「老残遊記」の「虎」問題


樽 本 照 雄


 「老残遊記」第8回には、虎が出現する。この「虎」に関する誤解が、中国では今にいたるまで訂正されることなく流布している。


1.「老残遊記」第8回の虎

 桃花山にはいった申子平たちは、険しい山道のうえ雪の中を難渋するうちに夜になってしまった。

「……たぶんこんな辺鄙な山道にゃ強盗はいやしません。すこしくらい遅くなったって恐れるこたぁありませんぜ」 と車夫がいう。 子平は、「強盗がいないといっても、たとえいたとしてもだ、私にはそれほど荷物が多いわけではなし、ちっとも恐れていはしないよ。持っていくなら持たせてやるさ。かまやしない。本当に怖いのは、山犬、狼、虎、豹だよ。日は暮れてしまったし、もし出てきたら、 私たちゃ、 もうダメだね」。「この山にゃ、虎はそう多くはいやしません。神虎がいて見張っていますんで人を傷つけたこたぁありませんがね、ちっと狼が多いかな。そいつが出てきも、俺たちゃ棍棒をもってるから、恐くなんかありゃしねえよ」

 ここは、「虎」が出てくる明らかな伏線である。申子平たちは、石橋を必死の思いで渡った。

 やっとのことで危険な橋を越し、しばらく休んでタバコを吸い、また前進した。三四十歩ばかり行くと、遠くからウォーウォーという声が聞こえる。車夫は、「虎だ、虎だ」といい、歩きながら用心深く聞いている。数十歩行ったところで、車夫は手押し車を止めて言った。「旦那さん、ロバにのってちゃいけません、降りてくだせえ。虎の吼えるのを聞くと、西の方からますます近くなってきておりやす。この道にたぶん来るんじゃねえかな。隠れましょうぜ。もし目の前に来た時にゃ、手遅れだ」申子平は、ロバをおりた。「このロバは、奴に喰わしちまおうぜ」と車夫がいう。路傍に小さな松があり、ロバの手綱をそれに繋ぐと、手押し車をロバのそばに置き、数十歩遠くへいって、申子平を岩壁の隙間に隠した。車夫のひとりは、岩の下に隠れ雪で身体をおおった。ふたりの車夫は、坂の高い樹の枝によじ登り、三人ともに目を西の方にむけて見ていた。
 そのとたん、ふと見ると、西の嶺の月光の下に何かがスルリと出てきて、嶺のうえに行き、またウォーと一声叫んだ。見る間に身を下にむけるや、すでに西の谷に行っており、そこでもウォーと一声あげた。こちらの人間は、寒いし恐ろしいしでガタガタとふるえながらも、目では虎を見ている。虎は西の谷で足をとめ、目に月の光が映えキラキラと輝いている。ロバの方など見ておらず、こちらのみんなにむかって、さらにウォーと吼えると身をさっと縮め、跳びかかってきた。この時、山に風はないのに梢はヒューヒューと鳴り響き、樹の残り葉がハラハラと地に落ち、顔にはキピキピと冷気が吹いた。みんなは、もう肝をつぶさんばかりに驚いてしまった。

 気がついてみると、虎はいつのまにやらいなくなっている。ああ、やれやれ、というのが「老残遊記」第8回「桃花山で月下に虎にあう」である。
 初出『繍像小説』第14期(刊年不記)には、巻末に評がつけられている。わざわざ活字の大きさを小さくして巻末の空白に無理やり詰め込んでいるのだ。文章が終わっているのに余白が大きく残った場合、編者が勝手に埋草的に評を書くこともあるかもしれない。しかし、第8回の掲載をみると、埋草が必要とされる空間は残っていないのだ。それを活字を小さくしてまで評を載せたというのは、原稿に劉鉄雲自身の評が書き込まれていたから、としか考えようがないだろう。

 唐子畏の描く虎は、施耐庵が述べる虎には及ばない。唐子畏の描くのは死んだ虎であり、施耐庵が述べるのは生きた虎である。施耐庵の述べる虎は、百錬生がのべる虎に及ばない。施耐庵の述べる虎は凡虎であり、百錬生がのべるのは神虎である。(後略)

