『 ﾞ 海 花 』 の 異 版
――欧陽健論文を読んで――
神 田 一 三
欧陽健著「一種未見著録的《ﾞ海花》版本」(『清末小説から』第23号1991.10.1)は、今まで知られていなかった『ﾞ海花』の異版を紹介して意義があった。
氏の記述によると、光緒戊申（1908）六月に裕記書房が発行した「小説叢刻」のなかの一種である情侠述『情海痕』10回は、あの曾孟樸の『ﾞ海花』にほかならない、ということだ*注。
「情侠」という人物は、書名を『情海痕』と変えたばかりか、本文にも手を加えているらしい。書き換えの例として欧陽健は、つぎのようなものをあげる。
１．第６回の回目「名士偸香忘貴客，學臣狎妓弃微官」を、「人海偸香門公留貴客，江山狎妓宗室弃微官」と改めている。ただし、何にもとづいて改造したのか、欧陽健はいっていない。
２．第１回の次の部分、傍点をほどこした箇所のように書き換えられた。
正寫着，忽然把筆一H，道：“吹I我瘋了。現在我的朋友東亞病夫，慨然自命東洋囂俄，專門編譯這種新鮮小説，我只要細々告訴了他，不怕他一回一回的慢々地編出來，豈不省了我無數的筆墨？”當時就攜了寫出的稿子一逕出門，山遥水遠，不知在那里找着他的朋友東亞病夫……
傍点前者が、1928年（欧陽健のいう1927年は誤り）に改定した時、「囂然自號着小説王」となったことをいう。だが、欧陽健は、なぜ1928年の文章を引用したのか、その意図が不明。ここは、もとの小説林本がどうなっているのか示すべきところだ。
３．第10回に見える次の箇所に、情侠は、傍点の語句を挿入した。
改訂前： 驩ﾂ打聽打聽看，骭ﾆ娘是大俄國轟轟烈烈的奇女子，我爲的是看重髏･一個公使大臣……
改訂後： 驩ﾂ打聽打聽看，骭ﾆ娘是大俄國轟轟烈烈的奇女子，可不比髦中國那些窩攘婦道們，憑人家糊弄着不害早C我為的是看重髏･一個公使大臣……
以上の記述の様子をみていると、『ﾞ海花』初版を もとに、 情侠『情海痕』の本文を検討したように受け取れる。だが、欧陽健の文章には、「小説林本《ﾞ海花》」と書いてあるだけだ。小説林本の第何版にもとづいて本文の比較対照を行なったのか明確にしていない。
私の知るだけで、『ﾞ海花』一編10回の小説林本には、乙巳正月（1905）初版、丙午年七月（1906）三版(太田辰夫氏蔵)、己酉十月（1909）再版の三種類がある。それぞれに、本文にはわずかだが異同があるのだ。小説林本の第何版をもとにして本文を比較対照したのかを明らかにしなければ、この比較対照すること自体が意味をもたなくなるのは、常識からして当然であろう。
まず、１の第６回回目から見てみよう。
第６回の回目は、初版、三版、再版ともに「名士偸香忘貴客，學臣狎妓弃微官」となっている。情侠は、これを「人海偸香門公留貴客，江山狎妓宗室弃微官」に改めた。そこまでは、いい。では、なぜ改めたのか。
「ﾞ海花」第１回の本文において、60回分の回目を予告している。ところが、前半10回の回目のうち第６回のもののみが予告と異なっているのだ。予告が「人海偸香門公留貴客，江山狎妓宗室弃微官」だから、実際の回目をはずして予告通りのものにしたというわけ。情侠にしてみれば、そうすることの方が理にかなっていると判断したのだろう。
２にいう、第１回の書き換え部分のみを比較対照してみよう。
初版 現成的開着小説林 望着小説林発行所来
三版 慨然自命東洋囂俄 山遥水遠不知在那里
再版 囂然自号着小説王 望着小説林発行所来
見ればなんのことはない、『情海痕』の「書き換え」は、『ﾞ海花』三版と同じなのである。これでは、情侠が書き換えたとはいえなくなる。
３にいう第10回の加筆はどうか。この部分は、初版、三版、再版ともに存在する。つまり、情侠が加筆したのではなく、原文のままなのだ。欧陽健が「加筆」と勘違いしたのは、1928年の改訂版に、該当部分がないからなのである。曾孟樸は、改訂にあたり、原文にあった「可不比髦中國那些窩攘婦道們，憑人家糊弄着不害早vという部分を削除したのだ。
以上を見てみると、欧陽健が指摘する情侠の書き換え、加筆というのは、『ﾞ海花』の元版にあるものにすぎない。すなわち、情侠述『情海痕』10回は、ほとんど小説林本『ﾞ海花』と同じもの、それも三版をそのまま使用したと想像される。つまり、海賊版なのだ。
欧陽健によって、貴重な版本が紹介された意味を否定するつもりはない。ただ、資料の扱いにもう少し厳密さがほしかった、と惜しむものである。
＊注：江蘇省社会科学院明清小説研究中心編『中国通俗小説総目提要』北京・中国文聯出版公司1990.2。1063頁の「官商現形記」の項目に「《情海痕》（即《ﾞ海花》）」とある。執筆は、欧陽健。
【参考文献】
樽本照雄「ノート・曾孟樸の周辺」『清末小説閑談』法律文化社1983.9.20。265-269頁。