研 究 結 石


樽 本 照 雄


》『近代上海大事記』のこと《

 湯志鈞主編『近代上海大事記』(上海辞書出版社1989.5)という労作が出版された。
 本書は、1840年から1918年までの、上海に関する政治、経済、軍事、文化の各方面の事柄を集めた年表である。
 「前言」によれば、材料は、『申報』、『上海新報』、“North Chine Herald”(『北華捷報』)などから抄録し、そのほかできうる限りの文献を吸収したという。編年体を採用し、月日(新暦、旧暦を併記)までを明記しているところにその成果はあらわれている。
 本文は、 889頁にのぼる。付録に、政府官員職官年表、外国駐滬領事年表、上海市主要新旧路名対照表などがある。なによりもうれしいのは、人名索引がついていることだ。索引があるのとないのとでは、使い勝手が違ってくる。
 こういった参考書(工具書)は、具体的な項目を見れば、おおよその水準がわかる。さっそく人名索引をながめ、劉鉄雲、李伯元、呉熕l、曾孟樸などなどを検索してみた。項目と該当ページを掲げる。

 劉鉄雲 採録ナシ
 李寶嘉 513,558,561(これは560の誤り),569
 呉沃尭 528(誤。527が正しい),556,(558がぬけている),559(誤。560が正しい), 600,603,605(誤。604が正しい),622,643,686
 曾 樸 627,639,644,654,655
 欧陽巨源 560

という結果となった。
 索引の数字が誤っているのは、索引作成後、本文のページに変化があったためだろうか。ただし、欧陽鉅源(560頁)は、李伯元と同一項目にみえ、なぜページ数が違うのかわからない。
 李伯元の項目は、『游戯報』、『世界繁華報』、『飛報』、『繍像小説』などの創刊・執筆に関するものである。
 呉熕lについては、『采風報』の主筆、『月月小説』編集者として、また、ロシアの東三省侵略に反対する集会、あるいはアメリカ商品ボイコット集会における演説者として採録される。
 曾孟樸は、『小説林』の主編、「゙海花」の著者としてみえる。もうひとつ江蘇鉄路協会に関係していることがある。1907-08年にかけてのことだ。イギリスの鉄道建設をめぐって、利権回収運動をおこしたのが江蘇省鉄路公司だが、その事にかかわっているのだ。1907年12月8日、1908年6月21日、7月11日と具体的な月日が明らかにされて参考になる。
 たまたま気がついた事項に、つぎのものがある。

1904年4月
△是月底、秋瑾由浙江紹興来滬、転乗日本郵輪赴日留学。(581頁)
 
 この記述は、正しくない。秋瑾らは、1904年6月22日(五月初九日)、北京を出発、天津・大沽からバベルスベルグ号に乗船(実際の出港は翌6月23日)、7月2日(五月十九日)、神戸に到着した、とするのが事実である。
 上の部分では、偶然、従来の通説を採用してしまったのかもしれない。すると、月日が明らかにしてある項目は、依拠するものがあり、そうでないものは、やや、信頼性に欠けると考えてもいいだろうか。使用上、留意すべき点だろう。

 当時、発行されていた新聞は、歴史研究ばかりでなく、文学研究にとっても、重要な基礎資料である。本書は、研究の手掛かりをあたえてくれるという意味で、私にとってありがたい出版だ。上海社会科学院中国近代史研究室の仕事であることをつけくわえておきたい。


》新 聞 の 劉 鉄 雲《

 荘月江氏から新聞の切り抜きをいただいた。同氏の筆になる「八十一年前的一条電訊――関於劉鶚被捕和流放的新聞報道」(『衢州報』1990.5.10)という。劉鉄雲の曾孫にあたる劉徳威氏が、『申報』戊申七月初六日(1908.8.2)に「厳懲劉鶚之朝議」と題する報道を発見し、

●荘月江氏から『申報』の該当部分のコピーも送ってもらった。だが、やや、不鮮明であるため、名和又介氏の手をわずらわせ、同志社大学所蔵の『申報』からの複写を掲げる。次ページに拡大したものをのせる。

荘月江氏がそれを紹介したものだ。
 劉鉄雲の逮捕と新疆流罪については、以下のような資料がある。
 劉大紳「関於老残遊記」(『文苑』第1輯1939.4.15/『宇宙風乙刊』第20-24期1940.1-5/魏紹昌編『老残遊記資料』北京・中華書局1962.4/日本影印)が、劉鉄雲逮捕の詳細をはじめて明らかにした。
 その後、劉闡キは、『鉄雲先生年譜長編』(済南・斉魯書社1982.8)において発掘した外務部の電報を公表している。 日付を掲げると、
1.光緒三十四年月日(ママ)
2.光緒三十四年六月十九日
3.光緒三十四年六月二十日
4.光緒三十四年六月二十三
5.      六月二十三日(上への返信)
6.光緒三十四年六月二十五日
7.光緒三十四年六月二十五日
となる。
 劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』(四川人民出版社1985.7)は、劉大紳の文章を再録するにあたり、大紳の原注と劉闡キの著作から関係部分を選択採取する。
 最近では、劉徳隆、朱禧、劉徳平著『劉鶚小伝』(天津人民出版社1987.8)が、「劉鶚的被捕与流放」という一章をさいて説明を試みている。上の資料を統合した彼らの結論によると、劉鉄雲と端方の不仲説、袁世凱との不仲説は、原因とはなりえず、劉鉄雲逮捕の真の原因は、はっきりしないというのだ。
 そこで今回の新聞記事である。劉鉄雲が南京で逮捕されたのが六月二十日、漢口行きの舟に乗せられたのが二十五日といわれる。『申報』掲載日の七月初六日といえば、劉鉄雲はすでに新疆へ向かっていることになる。
 荘月江は、劉鉄雲逮捕を次のように推測する。つまり、「外国人のために浦口の土地を購入した」とうわさのたった劉鉄雲を逮捕することにより、「売国部」と称せられた外務部への批判をそらせる袁世凱の策略ではなかったか、と。
 以上、紹介するにとどめる。