 本文の内容と一致した自評というべきである。
 「老残遊記」は、『繍像小説』連載中において商務印書館より原稿第11回がボツにされ、内容を改竄された。劉鉄雲は、ただちに執筆を中断する。のちに、劉鉄雲は、ボツ原稿と改竄された部分を復元し、原稿を書き足す。『天津日日新聞』に第1回よりあらためて連載をはじめ、第20回をもって初集が完結した。天津日日新聞社印刷、天津孟晋書社発行(刊年不記)のいわば完全版初集も、上に引用した本文、評ともに雑誌初出のままである。
 重ねて言うが、改竄部分を復元したのが、天津日日新聞社本である。商務印書館による改竄部分は、劉鉄雲によって削除されたと考えなければならない。そうでなければ、なんのために、再度、『天津日日新聞』に第1回から連載を始めたのか意味をなさなくなる。
 ところが、「老残遊記」第8回の「虎」は、原稿では「狐」となっていた、という説明がなされた。事実に照して、あきらかに間違いであるこの説明が、いまだに信じられている。原稿「狐」説は、劉大紳が言いはじめたものだ。


2.原稿「狐」説の源――劉大紳から

 劉鉄雲の息子・劉大紳の筆になる「老残遊記について」*1は、「老残遊記」とその著者・劉鉄雲に関する貴重な証言で埋められている。しかし、「虎」問題は、劉大紳の数少ない誤解のひとつなのだ。

 ねんをいれて計画していたというわけでもなく、見直して手を入れたこともなかった。『繍像小説』が発行されるのを待って、ようやく見直したのだ。第八巻が掲載されると、商務印書館が文字を書き改めているし、さらには一巻を削除しているのだ[注七]*2。

 劉鉄雲は「老残遊記」執筆にあたり、書きとばしていた、という意味なのだろう。削除された「一巻」というのは、原稿第11回である。劉大紳の自注7には、次のように書いてある。

 注七 もとの回目は、「桃花山で月下に狐にあう」であったが、商務印書館は、狐を虎に改め*3、……

 これが、原稿「狐」説の源である。
 もういちど考えてほしい。第8回本文と劉鉄雲の自評は、「虎」で内容が一致している。本文における伏線のはりかた、恐ろしげな「虎」の描写、いずれにしても本文を「狐」に置き換えて叙述が成り立つであろうか。一読すればわかるのではないか。原文が「狐」であったはずがない。何回でもいう。劉大紳の誤解である。


3.誤解の継承

 いちど権威と認められると、安易に引用されることになるらしい。劉大紳が言いはじめた原稿「狐」説は、中国においてのちのちまで伝えられることになった。

a.蒋逸雪の場合
 文献を見ると、蒋逸雪は、1940年代から「老残遊記」考証を行なっている。劉鉄雲年譜も同時に発表しているが、ここであつかっている「虎」問題に言及するのは、魏紹昌編『老残遊記資料』(北京・中華書局1962.4)に収録された「劉鉄雲年譜」においてである*4。材源は、上に引用した劉大紳の注7に違いなかろう。のちに単行本となった『劉鶚年譜』(済南・斉魯書社1980.6。42頁)でも考えに変更はない。

b.劉厚沢の場合
 発表の順序からいえば、『老残遊記資料』に収められている「劉厚沢注釈」ということになる。これは、同書に収録された劉大紳「関於老残遊記」にほどこされた劉厚沢の注釈だ。注「8」には、注目される記述がなされている。全文を翻訳引用する。

 〔八〕亡父(注:劉大紳)の文章によると、第8回のもとの回目は「桃花山で月下に狐にあう」であったが、商務印書館は、狐を虎に改めた、ということだ。しかし、私の調査によると、そののち出版された『天津日日新聞』単行本および光緒三十三年(1907)上海・神州日報館三十二開本、さらに民国元年(1912)の商務印書館大本、民国2年(1913)の商務印書館小本、広益書局二十四開本2冊など各種『老残遊記』の早期版本は、いずれも『繍像小説』の第十回を書き改めた五百字あまりと削除した第十一回の原状を回復したものであり、「虎」を「狐」に復元したものはない。また、自作の評語のなかで、「虎にあう」ところを描写した一節について、「施耐庵の述べる虎は、百錬生がのべる虎に及ばない。施耐庵の述べる虎は凡虎であり、百錬生がのべるのは神虎である」といっている。もしも他人が書き改めたものであるならば、父は賛成するはずがなく、このような評語を書くわけがない。ゆえに亡父のこの説明につては、判断を保留せざるをえない。商務印書館との決裂の理由は、私の推測によると、『繍像小説』が第十回の五百字あまりを書き直したことと第十一回の全文を削除したのが原因である*5。

