商 務 印 書 館 の 火 災


樽 本 照 雄


 光緒二十八年七月十九日(1902.8.22)深夜12時、上海イギリス租界北京路角美華書館西にある商務印書館から出火、家屋若干が焼けた。
 商務印書館の創業は、光緒二十三年正月初十日(1897.2.11)である。イギリス租界江西路北京路首徳昌里末街三号に民家の部屋をかり、総勢十数人という小規模の町工場的印刷業からはじまった。翌年六月、前出の北京路慶順里に移転、12部屋を借り新工場を設立する。ここが焼けたのだった。創業から5年目の災難である。

1.出火情況
 火災の第一報は、『申報』に載った。

●『申報』光緒二十八年七月二十日(1902.8.23)
 イギリス租界の火災○昨晩十二時、北京路から河南路への曲り角の某氏宅において不注意により火災をまねいた。見張り台からの鐘のしらせで消防団の西洋人が駆けつけ、消火活動を行なうやただちに鎮火したが、若干の部屋を焼いた。火災原因については明日の調査をまって報道する。(図1)

 この時点では、火元が商務印書館であったことは、明らかになっていない。翌日の『申報』に続報が掲載された。

●『申報』光緒二十八年七月二十一日(1902.8.24)
 イギリス租界の火災続報○一昨晩、北京路の失火情況についてはすでに昨日の新聞で報道した。火災は、商務印書館に発生したことが判明。さいわい、消防団西洋人の尽力によりわずかに四部屋と隣接の徳泰客棧を焼いたのみ。(図2)

 商務印書館の過失による火災は、さほどの被害はなかった模様である。
 同じく上海の新聞『同文滬報』には、つぎのように報道されている。

●『同文滬報』光緒二十八年七月二十一日(1902.8.24)
 イギリス租界
火災ニュース○一昨晩十二時、警察署の鐘が激しく鳴った。ただちに三方を調査し、北京路角の商務印書館四十一番地に火災が起こっているのがわかった。盛んな火は、すぐさま屋根をつきぬける。イギリス、フランス、アメリカ三租界のポンプ車がかけつけ水をそそぐや、祝融君(注:火の神様)の勢いはようやく失せた。家屋三部屋(原文:房屋三幢)が焼け落ちるが、すべて火災保険をかけていたという。(図3)

 同日の『同文滬報』には、商務印書館自身から失火広告が掲載されている。

●『同文滬報』光緒二十八年七月二十一日(1902.8.24)
商務印書館広告 本館は十九日夜、失火いたしました。すべての取り引きの現金、郵便物は、上海北京路第四十番地にお送りください。右、お知らせいたします。(図4)

 北京路第四十番地というのは、焼けた商務印書館が第四十一番地というから、その隣ということになる。
 『申報』と『同文滬報』では、焼失した部屋の数が4部屋と、3部屋とで報道が異なる。いずれにせよ、商務印書館が借りていた12部屋全部が焼け落ちたわけではない。
 張元済が創刊した『外交報』は、商務印書館が印刷を請け負っていた。火災から約一ヵ月後の日付がある『外交報』壬寅19号(21期 光緒二十八年八月十五日補印<1902.9.16>)には、 商務印書館広告が掲載された(図5)。「先月、不幸なことに火災にあいましたが、幸いなことに倉庫、活字鋳造室、書板室などは
災難をまぬかれました。現在、すでに新たな配置を行ない、規模をさらに拡張し、北京路の元のところの隣家四十番地におきまして通常営業を行なっております」という。
 1900年当時の商務印書館を復元図(図6)で見ると、二階建ての西洋風長屋に「商務印書館/COMMERCIAL PRESS」と看板が掲げてある。出入口がふたつ、合計11個の小窓が見える。12室の部屋を借りていたというから、窓ひとつが1室の勘定になるらしい。そのうちの3、4部屋と隣の旅館を焼いたのが今回の火災である。
 出火情況のおおよそは、わかる。しかし、出火の原因、その場所、正確な被害情況、火の手のおよんだ隣家の被害情況、責任者の所在などは、いぜんとして不明のままである。火災の詳細が不明となると、問題になってくるのが火災保険なのだ。

2.火災保険
 『同文滬報』の記述「すべて火災保険をかけていたという」、ここに注目されたい。
 商務印書館には、火災保険がかけられていたとは、まことに用意周到である。朱蔚伯の文章に、「(夏瑞芳は)月給24元では生活費に足りなかった。外で印刷業務を請け負う時、懇意の保険公司のために注文を取り、この収入で家計を補った」*1とあるのを見ると、火災保険に加入していたのも容易に納得できる。不慮の災難にそなえるのは、経営者として当然とはいえ、不幸が現実のものとなったことを見れば、やはり、この時期における夏瑞芳の卓越した経営感覚に感心しないわけにはいかない。
 上海には保険会社が林立していた。火災保険について、その保険料を調べるのは、困難なことではない。
 遠山景直『上海』(1907.2.28。出版社名不記。167-169頁) には、次のようにある。

上海に於ける水、火、人寿保険会社の代理店、支店等の多き屈指に遑あらず、(中略)火災保険の如きも家屋及貨物財産等、一千両に付大約左の如し、
           両 銭分
支那第一等家屋    10、55
同 第二等同上    11、85
同 第三等市房    19、00
外国人住宅       9、50
三等市房       38、00
怡和、招商、太古倉庫  2、25
外国人商倉庫      4、50
支那人同上       6、65
洋式市房(如全亨悦生)19、00
如英法大馬路     28、50
要するに生命及火災保険の如きは各社其取扱ひを殊にし、只保険業者と被保険人との間の契約に基くを以て其詳細は知る能はず、単に其概略を示すのみ。*2

