「新繁華夢」の老上海は呉熕lか


樽 本 照 雄


1.問題の所在――老上海と呉熕l
 「新繁華夢」という作品が、『中国通俗小説総目提要』*1(以下、『提要』と略称する)に収録されている。宣統元年(1909)上海匯通信記書局発行。表紙に「絵図醒世小説海上新繁華夢」と題す。5集40回。吉林大学図書館所蔵。このように説明されるところまではいい。問題となるのは、つぎの記述だ。「著作者は、“老上海”と署名する。老上海は、すなわち呉熕lである」(1165頁。該当項目:王志強)。
 たしかに、呉熕lの筆名のひとつに老上海は、ある。老上海名義で発行された『胡宝玉』(総発行所広内書蔵 光緒三十二年八月二十日<1906.4.13>)は、呉熕lの作品であると認められている。『提要』は、根拠を示していないが、おそらくは、「胡宝玉」の例からの連想なのだろう。
 しかし、現在までのところ、呉熕lの作品に「新繁華夢」があるとは知られていない*2。
 今まで知られていなかった呉熕lの作品が、発見されるということがないわけではない。たとえば、誰も言及せず、どの目録にも触れられていなかった「燠矧O編」が、最近、張純氏によって発見され日の目をみたというのがその一例だ*3。
 だが、「新繁華夢」の場合は、どうだろう。署名が老上海であるからといって、すぐさま呉熕lの作品であると断定してもいいのだろうか。このような疑義は、ずいぶん前から提出されているのだ。盧叔度の言及を見てみよう。

 「新繁華夢」 一名「上海新(ママ)繁華夢」。阿英「晩清小説目」の著録によれば、「『新繁華夢』、老上海著。宣統元年(1909)匯通信記書局刊、五冊」という。「胡宝玉」の作者も「老上海」と署名し、これが我仏山人の変名であることは、疑問の余地がない。しかし、「新繁華夢」の作者「老上海」も我仏山人であろうか。それについてはみだりに判断を下せない。現在、なお事実とするに足る材料にとぼしく、他日のこととせざるをえない。*4

 前出『提要』の記述は、根拠を提示せず、盧叔度の疑問にも触れず、老上海は呉熕lだと、性急に断定した。議論の余地がある。
 そもそも、老上海という筆名は、呉熕lの専有というわけではないのだ。


2.問題の展開――老上海と陳无我
 老上海と署名する作品に「滑頭世界」(未見)がある。

清老上海撰『滑頭世界』初編二編 各1冊 光緒三十四年(1908)*5

 呉熕lの作品には、「滑頭世界」というものは存在しない。では、この老上海は、誰なのか。次の記述を見てもらいたい。

陳无我『滑頭世界』(一名遊滬指南 絵図 社会小説) 1-2編 上海改良小説社1908.7/1909.2再版 説部叢書*6

 同一書に使用された署名の老上海と陳无我が、同一人物であることがわかる。
 陳无我の筆名が老上海であると示す筆名録には、袁湧進編『現代中国作家筆名録』(北平中華図書館1936。大安影印。1968.5。63頁)がある。また、藤田正典『現代中国人物別称総覧』(汲古書院1986.3。224頁)も陳无我の筆名を老上海とする。その典拠は袁湧進本である。(楊廷福、楊同甫編『清人室名別称字号索引』上下冊<上海古籍出版社1988.11>は、老上海を呉熕lの筆名としてしか収録していない。)
 陳无我という名前が出てきた。陳无我の周囲を探ってみる。


3.問題の横道――陳无我と陳旡我
 ややこしいのだが、陳无我のほかに陳旡我という名前が、同時期に見える。无(wu)と旡(ji)では発音が異なる。しかし、漢字そのものがまぎらわしい。
 『月月小説』に陳无我の翻訳小説が、掲載されているので見てほしい。

(英)海立福医士筆記 張勉旃、陳无我同訳「(科学小説)新再生縁」『月月小説』1年4-5号 光緒32.12.15-33.1.15(1907.1.28-2.27)/清民目X551*(*印は翻訳を意味する)*7