 劉厚沢は、各種版本を比較したのち、劉大紳のいう原稿「狐」説が疑わしいとの結論に達している。劉厚沢の推測は、正しい。劉大紳の誤解が流布するなかで、劉厚沢のこの部分のみが、唯一の例外として存在する。
 しかし、唯一の例外としての劉厚沢の指摘は、現在は、埋没してしまっている。
 劉厚沢の注釈は、『老残遊記資料』だけに掲載された。のちに、別の資料集などに完全なかたちで再録されたことはない。さらに、『老残遊記資料』が入手困難であるという事情も存在するのだろうか、劉厚沢の指摘に考察を加えたものを見ない。
 劉厚沢の指摘が復活する可能性は、あった。劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』(成都・四川人民出版社1985.7)の出版である。
 珍しい資料を満載したこの『劉鶚及老残遊記資料』には、前出劉大紳「関於老残遊記」も収録されている。説明によると、手稿の複写をもとに印刷したという。それはいいのだが、不思議な措置がとられている。劉大紳「関於老残遊記」には、初出にも著者自身による原注がほどこされている。転載された『宇宙風乙刊』あるいは『老残遊記資料』でも、当然のように劉大紳の原注も同時に収められている。ところが、この原注は、『劉鶚及老残遊記資料』には収録されていない。そのうえ、『老残遊記資料』にのみ見られる劉厚沢の注釈も、すべてが該書に収録されているとはかぎらないのだ。肝心の劉厚沢の「虎」に関する注釈――劉大紳の誤解を正している例外的な唯一の指摘も、『劉鶚及老残遊記資料』では削除されている。これはどういうことなのか。
 『劉鶚及老残遊記資料』の巻頭を飾るのは、劉厚沢の未発表論文「劉鶚と『老残遊記』」*6だ。「四、作品の分析」という箇所で、劉厚沢は、劉大紳の説のままに、第8回の回目はもともと「狐にあう」であった、などと書いている*7。
 私は、つぎのように推測する。劉厚沢の文章を『劉鶚及老残遊記資料』に収録するさい、編者は、「老残遊記」第8回の「虎」問題に関して劉厚沢の記述に矛盾があることを発見した。「劉鶚と『老残遊記』」では、劉大紳の説明に従っており、『老残遊記資料』の注釈では劉大紳の説明に疑問を投げかけている。選択を迫られた編者は、通説に加担して劉厚沢の注釈を削除し、つじつまをあわせた。こうして例外的に正しい指摘が葬り去られたのである。
 劉大紳の次男が劉厚沢だ。『劉鶚及老残遊記資料』の編者である劉徳隆、徳平兄弟は劉厚沢の子息だし、朱禧は、劉厚沢の娘婿である。父親の正しい指摘が、子息たちによって否定されたというのは皮肉なことだというよりほかない。研究には、親兄弟、友人、師弟の区別はないと私は考えている。しかしながら、「老残遊記」については、発言する人が関係者である場合が多いということもあって、こういう印象をもった。

c.劉闡キの場合
 前の部分で時間が前後してしまった。話しをもどす。「文革」を経て発表された劉闡キ『鉄雲先生年譜長編』(済南・斉魯書社1982.8)において、劉闡キは劉大紳論文を引用し*8、間接的に「狐」だと認める。

d.張亜権の場合
 劉大紳の誤解に「被害」を受けたのが張亜権である。彼は、「『老残遊記』原評について」*9において、「老残遊記」につけられた原評は、劉鉄雲の筆になるものではない、と結論した。彼の立論は、原稿第8回の「狐」が「虎」に書き換えられた、という一点から出発する。本文が書き換えられているのだからそれに対応する原評は劉鉄雲が書いたものではない→しかるに現在の版本には、他人の評が収録されている→ゆえに、現在の版本に見えるすべての原評は、劉鉄雲が書いたものではない。出発点が劉大紳の誤解であるのだから、結論が誤るのはしかたのないことだ*10。 「被害」者とはいったが、書かれていることをウノミにする方が悪いか。

e.劉徳隆の場合
 『劉鶚及老残遊記資料』で劉大紳の誤解を受容した劉徳隆は、原稿「狐」説を堅持する。劉徳隆「『老残遊記』手稿管見」*11において、手稿を子細に検討し、墨で抹消した部分に「狐狸立事狐」とあるのを発見した。私も、手稿を復元したことがある*12。 劉徳隆氏より送ってもらった写真をもとにしたのだが、今回、劉徳隆が指摘する部分は、写真では判読できなかった。ゆえに「□」で空けておいたのだ*13。
 劉徳隆が述べる興味深い事実は、劉鉄雲が「狐仙」の存在を信じていたということだ。劉鉄雲の淮安の住宅には、人が入ることを許さない建物があり、そこでは「狐仙」が祭られていたという。そればかりではない。劉大紳には、未発表の文章が保存されており、その「附録《<遊記>作者所語之異事》」*14には、 これまた「狐」について触れている。劉徳隆は、これらの新出資料と劉大紳の原稿「狐」説を重ねあわせ、劉鉄雲の思想の一斑をさぐるのである。
 表面的にながめると、第11回手稿に消された「狐」、さらに劉鉄雲の「狐仙」信仰が、劉大紳の証言する原稿「狐」説と結びつくような気がするだろう。しかし、第11回手稿の消された「狐」は、文脈が続かないから劉鉄雲によって削除されたのだ。劉鉄雲が「狐仙」を信仰していて、「狐」に特別の意味を付与していたとしようか。そういうことは、あるであろう。では、それほど特別な信仰があったとして、意味を込めて書いた原稿の「狐」を、商務印書館によって「虎」に書き換えられたものを、『天津日日新聞』に再掲載したときに訂正しないことがあるだろうか。ありえない。「狐」に訂正された事実がないのだから、原文も「虎」であったと考える方が自然だろう。


