初期商務印書館の印刷物(下)
――漢訳『新島襄伝』について――

樽 本 照 雄


 美国台物史先生輯、范師母口訳『尼虚曼伝』(中国聖教書会発 光緒二十三年)という本がある。扉に印刷されている「商務印書館代印」という文字に注目してほしい。光緒二十三年(1897)とは、商務印書館創業の年にほかならない。管見によれば、この本を記載する資料を見ない。既述の通り、商務印書館の印刷物としては、ほかのどれよりも早い。初期商務印書館の印刷物としては、めずらしいもののひとつだといえる。
 書名の「尼虚曼」とは、中国音では、NIXUMAN となる。つまり、同志社の創立者である新島襄(1843.2.12-1890.1.23)の伝記なのだ。


 漢訳『新島襄伝』

 線装、活字本、25p×15p。半葉15行40字。扉のあとに新島襄の肖像画が木版画で掲げられ、下に「尼虚曼先生伝」と

●『尼虚曼伝』挿絵

ある。つづいて「救主降世一千八百九十三年正月即光緒壬辰之冬季西冷原源子謹識」と記す「尼虚曼伝序」が2葉、本文は、全30葉である。あわせて14枚の木版画を収める。
 序によると、本書は、辛卯の夏、范師母が中国語に口訳したものを筆記して成ったという。辛卯は、光緒十七年(1891)だ。范師母とは、ファーナム夫人(Mrs.M.J.Farnham)である。
 漢訳本の原書となったものは、REV.J.D.DAVIS, D.D.“A SKETCH OF THE LIFE OF REV.JOSEPH HARDY NEESIMA,L.L.D.”

   ●『尼虚曼伝』扉

(TOKYO : Z.P.MARUYA & Co., LIMITED 1890)という。 訳せば、 宣教師ジェローム・ディーン・デイヴィス神学博士著『宣教師ジョゼフ・ハーディ・新島名誉法学博士の生涯の素描』ということになろうか。
 TOKYO とあるところからわかるように日本で出版された。この本には、日本語の奥付がある。記録しておく。

明治廿三年十一月十日出版
著作者 米国人 ゼー、デー、デビス

  ●英語原本扉
発行人 上田周太郎
印刷人 広瀬安七
売捌所 丸善商社書店

 14枚の木版画が収められている。木版画には、「東京生巧館」あるいは「SEIKOKAN」と製作所の名前らしいものが刻み込まれており、日本で作成されたことが明らかだ。写真にもとづいて模刻した木版画である。
 漢訳『新島襄伝』は、英文原本が発行されて1年後に翻訳された。ちなみに日本語訳は、同志社教授ゼ、デ、デビス君、

   ●英語原本奥付

村田勤、松浦政泰合訳『新島襄先生之伝』(扉に大阪福音社<奥付には、東京・警醒社と併記される> 明治二十四年<1891>一月十七日*12)である。 たしかに日本語訳の方が、早く出版されてはいるが、中国でもほとんど同時期に漢訳が行なわれていたことになる。


 漢訳『新島襄伝』の内容

 漢訳版は、全7章で構成されており、英語版と異ならない。ただ、英語原本にある各章題、たとえば第1章の“Birth, Early Surroundings and Start from Japan(誕生、初期の環境、 日本からの脱出)”などは、漢訳版では省略されている。
 書き出し部分を対照してみよう。
 まず、英語原本から。

The ancestors of Mr. Neesima were of the samurai class, the retainers of a Daimio of Joshu, an interior province, with the Daimiate at Annaka about seventy five miles from Tokyo. (新島氏の祖先は士族であり、東京より約75マイルのところにある内陸地上州の大名安中藩の家臣であった。)

 これが、日本語訳初版では、次のようになる。

 新島襄先生は元上州安中の藩士なり、幼名を七五三太と呼び弱冠にして襄と改む

 この部分のみを見ると、いわゆる豪傑訳といってもいいだろうか。原文とあてはまるのは、「新島」「上州安中」、しいていえば “the samurai class” を「藩士」とした部分くらいだ。

