「老残遊記」三集は存在するか(上)


樽 本 照 雄


 T.はじめに

 どこかで読んだことがある。『出版史料』1992年第1期(総27期 1992.3)に掲載された高健行「《老残遊記》外編及『三集』」に眼を通しながら思った。そのはずだ。この高健行論文は、『清末小説』第8号(1985.12.1)に掲載されたものと同文であるのだ。
 ある人が、『清末小説』は、中国の研究者の目にとまらない、という。『清末小説』は、中国を含めた外国へは50部ばかりを贈呈している。中国に清末小説の専門家が50人をはるかに超えて存在するとは思えないが、言われてみれば、たしかに大海に放たれた一滴であるかもしれない。
 初出から数えて約7年後に、内容に変更のない同じ論文を再発表した高健行の真意がどこにあるのかは知らない。自分の立論をより多くの研究者に検討してほしいということだろうか。
 いい機会だ。高健行論文が発表された当時のいきさつをのべ、「老残遊記」の執筆発表刊行に関する問題点を整理しておこう。


 U.「老残遊記」外編論争

 1.いきさつ
 「老残遊記」の執筆と発表については、複雑な事情がある。初集、二集、外編残稿が存在し、さらに数枚とはいえ巻11下書き手稿までも残っている。雑誌連載の途中で改竄問題が発生するなど、これらの執筆、発表の順序がいりくんでおり、まるで迷路をさまようが如くだ。「老残遊記」の原稿、刊行に関して、論文が多く書かれるのは、謎解きの要素があるためでもあろう。
 定説のひとつに、「老残遊記」二集を書き終わって後に外編執筆にとりかかった、というものがある。これを時萌が『光明日報』紙上で否定した。時萌は、外編に見える語句を根拠に、その執筆を二集(1907年上半年)よりも早い乙巳(1905)冬月(十一)とする(83時萌)。1983年のことである。
 これより先、私は、日本で天津日日新聞本『老残遊記』二集を見る幸運にめぐまれていた。その結果、1905年九、十月に初集の原稿を復活し書き足した事実をつかみ、二集は、1907年七月から十月にかけて『天津日日新聞』に連載されたことを確認したのだ。この事実をもとにして、初集は、1906年上半年に新聞連載、二集原稿は、1907年七月以前に執筆された、と私は考えた(75、76樽本)。
 私の推論によると外編の執筆は、1907年となる。時萌の提出した外編1905年説に、私は納得がいかなかった。外編には、日本と朝鮮に言及している箇所がある。これと、劉鉄雲の日本、朝鮮旅行が1906年八月である事実をつきあわせ、外編の執筆は、1906年秋以後、二集原稿を書いたのちの1907年上半年とした(83樽本)。
 時萌に対する私の反論が、同じく『光明日報』に掲載されたためか、全国紙の影響は大きく、外編残稿の執筆時期に関する論文がいくつか発表された。「老残遊記」外編論争である。
 劉闡キは、外編に見える巡警と軍機大臣・袁世凱を手掛かりに、その執筆時期を1907年9月5ママ日から11月5日だと推測した(83劉闡キ)。
 魏紹昌は、外編の執筆は、1907年上半年とする樽本説に賛成する。初集新聞連載については、1905年第4四半期と考えた(83魏紹昌)。
 初集の『天津日日新聞』連載は、1905年三月下旬、四月初旬あるいは六月初旬と考えるのは、中村忠行である(84中村)。
 外編論争に直接触発されたのかどうかは不明だが、劉徳D、朱禧の意見発表がある。すなわち、初集新聞連載は、1905年年末、あるいは1906年より秋まで。外編執筆は、二集の前、1906年秋より1907年初頭。二集執筆は外編のあと、1907年の上半年だとする(84劉徳D)。定説を否定して外編執筆を二集の前に置くところは、時萌と同じことになる。この部分を踏襲するのは、劉徳隆である。
 張純は、樽本説に賛同しつつ劉闡キの意見を一部修正し、外編の執筆時期を1907年五月 から9月4日の間に 設定する(84張純)。
 1983年より84年にかけて諸説いりみだれて発表された。さきに触れた高健行論文も、外編論争につらなる一本なのである。

 2.高健行論文
 高健行は、二集執筆の上限は、1906年冬だという。また、私が引用紹介した畢樹棠の文章を重視する。畢樹棠は、続集の2回は、程紹周が書き、第3回より劉鉄雲の筆になる、発表するまでに三集を作ったが、忌諱の語が多く、火に投じられ伝わらなかった、と述べた。高健行は、この「三集」という言葉に注目するのだ。「三集」も、実際に存在し、その執筆時期は、1907年から1908年にかけてであるという。そればかりか、外編には捜し当てることができないAと、現存するBの2種類があるとものべる。
 高健行論文が、ほかの論文と異なるのは、作家は、創作する前後に多種類の違う構想の同じ題名の文章を書くものだ、という考えを根底に置く、まさにこの点にある。
 「老残遊記」の執筆と刊行については、第一によらなくてはならない資料がある。劉大紳証言だ。畢樹棠の文章は、価値があるからこそ私は引用し紹介した。だが、資料にも軽重があることはいまさら説明するまでもない。
 三集の存在があるとすれば、息子の劉大紳が言及しないはずがない、と私なら考える。外編ABにいたっては、想像する自由は誰にでもあるが、資料によって確認できるか否か、資料がない場合は、論理的整合性があるかどうかが問題となる。
 では、「老残遊記」の執筆と刊行について、何が確定されていて、なにが不明なのか、整理してみる。