4.あるがままに
 「老残遊記」第8回の「虎」については、劉鉄雲の本文を読み、評語と照し、初出の『繍像小説』と天津日日新聞社本を確認するだけでよい。それほど困難なことだとは思わない。あるがままを見れば、劉大紳の証言が誤っていることにすぐ気づくはずなのだ。私は、1976年より劉大紳の誤解であることを述べてきている*15。 中国で、なぜかくも長く誤解が受け継がれているのか、その方が私には不思議に感じられる。


【注】
1)劉大紳「関於老残遊記」『文苑』第1輯1939.4.15。のち『宇宙風乙刊』第20-24期1940.1-5に再掲。また、魏紹昌編『老残遊記資料』北京・中華書局1962.4(采華書林影印あり)、劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』成都・四川人民出版社1985.7などに収録される。
 劉大紳の文章が書かれた年月について疑義が出されている。劉徳隆、劉ア「関於《<老残遊記>作者所語之異事》」(『文教資料』1991年第2期<総第194期>)の注にいわく、「劉大紳の書いた《関於老残遊記》という一文は、ほかではすべて“1936年11月”としているが、根拠がどこにあるのか知らない。本文が書かれた時間は、劉大紳の手稿の末尾に時間が記してある。1939年にようやく発表された原因については、研究を待つ」と。 劉大紳の手稿には、「二十年十一月(1931年11月)」と書かれているらしい。ゆえに、該文が収録されている『劉鶚及老残遊記資料』にも「二十年十一月八日大紳述」としてあるのだ。西暦にすれば、たしかに1931年11月8日となる。それにしても、「よそではすべて“1936年11月”としているが、根拠がどこにあるのか知らない」と書いているのには、いささか首をひねる。なぜなら、初出である『文苑』第1輯でも、のちに転載された『宇宙風乙刊』においても、文末に「二十五年十一月八日大紳述」と明記されているからだ。1936年11月8日というのには、根拠があるのだ。劉徳隆、劉ア両氏は、初出誌、転載誌を目にしていないのだろうか。 たしかに、『老残遊記資料』に収録された該文には、「二十五年十一月八日大紳述」という部分は、削除されている。しかし、『老残遊記資料』だけに掲げられた劉厚沢注釈の「一」に、「本文は亡父が1936年11月8日に書いた」と述べてあるのだが。そればかりか、劉大紳の文章を読めば、「二十一年(一九三二)にいたり五弟大経が二編のコピーを……」(『老残遊記資料』では55頁)という箇所があることに気がつく。1931年の手稿に、どうして翌年1932年のことが書けるのだろうか。劉徳隆、劉ア両氏の勘違いであろう。
2)『老残遊記資料』58頁。
3)『老残遊記資料』59頁。
4)『老残遊記資料』175頁。
5)『老残遊記資料』93頁
6)劉厚沢「劉鶚与《老残遊記》」 劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』成都・四川人民出版社1985.7。
7)『劉鶚及老残遊記資料』26頁。
8)『鉄雲先生年譜長編』107頁。
9)張亜権「《老残遊記》原評考索」『文学遺産』1988年第3期1988.6.7。122頁。
10)樽本照雄「『老残遊記』の評について」『野草』第44号1989.8.1。のち『清末小説論集』(大阪経済大学研究叢書第20冊 法律文化社1992.2.20)所収。
11)劉徳隆「《老残遊記》手稿管見」『文学遺産』1989年第3期1989.6.7
12)清末小説研究会編「資料:『老残遊記』の下書き手稿」『清末小説』第9号1986.12.1
13)注12に同じ。14頁。
14)劉大紳「《老残遊記》作者所語之異事」『文教資料』1991年第2期(総第194期)
15)樽本照雄「『老残遊記』の版本と修改について」 『大阪経大論集』第109・110合併号1976.3.15。 のち樽本照雄『清末小説閑談』(大阪経済大学研究叢書XI 法律文化社1983.9.20)所収。 また、 注10の樽本照雄「『老残遊記』の評について」においても、くりかえし述べておいた。