「老残遊記」三集は存在するか(下)


樽 本 照 雄


 W.劉大紳証言

 1.初集、二集
 『繍像小説』に連載中の「老残遊記」が、編集者によって改竄されるという事件が発生した。劉鉄雲は、怒って連載を中止する。

 翌年、亡父(注:劉鉄雲)が、天津に行くと、方葯雨氏が(老残遊記を)書かない経緯をたずねたので、父は語った。方氏は、続作を勧め、『天津日日新聞』に連日発表された。このようにして第20巻で一段落をつげ、これが初編である。初編の原稿は、前後の描写があたかも分裂しているようだが、実は一気呵成でないことが原因なのだ。後半の原稿については、書かれた場所が天津の新聞社であったり北京の寓居であったりした。昔のことで今では指摘することができない。その後、父は海北公司を創設し、北京、上海、東三省および朝鮮、日本などを奔走し、席の暖まるひまもなく、「老残遊記」もまた閑却された。海北公司が失敗してからふたたび執筆に手を染め、これが二編だ。おなじく『天津日日新聞』に連日発表され、合計14巻ある。浦口の土地のことで南下し、そのまま北にはもどってこなかった。外編が少しばかりあるのをのぞいて、ふたたび書いてはいない*4。

 劉鉄雲が上海から天津におもむくのは、1905年七月のことだ。「翌年」とは、1905年をさす。「父は海北公司を創設し、北京、上海、東三省および朝鮮、日本などを奔走し」の部分に見える「海北(塩)公司」は、食塩の売買を行なう会社である。鄭永昌と手を組んでの仕事だ(87樽本)。1905年、瀋陽滞在中、劉鉄雲は「老残遊記」巻11を復元し、あらたに巻15、16を執筆した。1906年正月と八月の2回にわたって、劉鉄雲は、日本、朝鮮を訪問している。劉大紳がのべるように、「席の暖まるひまもなく」というのはその通りではあっただろう。しかし、旅先の旅館で原稿を書いていたのだから、「『老残遊記』もまた閑却されたのである」という箇所は、事実と異なる。
 以上の劉大紳証言から、初集の新聞連載は、1905年七月以降と予想される。二集執筆は、日本、朝鮮旅行の後、すなわち1906年九月以降となる。

 2.外編
 外編について、劉大紳は、次のように証言している。

 外編原稿は全部で16枚、現在、草稿は私(劉大紳)のところにある。父は、はじめ原作に満足せず、書きなおしたがっていた。林琴南氏が翻訳した足本「迦茵小伝」(商務印書館出版)*5を読んでこれをすこぶる賞賛した。ただ、結末でジョーン(迦茵)が入水するのは、人を満足させることはできない、私にどうすればよいかという。私は、どうしてそれに続けないのですかと進言すると、「人の小説に続けるのはつまらない。もし作るとすれば、『迦茵別伝』なるものを書く」とのこと。数日ならずして起草し、外編を書くのをやめてしまった。しかし、「迦茵別伝」のほうも実はいくらも書いておらず、今、さがしてもみつからないのである*6。

 劉大紳は、初集、二集の執筆と発表経過を説明したあとで、この外編原稿についてのべている。文脈からして文中の「原作」は、当然、初集、二集を指すものと私は考えたのだ。

 3.続作拒否発言
 もうひとつ、二集に関する劉大紳の記述を見ておく。

 当時、書いていたのは確かに14巻であった。父は、光緒三十三年(1907)六月、漢口に赴いた。出発にあたって切り抜いて保存しておくよう私にいいつけ、また、掲載終了後、新聞社にたいして数部余分に求めるよう命じた。さらに、もう続作はしない、と方(葯雨)さんに伝えるようともいった*7。

 ここから、二集原稿執筆の時期を1906年九月以降−1907年六月以前にまで絞りこむことができよう。もうひとつ、1907年六月以降、劉鉄雲は「老残遊記」を書いていないことがわかる。

 4.枠組み
 劉大紳証言によって提出された「老残遊記」執筆、刊行の枠組みは、以下のようになる。

 初集を『繍像小説』に連載する→改竄事件発生→執筆中止→方葯雨に続作を勧められる→初集原稿を執筆→初集をあらためて『天津日日新聞』に連載、20巻が完結する→二集原稿執筆→「原作」に不満→外編原稿執筆→「迦茵別伝」に着手、放棄→続作拒否発言→二集を『天津日日新聞』に連載