 漢訳は、どうか。

  日本人尼虚曼、華族也、世居離東京七十五英里大名之上州省安中府、為該省諸侯之属僚(日本人ニイジマは、華族である。東京より75マイル離れた大名の上州省安中府に代々住み、該省君主の家臣であった。)

 “Mr.Neesima”が、「尼虚曼」と音訳された。“the samurai class”を 「華族」とするなどひっかかるところはあるが、日本語訳に比較すれば、漢訳の方が原文に忠実だといえるだろう。

 ご存知の方には煩わしいかもしれない。が、よほど関心のある人以外は、新島襄の伝記が漢訳されたものを見る機会はないだろう。説明をくわえなが、一応、内容を要約しておく。

 第1章 新島の誕生から、彼の受けた教育、日本脱出までが述べられる。
 「日本人尼虚曼、華族也」で始まるのは、すでに見た。新島の属していた上州安中藩を「上州省安中府」と訳したのは、中国人向けという意味もあるのだろう。中心は、聖書とのめぐりあいだ。新島は、十六歳のとき漢訳アメリカ地図書によって新知識にめざめた。蘭学を学び、友人のところで漢訳聖書をみつけ西洋語の聖書を読む決意をかため、導いてくれる教師あるいは宣教師をみつけたいと考えた。箱(函)館を経由して、ついに日本を脱出することになる。

 第2章 密航した新島が、アメリカで教育を受けることが語られる。
 新島は、香港で購入した漢訳の新訳聖書を読み、イエス・キリストこそ自分の欲するものであることを自覚する。アルフュース・ハーディー(Alpheus Hardy)の援助を得て、新島は、フィリップス・アカデミー(Phillips Academy)から、アーモスト大学(Amherst College) に学び、 卒業後、 アンドーヴァー神学校(Andover Theological Seminary)で学業を続けることになった。1872年、岩倉具視一行がワシントンに到着、通訳を依頼され、同行して10ヵ月におよぶ欧州諸国の教育視察を行なったのもめぐりあわせだ。この時知りあった人物が帰国後要職についていたため、新島の学校創立にいくらか有利にことが運んだともいえる。1874年、アンドーヴァー神学校を卒業し、アメリカン・ボード(米国海外伝道協会)の宣教師となる。日本に伝道の大学校を設立するための募金を訴えたのは、その年次大会でのことだった。

 第3章 同志社設立までの過程が綴られる。
 1874年、帰国。新島は、学校創設のため大阪、神戸へおもむく。大阪は不首尾におわったが、京都の山本覚馬の知遇を得て、御所の北に学校用地を購入、同志社と名前を定める。反対、妨害をはねつけ、ねばり強い一連の運動を継続し、1875年11月ついに開校式にこぎつけた。

 第4章 新島と同志社をとりまいた数々の困難がしたためられる。
 新島は、山本覚馬の妹・八重と結婚した。一方、学校に対する京都府の敵視、聖書を朗読することが許されないなどの妨害があった。また、外国人教授の京都滞在、教授許可についても厳しい扱われかたをした。それらの一つひとつは新島を悩ませるのに充分だったろう。さらに、熊本(原文:古麻麻土)より信仰の故に迫害された30名の学生が同志社に入学している*13。