 一方、『競立社小説月報』に、陳旡我の名前がある。

浙人凌景伊陳旡我張勉旃謹上「浙人拒絶借款之通告」『競立社小説月報』第1期 光緒三十三年九月念八日(1907.11.3)

 張勉旃とのからみからみて、『月月小説』の陳无我と『競立社小説月報』の陳旡我は、同一人物といわざるをえない。誤植の可能性も否定できないが、記述のままにしておく。
 ついでだから、陳无我、あるいは陳旡我名義の作品を参考までに示す*8。

(英)葛露克著 朱陶潤辞 陳旡我訳意「(奇情小説)満麗女郎」『競立社小説月報』1-2期 光緒33.9.28-10.24(1907.11.3-11.29)/清民目M087*/阿英目159頁
(英)傑而克著 陳旡我訳『呑玉奴』鴻文書局 光緒32(1906)/阿英目122頁/清民目T301*
陳无我「傷痕」『小説月報』第13巻第11号(1922.11.10)/佐伯慶子、南雲智編『小説月報(1920-1931)総目録』東洋学文献センター叢刊第34輯(1980.3.25)による
刊行年不明
(法)仲馬著 朱陶、陳旡我訳『宝琳娘』新世界小説社 /阿英目169頁/清民目B171*(ALEXANDRE DUMAS“PAULINE”)
(英)米愛徳著 陳无我訳『死椅』新世界小説社 /阿英目119頁/清民目S700*
(英)米愛徳著 陳旡我訳 『指弓沙』新世界小説社 /阿英目133頁/清民目Z229*


4.問題の拡散――陳无我と陳輔相
 当時の雑誌、その目録を資料に、老上海が陳无我(旡我)であることを見てきた。だが、さらに一歩進めて陳无我について探索するには、もう少し筆名録の手助けを必要とする。その結果、浮上してきたのが、陳輔相である。

 張静廬、李松年「辛亥革命時期重要報刊作者筆名録」(『文史』第1輯1962.10。104頁)に「陳輔相 无我 無我」と記録されている*9。
 張静廬、李松年の筆名録と袁湧進の筆名録を統合したと思われるのが、Pao-liang Chu “Twentieth-Century Chinese Writers and Their Pen Names”(C.K.HALL & CO.,1977. P.22)だ。「CH'EN, FU-HSIANG 陳輔相/Ch'en, Wu-wo 陳无我/Lao-shang-hai 老上海/Wu-wo 無我/Wu-wo 无我」とある。
 『中国近代現代叢書目録索引』下(上海図書館1982.7)に付録された「中国著者名字、号、別号、筆名録」には、「陳輔相 无我生 陳无我」と、あらたに无我生を収録する(本文では無我生と表示する)。
 最近のものでは、徐廼翔、欽鴻編『中国現代文学作者筆名録』(湖南文芸出版社1988.12。361頁)が、以上をさらに総合し、トルストイ作品の訳文をつけくわえる。原文のままに引用する。

陳无我(?−?)浙江杭県人
  原名:陳輔相。 字:无我。
  筆名:
 陳无我――見於訳文《社会救済法》(脱爾斯泰作),載1919年8月15日《新中国》1巻4号。
 老上海――署用情況未詳。

 陳輔相という人物については、後考を待つ。
 老上海という筆名をもつ陳輔相(无我、旡我)がいるからには、「新繁華夢」の老上海をすぐさま呉熕lだと断定することはできない。


