劉鉄雲日記中の日本人(3)


阿 部   聡


6.中島真雄*14

 中島真雄は1891年ころに中国に渡り、岸田吟香の薬舗楽善堂に入り、日清戦争直前の中国において諜報活動に従事した。開戦してまもなく帰国し、従軍記者として再び中国に渡った。1897年6月には同文会が、11月には東亜同文会が設立されたが、彼はそれらの設立のために中国にいるに日本人に働きかけるなど、中心的役割を果たした。そして、彼は東亜同文会設立と同時に同会福州支部長を命じられ、福州東文学社の設立やuの創刊などを手がけた。
 中島は、まず、劉鉄雲日記の壬寅二月(1902年3月ころ)に集中的に出てくる。このころ、中島と鉄雲は骨灰(動物の骨を焼いたもので肥料となる)事業を行っていた。その後、再び中島が劉鉄雲日記に出てくるのは、乙巳九月(1905年10月ころ)である。
 中島は、日清戦争勃発後しばらくして、参謀部の要求により満州軍司令部にて裏面画策に当たるべき人物を探し出し、その人物を営口まで連れていった。翌年、軍政下にある満州での日本語新聞の必要性を感じた中島は、まず営口で「満州日報」を創刊した。これが1905年8月のことであり、鉄雲と再会したのが、その二カ月後の10月25日だった。
 一方、鉄雲はこの前後、鄭永昌*15 と興した海北公司の仕事で瀋陽に来ていた。

7.田鍋安之助*16、大原信*17
 わざわざ瀋陽までやって来た鉄雲であったが、直隷省長芦塩は一介の商人には扱えないものであることを知り、塩輸送販売事業は行き詰まったかに見えた。しかし、さすがは商人である。転んでもただでは起きない。劉鉄雲日記を見てみよう。

 乙巳九月二十八日(1905年10月26日)
 孟松喬が来た。すぐに彼と吉林塩を販売することを思いついた。(彼は)吉林塩のことに詳しい。塩輸送車の保護に一人推薦してもらおうと思い、再度中島(真雄)を訪ねた。(中略)晩に中島が来て、友人と明日の昼に会う約束をしているので来なさい、ということだった。

直隷省長芦塩の輸出が駄目なら、吉林塩の販売をというわけである。そして、日露戦争後の軍政下では商業活動にも規制が加えられており、そのうえ中国人だけによる塩輸送では日本軍に接収されてしまう危険があったため、日本人に手助けしてもらうのが安全であった。そこで鉄雲は軍に顔の利く中島を訪ね、日本人を紹介してもらおうと考えたのである。翌日の日記を見てみよう。

 九月二十九日(10月27日)
 午前、軍政署に行く。中島は「田鍋(安之助)君はすでに来ている」と言った。午後に会う約束をした。(中略)田鍋に会った。

中島が鉄雲に紹介したのは田鍋安之助だった。鉄雲は翌日にも中島を交えて田鍋と会っている。ただ、鉄雲は田鍋を塩輸送車の保護には当てなかった。

 十月初二日(10月29日)
 大原(信)を訪ね、塩輸送の件を話し合い、阿部に任せることにした。

大原信というのは、当時の奉天軍政署嘱託だった人物である。「阿部」という人物については未詳であるが、ここで鉄雲は田鍋にではなくて「阿部」に塩輸送を任せたことがわかる。塩輸送を「阿部」に任せた鉄雲は、十月初五日(11月1日)に孟松橋と契約を結び、吉林塩の販売事業はスタートした。
 ここで、田鍋と大原の経歴を述べておく。
 田鍋安之助は1864年に現在の福岡県に生まれ、1882年に海軍軍医学校に入学した。1889年に海軍省を辞して上海に赴いたがまもなく帰国し、1891年に再び上海に赴き、 医者を開業し、 同時に小山秋作*18 の斡旋で日清貿易研究所衛生部長となった。日清戦争を機に帰国し、東亜同文会の設立した南京同文書院のかんとくとして南京に赴いた。しかし、父の病状悪化のため、やむなく帰国した。1904年の日清開戦を機に北京に赴き、戦争中は満州で特務に当たった。戦後はご用商人の仲間入りをし、軍政下で軍事物資の調達に当たった。
 大原信は1878年に長野県に生まれた。若くして荒尾精の門下生となり、また東京の善隣書院で中国語を学んだ。1900年4月に南京同文書院の留学生となり、1904年に同書院を卒業し、すぐに北京警務学堂教習に招聘された。総務教習川島浪速はたびたび彼を満州に派遣した。奉天軍政署長小山秋作は大原の才能を見込んで軍政署事務を嘱託したのだった。
 鉄雲が軍政下の東北で商業活動を行えたのも、日頃の日本人との交際があればこそだったのである。