 第5章 大学校設立計画の推進と病気療養のための海外旅行が記される。
 同志社では、現在も「キリスト教主義大学」という言葉が使われている。デイヴィスの原本に見える“a Christian university”だ。ただし、漢訳本第5章には、該当の部分に「大学校」とあるのみ。
 大学設立の趣旨は、漢訳では「勧勉之詞(勧め励ます言葉)」となる。「善道」を習う大学校が日本には、ない。この「善道」こそ教化の基礎なのだ。欧州で政治宗教がすばらしいのは、自由、格致(原理の追及)およびキリストの善果が国政とあい助けあって行なわれているがゆえなのだ*14。 この四つの基礎には、キリストの道徳がある。明治8年、京都に学校を建設し、真理を教え、格致などの学に及んだ、と。そして明治大学校設立の宣言となる(最初の計画では、同志社を明治専門学校と改名することも含まれていた。同志社大学となるのは、徳富猪一郎の助言によるらしい)。
 1884年、過去9年間の疲労が重なり、新島は休息のため欧州経由でアメリカにむかう。アメリカ滞在中は、大学創立の構想を練るのだった。
 キリスト教によって日本を救う、この考えが新島の根底にある。帰国後も大学設立のための募金運動が続いた。
 1888年11月7日に新島の大学設立のことが新聞に発表されている。この一文において、新島は自らの経歴を含んで同志社創立までのありさまを語り、私立大学設立の必要性を訴えた*15。

 第6章 晩年の事業、病気、死去および埋葬が書き留められる。
 病身をおして東京で大学設立の募金活動を行ない、ついに横浜の近く(大磯)で静養するもかいなく、1890年(明治23)1月23日、没した。遺骸は汽車で京都に運ばれ、全学生に迎えられ、葬送の行進がおこなわれた。

 第7章 暝想、性格そして教訓が執筆される。
 新島襄の思想、教えが、彼が生前に残した日記、手記から文章が引用されて述べられる。 前出北垣訳本では、 章題を「新島襄から学ぶこと」としており、わかりやすい。教会におけるお説教と考えればいいだろう。ここでは、これ以上ふれない。

 英語原本は、デイヴィスの一人称で記述が進められている。一方、漢訳のほうは、三人称で書かれているという違いはある。だが、漢訳された内容は、英語原本にほぼ忠実なものとなっているということができる。
 光緒二十三年、明治でいえば30年、西暦1897年という時期に、日本の一民間人の伝記が中国語訳されて出版された。表面的には、ただそれだけのようにも見える。しかし、その背景を探ってみると、興味深いことに気がつくのだ。


 商務印書館とキリスト教会

 英語原本と漢訳『新島襄伝』には、それぞれ14枚の木版画が収められていることには触れた。その図柄は、ふたつともに異なるところはなく、「東京生巧館」、「SEIKOKAN」と刻み込まれたところもかわらない。そればかりか、2種類の出版物に使用された木版画は同一寸法なのだ。つまり、日本で作成、印刷に使用された木版画が、その後、中国に渡り再利用されたということなのである。
 漢訳『新島襄伝』の翻訳者・ファーナム夫人の夫ファーナム(John Marshall Willoughby Farnham, 1830-1917)は、アメリカ北長老会の宣教師であり、該書を発行した中国聖教書会の秘書である。彼は、1860年、中国にやってきた。中国聖教書会に勤務し、1891年、『中西教会報』(Chinese Christian Review)を創刊、ほかに上海清心書院(Lowrie Institute)院長を24年間にわたりつとめたという*16。
 『新島襄伝』は、日本、中国のキリスト教会ネットワークにのった出版物だということができる。
 キリスト教会ネットワークの範囲内にいるのが、商務印書館の創立者たちであった。夏瑞芳、また鮑咸恩、鮑咸昌、鮑咸亨の三兄弟、さらに高鳳池は、すべてプロテスタント長老会の教徒なのだ。さらに彼らは、清心堂(American Presbyterian Mission)で学んでいる。ここでファーナムと結びついていることがわかる。
 商務印書館創立に出資した張蟾芬は、夏瑞芳、鮑咸恩らが商務印書館を設立して独立した時の頼みのツナは、英米聖教書会および広学会など教会関係の印刷を請け負うことにあった、という意味のことをいっている*17。
 『尼虚曼伝』(中国聖教書会発、商務印書館代印1897)という印刷物の存在は、張蟾芬の証言が事実であることを証明している。
 キリスト教会から商務印書館が誕生したといっても過言ではない。