【注】
1)江蘇省社会科学院明清小説研究中心編 北京・中国文聯出版公司1990.2。1165-1167頁。「新繁華夢」(未見)を収録するほかの目録をふたつあげる。阿英「晩清小説目」『晩清戯曲小説目』(増補版)上海・古典文学出版社1957.9。99頁。阿英目と略称。/清末小説研究会編『清末民初小説目録』中国文芸研究会1988.3.1。番号X383。清民目と略称。
2)以下の資料は、いずれも「新繁華夢」に言及していない。
中島利郎「呉熕l研究資料目録」著訳目録の部 『清末小説研究』第3号1979.12.1
魏紹昌編『呉熕l研究資料』上海古籍出版社1980.4
中島利郎「我仏山人著作目録」(大谷大学)『文芸論叢』第24号1985.3.30
3)張純「《燠矧O編》――呉熕l軼著的新発現」『清末小説』第10号1987.12.1。該作品は、呉熕lの文章だと認められ、『我仏山人文集』第8巻(広州・花城出版社1989.5)に収録された。
4)盧叔度「我仏山人作品考略――長篇小説部分」『中山大学学報』1980年第3期(復印報刊資料による)
5)張純「南京図書館所蔵晩清創作小説」(3)『清末小説から』第17号1990.4.1
6)比較のために、原載の記述配列を変更している。上海図書館編『中国近代現代叢書目録』香港・商務印書館1980.2。777頁/清民目H614。のち「老上海著 寿頭変相校訂」というものを収録したが、典拠を失念。
7)北京図書館『西諦書目』文物出版社(1963.10)に『短篇小説十五種』がある。このなかに「新再生縁」が記録されているが、訳者を張无我と誤る。どういうわけかまわりにも誤植がある。報癡は、報癖であるし、小足指は、小足捐が正しい。
8)現在、増補改訂作業中の『清末民初小説目録』から、無我、無我生、无我、旡我の作品を抽出する。ただし、无我という筆名をもつ作家には、陳无我のほかに林尹民、趙宗健、銭貞元らがいる(徐廼翔、欽鴻筆名録)。ゆえに、陳无我とするには、それぞれに吟味が必要となる。あくまでも参考として見てほしい。
(発行年順)
侠骨忠魂 (原名LES TROIS MOUSQUETAIRES)
 (法)大仲馬著 無我訳 『正誼雑誌』1巻1-8号 1914.1.15-1915.5.15/清民 目X078*  ALEXANDRE DUMAS pere著
古刹中之少年 (義侠小説)
無我 『礼拝六』22期 1914.10.31/清民目G145
雪茄匣 (外交小説)
(英)仏乃著 天風、無我訳 『小説大観』7集 1916.10/清民目X744*
巴黎之秘密隧道 (外交秘史)
無我訳 『小説新報』2年11期 丙辰11(1916)/清民目B028*
蘭心 (英国軼事)
旡我訳 『小説新報』2年11期 丙辰11(1916)/清民目L025*
侠骨忠魂 (原名LES TROIS MOUSQUETAIRES 義侠小説)
(法)大仲馬著 無我訳 上海泰東図書局1917.5
ALEXANDRE DUMAS pere著/『民国時期総書目(1911-1949)』外国文学 書目文献出版社1987.4。項目番号1505
雛恋
(印)詩聖太谷児著 天風、無我訳
商務『婦女雑誌』3巻6号 1917.6.5/清民目C213* TAGORE著
売果者言
(印)詩聖太谷児著 天風、無我訳
商務『婦女雑誌』3巻7号 1917.7.5/清民目M052* TAGORE著
水手 (愛国小説)
天風、無我訳 『青年進歩』5冊 1917.7/清民目S656*
夜半鐘声 (俄国革命短篇)
天風、無我 『小説叢報』3年12期 1917.7.10/清民目Y141
盲婦
(印)詩聖太谷児著 天風、無我訳
商務『婦女雑誌』3巻8号 1917.8.5/清民目M109* TAGORE著
仇心 (紀事小説)
(英)温斯洛、寛洛同著 天風、無我訳 商務『婦女雑誌』3巻11号 1917. 11.5/清民目C202*
薔薇花
(英)費朗克囂著 天風、无我同訳
『小説月報』9巻4号 1918.4.25/清民目Q163*
炉辺之女英雄
ALEC TWEECLIE女士著 天風、無我訳
商務『婦女雑誌』4巻6号 1918.6.5/清民目L465*
賊博士 (原名MYSTERIOUS PHILOSOPHY)
( )CHARLES ANDOLEN(安得莱)著 無我生編纂 冷風校訂 上海商務印書館1920.8再版 説部叢書3=46/清民目Z025*
掌中珠
 (英)傑而克著 警僧、無我合訳 新世界小説社 刊行年不明/清民目Z089*
9)張静廬らの筆名録を統合した張泰谷重編『筆名引得』(台湾・文海出版社有限公司1971.10)には、「陳輔相 旡我 無我」(56頁)とあり、どういうわけか原文の「无我」が「旡我」に変身している。