 V.問題整理

 「老残遊記」執筆と刊行に関する諸説を一覧表にする(表:老残遊記執筆刊行一覧)。縦軸に旧暦の年月を置く。横軸に、現在までの研究で明らかになっている事実のうち確定できているものをA、新たな資料の発見があれば確定可能なものをB、今のところ確定不能なものをCと分類する。それぞれについて説明しよう。

 1.確定(A)
 ア.『繍像小説』(1903-04)連載の初集
 「老残遊記」巻1は、『繍像小説』第9期(八月初一日)に掲載され連載がはじまった。ただし、実際の発行は、約三ヵ月遅延していた可能性がある。巻13は、同誌第18期(日付不記)に発表されたが、その発行は、予定より約五ヵ月遅延の1904年五月末 であっても おかしくはない(92樽本)。
 イ.初集原稿の復元と追加執筆
 劉鉄雲乙巳日記(1905)*1に見える以下のような「老残遊記」執筆記録は、初集のものだ(76樽本)。

九月二十九日 晩撰《老残遊記》一紙。
十月初三日 帰寓、撰《老残遊記》巻十一告成。
十月初四日 撰《老残遊記》巻十五。
十月初五日 撰《老残遊記》巻十六。
十月十九日 夜撰《老残遊記》二紙。

 ウ.二集の『天津日日新聞』連載
 二集の序、巻1−9は、『天津日日新聞』光緒三十三年(1907)七月初十日から十月初六日まで連載された(76樽本)。

 2.確定可能(B)
 天津日日新聞版初集は、原物を確認することができる*2。ただし、発行年月は記載されていない。初出を確かめるためには、どうしても『天津日日新聞』そのものが必要となる。ところが、残念ながら原物の所蔵が不明であるため、初集がいつ新聞に連載されたかわからないのだ。ゆえに、1904年より1906年まで、各人がバラバラな推測を提出する結果となっている。
 新聞連載が判明すると、その単行本の発行年月も予想の範囲を狭めることができるだろう。
 『天津日日新聞』連載は、新聞が発見できたら、という条件付きで確定可能である。今は見ることができないにしても、どこかに新聞は所蔵されているはずだ。

 3.確定不能(C)
 以下にかかげるみっつは、原稿ゆえその執筆時間を絞り込むことはできても確定するのは、ほぼ不可能である。
 ア.巻11下書き手稿
 巻11下書き手稿の執筆時間について論及したものは、私と劉徳隆のふたりだけだ。両者とも、手稿は『繍像小説』連載中に書かれたとする点では一致している。連載中だから1903年から1904年にかけてであることは言える。ただし、それが何年何月かは、特定できない。
 イ.二集原稿の執筆
 二集原稿→外編原稿の順に書かれたか、それともその逆の順番で書かれた、という二つの見方がある。
 前者を主張するのは、樽本のみ。二集、外編の順で1907年上半年に書かれたとする(76、83樽本)。なぜ、私が、二集原稿→外編原稿の順にこだわるかは、劉大紳証言があるからだ。後述する。
 外編原稿→二集原稿とするものは、論争のきっかけとなった時萌、さらに劉徳D、朱禧、また劉徳隆、劉徳平らがいる。劉大紳証言という枠組みを無視するのだから、1905年から1907年まで、当然、推定執筆時間の幅は広い(83時萌、84劉徳D、87、92劉徳隆)。
 ウ.外編の執筆。三集?
 外編と二集との執筆順序の関係を考慮していない魏紹昌、劉闡キ、張純(61魏紹昌、83劉闡キ、84張純)各氏の文章がある。これも1906年から1907年までバラつく。
 資料の制約を受けない高健行の三集説、外編AB説もある。
 二集原稿、外編原稿ともに、執筆時間を決定する材料が欠けている。だからこそ各説がでてくることはすでにのべた。
 原物に手掛かりが残されていないとなると、関係者の証言が重要な決め手となる。そこで登場するのが、劉大紳証言である。
 「老残遊記」の場合、執筆刊行の手掛かりとなるのは、この劉大紳証言しか基本的に存在していないことを強調しておきたい。
 劉鉄雲の身近にいた人物の証言として劉大紳の文章は重視されるべきである。ただし、劉大紳の証言と事実が異なっている部分があるとすれば、当然、事実を優先し、劉大紳の誤記であると判断する*3。確実な証拠が出現し、劉大紳証言が否定されない限り、劉大紳の発言を尊重する、というのが私の立場である。
 劉鉄雲の原稿執筆情況を劉大紳証言に見てみよう。