 ついでに、漢訳『新島襄伝』は、その内容を要約したものが、おなじくキリスト教関係の出版物に掲載されたこともつけくわえておく。
 美国范約翰師母「日本陀希削大書院」Mrs.M.J.Farnham“Doshisha College”(『画図新報/威海雑記』第1年第7巻光緒二十九年歳次癸卯六月<1903.7>)がそれだ。また、おなじものが転載されているらしい。(美)范師母「日本陀希削大書院」(録画図新報)『中西教会報』復刊第97冊癸卯七月初十日(1903.9.1)である*18。




【注】
12)J.D.デイヴィス著、北垣宗治訳『新島襄の生涯』(同志社校友会1975.11.22)の「訳者あとがき」によると、英語版初版の日本語訳は、警醒社より一八九一年一月十六日発行された、という(同書 207頁)。しかし、本文で述べたように、奥付には、大阪・福音社と東京・警醒社が併記されている。また、訳者のいう発行日の「一八九一年一月十六日」というのは、誤り。十六日は、印刷日だ。見誤ったのだろう。なお、北垣訳本は、元本の「訳者あとがき」の一部を削除し、小学館(1977.3.10)からも発行されている。
13)この熊本洋学校にいたのが徳富猪一郎で、東京から草創期の同志社に転入した。「予は別段新島先生には失望しなかつたが、同志社には失望した。同志社は明治八年に開校したといふことで、創立から既に一年を経てゐるが、何事も不整頓であつた。予等が熊本にて学んだる洋学校に比ぶれば、とても比較にはならなかつた」、「先生から洗礼を受けるやうになつたのは、恐らくはそれ(注:新島を立派な人物であると蘇峰が認めていたこと)が主なる理由ではなかつたかと思ふ。謂はゞキリストを信ずると云ふよりも、新島先生を信ずると云ふことで、キリストを経由して、神に近付くと云よりも、新島先生を経由して、神に近付くと云ふ事であつた。/(中略)予は同志社に於て何物を最も多く得たかと云へば、国民的精神を得た事である。若し予が同志社の如き宣教師学校に入らなかつたならば、これ程迄に自国を愛するの心は多く出なかつたではあるまいかと思ふ。謂はゞ同志社に入りて、初めて我が日本帝国の有難さを知つた様な心持がする」と書いている。徳富猪一郎『蘇峰自伝』中央公論社1935.9.3/1935.9.12 三十版。79頁、86-87頁。 また、中野好夫「三 官許同志社英学校」(『蘆花徳冨健次郎』第一部 筑摩書房1972.3.25初版第一刷/1974.11.15 第四刷。77-103頁)を参照。
14)英語原本 “The growth of liberty, the development of science, the advancement of politics and the power of morality”p.88
村田、松浦日本語訳 「要するに自由の拡張と学問の発達と政事の進歩と道義の能力に帰せずんばあらず」88頁
15)新聞に掲載されたこの文章は、デイヴィス著の第二、三版では、削除されたらしい。ゆえに第三版にもとづいた日本語訳には、該当部分がない。なお、英語原本、漢訳とも新聞掲載日を11月10日としている。私の見た「同志社大学設立の旨意」は、『大阪朝日新聞』11月7日の付録である。井上勝也『新島襄 人と思想』(晃洋書房1990.2.10/7.10初版第2刷。115、116頁)では、11月7日とし、『報知新聞』など12紙の名前をあげている。『大阪朝日新聞』を加えれば13紙となる。
16)中国社会科学院近代史研究所翻訳室『近代来華外国人名辞典』中国社会科学出版社1981.12。135頁
17)張蟾芬「余与商務初創時之因縁」『東方雑誌』第32巻第1号1935.1.1。「生活之一頁」(生)61頁。
 同文は、『出版史料』1989年第3・4期<総第17・18期>(1989.11。183,162頁)に再録される。
18)上海図書館編『中国近代期刊篇目彙録(1)』第1巻上海自民出版社1965.12/1980.7第2次印刷。490頁。原本未見。


【付記】
 新島襄関係書籍の閲覧につきまして同志社大学図書館のお世話になりました。記してお礼を述べます。