(3月9日)、二月十九日(3月28日)、七月十八日(8月21日)、同月二十九日(9月1日)、八月初五日(9月6日)、同月初八日(9月9日)、十月十七日(11月16日)の計9回登場している。
 内田康哉の項で述べたように、高州は内田の部下であり、高州が内田から与えられていた任務を考えると、彼が鉄雲と度々会い、家族も含めた親密なつき合いをしていた裏には情報収集や親日派の育成といった政治的意図があったのでは、と想像しないわけにはいかない。また、十月十七日の記事では、高州が鉄雲の事業に関与していたことが窺われる。残念ながら「三谷」が何者であるか、どんな事業だったのかはわからない。しかし、高州と鉄雲とが決して利害関係のない単なる友人ではなかったことは確かである。
 さらに、鉄雲はもう一人、内田康哉の部下と思われる人物と交遊関係がある。

5.山本滝四郎*12
 山本滝四郎が劉鉄雲日記に登場するのは壬寅五月二十一日(1902年6月26日)と同十月初八日(11月7日)である。五月二十一日の記事に見える『順天時報』というのは、中島真雄が1901年12月に北京で創刊した中文新聞である。「森井」とは森井国雄のことであり、順天時報創刊の手助けをした人物である。そして、十月初八日の記事を見ると、山本が「花田」という人物とともに鉄雲と醤油販売事業を興そうとしていたことがわかる。
 さて、山本であるが、彼は1875年に岡山県に生まれ、1880年に東京の興亜会支那学校に入学し、学校が外国語学校に併合されるのを機に、大阪商船会社に入社し、北清航路で働いた。日清戦争では陸軍通訳官として従軍し、戦後台湾に転じ、義和団事件に際し、再び中国に渡った。『対支回顧録』ではその後の山本の行動を次のように記している。

明治三十四(1901年)、中島真雄が北京に順天時報を創立するや、君(山本)は其の帰朝中留守をあづかつて社務を幹し、殊に当時の北京公使内田康哉の諸情報取次役として重任を果した*13。

上記から、この山本滝四郎もまた内田康哉の部下とも言える人物であったことがわかる。
 内田の命を受け情報収集活動等を行なっていた中島裁之、高州太助、山本滝四郎といった人物が、鉄雲と単なる友人というだけでなく、経済活動を通じても関係があったことは、内田と鉄雲との関係も単なる友人関係にとどまらなかったであろうことを確信させるのである。


6)内田康哉については次のものによった。
@「内田康哉伯」『続対支回顧録』下巻34-52頁。
A「内田康哉」『東亜先覚志士記伝』原書房影印1966年6月20日。下巻399-401頁。鹿島研究所出版会1969年1月20日。
7)中島裁之については次のものに詳しい。
@佐藤三郎「中島裁之の北京東文学社について――近代日中交渉史上の一齣として――」『山形大学紀要(人文科学)』第7巻第2号 1970年12月15日。
A注8の樽本論文。
8)島川毅三郎。1867年に現在の三重県津市に生まれた。小村寿太郎の知遇を得て、小村が義和団事件後に駐清公使となると、島川は小村の幕僚として活動し、内田康哉が小村にかわって着任すると、内田の幕僚として活動した。
 詳しくは「島川毅三郎君」(『対支回顧録』対支功労者伝記編纂会1936年4月18日 下巻1471-1474頁)、「島川毅三郎」(『東亜先覚志士記伝』下巻703頁)を参照。
9)小村俊三郎。1870年に現在の宮崎県に生まれた。小村寿太郎の従弟。1897年に小村寿太郎の勧めで北京に留学し、その後、内田康哉の下で島川毅三郎らとともに外交機密をさぐった。日露戦争では特務として活動し、戦後は小村寿太郎全権大使の随員として対中国交渉にあたった。1906年にイギリスへ転任した。
 詳しくは「小村俊三郎君」(『対支回顧録』下巻763-768頁)、「小村俊三郎」(『東亜先覚志士記伝』下巻560-561頁)を参照。
10)注6のB。71-74頁。
11)高州太助については「高須太助君」(『続対支回顧録』下巻239-248頁)によった。
12)山本滝四郎については「山本滝四郎君」(『対支回顧録』下巻717-718頁)によった。
13)同上。717頁。