6.村山正隆*19
 戊申正月(1908年2月ころ)に鉄雲は蘇州に居た。そこに御幡雅文から、鄭永昌が電報をよこしたので速やかに上海にきなさい、という内容の電報が届いた。それが正月初五日(2月2日)のことである。翌日、鉄雲は御幡の働く三井物産上海支店にいったが、退社時間を過ぎていたのか、誰も居なかった。翌初七日(2月4日)鉄雲は御幡と会い、鄭永昌からの電報を見せられた。内容は、鉄雲には中国政府から逮捕命令が下っているから、早く日本に避難せよ、というものだった。しかし、鉄雲は、日本にいくより日本旅館に隠れ住むほうが得策と考え、その旨を御幡に語った。そして、鉄雲はこの時、「領事館の村山」と連絡をとろうとしたことが劉鉄雲日記からわかる。

 正月初七日(2月4日)
 狄楚青に(上海)領事館の村山への手紙を託した。御幡は「今日は日曜日なので、村山は領事館にいない。私が彼を捜し出し、事態を説明して君に会うよう手配するので、ここで待っていなさい」と言った。一時ばかりで御幡が戻ってきて「村山はすでに友人との約束に出かけてしまっていたが、捜し出して、詳しく彼に話しておいた」と言った。明日(午前)9時に会って話すこととし、御幡はそのまま私と一緒に東和洋行にいき、16号室を選び、彼は帰った。

ここに出てくる「村山」とは村山正隆のことである。彼は1870年福岡生まれである。詳しい経歴はわからないが、当時小田切万寿之助上海領事のもとで、通訳生として活動していた。
 鉄雲が村山にどんな用事があったかは、翌日の日記を見るとわかる。

 正月初八日(2月5日)
 (午前)9時に日本領事館へいって、村山を訪ねた。まず、状況を尋ね、今後どうしたらよいかも尋ねた。お互いに意見が合った。

つまり、鉄雲は村山のところに善後策を相談しにいったわけである。
 鉄雲が、こうした危機的状況の中で、御幡の世話になったり、村山に善後策を相談しにいったりしたことは、鉄雲と日本人とがいかに深い関係であったかを示しているのである。


【注】
14)中島真雄については次のものによった。
 菊池貞次氏「中島翁の事績」『支那』第34巻9号(東亜同文会 1943年9月)40-42頁。
 佐藤安之助氏「中島翁の憶出」『支那』第35巻4号(東亜同文会 1944年3月)46-48頁。
15)鄭永昌が劉鉄雲日記に初めて登場するのは乙巳七月二十四日(1905年8月24日)である。しかし、鄭と鉄雲とのつきあいは少なくともその6年前に遡ることができる。鄭は、1895年から1902年まで天津領事をつとめた。その間に、鄭は国聞報(1897年4月末に発刊された天津の中文紙。華北初の本格的新聞)の懐柔をめぐって、ロシア側と争っていた。1898年3月末以降、国聞報は日本の庇護下で発刊され、鄭と西村博とが国聞報を担当した。1899年4月末に国聞報は鄭に売却された。
 このように、鄭は1898年3月末から実質的には国聞報の経営社の一人であったのである。一方、鉄雲は「風潮論」において「己亥の年に国聞報館の記者として……」と言っており、己亥、つまり1899年には国聞報館の記者であったことがわかる。とすれば、鄭と鉄雲とは少なくとも1899年には知り合っていたはずなのである。また、西村博と鉄雲についても同じことがいえる。
16)田鍋安之助については「田鍋安之助君」『続対支回顧録』下巻268-319頁によった。
17)大原信については次のものによった。
 「大原信君」『対支回顧録』下巻1018-1020頁。
 「大原信」『東亜先覚志士記伝』下巻141頁。
18)小山秋作は1862年に現在の新潟県長岡市に生まれた。陸軍士官学校卒業後、1890年に荒尾精の日清貿易研究所(上海)へ、陸軍内部から選ばれて、赴いた。日清戦争、義和団事件に出征し、日露戦争では満州軍総司令部付で出征し、瀋陽占領後に軍政委員となった。中島真雄とは日清貿易研究所以来の友人である。1927年に死去した。鉄雲は、乙巳九月二十六日(1905年10月24日)とその翌日に小山を訪ねている。
 詳しくは「小山秋作君」『対支回顧録』下巻592-596頁、「小山秋作」『東亜先覚志士記伝』下巻 563-565頁を参照。
19)村上正隆については「村上正隆」『東亜先覚志士記伝』下巻 383-385頁によった。

●付記 「劉鉄雲日記中の日本人」(『清末小説から』15号)の最後で、「荒井」「森脇」については(中略)次の機会に述べてみたい、と書いたが、いまだに調べがついていないことをおわびしたい。なお、「船津辰一郎」については次のものに詳しいので紹介しておく。
 「船津辰一郎」『続対支回顧録』下巻 384-400頁
 在華日本紡績同業会編『船津辰一郎』 (東邦研究会 1958年)