 この説明にもあるように、商務印書館の火災に関しても、上の保険料一覧は、役に立たない。商務印書館がいかなる規模の火災保険に加入していたのか、詳細を示す資料がないからだ。さらに、前述したとおり火災の具体的な被害内容も不明である。
 火災保険について何人かの証言がある。

 章錫sの証言:
 1902年、北京路の工場が火災で焼け、巨額の保険賠償を得た。そこでふたたび増資を決定し、北福建路に工場を建設、河南路に発行所を新設した。また、編訳所を増設するため、工場のむかいの唐家弄に三部屋を借りた。*3

 羅品潔の証言:
 彼らが、最初、共同ではじめた印刷組織は、北京路におかれた。たった一部屋で、のち二部屋に拡張した。一度火災にあったが、火災保険に加入していたため損失は大きくはなかった。*4

 章錫sのいうところによると、巨額の火災賠償金で印刷工場を新築し、さらに発行所と編訳所を賃貸できた、ということになる。一方、羅品潔証言では、火災保険のおかげで「損失は大きくはなかった」となり、章錫sの記述とは、大きく異なる。
 もうひとつの証言を紹介しよう。

 朱蔚伯の証言:
 1902年七月、北京路の家屋は失火で焼けた。そこで印刷所を北福建路海寧路に建設し、鮑咸恩を所長とした。別に編訳所を唐家街に、発行所を河南路棋盤街に設立、内部の職務にかなり明確な分担を行い、経済的基礎はさらに発展し強化された。*5

 商務印書館の職員であったらしい朱蔚伯の文章は、全体に見て信頼性が高い、と私は考えている。ただし、火災にかんするこの部分のみは、うなづくことができない。なぜなら、火災に遭遇した後、なぜ、印刷所が新築でき、そのほか2ヵ所に部屋を借りることのできる資金が出てくるのだろうか。それが火災保険の賠償である、と章錫sは、いいたのだろう。検討してみよう。
 そもそも火災保険は、建物の所有者が、焼けた建物を再築、あるいは修繕するために保険会社と契約する。建物の評価額(保険金)に一定の料率がかけられ、それが保険料となる。店子が保険に加入する場合も同様に、焼失した建物の再築、修繕の資金が出るよう契約する。上に引用したように、上海でも、レンガ建築よりも木造建築のほうが料率は、当然、高くなる。
 いずれにせよ、火災保険の目的は、建物の再築、修繕であるのが基本だ。
 商務印書館の場合はどうか。
 まず、商務印書館は、12部屋を借りていた店子である。それも12部屋のうち、一部分のみが焼失しただけだ。さらに隣家が類焼している。
 店子が過失で出火したわけだから、修繕して原状回復する必要がある。また、隣家の類焼にたいして、補償が要求される可能性も高い。
 商務印書館が、火災保険会社と締結した具体的な保険契約内容は、今のところ、不明である。しかし、常識的に考えて、章錫sのいうように「巨額の保険賠償」が出たというのは信じ難い。好意的に見ても、羅品潔が書くように、せいぜいが「火災保険に加入していたため損失は大きくはなかった」あたりが妥当なところだ。きびしくいえば、いくら倉庫、活字鋳造室などが無事であったとはいえ、水をかぶった書籍、機器、紙がそのまま売り物になるわけではなかろう。火災をおこした責任もある。とても、もとの場所で営業を続けることのできる情況ではなかった、と考えるのが普通である。ましてや、火災をおこした商務印書館が、印刷工場を新築し、そのうえ新たに部屋を借りて発行所と編訳所を新設することができるとは、誰が考えても不可解の一語につきる。
 しかし、その背後には、原亮三郎ひきいる金港堂、さらに仲介者・山本条太郎、商務印書館側・印錫璋の存在があることに思いいたれば、この一見不可解な商務印書館急成長の謎も氷解するのである。


【注】
1)朱蔚伯「商務印書館是怎様創辧起来的」『文化史料(叢刊)』第2輯1981.11。142頁。文章末尾に「一九六四年三月八日」の日付がある。
2)『上海指南』上海・商務印書館1909年五月初版/七月再版 巻五 保険12オウにも同様の保険料一覧があるが、いちいち挙げない。
3)章錫s「漫談商務印書館」『文史資料選輯』第43輯1964.3/1980.12第2次印刷(日本影印)。66頁。1979年以前の中国側文献としては、金港堂の教科書疑獄事件に触れている珍しい資料である。その他についても詳細な記述があり、朱蔚伯の文章とならんで信憑性が高い。ただし、『商務印書館九十年――我和商務印書館』(北京・商務印書館1987.1)では教科書疑獄事件を含めて削除する。章錫sの原文は39章だが、『商務印書館九十年』に転載されたのはそのうちの19章にすぎない。
4)羅品潔遺作「回憶商務印書館」『商務印書館館史資料』之三 1980.11.25。18頁。
5)注1に同じ。145頁。


【付記】
 商務印書館の火災について触れている最近の論文に、中村忠行「検証:商務印書館・金港堂の合弁(二)」『清末小説』第13号1990.12.1がある。参照されたい。
 なお、『申報』(上海書店影印)の閲覧については阪口直樹氏のお世話になった。お礼を申し上げる。