 初集、二集という名称からも、その作品内容から見ても、初集のあとに二集が書かれたと考える方が自然だ。すなおに初集、二集、外編の順番に書かれたと受け取るほうがよかろう。


 X.おわりに

 研究者各人の推論を整理して一覧表にしたものを見て、私はあらためて驚いた。二集原稿と外編残稿の執筆の順番を、劉大紳の提出した枠組みにしたがって忠実に配置した例は、私一人であることを発見したからだ。そのほかの研究者は、劉大紳の証言には頓着せず自由に立論を行なっている。はなはだしきは、資料の比較検討も行なわず、劉大紳証言よりも別の証言を優位において「三集」などといいだす人もいる始末だ。
 劉大紳が言及しているのは、初集(編)、二集(編)、外編の三種類のみである。現在、原物が実在するのは、いうまでもなく初集、二集、外編の三種類である。劉大紳の証言と事実は一致しているのだ。三集については、劉大紳の言及はない。実際に三集が書かれていたならば、劉大紳が触れないはずがない、と私は考える。ふたたび導き出されるのは、三集なるものは書かれなかった、畢樹棠のいう三集とは、現存する外編ではないか(83樽本)、という結論である。

【注】
1)劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』成都・四川人民出版社1985.7。268-269、272頁。
2)樽本照雄「天津で見つけた『老残遊記』初集」『中国文芸研究会会報』第48号 1984.9.15/樽本『清末小説論集』所収。
3)樽本照雄「『老残遊記』の『虎』問題」『清末小説から』第27号 1992.10.1
4)魏紹昌編『老残遊記資料』北京・中華書局1962.4。58頁。
5)哈葛徳著、林゚、魏易訳『(足本)迦茵小伝』上下冊 中国商務印書館1905.2/1906.9三版(説部叢書二=3)。原作は、HENRY RIDER HAGGARD“JOAN HASTE”1895。
6)『老残遊記資料』60-61頁
7)『老残遊記資料』60頁

【研究文献】発表年順。▼印以下に、主要論点を書きだしておく。
35 畢 樹棠「小説瑣誌」『文飯小品』第3期 1935.4▼続集の2回は、程紹周が書き、第3回より劉鉄雲の筆になる。発表するまでに三集を作ったが、忌諱の語が多く、火に投じられ伝わらなかった。
39 劉 大紳「関於老残遊記」『文苑』第1輯1939.4.15。のち『宇宙風乙刊』第20-24期1940.1-5に再掲。また、魏紹昌編『老残遊記資料』北京・中華書局1962.4(采華書林影印あり)、劉徳隆、朱禧、劉徳平編『劉鶚及老残遊記資料』成都・四川人版社1985.7などに収録される。今、魏紹昌編『老残遊記資料』による。
61 魏 紹昌「《老残遊記》残稿」『文匯報』1961.1.29。初出未見。/『中国近代文学論文集』(1949-1979)小説巻 中国社会科学出版社1983.4。445頁。▼外編執筆は、1906年。
75 樽本照雄「『老残遊記』外編は偽作か」『瘉』第5号 1975.12.31/樽本『清末小説閑談』(大阪経済大学研究叢書XI 法律文化社1983.9.20)所収。▼「老残遊記」初集を巻一四(『繍像小説』では巻一三)で中断していた鉄雲は、削除された巻一一と巻一五〜二〇の合計七巻を書き上げると『天津日日新聞』に連載した。そののち二集の原稿巻一四までを完成し、同じく『天津日日新聞』紙上で発表する前に外編に着手したが、林訳『迦茵小伝』に触発され、外編をそのままにして「迦茵別伝」なるものを書いた。176頁。
76 樽本照雄「天津日日新聞版『老残遊記』二集について」『野草』第18号 1976.4.30。/樽本『清末小説閑談』▼初集は、1906年上半年に新聞連載。二集原稿は、1907年七月以前に執筆。
82 劉 闡キ『鉄雲先生年譜長編』済南・斉魯書社1982.8▼1905年に二集原稿を書くとしているのは、劉闡キの誤解である。 また、 京都大学所蔵の天津日日新聞本『老残遊記』二集は、1907年のものであると私がいっているにもかかわらず、1905年二集原稿執筆という先入観にわざわいされ、「日本京都大学人文研究所所蔵一九〇五年乙巳七月初一日《天津日日新聞》報登載的《遊記二集》是第一回的開始」(133頁)とわざわざ誤記する。
83 TIMOTHY C. WONG“NOTES ON THE TEXTUAL HISTORY OF THE LAO TS'AN YU-CHI” “T'UNG PAO”69.1-3 1983▼1904年に初集前半10巻が『天津日日新聞』に発表された。
83 時  萌「《老残遊記外編》残稿的写作年代考」 『光明日報』「文学遺産」第578期 1983.3.15 ▼外編執筆(1905年十一月)の方が二集(1907年上半年)よりも早い。(参照:84劉徳D)
83 樽本照雄「関於《老残遊記》外編残稿的写作年代――与時萌先生商」『光明日報』「文学遺産」第582期 1983.4.12/『清末小説研究』第7号(中文版)1983.12.1▼外編執筆は、二集を書き終わったあとの1907年上半年。
83 劉 闡キ「我所了解的《老残遊記》外編残稿」 『光明日報』1983.5.10 / 劉闡キ「関於《老残遊記》外編残稿的写作年代問題」『清末小説研究』7号(中文版)1983.12.1。論文名は異なるが、内容は同一。 後者は、日本語に翻訳された。 荒井由美訳「『老残遊記』外編残稿の著作時期の問題について」『野草』33号 1984.2.10▼外編執筆は、1907.9.5-11.5の間。
83 魏 紹昌「談談《老残遊記》的写作刊印情況」『光明日報』1983.5.10/魏紹昌『牡丹伝奇』福建人民出版社1984.8所収。▼初集新聞連載は、1905年第4四半期。外編の執筆は、1907年上半年とする樽本説に賛成。
84 中村忠行「『鄰女語』・『老残遊記』・『ガリヴァー旅行記』」 『野草』第33号 1984.2.10。35頁。 ▼『天津日日新聞』連載は、1905年三月下旬、四月初旬あるいは六月初旬。
84 劉徳D、朱禧「《老残遊記》写作発表年代初探」『中華文史論叢』1984年2輯(総30) 1984.5▼初集新聞連載は、1905年年末、あるいは1906年より秋まで。外編執筆は、二集の前、1906年秋より1907年初頭(参照:83時萌)。二集執筆は外編のあと、1907年の上半年。(参照:87劉徳隆)
84 張  純著、樽本照雄訳「「老残遊記」外編残稿の執筆時期」『野草』第34号 1984.9.1/張純「関於《老残遊記》外編残稿的写作時間――与劉闡キ先生磋商」『徐州師範学院学報』(哲学社会学版)1984年3期1984.9.15 ▼外編は、1907年五月から9月4日の間に書かれた。
85 高 健行「《老残遊記》外編及“三集”」『清末小説』第8号 1985.12.1 /高健行「《老残遊記》外編及『三集』」『出版史料』1992年第1期(総27期)1992.3▼二集執筆の上限は、1906年冬。外編にはABの2種類があるばかりか、そのうえ畢樹棠がのべている「三集」も、実際に存在した。三集の執筆時期は、1907年から1908年にかけて。
86 張  純「関於天津《日日新聞》連載《老残遊記》的初編時間的考証」『天津師専学報』1986年3,4期合刊 1986.11▼初集新聞連載は、1906年三−九月。
86 樽本照雄「『老残遊記』の下書き手稿について」『清末小説』第9号 1986.12.1/樽本照雄『清末小説論集』法律文化社1992.2.20所収。▼巻11原稿は、商務印書館に渡した原稿の下書き。(雑誌連載中だから1904年頃)
87 劉徳隆、朱禧、劉徳平「《老残遊記》写作発表年代管見」『劉鶚小伝』天津人民出版社1987.8所収▼84劉徳Dと同意見。初集新聞連載は、1906年初。外編執筆は、二集より前の1906年秋−1907年初の間。二集執筆は、1907年上半年。
87 樽本照雄「劉鉄雲と日本人」『清末小説』第10号 1987.12.1。樽本『清末小説論集』所収。
89 劉 徳隆「《老残遊記》手稿管見」『文学遺産』1989年第3期 1989.6.7▼手稿6頁は1903年に書かれた。
92 樽本照雄「『老残遊記』の成立」『清末小説』第15号 1992.12.1
92 劉 徳隆「《老残遊記》版本概説」『清末小説』第15号 1992.12.1 ▼初集新聞連載は、1905年七月末か八月始めより同年年末か1906年始めまで。外編執筆は、1906年下半年。二集原稿執筆が、1907年上半年。巻11下書き手稿は、1903年。